水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

Stadt + Grün No.2

S +Gの2016年1-2月号から;

1月号の巻頭記事に,No.1で示した州の庭園博開催決定についての市民投票の結果がある。Bad Iburger(ニーダーザクセン州)で2018年に庭園博を開催することに対する市民投票の結果、賛成61%反対39%で開催に決定。2015年3月には一度、開催が否決されていたが再度検討し、地方議会の中で経済的、地域観光的、環境整備的に意義があるとされ開催が認められたとある。同様の事例は以前にもBad Essen市であった、とある。

 公園と市民の関係については、他の記事も注目に値する。「ブレーメンの音楽隊」の童話で知られるブレーメン市の市民公園(Bürgerpark;200ha)が開園150年を迎えたこと、この公園は1865年11月16日に市民の手によりニューヨーク、セントラルパークに習って運動が開始され建設された(1866)ものであることが載っている。この公園開設では、市民の手により完成し当時3000人の会員がいたとされている。

 また、München市の中長期緑地構想が公表された、とある。Borries教授、Berlinの造園事務所BGME、ミュンヘンの造園コンサルの3者が緑地構想2030を作成し公表、公開した。

 

 1月号には7編報告・論文が載せられている。①緑地の維持管理手法に関するものでは管理を3段階(時間と管理内容等、素材3区分、時間30年、空間3区分等9段階)によって分け、分析から維持管理手法まで提示している。

 ②リューベック市(公園緑地630ha、街路樹 85.000本)およびミュンスター地域住民の緑に対する意識と緑の役割について述べ、緑地の創出、緑への市民参加、緑の市民サービスを提案している。ミュンスター市では既に10年以上以前から緑地整備拡大を狙って活動、緑地局は緑地整備と都市交通の改善をテーマにタッグを組んで実施。③フランクフルト市の造園緑地局(新社屋:2013-2015年、1.7ha)が旧フランクフルト操車場跡地に建設された報告。④ベルリン市北東部;Neu-Hohenschonhausen;22.500人居住の住宅団地再開発の提案(2015)にたいし、地域社会再生と住宅環境整備の課題を緑地的空間整備において造園分野からの提言をしている。⑤都市林に関する報告では、ドイツにおける都市林のこれまでの役割、現在までの変化、最近30年(1979-2012)の役割の変化について明らかにしている。⑥自然の再生・復元の視点から見た「花の草地;Blumenwiese)について、その歩みとKassel市の事例、都市内から農村域の文化景観、山地景観と野生草から分析している。⑦生態的視点から緑地の価値を高める手法として生物多様性が重要であるとし、蜜蜂業界が野生草重視を掲げてプロジェクトを展開、Eh-da-Flächen活動の有用性を述べている。ドイツで最初の事例町村を(Bornheim;Rheinland-pfalz州)に決めその結果を報告している。

2月号の記事欄には、P.J.Lenneに関するものがある。2016年はLenne没後150年に当たり、P.J.Lenne賞の競技設計が紹介され、3カテゴリーに区分され設計計画の事例都市をベルリン、マイセン、アムステルダムの3都市に指定し、競技設計内容をそれぞれの市ごとに提示している(LAの資格は35歳以上、賞金5000ユーロ)。P.J.Lenneの庭園作成とデザイン、樹種選択等に関する論文は3月号の冒頭にも登場する。

2月号も7編の報告・論文が載せられている。

 ①公園計画に求められる要素として、光と影の柔軟性、湿地の植物を注視する。②新しい時代の公園とは、と題しミラノ、ドイツの2都市公園、モスクワの公園を国際比較し解説している。③アルメニアにおける屋上緑化と壁面緑化についてディリジャン国際大学を事例として述べたもの。④カッセル市にあるグリム公園の建築と造園について。⑤ベルリン市内の大規格道路のブールバル化(1865年平面図、1910,1948,1972各年の状況・写真参考)を都市計画サイドから提案。⑥アムステルダムの市内(3重に分布する運河沿い)に古くからある民家の庭の意味。⑦洪水に対する都市計画的視点からの提案(建物地下の考え方について)。⑧Mammingerワイン広場の池の在り方について。

 

 

 

 

 

閑話休題

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厳冬期、まさに日本全土を大寒波が覆っていて九州から北海道まで雪模様を報じています。日本海側の地方では、それ以前から続く大雪で所によっては一晩で1.5mも積もったとあります。中国地方の瀬戸内側、広島市でも10-20cmの積雪と伝えています。それに比べて首都東京や関東平野地域では雪のない寒い一日になりました。天気は晴れで青空がのぞき、明るい陽射しも射して陽だまりでは暖かくなりました。

我が家の庭にはブナの木に粟の入った脂身がぶら下がっています(写真)。これはドイツで買ったもので、網の上についているのは雨を避ける傘の役をしていますがあまり効果はありません。網は市販のネットで、脂身はスーパーのお肉コーナーで貰うラードです。小鳥の餌(粟など)を練り混ぜて網に入れ、傘となる覆いをかぶせてぶら下げ完成です。

 秋から冬にかけて周りに餌となる木の実や虫が消えたころ、このぶら下がった脂身は小鳥たちにとって絶好の食事の場所になります。最も頻繁に訪れる鳥はシジュウカラメジロです。メジロシジュウカラが来ると逃げ、シジュウカラキジバトが来ると逃げます。でも脂身の入った網の目が小さいのでキジバトはあまり来ませんが、でも気になるようです。粟は脂身に練り込まれ包まれていますので小鳥たちは啄んだ後、大変です。嘴が脂でベタベタ。周りの小枝で嘴の周りに付いた油を撫で落としています。

 あと1か月もしたら次第に春めいて梅の花なども咲き始めるので、次第にこの餌場も静かになるでしょうか。酉年の2017年、良い年であることを期待するばかりです。

 

ドイツ専門誌「都市と緑」;Stadt + Grün No.1

ドイツの造園関連専門誌として、全国版の造園会員誌「Garten und Landschaft」(G+Lと略記)と主に行政部局の担当者団体誌「Stadt und Grün」(S+Gと略記)2つがある。今回はS+Gの2015,2016について少し内容に触れて紹介する。

S+G誌はドイツの各自治体における造園担当者向けの専門月刊誌といえる。ドイツ造園緑地部局長協議会(Organ der Deutschen Gartenamtsleiterkonferenz)は全国市町村自治体にある造園緑地部(都市公園、都市緑地、景観計画、墓地など担当)の構成員からなり、その関係者に公園緑地に関する幅広い分野、テーマに関連する歴史、現状、課題、将来像などに関する情報を伝える月刊誌である。

例えば2015年の報告・論文の内容区分を列記すると次のようにかなり広範囲にわたっている。内容は、市民参加、屋上・壁面緑化、墓地、庭園文化財保存、造園事例、造園技術、庭園博、グリーンツーリズム、緑地と担当者、緑地管理、市民農園、気候変動、地方の緑地計画、景観計画、公園と庭、植物材料、遊び場・スポーツ競技場、都市開発、環境と自然保護、都市緑地と都市内農地、都市内水辺、関連法などである。

内容は月別に特集構成にもなっており、たとえば1月は緑地管理(Grünflächenmanagement)、4月は州や国の庭園博、5月は遊び場・スポーツ競技場、10月は庭園文化財保存(Gartendenkmalpflege)、11月は墓地(Friedhöfe)などとなっている。4月の庭園博特集号では、2015年にザクセンアンハルト、ブランデンブル両市で行われた連邦庭園博やランダウ市で行われた州の庭園博(ラインラント・プファルツ州)、ザクセン州での第7回庭園博、以前開催されたハンブルグ市の連邦庭園博記念公園の新しい緑の維持管理などで構成されており、博覧会の内容や開催までの経緯、役割や効果など多彩である。

 今日、庭園博は計画から実施まで巨額の費用が掛かり、特に州の博覧会では州の援助があるとはいえ開催都市の財政的負担は問題になって来ている。開催都市は問題があるものの開催による観光・レクリエーション効果、経済的効果、緑地整備による生活環境整備効果などを評価している。

2016年のS+G誌の最新情報記事には庭園博開催の是非を市民に問う投票が初めて実施され開催が決まったとある。2年に1度の連邦庭園博、毎年どこかの州で開催される州庭園博は、このような問題を抱えながらも地域活性化、都市緑地整備、生活環境整備を通しての経済効果、社会的効果を評価し実施している。諸都市は10年先を見ながら庭園博開催計画、実施プログラムの作成に努めて(既に2020年代、30年代を目指して動いている)おり、その計画的対応の推進、決定には我が国にとって羨ましくもある。

 

 

初詣・干支絵馬

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2017年 初春、明けましておめでとうございます。今年も毎年恒例の、初春早朝初詣に行ってきました。

 物の本によると「初詣」は元々「年籠り」といわれ大晦日の夜から元旦の朝にかけて氏神様に籠る習慣があり、除夜詣と元旦詣が合わさって初詣になったとあります。子供たちが家にいたころは、近くの氏神様(月読神社)へ年越しで家族揃って初参りに行きました。

 いつだったか越年初詣で明治神宮に行き、大晦日からカウントダウンをした後の、ものすごい初詣の人ごみに合って明治神宮二の鳥居から殆ど進むことが出来ず、一方通行の参道に立ちづくして数時間、やっと拝殿前に辿りつき早々にお参りをして帰宅したことがあります。その苦い経験後、初詣は新年の初日の出と共に出かけるのが一番と決めました。

 日の出前に自宅を出て丁度経堂を過ぎる辺りで初日が昇りました。初詣のルートは赤坂日枝神社明治神宮。赤坂日枝神社は江戸東京の三大祭の一つ、山王祭で有名な神社の一つで大山咋神が御祭神、庚申祭(申・猿を祀る)も有名です。毎年、いろいろな形や図柄の干支絵馬が出される絵馬展でも有名です。その内のいくつかを買い求め家に飾っています(写真参照)。

 干支絵馬は神社の参拝時にいろいろ祈願をする一つとして神社に寄進したのが始まりといわれています。京都北野天満宮の絵馬堂は有名ですが、どの神社にも祈願・寄進された絵馬が掲額されています。現代は干支絵馬や祈願絵馬がありますが、もともと絵馬は神社や寺に祈願するとき奉納する絵が描かれた木の板です。神が馬に騎乗した姿で現れることから馬が登場し、古く風土記の頃から既に神事で馬を献上することがあったとされ、以来馬の描かれたものでしたが、形を変えいろいろな絵が描かれて奉納されてきました。祈願絵馬は願い事を書きこんで絵馬掛に結び、願いが叶ったらお礼参りに訪れたり、家に飾ったりするもので平安の昔から続いてきています。

 二か所目の明治神宮へは赤坂から地下鉄千代田線で明治神宮前に移動し、JR原宿、南端の一の鳥居からL字型の参道に沿って歩き、二の鳥居から三の鳥居へ。南神門を潜ると拝殿前の広場に出ます。初詣の人並みは年越し参拝の大混雑が嘘のように少なく静かでゆっくりお参りすることが出来ました。

 明治神宮の森は隣接する代々木公園や神宮外苑と合わせ、今や大都市東京にとって規模的にも機能的にも極めて重要な緑地です。明治天皇崩御の後、林や畑であった土地に造園の先達が計画・造営に関係し植樹され作り上げられ維持管理され今日の深遠・荘厳で神々しい自然林中心の森になっています。2016年初詣の参拝者は317万人とされていますが、この歴史的経緯と今の緑の役割をどのくらいの人が理解しているか気にかかるところです。

 結婚して以来、我が家には全国各地の神社を巡り、参拝した折に買い求めた干支絵馬が、北は札幌・北海道神社から南は沖縄那覇の波の上宮まで数多くあり、家の壁一面を飾っています。今年も各地を訪れる旅の折に各神社で絵馬を買い求め家内安全、健康第一を祈願することにしています。同時に神社の位置や自然と歴史文化を鑑賞し学びたいと思っています。

2016年さようなら、ありがとう

  2016年大晦日、間もなく紅白歌合戦が始まる時間、残り少なくなってきました。今年もいろいろありました。退職して2年、まだ時間の計画的過ごし方が十分ではないのですが、年の最後に恒例の10大ニュースを月日の流れに沿って始めてみます。

1月:正月は毎年、初詣をしてきました。2016年も早朝に家を出て日枝神社明治神宮を巡り帰宅、家族そろって雑煮で新年を祝いました。

 健康で過ごすことが第一で、そのため新年早々に人間ドックで健康診断を受けました。多少の問題はあったものの経過観察で終了。

 近所の知人の関係者が上野国立博物館平成館での写真展(昔の中国の橋梁建造物)に参加・展示されており、その鑑賞と合わせ、本館での「秦の始皇帝兵馬俑」の展覧会を鑑賞しました。西安まで見に行けないし、行けるとしてもいつ行けるか分からない歳であれば、規模は小さくても雰囲気と実物を身近に見れるので出かけてみました。良かったのですが、本物を現地・本場で見たくなりました。

 1月の28日は近くの麻生不動尊の達磨市、関東の閉め達磨市で有名で毎年恒例、ダルマを買いました。

2月:日大生物資源科学部の新2号館屋上を「環境配慮と学生の休憩・休息」のために緑化し利活用することになりました。ところが、建物は完成しても緑化はなかなか進まず、低木類の植栽適期の冬が終わりそうになって来て慌てる始末。植栽計画を描いたので植栽施工には殊の外、細部まで気にかかり植栽施工の現場立会いをしました。思い描いた植物が入っておらず駄目出しも修正効かずでした。

3月:長く温めていた霊場札所巡り、昔からの知人秋山寛氏(元タム研)が秩父霊場巡りを満願成就しました、という話を聞いていたので、自分もいつかやってみたいと考えていました。3日~5日まで2泊3日で実行(この内容はブログに掲載済)、秩父霊場は札所が34ヵ寺あり1回で全部を巡るのは困難なため、歩いて回れる寺を札所順に沿って参拝しました。小春日和の天候にも恵まれ暖かな秩父路を歩き、28/34寺でご朱印を頂き、残りを2回目(市内から離れた寺)に回しました。

4月:高等学校と大学院の同窓会、身内の結婚式がありましたが、高校は郷里岐阜県大垣市、結婚式も郷里のため、大学院時代の同窓会はやむなく欠席しました。高校も中学も団塊の世代前(昭和19年生)で少ないとはいえ同学年が250人余り、クラスでは旧友もいますが、全体の同窓会ともなると旧友も少なく今一つ盛り上がらない会となりました。

 4月の下旬は5月の連休がいつも話題になります。日本では休暇がドイツのように2-3週間程長く取れず、しかも皆同時に休みとなるため大変混雑してしまいます。退職して年金族となりましたが、社会の休暇週刊はどこも混雑するため、早めと遅めに移動することとして、北海道への旅を27日から始めました(ブログに掲載済)。

5月:上旬は北海道、根室を起点に道東を巡りました。知床では時期外れの雪に見舞われ驚きましたが、早春の花の多い湿原の景観を楽しみました。

日大生物資源科学部には外部研修施設として「富士自然教育センター」があります。ここの書庫に縁あって「吉永義信先生の書籍、写真原版など」を頂くことになり、その分類・記録・整理を急ぎました。他にできる人がいないために学部と私がかって出ました。写真のガラス原版は大変貴重なもので、多くの日本庭園の戦前の姿が写されています。いずれ日本造園学会にも情報提供する予定です。

6月:先月に続き吉永資料の分類、記録、整理をしました。

7月:夏、古希を過ぎた年齢でも同窓会は、懐かしさが先に立って楽しみです。中学校の同窓会、以前の高校のそれと同様で同じ級の旧友を中心に昔話と今の過ごし方に話題が集中し話に花が咲きました。

8月:郷里へ帰省し、旧家の庭の手入れに精を出した月になりました。父が存命の頃はすべて自分で垣根刈や植え込みの整枝・剪定をしていましたが、父亡き後、面倒を見る手が無くなり、私が助っ人として頼まれ参加し手入れをしました。植木の数と垣根の長さや高さが半端でなく、歳を感じる2週間となりました。

9月:2年前に他界した育ての母(義母=実母の姉)の3回忌のため、再び岐阜行。高速道路片道340kmを車で一人、運転して帰るのは大変になりました。以前は1回位の休憩で辿りつきましたが、今は最低2回は休まなければ辿りつきません。大変です。

 岐阜から戻ってすぐに2回目の北海道行を敢行しました。今回は12日間、前半の半分は道央の観光地(摩周湖洞爺湖、網走と知床五湖)を巡り、後半は家内の姉を訪ね、民宿の庭を整備してきました(ブログに掲載済)。これまたお疲れでした。

 

10月:大学在職の最終時期は学部運営にかかわり執行部の一員として他の先生方と共に頑張りました。退職後、その旧知の先生方も私同様に退職され慰労会が企画され参加しました。懐かしく楽しいひと時を過ごすことができました。

 月末からの学部祭にも参加して研究室の卒業生達と旧交を温め、現職の先生や職員の人たちと歓談できたのも嬉しいことでした。また、検討を重ねてきたブログを始めてみました。

11月:2回目の人間ドック、私学共済の延長が切れるため、有効期限の切れる直前に実施しました。夏から忙しさのためにやや体調を崩し気味だったこともあり、タイミング的に良く、結果も大きな問題がなかったので一安心です。

12月:いつものことながらドイツの友人家族にクリスマスカードを出さなければ、という重大案件と年賀状の絵柄造りが重要になります。今年は年賀状の絵柄はすんなりと決まり印刷に回せましたが、カードの方は遂にクリスマスを過ぎてしまい、新年の挨拶だけになってしまい、カードに変わるメール便となりました(反省)。

 

あと、4時間足らずで2016年ともおさらばです。まあまあ良い年であったと思います。学・協会から栄誉ある賞(上原敬二賞、北村徳太郎賞)を戴くことが出来たことは、永年務めてきた職業との関係から言えば最も重大なニュースであると言えます。多くの方々に支えられここまで来れたこと、望外の喜びです。卒業生の皆さんと共に喜びたいと思います。来る年もまた良い年でありますようにと祈るばかりです。

懐かしい集い

懐かしい集いに同窓会があります。中々集まる機会が少ない折、何かを通じて仲間が集まり、お互いの情報を交換したり近況を報告しながら旧交を深めます。
2008年卒業生は大変仲が良く、事あるごとに集っていて、遂に自分達の卒業前後の卒業生にも声をかけて集まるようになっています。
 先日も年末の忘年会を企画して、私も参加することにしました。彼らは私が参加すると「勝飲み」と称しています。その時のスナップ写真です。f:id:nu-katsuno:20161219151239j:plain


 この忘年会はクリスマス会も兼ねているようで、参加者各自で贈り物を買い求め、誰にあたるか分からないのですが包装して参加していました。私は参加卒業生にこの年、次の年の記念に干支のタオルを持参しました。自分でデザインした干支の絵を刺繍したものです。好評でした。

 論語の中に、「朋、遠方より来たる、また悦しからずや」があります。昔から言われているように、友人は大事にしたいものです。

調べていたらこんな記事もありました。
「朋」とは「同じ先生について学んだ者」、「悦」は先生の下から離れ、研鑽を重ねて学問・経験が高い境地に「お互いが」向かって歩んでいることを喜び合っている様、つまり同じ先生の下で学んだ学友が久しぶりに遠くから訪ねてきて集まり、話し合って楽しい時間を過ごし、お互い経験や体験が進み成長していることがわかり嬉しいですね、という故事です。
まさにその通り。皆さん元気でさらに発展し成長してください(師より)。
  

金時山、クマモンはいたか

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金時山は箱根外輪山の最高峰で北の雄、仙石原からの登山コースは短いながらも急峻な坂道が続く2時間コースとして知られています。富士・箱根・伊豆国立公園、最初は富士箱根国立公園として昭和11年2月に指定され、その後伊豆地域を昭和30年に、伊豆諸島地域を昭和34年に取り込んで現在に至っています。この国立公園は3地域(富士山地域、箱根地域、伊豆半島地域)に区分されており、金時山は箱根地域に属し、神山を中心とした活火山とカルデラ湖(芦ノ湖)、その外輪山の中に位置づけられます。火山地形と地質で際立った特徴を有し、平成24年にはジオパークとしても指定されています。

 箱根地区のハイキング、登山コースとして外輪山は有名で、中でも景観や動植物、歴史・文化、アクセス等の幅広い点から金時山コースは人気の的になっています。

 今回の箱根の山行きは、丹沢大山と同じく身近で、日帰りが出来、体力の維持増強、自然探勝、富士山の景観鑑賞を狙ってやってみました。以下、時間の流れに合わせて歩いてみましょう。

 晩秋から初冬にかけての都市近郊登山は日の入りが早く、山道が暗くなる前に下山する必要があるため、早朝の出発、お昼頃の頂上が目標になります。今回も朝まだ夜が明けきらないうち(午前5:30)に自宅を出発、海老名を過ぎたあたりで日が昇り、小田原駅前で買物し乗り継いで箱根の入口、湯本に着きました(午前8:00)。湯本から登山口のある仙石までバスで35分、10分ほどで金時山登山口に着きました(8:45)。

 案内書には登山の距離は短いが勾配が急で厳しい、とあります。麓には別荘や民家もありますが登り始めると建物はなくなり最初は杉・ヒノキの人工林に沿って登ります。道は火山灰土と粘土質土壌からなり、雨水の排水路化が進んでいて激しく深く浸食され沈み込んでいました。雨や雪の後は登るのにさぞ大変だろうと思いました。登るにつれ施業林がなくなり、ササが多くなります。道幅2mくらいは開けていますが両側は高さ2m位の低木やササが茂り、わずかに切り開かれた登山道脇から眼下に神山の北側、大涌谷を中心とした広大な箱根仙石原地区が広がり、素晴らしい景色、展望が得られました。

 矢倉沢峠(明神ヶ岳分岐)あたりはハコネザサが一面に広がり、明るい山容を見せています。ここで一服。ここから上は岩や火山砂が多く傾斜も急で距離は短かかったのですが大変な上り道でした。ササ草原を過ぎるとサラサドウダン、ミツバツツジ、ブナ、ヤマハンノキなど落葉低木が多くなり、さぞ春から夏にかけては花盛り、多様な緑で美しいだろうと想像しました。最後の胸突き八丁は険しい岩場、それを過ぎたら急に開けて頂上に出ました。標高は1212m、掛け声宜しくイチニ、イチニと登ってきました。大きな火山の噴出岩がいくつも転がる頂上には茶屋が二軒、祠が三つと解説版。解説版に、金時山(公時山)の謂れ、文政3年(1820)駿河記の源頼公、坂田公時と熊の話、猪鼻山(金太郎と大猪)など。

 北西に美しい真っ白の雪を抱いた富士山、この日残念ながら午前中に早くも頂上部が雲に隠れ全体の雄姿を見ることが出来ませんでしたが、箱根外輪山を境に南に仙石原から芦ノ湖、三国山、駿河湾、神山と大涌谷、北側には御殿場、広大に広がる富士の裾野、富士山の山影から覗く南アルプスを遥かに見ることが出来ました。

 頂上の茶屋の陰、日当たりのよい軒下で持参した御握りとお茶でお昼にしました。連日の好天続きと駿河湾から上る風を考え午後に曇ることを予想して早めに下山を開始しました。同じ道を道端の可憐な野草花を撮りながら、2時間近くかけて下り登山口に戻りました(12:30)。

 帰途、箱根、宮の下に古くからある有名な富士屋ホテルに立ち寄り、美味しいコーヒーを飲んでこの日の山歩きを振り返りました。

 

 自宅に戻ったころ西の空は茜色の夕焼けに染まり、夜の帳が落ちようとしていました。この日歩いた歩数は17.300歩になりました。絶対距離は長いのですが、電車、バスを長時間乗り継ぎ実質的に歩いたのは登山だけ、多いか少ないか分かりません。でも心地よい疲れが残りました。 次またいつか、一人で。

禅・心をかたちに展 を見て  

晩秋の曇り空、時折吹く風は肌寒く、思わず首を窄め銀杏の落ち葉で真黄色に染まった径を博物館平成館目指して歩きました。白隠慧鶴描く「達磨像」の巨大なポスター*1が目立って会場への道を示していました。

 展覧会は国立博物館平成館2階、臨済宗黄檗宗連合各派合議所が主催し5つのテーマに区分され、全国にある同宗の寺などが所蔵する307件の禅に関する名宝が展示されていました。展示公開最後の日であったため、寒空にもかかわらず多くの人が訪れていました。入口を入った直ぐ正面に、ポスターに使われている白隠禅師が描いた大きな達磨像(国宝)が迎えてくれ、その迫力と構図の大胆さ、色遣いのすごさに圧倒されました。同時に、以前学生を引率した庭園見学で天龍寺竜安寺の玄関入口で見た屏風絵の達磨像を思い出しました。

 この禅名宝展では、国宝書画22件、重要文化財(重文)102件を含め全部で307件の名宝が展示されていました。全部を味わって時代や人、寺院の場所などじっくり考えながら見ていたらとても1日では見終わらない内容と数です。

展示は①禅宗の成立、②臨済禅の導入と展開、③戦国武将と近世の高僧、④禅の仏たち、⑤禅文化の広がり、の5つに区分され、臨済宗黄檗宗の各本山が所蔵する高僧の肖像画、書、仏像、絵画、工芸が出展されていました。

 展示物は京都の寺院が中心をなし、北は栃木、南は大分の諸寺院から集められ、その上普段、各寺院の奥深く本堂などに安置されていて見ることが出来ないものが多く、このような企画でしか実際に目にし学ぶことが出来ない絶好の企画でした。

 禅宗は中国から伝わった仏教の一派であり、鎌倉から南北朝時代にかけて臨済宗を中心に広まったとあります。江戸時代には黄檗宗が明の時代の文化と共に日本に入り広まりました。前にも書きましたが、日本庭園は仏教の教えと深い関係があり、その意味で禅宗の庭園も同様、いろいろな展示物を見ながら聞き慣れた人物の名が出てきたり、像が出てくると、より真剣に仔細に見入ってしまいました。

 白隠禅師、蘭渓道隆一休宗純禅師、隠元禅師、亀山法皇、古岳宗旦、以心崇伝、夢窓疎石足利義満などなど。書の賛の読みや意味は理解できないものの書体や筆遣い、墨の濃淡など見所はいっぱいでした。

戦国武将と禅宗の関係では、江戸時代に多くの肖像画が描かれ、禅宗に帰依し関係した寺院に収められていることがわかります。禅文化の広がりでは、主に「茶」に関連して説明されており、茶の始まり(明庵栄西)から禅と茶の関係、茶道具、書画が展示されていました。文化の広がりの中で「庭園、枯山水」などが無かった点はやや残念な気がしました。

 国宝の絵画では、「達磨像」「慧可断臂図」「瓢鮎図」「蘭渓道隆像」、重文では

牧谿の「龍虎図」「芙蓉図」など見たことが無かったものを見ることが出来ました。

特別に伊藤若冲の絵が2幅展示されていました。若冲は30代に禅に帰依し、京都相国寺の高僧と親交を結び絵を描いたとされています。鷲図と旭日雄鶏図の2幅は、素晴らしい若冲の作品で、構図の大胆さ、色遣いの素晴らしさ、超精密微細の表現には言葉がありません。若冲の「写生帖」を見たくなりました。雄鶏図は、来年の干支・酉に因んで絵葉書を買い求め、感激・感動の余韻を頭と胸に帰途につきました。

写生と自然(動植物)、芸術と空間 3

甲賀町(コウカチョウ)にある櫟野寺(ラクヤジ)は792年、比叡山延暦寺を建立した最澄が創建した寺と伝えられており、この秋、「平安の秘仏・櫟野寺の大観音とみほとけたち」として公開されている。この展覧会を東京国立博物館、櫟野寺と共に主催している読売新聞の10月28日夕刊に載った解説を読んで見たい衝動に駆られた。郷里の岐阜に近い滋賀県、以前毎年正月、多賀町の多賀神社に初詣の折、焼物の町信楽を訪れた懐かしさがあったからかもしれない。

 仕事上、、これまでにも京都・奈良地域の史跡名勝、社寺庭園を訪ねることが多く、折々に寺院の仏像を拝観してきた。仏像の前で彫像と対峙し沈思黙考する時間的余裕が持てるようになり、同時に日本の歴史や文化、芸術について勉強しなおそうと思うようになった。今回の秘仏の展覧会はまたとない良い機会であり内容である。秘仏は全部で20体、その中心は11面観音菩薩坐像である。

 中心に置かれた11面観音菩薩坐像は光背、台座を含め5mを越え黄金に輝き見る人を圧倒する。しかも像は1本の櫟の大木を刻んで造られており、寺院では本殿の奥に安置され、離れて前面からしか拝むことはできない(次の御開帳は平成30年秋)が、今回の展覧会では周り四方から観音菩薩をつぶさに見ることが出来る。坐像全体の美しさ、均整の取れた菩薩の姿を鑑賞することができる。仏像では一般的に立像(一丈六尺;丈六仏=4.8m)、坐像は半分の2.4mとされるが、この観音菩薩坐像は例外なく大きく、眼前に身を置くと我が身が小さく感じられ、その前に膝まづき無心で拝みたい気持ちになる。言葉無く呆然とし感激に浸るだけであった。

 毘沙門天立像は真横から見ると顔面がやや前に突き出ているが真正面からはそれが無く、全体で調和のとれた優しい顔立ちをした姿である。3体の地蔵菩薩薬師如来坐像の柔和な顔立ち、姿に癒され引き込まれる。8体の観音菩薩立像には、鑿の削り痕が見られるものもあり、像の生き生きしさを表していたり、面立ちが違う菩薩であったり、像によっては菩薩の縦の軸線(中心線)が微妙に真ん中でないものがあったり興味が尽きない。
菩薩像は一本の木を削って前面半分が作られているが、木目を重視し生かした顔、衣服姿で彫り込まれている。優美で柔らかな線やふくよかな形には落ち着いた安心できる心持になれる。1000年経って今なお優美な姿を示し人々に浄土への往生を導く姿は何物にも代えがたい。どれほど幾多の人々の苦しみを癒し心に平安を与えてきたことであろうか、と思うと時空を超えて縋りたくなる気持ちに感慨が深くなる。

 櫟野寺本堂での秘仏(11面観音菩薩坐像)の御開帳は平成30年秋、33年に一度の大開帳を迎えるとされている。それまでこの菩薩坐像は見られないのである。それを目標に慎ましく生活したい。