水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

河鍋暁斎・絵に託したもの

 

浮世絵師・河鍋暁斎の名は全く知らなかった。日本放送で落語家春風亭昇太伊藤若冲の評価に負けず劣らず絵師暁斎を取り上げ、その絵の魅力と彼の力量を宣伝し見なけりゃ損と声を張り上げていた。新聞による紹介でも、彼の写生力、表現内容が素晴らしく、激動の幕末から明治初頭を生きた浮世絵から日本画仏画・風刺漫画など幅広く描いた画家として報じられていた。

 いろいろな生き物の写生力や妖怪の奇抜さに魅かれて見に行ってみた。展示された絵の印象は「凄い」の一言。生い立ちから生きた時代(江戸末期・幕末から明治初期)の社会を思い浮かべながら照らし合わせ、それぞれの作品を見ると、絵にしろ字にしろ「細かく正確に観察、記録、描写する」ことの大切さ、面白さ、偉大さを改めて感じ取った。

 もともと浮世絵、中でも特に日本の風景を表した絵画や絵図などの作品には興味を持っている。都林泉名所図会、東海道53宿場図、江戸名所図会など、名所旧跡や日本風景の往時の姿を表したものは職業柄、比較対象物として見てきたし、感じたり考えたりすることが少なくない。暁斎は以前、号を「狂斉」と名乗っていたこともあり、ギョウサイではなくキョウサイと呼ぶ。葛飾北斎が画狂人・北斎と名乗っていたのと共通するし、北斎の描写、観察力、写生力に負けず劣らず凄く、北斎漫画に似て暁斎漫画もある。物の本によれば驚異的な観察力、描写力は、「巨鯉の写生」で鱗の枚数はじめ全体を精密画で示した画力で表されるとされる。その集中力や成し遂げる気力・体力・精神力には感服する。

水墨画に示される筆致の素晴らしさ、力強さにも言葉が無い。濃淡の見事さは言うに及ばず一筆の流れの完璧さは、同じモチーフで何枚描いたのだろうかと思ってしまう。暁斎は描くことが早く習作はじめ一日に百枚以上描くこともあったと言われている。長年に亘る正確で緻密な観察力・描写術はいろいろな師に付き、流派の技法を手に入れ独自の絵画に作り上げ、作品を残し多くの門人を育てている。生い立ちも修業時代も複雑で苦しく変化の激しい状況の中で培われた反骨精神が画題にも表現され、また時代的に社会の激しい変化にも立ち向かっていった姿が作品に示されてきているといえる。享年58歳、今では若くして病没。墓地は上野谷中の瑞輪寺にあり、墓石は蛙の形をした自然石とのこと。

 これまでにいろいろ絵画を見てきたが、暁斎の生きざまと作品からは大変大きな感動と深い印象を得ることが出来た。なんとなく魅かれて見に行った絵画展だが忘れられないものとなった。墓参りに出かけ墓石を見に行ってみよう。

海外支援・ボランティア・生きること

私は現在72歳です。これまでいろいろありましたが、無難な人生を歩んできたように思っています。幼くして実母をなくし戦後の苦しく貧しい(今に比較して)生活を体験して成人し、縁あって最高学府の大学で「教育」という仕事に長年携わってきました。その間に環境先進国の「ドイツ」でいろいろ体験、経験し国際的な視野を広めることもできました。決して我が身一人で成し得たことでもなく、家族をはじめ幾多の師、先輩や知人友人、関係者との繋がりがあって進められたことです。進んできた道のいつの時点でも、我が身の「恵まれた状況」の認識はありました。 

 「人間上見ても限が無いし、下見ても限が無い」と言い、自分の置かれた状況(いろいろな段階、範囲で)に対する感じ方、考え方が大切で、その都度、決断し進んでいかなければなりません。「吾唯足知」、京都竜安寺の蹲に示された故事でも有名ですが、この言葉の「足るを知る」の概念・意味・考え方は極めて難しい点です。近代化、科学化、工業化した先進国では格差が拡大し、またそれを推し進め発展を進めている途上国でも同様に格差が進行する現実があります。国レベル、地方レベル、町レベルとは別に個人レベルで「飽食の時代」、「経済優先・飽くなき生産と消費」の生活の在り方を考えることは無駄ではないでしょう。

 このような世界的にも行く道の不確実な時代に、自分の生き方に信念をもって進み、活動している人や団体は少なくありません。直接それに関わる人たちには頭が上がりませんが、それを支援しようとする考え方は大切です。

 今回のカンボジア訪問は、旅の中でそれを直接目にし、耳にすることがあり、その意味で目を開かされるものでした。関係する人たちから、これまでの歩みを聞き、現状を見られたことは、人としての生き方を考えさせられる事となりました。その内容に触れ少しまとめてみます。

 H女史:日本の大学を卒業後、社会に出て働き、たまたま興味のあったカンボジアに旅行。普通の女性が旅の中でカンボジアの子供たちの置かれた生活の有様に驚き、日常生活の支援をすることに目覚めたとの事。以来15年以上にわたりシェム・リアップ市の孤児院で、事情があり学校に行けない子供たちを見守り育て、施設で支援の手を差しのべ社会に送り出して来られています。日本との細い僅かな繋がりの糸を頼りに、少しずつ支援の輪を日本に求め活動され、カンボジアの子供たちの状況、生活支援の必要性を広めておられます。子供たちに普通の生活と学び考える力を持たせる努力をされています。 

  S女史:日本の大学時代に東南アジアに興味を持ち、縁あってカンボジアのアンコールワットで観光ガイドになり、同時に日本語教師として現地の子供たちを教えておられた。その時学校にも行けない子供達がいること、学校を卒業しても働く場所が無いことの指摘を生徒からされ、自分の役割を考えさせられたとのこと。そこで起業の必要性を感じ、世界文化遺産アンコールワットを有する街で、働き場として製菓業を立ち上げ軌道に乗せ進めてこられています。設立10年を経て、今は店を現地の人達に任せ、農村の個人事業者を育てたく市郊外に自ら40haほどの農地を買って熱帯地方の農業を軌道に乗せるべく日夜努力されています。さらにその先にはH女史同様、学校を作り人づくりをしたいと活動に燃えておられます。彼女を突き動かすものは「社会のために自分に何が出来るか」の信条にあると仰っていました。整備途上の農場を見学し、有機栽培の野菜、果樹生産を着実に始めておられる様子に感動しました。

Y女史:関係者とアンコール遺跡修復に関わる傍ら、現地で建築家として活躍されています。同時に日本の団体と連携を持ちながら、将来を担う子供たちの教育を支援する活動に力を注いでおられます。先に書きました2人の女性と同じく、カンボジアの若い力を長い目で育てることに努力されています。小学校の低学年の入学生徒数は少しずつ伸びているようですが、家族労働力として子どもの力がまだまだ必要な社会状況にあり、中学年での就学児童減少が起こり、高学年では中学校への進学の可能性が低くなる問題もあります。中学校自体が少なく、学校が遠くなると通学できない問題もあるのです。それらの問題解決に向け中学校建設を推し進めたり、さらに将来社会で活躍できる有能な人材を育成するための支援を続けておられます。

 限られた日数の中でシェム・リアップ市近郊を見て、社会的インフラの整備不足やそれに伴う生活水準のレベル、未成熟な産業構造を見るにつけ、日本に照らし合わせ大いに考えさせられました。物余りで、物を大切にせず、物不足に耐えられないだろう日本、「もったいない」が死語になりそうな日本。一方、カンボジアはこれまでの負の時代を背負って進んでいます。識字率の低さもこの歴史的な歩みの中にあり、一長一短、可及的速やかに社会の状況が変わるものではありません。そのため次世代を担う子供たちの教育は将来にわたって着実な発展を遂げる意味でも重要となります。発展途上国で「不足」を分かったうえで弛まぬ支援の努力を続ける信念を持った日本の人達に敬意を表し、今後もできる範囲での支援をしていこうと考える旅になりました。

 

カンボジア見聞記 No.4

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 シェム・リアップ滞在5日目、カンボジアの人々の暮らしを見るためにトンレ・サップ湖(Tonle Sap)沿岸の集落(水辺集落・雨季には水上生活集落)に出かけました。具体的な集落名はわかりません。シエム・リアップ市内から南に車を走らせ湖近くにあるカンポン・プロック(Kampong plouk)という村に向かいました。ここには100軒近い(?)家屋が立て込んで並んでおり、全て高床様式でした。訪れたのは2月、乾季の最も雨が少ない季節で、水位が最も低い時期でしたので、高床家屋は見た目にも異常に高く、家を支える数多くの柱がそのまま土台に繋がって林立し、家と家の軒や庇が繋がり、重なるように建っている蜜居(集居)です。集落はトンレ・サップ湖畔に連なる水路を1-2km入った小高い部分に位置し、集落の広場や寺院と水路(乾季の時の)の高低差は10-15mありました。雨季でも集落中心部の寺院広場や中心広場は冠水せず地区のコミュニティー機能を果たしているようでした。各家は船外機を付けた大小の船を有しており、観光船であったり漁業に使ったりといった様子でした。来訪者が多ければ観光船として、客が少なければ猟に出るといった感じです。湖に出るまでの入り江(河口部)は魚類を捕獲するために網や竹筒・網筒を水際部に設置したり、投網で漁をする人がかなりいました。淡水魚の料理が多くなり、生魚の他、干物や魚醤が作られていました。料理に多く利用される川エビの仲間が多く獲られ、天日乾燥し殻の部分を取り除いて身だけにし、鮮やかな赤色に染め商品を作っていました。別の集落ではキャッサバの天日干しを道路脇でやっているのも多く目にしました。乾季には乾季の自然条件を生かした生活作業、仕事があるようです。

 高床式家屋を見たときに余りの高さに驚きましたが、雨季にはそれだけ水位が上がるということを物語ります。トンレ・サップ湖は国際河川のメコン川と繋がっているため、そのメコン川の流域面積が地球規模で広大なため雨季に10数mの水位上昇は理解できます。5-10月が雨季のようですので半年間は水面面積が乾季の10倍になるとのこと、その景観を想像することはちょっとできません。でも高床の高さを見ると頷けることでもありました。観光船は客の人数によって大型から小型までいろいろ。客が多いと船が入り乱れ、川の中で渋滞が起こってしまいます。船頭は巧みな手足捌きでぶつかることなく進めていきます。湖に近い所は一面のマングローブ林、日本の亜熱帯島嶼にあるそれとは樹高の違いが一目瞭然。水面上の高さ7-8mの樹林。雨季には樹冠だけ出しているのかと想像しましたが、実情はイメージできませんでした。湖の上には観光船、遊覧船の仮停泊場(船の係留ポイント)があり、店や簡単な食堂などもあり、さらに小母さんたちによるマングローブ林内の案内小舟貸しがあり、大声で呼び込みをしていました。驚いたことにワニの生簀があって、何のためかと一瞬考えてしまいましたが、まさか食するのではないでしょうね。

 高床式を構成している材木は、材が真直ぐで太さもあり腐り難いと思われ、それ以外の用に使うと思われる木々も真直ぐです。南洋材の素直な育ち方がその形からわかり、日常生活での多様な使われ方を理解することが出来ました。

発展途上国での地域開発、地区整備はなかなか難しい問題が沢山あります。現在の人・物・時間のスケールでは、あまり問題が無いように見えますが、アンコール遺跡の施設開放、利用と同じように、今後観光客の増加が予測される中、利用者数と施設規模、そのマネージメントでいろいろ問題が生まれ対応が難しくなりそうです。

生活水準の向上と生活文化財、景観保全の調和ある発展が望めるかどうか、住民の意識、考え方に握られています。この問題・課題は洋の東西を問わず、また先進国、後進国の違いこそあれ共通するもののようです。先進した者として同じ間違い、誤りの轍を踏まないことを祈るばかりでした。

葉山先生の慰労会

葉山嘉一准教授の退職記念慰労会・お祝い会が来る18日(土)午後、学部湘南キャンパス(藤沢市亀井野)において開催されます。すでにNUメールなどで卒業生はじめ在学生諸君にも連絡は行っていると思います。会のご案内は既に昨年から伝えられているものと思いますが、長年に亘って造園学研究室で学生を教育・指導されてこられた葉山先生はこの3月いっぱいをもって定年を迎えられ退職されます。先生のこれまでの暖かく情熱のこもったご指導に対し、皆さんともどもお祝いしお礼を申し上げたいと思います。年度末でお忙しいと思いますが是非お時間作っていただきご参加願えればと思います。

この会は湘桜みどり会との共催の形をとっておられると聞いております。みどり会の方からもお誘い、ご案内が行っていると思いますが、私からも卒業生の皆さんや関係者の方々にご案内しご出席をお願いしたいと思います。

日本造園学会全国大会の案内 No.2

先日発行されたランドスケープ研究(日本造園学会誌)Vol.80,No.4に、平成29年度造園学会全国大会の案内がでました。日本大学生物資源科学部湘南キャンパスを会場とし5月19(金)~21日(日)に開催される内容の詳細が載せられています。学生アイディアコンペから学会総会、シンポジウム、アイディアコンペ作品展示、交流会、研究発表会、ミニフォーラム、企画展示などが3日間に渡って行われます。(詳細は同誌P395-397参照)

大会に対して既に実行委員会が組織され、生物資源科学部・生命農学科造園緑地科学研究室、くらしの生物学科住まいと環境研究室さらに理工学部の研究室から教職員・学生が参加して大会の開催準備に備えています。

新しくなった湘南キャンパスでの久しぶりの学会全国大会となります。新装なった講義棟などをごらん方々ご参加ください。

なお、この号に私、勝野が昨年受賞しました学会の上原敬二賞、受賞者人物インタビュー記事が載っております。機会がありましたらお読みください。

 

 

カンボジア見聞記 No.3

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滞在4日目2月15日、アンコール遺跡の中で面積的に最も広大なアンコール・トム遺跡、バイヨンを見学しました。アンコール遺跡群はカンボジアで9世紀初頭から600年以上続いたアンコール王朝(クメール王朝)時代に建造された数多くの遺跡群のことです。アンk-ル・トムは12世紀の後半から13世紀、ジャヤバルマン7世によって作られた仏教寺院を中心とした建築物群(大王都)で王宮を中心とした都市(3km四方)とのこと。それまでの戦禍の時代を考え堅固な要塞を巡らせ、中心に複雑な建築様式からなる仏教遺跡バイヨンを作り上げています。バイヨン寺院は54もの塔とその四面に多くの観世音菩薩と言われる巨大な顔(2m四方の大きさ)が微笑んでいました。遺跡をどこから見てもその大きな菩薩面がいくつも形を変えて大きく見下ろしているようで威圧され圧倒されました。この菩薩面(?)はバンティアイ・クデイや南大門にもあって威容を誇っています。別名「バイヨンの微笑み」「クメールの微笑み」とも呼ばれていますが、日本の有名な観世音菩薩の微笑みとは全く別です。伽藍の様式は、他の遺跡寺院等と変わらず四面を回廊で囲み回廊の幅は狭く部分的に崩壊していました。そんな状態ですが、第一回廊の壁面レリーフ彫刻は素晴らしく、往時の戦いの姿や人々の暮らしの様子が描かれており大変興味深く時間をかけてじっくり鑑賞したいと思いました。特に綱引きの様子が描かれており引手の姿が相撲取り如く回しをした格好をしており、思わず「ここでも」と声を発してしまいました。

シエム・リアップ市内から北方6-8km圏にアンコール遺跡群があり、いろいろな国が世界遺産の修復に支援をしています。カンボジアはクメール王朝後16-17世紀後半まで欧州からの東方進出に会っていろいろな国が関係し、1863年フランスの保護国になっています。世界大戦後、1949年独立しましたが既に1907年からフランス極東学院により遺跡の価値が十分に理解され詳細な調査が進めてこられました。苦難の時代(内戦時代)を経て1992年遂にアンコール遺跡が世界遺産に登録されています。日本をはじめドイツ(Boeng Maelea寺院)や他の国々の支援により現在も遺跡の修復が進められています。

 カンボジアの国の文化遺産であるアンコール遺跡の観光利用権はベトナム資本に牛耳られているとも聞きました。世界文化遺産で世界的に注目を集め、多くの観光客・訪問客が訪れているシェム・リアップは目下建築ラッシュ、改築ラッシュですが、望むらくは計画的な文化財都市として、人々の住みやすい、伝統文化が正しく残り息づく町として発展してほしいと考えながら旅をしていました。

カンボジアは現在世界的には後発発展途上国となっており、まだまだ国づくりも人づくりも大変な状況にあります。その下支え、人づくりや地域づくりに懸命に支援し生きている人がいます。今回の旅ではその人達にも会うことが出来ました。ここではその人達のことにも触れなければなりません。

カンボジア見聞記・No.2

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最初のアンコール遺跡見学は大変盛りだくさんになりました。No.1で書きました通り日曜日に当たった見学初日、内外の観光客や市民のレクリエーションもあって朝からアンコール・ワットは大混雑でした。観光客は事前に入場許可証を入手しなければなりません。案内役の人からアンコール遺跡を短期間に入念に見て回ることは難しいと言われ、少なくともシェムリアップ市周辺に数ある遺跡を見て回るには3日券は必要となりました(62$/人)。最初の見学遺跡はNo.1に示した通り、市内から40km北にあるバンティアイ・スレイ、続いてバンティアイ・クデェイでした。昼食後バンティアイ・クデェイ近くにある別の遺跡で巨大なガジュマル(の仲間)の巨木が遺跡に覆いかぶさるように生育しているタ・プロム(Ta Prohm)遺跡を見学しました。1186年ジャヤバルマン7世により母の菩提寺として建てられた仏教寺院で、敷地規模は東西1km、南北650m、伽藍はほかの遺跡と類似していて四方を回廊で囲まれ、中に祠堂や経蔵などが建て込んでいます。巡回路に沿って巡ると随所に巨木の根(巨大で回廊や柱壁を包み呑みこむような形)が目立ち、そのスケールと自然の驚異に息を呑むばかりでした。SF映画に出てくる想像を絶する光景で現実の物と理解するのに時間が懸りました。

 1192年、日本では源頼朝が鎌倉に幕府を開いた年に当たります。この同じ頃にこの遺跡寺院ができ、以後長い時間が経過して現在の姿があると思うと何か考えさせられます。使われていない寺院と使われている寺院が国や宗教が異なるものの同じ地球上で異なる運命にあるのは大変興味ある視点です。

 通常の観光コースでは、最初にアンコール・ワットを見た後に他の遺跡を見学するコース取りになっています。しかしこの日は日曜日、余りの混み方に考えを変え、普通と逆のコースを取り午後遅くから見学しました。アンコール・ワットはアンコール遺跡群の中心で12世紀前半、スーリャバルマン2世により30年かけて建てられた西を正門としたヒンズー教寺院で、伽藍がきちっと残り3重の回廊に囲まれ、5つの祠堂が聳えています。境内は外周が東西1500m、南北1300m、幅190mの堀に囲まれ、入口は西に在り12m幅の参道の陸橋両側は聖池、その奥に三重の回廊と5つの堂宇からなっていました。砂岩と赤色のラテライトからなる壮大な寺院で世界文化遺産に相応しいスケールと美しさでした。

午後遅くでしたが来訪者は依然として多く、最も中心にある第3回廊(1辺が60m)の中の中央祠堂(高さ65m)へは入場制限(出入口が一つだけで13mの急階段)があり、また公開時間が17時と迫っているにも拘わらず大変多くの人が長蛇の列で並んでいましたので、この塔への入場をあきらめ第3回廊の広場で周りの建物に見入っていました。

 入場制限の午後5時近くになり、日は西に傾きましたが、「夕日に映える寺院」の景観が一つの売りでもあって夕日の景を撮ろうとする人で立ち去る人は少ない状況でした。名残惜しかったのですが日没後の渋滞を避けるために少し早めに市内へ戻りました。その道すがら地平線に落ちていく真っ赤な夕日の美しさ、くっきりとした赤い太陽と茜雲の空の美しさに見とれて、この日は終演となりました。

カンボジア・見聞記 No.1

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日本では節分や立春が過ぎても寒くなる2月、かねてより計画中であった東南アジアの発展途上国世界文化遺産に指定された「アンコールワット」で知られたカンボジアシェムリアップ市を訪れました。カンボジアへは、最近全日空が直行便(成田~プノンペン)を就航させ訪れる人が多くなっている様子。今回の訪問に際し、選んだ空路は往路が羽田・・・・ハノイ~1~シェムリアップ、復路がシェムリアップ~2~プノンペン・・・・成田で、・・・・区間全日空、~1はベトナム航空、~2はカンボジア航空でした。往路のハノイ行は羽田発で朝9:00発、ハノイ乗換で2時間待空港内待機、日本とは2時間の時差があり、夕方;現地時間17:00にシェムリアップ空港に着きました。滞在1日目の夜は簡単に済ませ就寝(と言っても日本時間では夜半)でした。

滞在2日目:カンボジアの気候は乾季(11-4月)と雨季(5-10月)に分かれています。2月は最も雨が少ない月で、風景的には乾いて草木にやや精気が乏しい月でもありました。しかし、人々の生活には活気があり、朝の街中の風景は通勤でごった返すオートバイやタクシーのような客台を引っ張るバイク群(テュクテュク)の流れが途切れることなく数珠繋ぎの状態です。そこに加えて車、トラックがありものすごい行列状態です。この光景は常時、何処でも見られますが、特に都市内では主要な移動交通手段となっています。50cc程度の小さなバイクに一人で乗っている人は殆ど無く、2人は普通、場合によっては子供を含め2~3人乗せて走っています。この日は日曜日で休日。アンコール遺跡を訪れる外国人観光客が多く(近年急激に旅行者が増えてきている模様)さらに市民も加わって遺跡へ通ずる幹線道路は大渋滞でした。その渋滞(来訪者の流れ)を避け、午前中に訪れる人の少ないバンティアイ・スレイ(Angkol-Watの北40kmにある)に向かいました。この遺跡は「女の砦」と謂れ、10世紀後半に建てられたとあります。建物全体が精緻で素晴らしく細かな彫刻で飾られ、とりわけ壁面、柱頭、出入口上部の装飾壁(レリーフ;浮彫彫刻)のそれは見事の一言、とても1000年以上も前に造られたとは思えないものでした。当時の人々の信仰心の篤さと寺院の引き付ける力の偉大さを感じました。寺院建築の部分である軒先(?)にある彫刻に、日本にある鬼瓦を思い浮かべました。

 バンティアイ・スレイから市内に向け引き返し、バンティアイ・クディの外にある巨大な池の畔で焼鳥(一度蒸した後、調味料をつけて焼いたもの)料理の昼食、デザートはココナツのアイスクリームだった。家族総出で客の応対。大人が調理し子供達が接客、配膳、清算をする有様でした。日曜日のお昼で人出が多く岸部の席は満席、仕方なく内に引っ込んだ高床式の建物での食事となりました。食後はタ・プロム寺院を見ました。この寺は12-3世紀にジャヤバルマン7世が母を弔うために建てた寺院と言われ、19世紀後半に発見されるまで自然のなすがままの状態で、想像を絶する巨大なガジュマルの根が遺跡の回廊や塔に食い込んでいる様相は奇怪、異様、脅威、驚愕の何物でもありません。表現に困る景で自然の恐ろしさ、時間の長さでしか理解できない状態です。このままでは遺跡自体が自然に、巨木の根で絞め潰されるためか、遺跡建物に直接覆いかぶさっている巨樹の枝・葉を切り落とし(樹木の15m上)樹木を枯らす方向で管理されていました。今後どのように変わっていくのか、良いのか悪いのか、よく分からないのではと思いました。

この日の最後にアンコール遺跡の中心であるアンコール・ワット(Angkor Wat)を見ました。これについては見聞記 No.2へ引き継ぐことにします。

 

 

伝統行事・だるま市

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 達磨大師については以前、禅の展覧会の記事で触れましたが、一般に手も足もない「ダルマ」の置物でよく知られ、庶民の信仰対象として現在まで長く根付いているお祭り、市が「だるま市」です。3月3-4日の深大寺だるま市も日本三大だるま市の一つとして有名とのこと。

 私の住む川崎市麻生区には明王不動院般若坊:麻生不動(別名木賊不動とも呼ばれる)があり、毎年1月28日にだるま市が開催されてきています。その日は天候にも恵まれ多くの来訪者が参拝と「縁起だるま」を求めて訪れていました。普段は何の変哲もない狭い集落内道路ですが、この日ばかりは、さらにこの参道(道幅2-3m?)の両側に各種の露天が立ち並び、通路が人、人、人でごった返し、行き来するのも買い物するのにも大変難儀をする状態でした。

 麻生不動のだるま市は神奈川県下では「関東収めのだるま市」として、古く(18世紀半ば頃)から近在の人たちに知られ、多くの人を集めて来ています。ご本尊は不動明王不動尊信仰は弘法大師空海(774-835)により中国からもたらされ広まりました。像の光背に火炎がありすべての穢れを焼き払うとされ、右手の剣で迷いと悪魔を断ち切り、左手の縄で人を引き付けるという姿をしています。麻生不動尊は火伏の神として信心を集めています。

 市の開始、朝8時には花火の合図が上がって始まりました。出店の2/3は食べ物屋、お昼時には食べ物を求める人と参拝に並ぶ人で殆ど立錐の余地が無く、道は立ち往生の状態。本堂の境内や参道近くには大小いろいろな縁起だるまを売る店(殆ど相州だるま、平塚産)が立ち並び、大声を出して景気付けし客を引き付けます。交渉が成立すると買い手はダルマを抱き、売り手は火打石で買い手の無病息災や家内安全を祈願して「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ ヨ!」を謳いこめます。ダルマは赤色が一般的。なぜ赤いのかは達磨大師の法衣の色が赤だとか、赤色は魔除けであるとか、位の高い人が身に着ける色だとか、諸説あります。ダルマの目は中国の陰陽五行説に関連し、左が「陽」右が「陰」、最初に左目を入れ(開眼)、成就したり納める時(満願)右目を入れると言われています。

 寺には門徒、神社には氏子という集団があり、それぞれ関係する寺社と深い関係をもち、寺院とは先祖代々の永代の霊を祀るとともに家族・親族・親戚から門徒衆までの人のつながりを神とのつながりで結び、神社とは神を祀り崇める氏子として地域社会での慣例、伝統的な習俗を通して人々のつながり、地域社会の団結、纏まり、相互扶助を維持してきました。

今、この永く続いてきた血縁・地縁の繋がりが地域によっては弱くなったり無くなりそうになって来ています。少子高齢化により限界集落では、人のつながりが消えそうになって来てそれまで維持されていた絆が消えそうになってきています。

 都市近郊で新しい転入者の多い地域でも、昔からの小さな寺社の行事開催や運営は難しい状況に置かれています。有名で由緒ある寺社は別として、居住地域にあるそれは限られた門徒衆、氏子の人たちによって細々と続けられているようです。

 伝統にのっとった心のこもった風景、習慣・催しが毎年変わらずこれからも続けられて行くことを祈るばかりです。

桜が満開

桜の品種は大変多く、正しく種を同定することが難しい場合も少なくありません。先々週(20日)から湘南六会の大学のキャンパスにある桜が満開です。
真っ青な寒空を背景に薄桃色の桜が満開なのは、少し奇異な風景です。幹周りが70ー80cm、樹高10m位ある大木です。数十年前からいろいろな桜の品種の桜が植えられていましたが、キャンパスの講義棟改築に伴い、その工事の邪魔になるとかで、その対応が問題になりました。建築工事により一部は伐採除去、一部は根株移植、そして一部はそのまま残す方針で進められました。根株移植された桜(ソメイヨシノ)については前の随想で書きましたが、現場にそのまま残った桜の一種は、いつも通りに寒中にも関わらず綺麗で見事な花を咲かせています。新棟(新2号館)の北側で駐輪広場にあり、多くの学生の動線から外れていますのであまり人目に付かないのが残念です。もっと積極的に開花(満開状態)を知らせたら良いのに、と思うことしきりです(1/27の学部HPのトピックスに掲載されました)。
 所で、肝心のこの桜はどういう品種でしょうか?先にも書きましたが桜は野生種と園芸種の交雑も多いため判定し難いようです。一応調べた結果、カンザクラのようです。冬でも一番早く咲く桜として有名で、花弁は薄桃色、花縁は内側にやや湾曲、萼は赤、萼筒は釣鐘状が特徴のようです。カンヒザクラ(寒緋桜)とヤマザクラ(山桜)、またはオオシマザクラ(大島桜)の雑種と考えられる栽培品種のようです。

季節はずれの桜吹雪をマフラーを巻き手袋をした手で受け取りました。
木の下で花見の宴をするのは、まだまだ先のようです。