水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

写生と自然(動植物)、芸術と空間 3

甲賀町(コウカチョウ)にある櫟野寺(ラクヤジ)は792年、比叡山延暦寺を建立した最澄が創建した寺と伝えられており、この秋、「平安の秘仏・櫟野寺の大観音とみほとけたち」として公開されている。この展覧会を東京国立博物館、櫟野寺と共に主催している読売新聞の10月28日夕刊に載った解説を読んで見たい衝動に駆られた。郷里の岐阜に近い滋賀県、以前毎年正月、多賀町の多賀神社に初詣の折、焼物の町信楽を訪れた懐かしさがあったからかもしれない。

 仕事上、、これまでにも京都・奈良地域の史跡名勝、社寺庭園を訪ねることが多く、折々に寺院の仏像を拝観してきた。仏像の前で彫像と対峙し沈思黙考する時間的余裕が持てるようになり、同時に日本の歴史や文化、芸術について勉強しなおそうと思うようになった。今回の秘仏の展覧会はまたとない良い機会であり内容である。秘仏は全部で20体、その中心は11面観音菩薩坐像である。

 中心に置かれた11面観音菩薩坐像は光背、台座を含め5mを越え黄金に輝き見る人を圧倒する。しかも像は1本の櫟の大木を刻んで造られており、寺院では本殿の奥に安置され、離れて前面からしか拝むことはできない(次の御開帳は平成30年秋)が、今回の展覧会では周り四方から観音菩薩をつぶさに見ることが出来る。坐像全体の美しさ、均整の取れた菩薩の姿を鑑賞することができる。仏像では一般的に立像(一丈六尺;丈六仏=4.8m)、坐像は半分の2.4mとされるが、この観音菩薩坐像は例外なく大きく、眼前に身を置くと我が身が小さく感じられ、その前に膝まづき無心で拝みたい気持ちになる。言葉無く呆然とし感激に浸るだけであった。

 毘沙門天立像は真横から見ると顔面がやや前に突き出ているが真正面からはそれが無く、全体で調和のとれた優しい顔立ちをした姿である。3体の地蔵菩薩薬師如来坐像の柔和な顔立ち、姿に癒され引き込まれる。8体の観音菩薩立像には、鑿の削り痕が見られるものもあり、像の生き生きしさを表していたり、面立ちが違う菩薩であったり、像によっては菩薩の縦の軸線(中心線)が微妙に真ん中でないものがあったり興味が尽きない。
菩薩像は一本の木を削って前面半分が作られているが、木目を重視し生かした顔、衣服姿で彫り込まれている。優美で柔らかな線やふくよかな形には落ち着いた安心できる心持になれる。1000年経って今なお優美な姿を示し人々に浄土への往生を導く姿は何物にも代えがたい。どれほど幾多の人々の苦しみを癒し心に平安を与えてきたことであろうか、と思うと時空を超えて縋りたくなる気持ちに感慨が深くなる。

 櫟野寺本堂での秘仏(11面観音菩薩坐像)の御開帳は平成30年秋、33年に一度の大開帳を迎えるとされている。それまでこの菩薩坐像は見られないのである。それを目標に慎ましく生活したい。

写生と自然(動植物)、芸術と空間 2

 円山応挙展が行われた美術館は、東京・表参道にある根津美術館である。この美術館を設計したのは、今年話題になった2020年東京オリンピック新国立競技場の設計をも担当する隈研吾東京大学教授である。初めて隈の作品を見たのは、栃木県那珂川町馬頭にある馬頭広重美術館である。日大の大澤先生とともに那珂川町馬頭を研究対象地とした折に訪れ、竹を生かした和風の美術館で場所の雰囲気、景観に合った建物であった。

建築家・隈研吾は2000年(平成12年)にこの美術館の作品で「村野藤吾賞」を受賞している。

 根津美術館も、みゆき通りの正面に位置し、美術館通りに並行してキンメイチクの植え込みに見え隠れして建物が見える。美術館正面玄関へのアプローチは、京都銀閣寺のL字の園路に似て美しい。背後に日本庭園を控え館内からその庭園の眺めを生かした明るいロビー空間が広がる。起伏のある庭園側からは館の建物が邪魔にならず景に溶け込んで庭と一体化して落ち着いた佇まいを作っている。この美術館の設計で2009年(平成21)毎日芸術賞を受賞した。

 そんな美術館での「円山応挙展・写生を超えて」であった。

建築家・隈研吾は読売新聞;ふるさとにエール(上):11月18日付で次のように述べている。少し長いが引用する。

「人間は罪人だからこそ死んでいくんだということを教わった。実は仏教の考えも同じところから始まっていると僕は思う。自分は生かされている、罪人だという意識が、他人への愛情や感謝につながっていく」 「だから、基本的に自分は罪人だという意識で生きているんだけど、中でも建築というのは重い罪だと僕は思っているわけです。だってある場所を占拠し、いろんな自然素材を消費すれば、環境にも悪い影響を与えてしまう。でもそういう罪を受け入れ、償うつもりで建築を手掛ける人が世の中に必要だとも思っていて、誰かがその責任を負わなくてはいけないなら、自分が負ってみようかなと思っています」

 この文章を読んで、「自然や緑・生き物を対象とする芸術=庭園、造園」はおよそそれに対峙する位置にあるのではないかと感じた。つまり、造園は、自然素材を消費の対象とは考えていない(真逆に生かし生かされて作品化する)し、環境に悪い影響を与えるどころか、環境を的確にとらえ理解しそれを生かして美しさと同時に機能性を理解して作品化してきた」のが庭であり園・苑であり空間である、と考えている。

 円山応挙の作品に「七難七福図巻」があり、人間を取り巻くどこの世界にも、常に七難七福が存在し、人間はそれに恐れおののき一喜一憂し生きながらえてきており、悲喜交々、何かに縋って頼って祈って生を全うして来ている。人の人生に今も昔も変わりが無い。

 

 

 追)三井寺円満院祐常門主、豪商三井家、東武創業者、根津喜一郎、

 

 

 

写生と自然(動植物)、芸術と空間 1

先月、根津美術館で行われていた「写生を超えて」円山応挙展に足を延ばした。円山応挙の名もあったが「応挙の写生」のキャッチコピーに引き付けられた。絵画、中でも日本画は昔から大変興味を持って見てきた。東大時代に知り合った家族は邦楽や日本画東京芸大で学び、社会で活躍されている芸術一家である。「庭園や造園」に興味を持ち学んで来た中で、それが美術や建築とも深い関連性があり、美しさや空間表現の考え方や捉え方に学ぶ点が多くあり、一流の作品を見ることの重要性を理解していた。有名日本画家の作品を鑑賞すると同時に、その作品で捉えられた風景=景観や自然の現象、動植物等の素描に留まらず、作品の持つ情景、雰囲気を味わうことは造園とも強い関わりがある。

 東京に出てきて岐阜県出身の日本画家、河合玉堂の美術館が青梅にあり日本画の作品もさることながら庭園、建物、その立地が素晴らしく佇まいに魅了されたことも関係している。これまでに多くの日本画家の作品を見、同時に学生を連れた日本庭園見学の実習で京都の寺社を訪れ襖絵なども多く鑑賞してきた。絵のある部屋、建物それに続く庭、空間の使われ方など連続的で一体的な関連性を味わってきた。

 そんな背景を考えながら円山応挙の展覧会を見ることにした。ほとんどの絵画は個人蔵で、普段、目にすることはできない。特に「写生帖」に描かれた動植物は応挙の観察力、描写力の素晴らしさに大変感激した。個々の素材を細かく観察し微細な部分まで詳細に描かれ、その表情、雰囲気も加え描かれている。素材一つ一つもさることながら空間的なレイアウト、配置と何も無い空間の妙(空の意味、味わい)にも魅せられる。国宝の「雪松図屏風」、重文の「藤花図屏風」に感嘆、無言。

 日常身近な対象(題材、モチーフ)のあらゆる姿を克明に写生しているが、非常に細い線、淡い微妙な色、などなど驚く点は枚挙にいとまない。彩色されたものも素晴らしいが、墨の濃淡だけで自然の細かな表情・状況を描いたものもすごい。雨竹風竹図屏風がそれである。

 読売新聞の日曜版(11月20日)、アート散歩欄にアニメーション作家の山村浩二氏が鑑賞談を次のように書いている。「物の構造を捉えるために、自分の両目で、立体で見る。本物を裏側まで見て一個ずつ形の本質を確かめることが重要」であると。

 写生の素晴らしさは、長崎にあるシーボルト記念館で見た川原慶賀の写生、牧野植物園で見た関根雲停の絵、五百城文哉展の絵、現代日本画家素描シリーズ本などから味わってきている。今回の応挙の写生画もそれに負けず劣らず素晴らしいものである。

とにかく感激しっぱなしの応挙展だった。場所は東京表参道にある根津美術館であった。

ドイツの造園専門誌から;2016

ドイツ造園家協会(BDLA;Bund Deutscher Landschaftarchitektur)の機関誌*1は、(Garten und Landschaft)でドイツの造園界における各種の情報を月刊誌として公表しているものである。2016年のこれまで(9月)に発行された同誌の概要を簡単に示し、現状を報告・紹介する。詳しくは同誌に直接当たってほしい。

ドイツにおける専門職としての造園分野が抱える問題は日本とも類似しており、その専門分野の将来的展望について本年冒頭の1月号で特集している。題して「将来の専門職分野」。第13回ヨーロッパコンペを話題に協同、協働について記事、「熱い情熱とクールな思考」と題した若手造園家の記事、現在勉学中の学生達のインタビューとコメントとの記事がある。このテーマを受けて4月号でも、「オープンスペース計画を担うのは誰」の特集を組んでいる。都市計画家、建築家との3者円卓座談会記事(オープンスペース計画での学際的協同の重要性とあり方)、ベルリン市の黄金橋(Goldene Brücken)などを事例とした記事が取り上げられている。

2月号では、難民問題とも関連するオープンスペースの在り様に関する記事(都心と郊外、芸術性のバランス、文化・習慣の原点と境界、故郷の思考、ドルトムント北地区の事例など)を特集、3月、5月号は、それぞれオープンスペース特集、3月号では光と影と題し、再開発したベルリン・テーゲルン空港、ハンブルク港プロムナード、オランダ・アンハイム駅舎、ミュンヘン市の2030年オープンスペース構想などを取り上げている。5月号は用地の空間特性(多目的、多機能)について、ウイーンの1.4ha屋上緑化と地下駐車場の例、コペンハーゲンの事例を基に解説している。

 今年はオリンピックの年、都市像が巨大プロジェクトで大きく変化した年でそれにオープンスペースも深く関わってきている。6月号では、リオデジャネイロ、ロンドン、ミラノなど、さらにはドイツ国内でのこれまでの庭園博都市を事例に、巨大イベントが何をもたらしたか、事後の検証を踏まえ考察している。

 7月号は一転して都市内における将来像として緑の在り方について取り上げている。道路空間を重要な緑のオープンスペースとして位置づけており、ミュンヘン市では4000haにも及ぶ用地を道路沿いや敷地内で緑にする構想を示し、ロンドン(2001-2013年に73%の道路で自転車通行優先)では2030年、市民14万人の自転車利用との共存を推進し道路静粛化を目論む記事がある。ほかにもミュンスター市では道路の50%を自転車優先に、ベルリン市では自転車快速路線(自転車ハイウエー計画;2025年を目途に100km)新設についての記事を載せている。8月号は5月号と呼応しさらに地球温暖化会議(パリ)と連携させて屋上緑化の新たな役割についてハンブルグ、ミュンヘン市を例に特集している。ドイツでは73ha/日のペースでオープンスペースが宅地・交通用地転換になっていることに関連し人工地盤の重要性を指摘し、フランクルト市内に7000㎡屋上緑化しスカイライン緑地として目論んでいる。アンヌ・イダルゴパリ市長は引退までに100haの人工地盤緑地を構想しているとした記事を載せている。

9月号は、ドイツにおける地域計画、都市計画の分野、都市形態としての連担都市における地域改造・整備と関連させた緑地帯、公園緑地整備の好事例であるエムシャーパーク*2を取り上げ、その歩み、目的と方法、成果・評価を明らかにしている。

*1 他の造園に関する専門誌としては、都市と緑(Stadt u. Grün)や自然と景観(Natur u. Landschaft)が知られている。

*2 Emscherlandschaftspark;1990年代から2010年まで各種のプロジェクトを重ねて地域内の緑地帯の整備・充実を図ってきている。現在2027年の国際庭園博開催にエントリーし基本計画を審議している。

 

 

 

 

生きてきた26,662日

昭和19年11月生まれは戦中派なのか、戦後派なのか。同年の10月25日は叔父(父の兄)が激戦のレイテ湾で戦艦扶桑に乗っており、魚雷、砲弾を浴びて扶桑は撃沈、全員戦死と報告されている。その1か月後、私が生まれた。この年、1944年は閏年。今年平成28年も閏年、これまで17回の閏年があり、それ以外の35年は標準、365日となっている。昭和19年と平成28年は誕生後の日数、誕生日までの日数の関係を考慮し計算したところ、26,662日となった。

 四万六千日は浅草浅草寺の観音様に関係した功徳日、毎月18日がその日で、この日に参拝するとご利益が得られるという信仰。特に7月10日の功徳は千日分で江戸享保年間から「四万六千日=約126年」の功徳ご利益となったそうである。その半分余りを生きてきたことになる。

 72年生きて6巡目の申年。年金生活になって70歳も越え、先を考えて徐に祈りや悟りや功徳を意識し神社仏閣、仏像や文化財に注目し始めた自分がいた。

 72回目の誕生日、いろいろな人からお祝いの言葉やメッセージをもらった。ドイツの友人は直接電話をかけて来て、生憎不在であったために留守電にその声が入っていた。家族揃ってHappy Birthdayの歌を歌った後に友人夫妻の言葉が入っていた。別の友人は少し気が早くBirthday Cardにアドベントのカードを使ってお祝いの言葉を贈ってくれた。クリスマスまで12月1日から毎日カードの小窓を開けて楽しむようになっていた。ともに同じくらいの年齢であり同じような時代を生きてきて今がある。「元気で過ごそう」が合言葉である。

 実母は21歳で結婚し私を産んで30歳の若さで亡くなった。父は85歳まで生き養母は101歳まで生きて昨年他界した。人それぞれの生きた時代・生き方と自分の生きてきた時代を重ね合わせ、これから何回誕生日なるものを迎えられるか分からないが、当面30,000日(あと9年位)目指して有意義な人生を歩んでいきたいと考えている。

渋柿、皮むき、吊るし柿

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 毎年恒例の渋柿を軒下に吊るして吊るし柿を作る季節が来ました。この吊るし柿を作るようになってからもう何年になるでしょうか。自分の誕生月の恒例行事になってきています。私の郷里は岐阜県、富有柿で有名ですし、大垣には柿羊羹なる名物もあって柿畑も随所に見られます。特に瑞穂市は富有柿発祥の地として有名な産地になっています。

甘い生食の富有柿に比べて渋柿はあまりぱっとしませんが、それでも養老山脈の上石津町などでは、この時期にたくさんの渋柿を秋の乾燥した風に晒し、天日に干して吊るし柿を作る風景が風物詩になっています。私の郷里の池田町は養老山脈の北へ続く所、池田山脈の麓です。昔はどの家にも甘柿と渋柿が庭にあり、甘柿は秋の運動会の果物の定番でしたし、また秋の深まりとともに渋柿の皮をむいて軒下に掛け、日数の経過とともに飴色に変わって白い粉を吹くようになるとおやつ代わりに食べたものでした。

 渋柿の種類では平核無と刀根早生が知られていますが、ほかに西条、蜂屋、祇園坊、愛宕なども有名品種です。ちなみに私の今の住所、王禅寺は禅寺丸という日本最初の甘柿が1214年に見つかったお寺;王禅寺があるところです。私は毎年郷里の柿栽培農家から渋柿品種「蜂屋」を送ってもらい、それを干し柿にしています。

 毎年100個ほどを作っていますが、今年は84個、今年の渋柿は大きくて胴回り直径6-7cm、高さも7cm位、ズングリムックリしています。毎年、弟が手配して宅急便で送ってくれ手に入れることが出来ました。早速、夜なべ仕事宜しく男手一つで皮を剥きました。渋が強く、指先が渋で黒くなったり、あくる日に右手首が腱鞘炎になるほど痛くなるのは毎年のことです。

 小さな我が家の二階ベランダの軒下に、剥き終った柿2つをペアにして吊るしました。秋から冬に向け野鳥の餌がなくなると、この干し柿が熟れて柔らかく甘みを持つようになる頃合を見計らって「ヒヨドリ」が啄みに来るのです。そのため、ネットを掛けて食べられないように対策を講じなければなりません。それも干し柿をうまく作る上でのルーティンになっています。

 昨夜は皮剥き、今朝は軒下に吊るす日曜日でした。1か月もすれば柔らかく飴色に変わり少し粉を吹き始めるでしょう。

 この吊るし柿を待っている人もいます。ドイツの友人達も出来上がるのを心待ちにしています。出来上がったら年越しや新しい年に身近な知人・友人にも配ったりしていて、気が付くと我が家には10個余りしかないことも度々です。でも皆さんが喜んでくださるのが作って最も嬉しいことです。今年の作品の出来も大変気になりますが、こればかりはお天道様にしかわからず、天候に恵まれることを祈るばかりです。

丹沢に紅葉を求めて

 久しぶりに秋晴れの土曜日、陽差しの下では少し汗ばむくらいの週末。朝のラジオからは紅葉を求めて近県の名所に出かける車の渋滞情報が流れていた。秋の空に3日と続く晴れ間無しとよく言われ、日曜日までは快晴が続くことが予想された。ここは紅葉を求めて丹沢を訪れ、大山山頂を目指す一人山行を一大決心した。

日曜日、予報通り秋晴れ。早朝5時半起床、6時の小田急線に乗り伊勢原で下車、駅前のコンビニでお握り、お茶、飴を買ってリュックに詰めバス停へ。日曜日、快晴、丹沢を訪れる人が朝早くから多い、とくればバス会社の神奈川中央も臨時便の直行バス(大山ケーブル下行)を出して対応。早速乗車し大山登山口まで座って行けた(7:30)。

バスの終点からは歩き。朝日を浴びて独楽参道の階段を上り(両側の店は開店の準備に大わらわ)、大山神社奥の院を目指す。この長く続く石段は格好の準備運動となった。ケーブル駅を横目に阿夫利神社目指して第一段階の登りは「女坂」、男坂との分かれ道に八意思兼神社があり男の方はすぐに急な石段が続く。その名の通り「男坂は傾斜が急で険しく足場も荒い」ため、上りは女坂にする。途中、関東三大不動の一つ、大山寺(奈良東大寺別当良弁僧正755年開祖)に参拝、登山の無事を祈る(8:30)。9:10には阿夫利神社下社に到着、朝日を浴びて参道石段のモミジの紅葉が鮮やか、社殿で参拝後、境内を一巡し本社奥の院への登山口を潜った(9:30)。入り口には登山チップ箱があり入山料代わりの寄付を求めており、多少の心づけをして登り始めた。

 大山山頂を目指す時計回りの道は来訪者、登山者も多く、快晴日曜のため家族連れや高齢者グループも多かった。石が多い山道だがこの日は乾燥していて比較的登りやすく、登山道の工程も石の丁目表示(1-28ヶ所)があり、道沿いには夫婦杉、天狗鼻突岩、牡丹石など見所もあって小休止がしやすい。更に16丁より上へ登ると左手に丹沢山塊から遠く富士山が見られ、休み休み山並み景観を楽しみながら登るのに適している。25丁目の分岐点を少しヤビツ峠方向に下ると富士山の絶景ポイントがあり雪を被った富士山は美しかった。山頂は28丁目で1251m、11:15に到着した。山頂は大勢の人で休む場所を探すのに苦労するほど。山頂の店で食べ物を買う人も多いが、自分でラジウスを持参しお湯を沸かしてインスタントカップ麺やコーヒーなど暖かい食べ物、飲み物を楽しんでいた。山頂でのトイレは、これまた大変で男はまだしも女性は長蛇の列となっていた。このトイレもトイレチップを求める箱が用意されていたがどれだけの人が出したか分からない。ドイツでは空港や都市内にあるデパートのトイレでチップは当たり前で利用者の義務のようになっているが、日本の山頂ではどうか、と考えてしまった。

 山頂広場で持参したオニギリの昼食、しかしあまりの混雑と天気の変化により、45分程度の休みの後で山を下ることにした(正午)。

下りの山道は木の階段で整備されていたが段差幅が大きく、上り下りは大変だと思った。急いで下ると膝や腿が壊れる危険性がある。道沿いの景観、尾根の北側はかなり上の方まで針葉樹(人工林)が占めており単調であった。見晴峠を1時に過ぎ、下社までの細く暗い登山道を下った。見晴峠より下は丹沢の自然林(天然林)でシイ・カシの常緑広葉樹やモミが多く、傾斜も急で暗く湿った樹相となっている。

下社に戻ったのは14時、携帯電話の歩数計は18.500歩を示していた。帰路は往路と同じ、臨時バスで伊勢原駅に着いたのは15時。秋の陽は早く西に傾き、自宅に戻った時は夕方になっていた(20.400歩)。

天気は申し分なかったものの、途中の休憩、食事などゆったり行動していたら暗くなっての下山となり、道すがらも老人には厳しいものとなっていたと思った。天気に恵まれ素晴らしい景観を純粋に楽しむことが出来た山歩きだったが、長年の職業病で自然公園(国定公園)、自然保護、生態系、レクリエーション等々道すがら気になることが出てくるのには苦笑するばかりであった。連れがいたら今回のようなスケジュールでの山行は到底無理であろう。       また、別の季節に別ルートで丹沢山塊に踏み込んでみようと考えた。 

 

 

  

 

湘南校舎で学会開催

日本造園学会の最新号(Vol.80 No.3)で来年度の日本造園学会全国大会開催案内が記事として発表されました。平成29年度全国大会が日本大学湘南キャンパスにおいて開催されるという案内です。期日は平成29年5月19(金)~21日(日)予定となっております。19日は公開アイデアコンペ作品発表会、20日は総会、学会賞表彰式、受賞者講演会、大会企画展示、公開シンポジウムなど。

21日は研究発表会(口頭発表)、公開アイデアコンペ作品展示となっています。大会参加費は5000円(学生2000円)、交流会5000円(学生1000円)です。

この大会を機会に久しぶりに湘南キャンパスに来てキャンパスを覗いてみませんか。

来年のことを言うと鬼が笑うかもしれませんが、来年はもう2か月後に来ます。日大の造園にとって来年は飛躍の年になることを期待しましょう。

秋の情景

増しに寒さが増しますが。さざんか(山茶花)で感じること、考えること。

童謡の「たき火」。「さざんか さざんか咲いた道、たき火だたき火だ落ち葉焚き」、という歌があります。神無月にもなって秋が深まってきて、垣根のサザンカが咲き誇ってくると、遂、口ずさんでしまいます。
 でも今は気軽に落ち葉を溜めて焚火をすることが禁じられています。秋深しの情景としての焚火も、火の周りの子供たちの笑顔も遠い昔の光景になってしまっています。昔の人間にとっては寂しい気持ちです。
 焚火といえば、秋の穫り入れの終わった田んぼで、残り藁を燃やす場面も数少なくなっています。秋の深まった夕暮れ、秋晴れで昼夜の気温の差が大きくなると、稲のなくなった田んぼでは焚火の薄鼠色した煙が、少し高く地表と平行に棚引いて、秋の早い夕暮時、焚火の火を見ながら片付けをする人の影が黒いシルエットとなり、焚火の火を残して次第に暗闇に消えていきいます。
 そこで昔田舎で見た光景を思い出して、こんな歌を作ってみました。
「茜雲、夕靄棚引く秋の田に 老いた農夫の黒影一つ」

 朝靄が棚引く風景、雲海に浮かぶ山々、山の尾根を越えて沈む霧など、気温の変化と雲や霞や霧が描き出す光景は自然が生み出す素晴らしい現象です。
 今年訪れた北海道の摩周湖も霧で有名ですが、太平洋から流れ込む暖かく湿った大気が摩周湖畔の山にあたって霧となり山を下って湖面を覆う光景をドキュメントフィルムで見たことがあります。
 季節ごとの一瞬の光景は運が良ければ、タイミングが合えば見ることが出来ます。その光景を見たとき風景全体を脳裏に焼き付けるのには、きっと研ぎ澄まされた観察眼と記憶脳がいるのでしょうか。
 

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巡礼 秩父観音34か所札所巡り  3

春の巡礼で達成できなかった秩父山間地の札所、34か所のうち6ケ寺を10月の日曜日に1泊2日で実行に移しました。6ケ寺はいずれも山裾や山間地にあり、幾筋にも別れた秩父山地のそれぞれの谷筋、奥まったところに位置しているため,巡るときは尾根を越え谷を渡り長い道を歩かなければなりません。それぞれに離れているため訪れる為には多くの時間と体力を要します。

限られた時間、しかも70歳を越えて体力に不安を感ずる我身であることから車に頼ることにしました。

日曜の早朝に自宅(川崎・麻生の柿生)を出て、東名高速で一旦都心へ向かい、環八で北上、谷原から関越高速に乗り秩父の北の玄関、花園ICを目指しました。花園ICからは国道140号線(秩父往還)を走り、交通混雑の少ない午前中に長瀞に入りました。可愛い駅舎の秩父鉄道長瀞駅前に車を止め近くの見どころを散策しました。

 荒川の上流部で切り立った巨石群や岩壁に囲まれた長瀞岩畳、長瀞峡の中継点、長瀞ライン下りで降りる人乗る人で川岸がにぎわっています。天気の良い日曜の午前、渓谷の美しさを絵に描きたい人たちで岩畳の岩場は満員、眺めの良い所は既にその人たちに占領されていました。対岸の切り立った岩肌、その上は木々が生い茂り紅葉の季節は、さぞや、色とりどりの木々の美しさが水面に映えて一層華やかさを映し出すだろうと思いました。駅から川岸に下る道は土産物街、地場の名品、特産品が並んでいました。車はそのままに、河岸段丘の上段にある宝登山神社へ参拝。秩父訪問の無事と申年の安全・無病息災を祈願して神社を後にしました。

今回、最初に巡ったお寺は日沢山水潜寺(34番札所)です。本来なら結願の寺(34ヶ所打ちおさめの寺)とされていますが、今回、巡る順が逆のため最初に訪れることになりました。西国、坂東33ケ所、秩父34ヶ所巡りと合わせ百観音の結願寺となっています。参拝の園路は左回りで最初に寺の名前の水潜りの岩屋(鍾乳洞からの湧水)、傍らの地蔵菩薩と本堂の千手観音にお参りし出口(入口部でもある)の33観音像に見送られ寺を後にしました。秩父市内に入って昼食を名代の「蕎麦と草鞋カツ」で済ませ、午後いよいよ山間の寺巡りとなりました。

車は秩父札所で最も西、山中深くにある鷲窟山観音院(31番札所)へ。険しい山間地にあり下の駐車場から296段の急な石段、山門には珍しく石で造られ4mにも及ぶ仁王像が立っています。手摺を頼りに石段を上りつめると、そこには巨大な岩山(5-60m高)を背景に岩屋となって観音堂があります。岩屋のスケールから自然石の崇高さ、巨大さ、そこに堂を建てた不思議さが驚きとともに湧いてきました。隣接する聖浄の滝は雨の少ない年を表すように水が枯れていました。周辺の岩壁は磨崖仏の石仏が多くあります。案内書には奥の院が記されていましたが今年の夏の不順な天候で山道が崩れ行けないようでした。

駐車場広場には秩父ジオパークの案内板があり、秩父山地の岩屋の観音堂を囲む地形・地質、岩石の説明がされており興味を引きました。

小鹿野町字飯田の観音院から299号線に戻り般若地区にある般若山法性寺(32番札所)を目指しました。道沿いは河岸台地に沿って畑が広がり、後ろに秩父山地を控えた明るい中山間地の様相です。この寺も谷あいにひっそりとあって巡礼者の訪れるのを待っているかのようです。二層の山門は鐘楼を兼ねた重厚な造り、上の段の本堂周りは、いろいろな草花が植えられ花の寺になっていました。さらにその上の段には観音堂があり、26番の岩井堂と似た舞台造りで巨岩を背に建てられています。

33番の延命山菊水寺は山間地の平坦な集落近くにありました。この下吉田地区では10月に龍昇祭という、竹に火薬を詰めてロケットのように飛ばし高さや勇壮さを競うお祭りがあるとのことでしたが、今年は丁度終わった直後でした。

この山中の札所を巡り終えて残すは、春に回れなかった2つの寺になりました。この二つは荒川の左岸河岸段丘面にあり東に開けた場所でした。光智山法泉寺(24番札所)は正面に武甲山を眺める小高い位置にあり一直線に上に伸びた116段の階段が見晴らしの良い風景を生み出しています。この別所地区の南方に岩谷山久昌寺(25番札所)がありました。集落名は久那、山門と観音堂の軸線がややずれていて観音堂の左は切り立った断崖が迫っています。背後には農業用水の溜池のような広い弁天池があり上池には蓮、下池には水連が植えられています。本堂は観音堂の反対側で明るい朝日を受ける所に建っています。

この小旅行の秩父34ヶ寺札所巡りは、順不同でこの25番を最後に結願となりました。とにかく全てのお寺にお参り、お祈りして無病息災、家内安全を願い、御朱印を集めることに主眼を置いたため、秩父地域の自然や文化の詳細を後追いで学ぶという不真面目さでした。ご利益は少ないことでしょう。秋の釣瓶落としの夕方に高速を走り、関越高速から圏央道にまわり、相模原愛川から町田を抜けて夕やみ迫る頃に自宅に戻りました。

 

   34ヶ所の寺の多くは禅宗のお寺が多く、建立の時代と歴史的経緯などの点からさらに興味を抱くこととなってきました。別の季節に別の景色や佇まいを見つけに、再び訪れたい寺を中心に出かけたいと思っております。