水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔  その六

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 大磯発ち(大磯から歩き始め)に倣って早朝4時起床、小田急線下り始発電車(5:12)に乗って本厚木へ、本厚木で急行小田原行が待っており乗車し終点で箱根湯本行に乗り継ぎました。湯本に6:45着、手洗いを済ませて6日目の行軍を開始しました。駅から早川に懸かる三枚橋への途上、東の空に神の降臨を思わすような光の筋が雲間から差し込んでいて、思わず神々しい朝の出発風景となりました。前回の続き、旧東海道三枚橋から早川を渡り畑宿を目指す幅の狭い街道です。道の両側に山が迫り、箱根の山は天下の剣、函谷関もものならず、と謳われる様相を今に示しています。山肌は今盛りとヤマザクラが満開、落葉樹の若葉が萌える柔らかな小緑色、それに針葉樹のスギの深緑が加わって美しい春の山を作り出していました。

 箱根国立公園の観光メインルート(温泉ルート)は湯本から早川の流れに沿った塔ノ沢、宮ノ下、大平台、強羅、小涌谷を上る道です。新春恒例の箱根駅伝のルートでもありよく知られていますが、旧東海道の道は須雲川に沿って畑宿までは民家や旅館があるものの、景観は箱根山塊が迫る狭い谷筋の風景で、やや脇道的存在です。山の斜面は足元から急に切り立って尾根へ伸び、道沿いの僅かな平地に民家や寺院が散在しています。この旧街道は湯本と関所のある元箱根を結ぶ最短の道で、湯本から畑宿までは家並みがぱらぱらと続きますが、畑宿より上の山間地に民家はなく、石畳の狭い山道だけが森の中に伸びています。歌の文句に出てくる「昼なお暗い石畳道」。途中の大天狗山神社で休憩、おにぎりで腹ごしらえし、須雲川の鎖雲寺では仇討で有名な話に登場する初花・勝五郎の墓に参りました。この寺院には8:30に着きましたが畑宿まで1700m、元箱根まで6700mの表示があり、先はまだまだの様相でした。この先で須雲川を渡り「女転ばし坂」から国指定の史跡石畳道に入り、割石坂、大澤坂を登って畑宿に入りました。

 石畳道が整備されたのは江戸時代(延宝8年(1680)敷設、文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛に合わせて全面補修とある)とあり、それ以前は竹が敷かれてはいたものの、一雨降れば泥んこ道で、通る人たちは難儀をしたことでしょう。石畳道になって通行人には快適となり喜んだことが想像できますが、そんな石畳道でも現代人にはデコボコの道で、歩き難いことこのうえなし、江戸時代からの史跡として感激して歩くほかありません。それにしても、この石畳道を参勤交代の長い隊列はどのように通ったのでしょうか、全く理解できない道のスケールです。

 畑宿守源寺(1661年創建)で県道と別れ石畳の山道に入りましたが、この上に民家はなく草木が茂る山道です。守源寺の隣に大きな一里塚跡の小山が道の両側にあり目立ちます。山道坂道でいろいろな名前がついています。七曲りの西海子坂、橿木坂、階段と石畳道の混ざった狭い山道です。県道は多くの曲坂を車が何度もぐるぐる回り上りますが、旧東海道は直線的で距離的には短く山間を上っていきます。猿滑坂、追込坂、笈の平、於玉坂、白水坂、天ケ石坂(写真)を登っていよいよ峠となりました。箱根馬子唄碑(箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川)の場所からは下二子山、上二子山が目の前に現れ感激、芦ノ湖を見ながら権現坂を下り芦ノ湖畔の杉並木に入りました。樹齢何百年と言われる元箱根の杉並木、巨大な杉木立には今につながる時間の長さと、それを物語る30mを越す杉の巨樹に圧倒されました。芦ノ湖に突き出した県立箱根恩賜公園を横目に見て箱根関所に入りました。江戸口から京口へ素通りしバス広場でこの日の旧東海道箱根越は終了しました。時刻は丁度11:30になっていました。ここまで4時間半、箱根上りの歩数は24.500歩になっていました。 

12:15発の小田原駅行きのバスに乗り、駅伝ルートに沿って小涌園から大平台、宮ノ下を経由して箱根湯本に出、小田急線に乗り変え、早朝来た途を我が家に向かい15時に柿生に辿りつき終了しました(疲、苦、笑)。次はいよいよ三島への下りだ!

 

川沿いの桜並木 あれこれ

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私の家の近くに麻生川があります。昭和30年ころまでは里山が広がり、田畑が川沿いに多く見られた地区を流れています。近くで流域面積が大きい鶴見川に合流し横浜市から東京湾に注いでいます。以前には谷戸水田も幾らか潤していたのでしょうが昭和40年代以降、現在まで続く都市化、宅地化が進行し今では雨水排水河川になっています。区画整理河川整備(洪水対策)を合わせ、ほぼ直線の1.1kmの桜並木が整備され現在に至っています。近年、川沿いに宅地化が進み,それまで自由に枝を広げ伸ばしていた桜も、住生活に邪魔とかで枝が切られ、根元も草や笹が邪魔だと言ってコンクリートで固められるヶ所が続出、味気なくなっています。花が咲く10日間程だけ人々が愛でて散策、それ以外では全く見捨てられた並木道です。

 一方、お隣の川崎市多摩区には二ヵ領用水(全長32kmうち、宿河原用水)という名の、歴史的にも由緒ある用水路と桜並木宿河原桜並木は1958年地元有志により400本植えられた)があります。多摩川から取水(上河原堰、宿河原堰)して下流の水田地帯や農業地域(さらに工業用水にも)に長く水を供給してきた全長32kmの用水です。関ヶ原の戦いの3年前に測量され14年の歳月をかけて作られたと言われています。この用水路は直線部分は殆ど無く、流路は緩やかに蛇行し、灌漑用水として取水口で水量が調整され流れるため、地形や立地、土地利用(田畑、果樹園)を勘案し時間をかけて作られたことから、周囲の景観や人のスケールにマッチした規模と形が残っています。しかし、近代化、都市化の影響で蓋掛けにより川が見えなくなったり、直線化されたり時代の移り変わりによって激しく変化し今日まで来ているように思います。堰の建設により水路の水位が安定し、利水の時期(灌漑期)以外は水辺の維持用水だけが流れています。そのため、川の中、河床近くの水辺を歩道や休息、自然探勝のために利用することが出来ます。桜の枝は水路に覆いかぶさるほど伸び、開花時期は見事な桜トンネルになって花見ができます。つまり、人間の手によって時間をかけて作り上げ、管理され育てられてきた用水路と桜並木は、それだけ直接、間接に桜並木と関わる人々の日常生活に溶け込み、守られ育てられ維持されて来たと言えます(写真参照)。 同じ河川沿いの桜並木の名所でも麻生川とは大きな違いです。

 草花を植えて街を美しくしたり、身近な生き物の住処を守るために緑を多様で豊かにすることは今日、大変重要ですが簡単ではありません。基本的な方針を決めて、あるべき姿を理解し、時間を掛けて造り、維持する人々の力が大切です。

 愛護の心と地道で小さな継続する力が求められるのだと思います。

 

 

 

 

富士自然教育センター:FNECの春

造園学研究室並びに緑地環境計画学研究室の卒業生の皆さん、お元気でご活躍、お過ごしのことと思います。今年の春はどうもスカッとしません。なんとなく寒暖の差が激しく、草花もどうして良いのか分からず、グズグズして動きが全く安定しません。例年、3月25日の卒業式には武道館の桜が満開の年や学部入学式に湘南キャンパスの桜が満開か桜吹雪の只中だったりしました。今年は、なんと開校式やガイダンスが過ぎて講義開始日以降にそんな風景になっていました。

 春の訪れが湘南キャンパスから遅れること2-3週の富士宮では、今年は今まさに桜が満開、園内のいろいろな水仙も咲き始めています。昔の赤いトンガリ屋根の実習棟は一昨年(2015)全く新しく建て替えられ、宿泊施設も増強されて学生の実習に役立てられています(写真)

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 ここには書籍コーナーもあり、縁あって、学部が農獣医学部の時代、造園学を教えておられた故吉永義信先生の書籍や先生が研究で撮影された日本庭園の写真(原画板)が所蔵されています。

 今年の冬2月、例年実施しています造園学研究室所属の3年生20人余(現在は4年生)が実習で園内に園路を作成しました。

もしお近くに来られる折には一度訪れてみてください。研究室OBの黒田さんが常駐されておりますのでお尋ねください。

東海道五十三次 今・昔  その五

 旧東海道、神奈川県には東に川崎宿、西には箱根宿、その間に7宿(計9宿)あります。これまでに既に7宿(川崎~大磯)間を歩き、歴史上の遺跡、史跡、神社仏閣などを訪れ、いろいろな風景を眺め、事象や言い伝えを学んで歩き続けてきました。4月に入って例年になく季節巡りがゆっくりな今年の春、快晴で暖かな16日の日曜日、早朝の一番電車に乗りました。この日の出発点、大磯へ大急ぎ。

 一大決心して「旧東海道53次歩き」を考えたついた当初から、箱根越えまでは日にちと区間を区切って自宅から通い、歩き繋ぐ方法を取ろうと考えていました。5回目のこの日は、日の出も既に5時前と早くなってきていました。朝の帳が開く頃、天空にはまだ上弦の月が薄白く残り、東の空は日の出が近づいて薄赤く染まってきていました。5時12分の始発電車で相模大野を経由し藤沢へ、藤沢からJR線で大磯駅まで急ぎました。

 前回、大磯宿で終わった所(明治創業の和菓子屋新杵前)に再び立ち、歩き始めました。宿場の西に日本三大俳諧道場の一つとして有名な「鴫立庵」があり、茅葺の建物、周りの樹相(ケヤキの老巨木)、小さな川の流れなどその雰囲気にはなるほどといったものがありました。庵の名前の由来は、西行法師の歌「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」にあるとされています。

大磯は昔から避寒地・東京の別荘地として多くの有名人が住んでいたといわれています。かの島崎藤村は戦前に大磯へ疎開、この地で亡くなっており、夫妻の墓地は街道沿い地福寺にありますし、吉田茂はじめ多くの政治家(山県有朋大隈重信西園寺公望原敬など)が別荘を構えて住んでいました。旧吉田茂邸は現在、県立城山公園に含まれ当時の姿をとどめています(邸宅は残念ながら2010年焼失、復元されている)。それに引き替え、日本で最初の総理大臣であった伊藤博文の邸宅(滄浪閣)は街道沿いにあったものの、何の跡形もなく場所を示す碑だけがひっそりと立っていました。

 大磯はその名が示す通り、南に相模湾の海がすぐ近く、北の背後には大磯丘陵が迫った狭い海岸段丘に位置しています。ここから西へ、二宮、国府津、小田原まで伸びる旧街道筋周辺は海抜15-20m程度の段丘上部になっています。酒匂川から流れ込む土砂が相模湾を北上する海流や波により打ち寄せられ長い砂浜と海岸クロマツ林の景観を作り出していましたが、今ではその面影は大変少なくなっています(逆に河川による土砂の流下、供給が断たれ、海浜が痩せてきているため養浜がおこなわれています)。街道を歩いていると左手側、海に向かって緩やかに下がる地形がよく分かります。右手側は丘陵が遠く近く位置し、旧吉田邸を過ぎる辺りから霊峰富士が丹沢山塊の奥に大きく見えるようになり、街道の正面には箱根の二子山が特徴ある山容を見せてきました。満開の桜を前景とした富士山の景観は昔から変わらず目をつぶって往時の姿を連想しました。街道は少し内陸に入り込みJR東海道線と平行しています。海岸線は長い砂礫の浜(例えば大磯海岸、小陶綾ヶ浜、袖ケ浦など)が小田原まで続き、現在は西湘バイパス道路がこの海岸線の上を走っていて景観的には興ざめの感が否めません。

 JR二宮駅の西側に吾妻山が近く、街道からも目立って春の若葉色した落葉樹の中に針を刺したようなモミの常緑樹が目立ちます。山頂には吾妻神社があり街道に沿ってしっかりした碑と石鳥居が立っており、参道の軸線奥のモミは印象的でした。

 ほんの少しの区間、国道1号線と離れる旧街道には藤巻寺があり、境内には樹齢400年と言われるフジが生育し、また可愛らしい梵鐘(寛永8年;1631の銘がある)が隣に寄り添って立っていました。説明版には徳川三代将軍家光が東海道往来の際訪れたとあり、私も棚の下で写真を撮り往時を想像してみました(写真C)。フジの開花時はさぞ美しいだろうと思います。押切坂(国道1号線は大きな切通し)を上り下って中村川を渡りやっと小田原領に入りました(9:00)。

 しばらく行くと、何気ない車坂碑が立っていて、有名な3人の和歌が書かれていました。「鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌

「浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れになるかも」源実朝、「浦路ゆくこころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月」阿仏尼(北林禅尼)

我が身もこの地で歌を、と考えましたが教養・素養なく先の路を急ぎました。でもこの日は図らずも卯月16日(こじつけで十六夜)阿仏尼(十六夜日記の作者)と無縁でもないか、と自問自答しました。

 海岸線、街道、丘陵が最も狭い国府津の街並みを過ぎ、東海道で数少ない松並木の残る小八幡(写真D)を行き酒匂川東地区を過ぎて酒匂橋を渡りました。遂に小田原宿です。酒匂川の東西両地区には多くの神社仏閣があり、また本陣、脇本陣跡もあって宿場の大きさを思い起こさせますし、江戸時代酒匂川には江戸防御上、架橋が無かったとあって、天候によっては足止めになるなど難苦が多かったのではと想像しました。

 大磯を朝早く出て歩いて来て小田原に入ると街がいかに大きく賑やかかよく分かりました。背後に箱根のどっしりとした山塊を控え、整然とした街並みが続く景観は心躍る風景でもあります。現在もその様に感じるのですから江戸時代はましておや、だったと思います。

 新宿を過ぎ万町、ここは「蒲鉾通り」とも言われ私が以前に勤めていた学部の卒業生で田代氏が経営する有名な「まるう」本店のある通りです。休憩を兼ねて美味なる蒲鉾を賞味し早めのお昼ご飯、時計は11:30を示していました。

 休憩後、青物町、松原神社や多くの本陣のあった本町を通って小田原城を右手に見て箱根口に辿りつき、南町、山角町で新幹線、在来JR線を越えて板橋見附。いよいよ箱根路に入りました。ここからは殆ど旧道沿いの街並み、JRと別れて早川と箱根登山鉄道に沿って道が伸びています。箱根板橋、風祭、昔の風情が残る道すがら、入生田の紹太寺には樹齢300年の枝垂桜があり、今年の遅い春は開花期が長く、折からの春祭り(写真A)と重なって多くの来訪者が旧道を歩いていました。この先に民家は湯本まで殆ど無く箱根の山塊が眼前に迫ってきます。特徴ある二子山も山塊に隠れ上の部分だけ二つポッコリ見せているだけでした。(写真B)早川に懸かる湯本三枚橋でこの日の歩きは終了(13:00)、歩いた歩数は35.200歩を超えていました。

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東海道五十三次 今・昔  その四

その三では、東神奈川宿から藤沢宿までの道程を報告しましたが、今回は藤沢宿から大磯宿までの様子をお伝えします。その三は横浜の丘陵地に懸かり、また三浦半島へ続く地形的な特徴があり、鎌倉から三浦半島へ延びる丘陵を横切るように東海道があったため、権太坂や入り組んだ谷戸の出入りで保土ヶ谷、戸塚宿は景観的にも地形的にも複雑な街道景観であったように思います。

 藤沢宿に出ると一転、遠く丹沢山塊があり、北から南へ流れる幾つもの川の沖積平野は相模平野となり、西には次第に富士山が大きく見えるようになってきました。藤沢宿から小田原宿まで東海道はこの平坦地を東西に延び、海抜12-15mほどの海辺地帯を通ります。

 この日は藤沢宿の伊勢山橋から8時にスタート、大庭丘陵を過ぎ引地川を渡り、右に左に緩やかなカーブを描く街道を歩きました。沿道には広い屋敷を持った旧い地付きの家が散見され、東京都心の道とは違って街道らしさが感じられました。遠くに見える丹沢山塊には有名な丹沢大山が見え、往時は大山阿夫利神社の「講」に詣でる人たちが行きかった大山道東海道の合流点がありました。茅ヶ崎市に入ると旧道には松並木が残されたり再生されて、地名にも示されているように松林(しょうりん)と海近しのクロマツの風景です。茅ヶ崎村、真っ直ぐに伸びた十間坂(電柱が地中化され見通しと見晴らしの良い通り)を過ぎ千川、小出川を渡り、ほどなく行くと川の上、中、下流で呼び名が違う相模川(上流は桂川中流相模川下流は馬入川)になりました。相模川の源流域は甲州山梨の猿橋とのこと、流域圏が大変に広い河川で、昔も洪水には難儀をしただろうと思いながら渡り終えました。馬入川を渡るとすぐに平塚宿、藤沢宿から平塚宿までは13.3km、3里半で丁度3時間ほどかかって着きました。平塚宿にも当然本陣、脇本陣がありましたが、今ではその面影を残すものは殆ど無く、跡を示す表示杭も見当たりません。最も平塚宿は今は「平塚七夕祭り」がこの街道で行われ、商店街が様変わりしてきたので致し方のないことと思われました。ただ見附跡は江戸、上方共にあって往時の宿場を思い出させます。

 平塚宿は西、真近にポッコリした高麗山を眺めることができ、広重の絵そのものといった景観です。金目川地図では花水川)畔で昼ご飯とし、すぐそばの高麗山と川淵に黄色い帯のように連なって咲く菜の花を眺めながら休みました。橋を渡ると2kmほどで大磯宿はすぐ傍、高麗山に連なる山が迫り出して街道の景観は狭く押される感じと雰囲気でした。平塚宿から大磯宿までは4km、27町でした。

 この日の歩いた歩数は37500歩、13時15分に終了、行程5時間の行程となりました。帰途、JR東海道線で大磯から藤沢まで戻りましたが、この歩いた区間は電車で何と15分でした。300年前は・・・・・

NRWの自然(Natur in NRW)  内容紹介  

 定期刊行物であるNRWの自然(Natur in NRW;季刊誌) 2016年No.4号と2017年.No.1号の内容について報告する。

2016.4号の特集は「各種草地の保護;Grünlandschutz)」について報告している。ドイツでは草地(Grünland)として、放牧牧野、刈り取り牧野、河川や道路の土手の草地、農耕地周りの草地などがある。その草地におけるNRW州での種多様性の高い草地の在り方、土手草地の種の多様性、刈り取り草の再敷設(利用)、Gütersloh郡における草地保護(総合的種保護)について特集している。

2番目にはNRW州における生物多様性の先駆的取り組み(州農業組合による新規プロジェクト:耕地の郷土種による粗放的牧野造成、道路局では慣例の景観保全措置Landschaftspflegericher Begleitplanの代償措置など)が紹介されている。

他に、シシウドのような嫌われ植物の対処法、2016年の樹木である冬菩提樹(Winterlinde;Tilia cordata)のいろいろな用いられ方について(材から蜜源まで)報告している。

本号の記事には、2016年11月9日に州自然保護法が成立し、①ビオトープ関係地区を州の11.6%から15%へ、②永続的草地の減少を防ぐと同時に放棄耕地を増やさない、③価値の高い低湿地・湿地牧野の保護、④自然保護地区内の州による用地先買いと自然遺産へ、⑤国有林内における100ヶ所の野生化地区で種の保護を推進する、が主要点である、とする記事。

連邦環境省(Bundesumweltministeriu)から環境プログラム2030が出された記事。ドイツ自然保護連盟(Naturschutzbund Deutschland)が将来にわたっての新しい農業要請(Agralförderung)を出した記事。州におけるヨーロッパトネリコ被害の拡大の記事。等各種掲載されている。

 

2017年1号では、特集として、カワセミの営巣壁(崖状の土壁)にどんな土が良いかの調査報告、州内の湖沼の崖地におけるヨーロッパアマツバメの調査報告、ライチョウ、オオカミの生息状況、emwiromental DNA(e-DNA)に基づくザリガニ(Aphanomyces astaci) とドジョウ類(Misgurnus fossilis)を対象としたライン川残跡湖での結果が報告されている。

また、2014年6月に襲った超ド級の暴風(風速142km/時)ELAによるエッセン市有林被害の市民参加による回復について、樹林の方向性(自然保護林)、樹木の取り扱い、植栽の目標と方法、維持管理法、森林利用(レクリエーション)などについて報告。

短報として①NRW州で用いる郷土種(ドイツ連邦自然保護法では2020年3月1日より郷土種(gebietseigene Gehölze)による緑化(freie Landschaft=オープンスペースにおける)が義務化されることに伴う州での対応について、②ラインラント地域における牧野(Grünland)の歴史(石器時代~中世)、③都市内における公共緑地の野生草地化の試み(ケルン市の緑地において2016年より)などが報告されている。

①郷土種に関する報告の詳細を知りたい人は次のアドレスへアクセスしてみてください。

nicole.menden@mkulnv.nrw.de     

Nicole Menden氏はNRW州の森林・営林局(Waldbau,Klimawandel im Wald, Holzwirtschaft Ⅲ-2所属)。

 

 他に、この号(2017.1)の記事には①10年前(2007年)の暴風(Kyrill)で地域全体で15.7百万m(fm)、5万haの森林倒木被害のその後の状況(93%針葉樹→落43%針57%へ)報告があり、また、②農耕地縁辺部自然復元のプロジェクトの報告、③ヨーロッパレベルでの種の保護の重要性(特に湿原;絶滅危惧種の3/4がある)などが載せられている。

 

東海道五十三次 今・昔 その三

3月23日(木)曇り、3回目の旧東海道歩きになります。例によって早朝6時に自宅を出発、前回の終着点神奈川宿に向かいました。小田急線、横浜線でJR東神奈川駅に出、京急仲木戸駅前を通り旧東海道で前回のポイントに立ち、スタート。その二の最後でも書いた通り、このあたりから台地の崖(高さ20-25m)が道近くまで迫っています。しばらく国道を歩き、青木本陣跡から先は昔の通りの残る、現在の宮前商店街が旧道で、神奈川宿を出ると少しずつ坂が出始めました。松原商店街を抜け帷子川を渡り相鉄線天王町駅を越えた先には多くの寺院が崖下にあり、保土ヶ谷宿になります(JR保土ヶ谷駅周辺)。刈部本陣跡、脇本陣跡で西に折れ台地の谷筋に入りました。保土ヶ谷の一里塚は日本橋より八里目で、この先が有名な権太坂で丘陵台地の上に上がる坂道でした。この場所は現在は高速道路の合流点(首都高、保土ヶ谷バイパス、国道1,16号)で、旧東海道谷戸頂部の尾根にあり、権太坂を下りさらに焼餅坂、品濃坂を上り下りし品濃一里塚でお昼にし持参のサンドウィッチを食べました。その先旧東海道国道1号線に重なったり外れたりし舞岡川、柏尾川を渡って戸塚宿に入りました。保土ヶ谷宿~戸塚宿間は9.2km、2里9町、神奈川宿を出てから休みを含め4時間を要しました。

 戸塚の本陣、脇本陣を見て明治天皇東幸碑のある八坂神社で小休止、富塚八幡にお参りし、また歩き続けました。この先は現在は国道の歩道、途中にはお軽勘平道行の碑がある程度で横浜市郊外の丘陵地の単調な道筋です。原宿、影取を過ぎ、再び旧道となりかっての松並木跡(今は数本しかない)の碑をみて県道30号線を下ると遊行寺でした。境川に懸かる赤橋(遊行寺橋)高札場で藤沢宿(広重の絵の遊行寺)となりました。藤沢の宿場街並みをそぞろ歩き、小田急線の藤沢本町駅(伊勢山橋の袂)でこの日の街道歩きを終わりました。戸塚宿から8km、二里で到着は14時半になっていました。この日の歩行距離は23km、歩数では37,000歩になっていました。

東海道五十三次 今・昔 その二

 その一では日本橋を発ってから半日の行程でストップしました。他の用があって一日中歩くことが出来ませんでした。品川宿で時間を見たら10時半になっていました。日本橋~品川駅間は7.4km(二里)となっており、2時間、ほぼ時間通りに着きました。

 第二日目は3月16日(木)、朝は一回目同様、6時半に自宅を出て7時半には品川駅に着きました。快晴の下、前回の終点地点に立ち二回目のスタート。多くの通勤者が品川駅に吸い込まれて行くのを尻目に国道15号を西へ。すぐに箱根駅伝でも良く知られた八ツ山橋、橋の袂に旧東海道の一里塚碑があり交通の要所でJR、京浜急行、国道が立体交差。その脇に小さく下る旧東海道があります。道に入ってすぐの所が広場で問答河岸跡になっています。参考書によると、この所で、江戸幕府3代将軍家光が東海寺を訪れ、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に「海近く東(遠)海寺とはいかに」と問うと「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」という問答に準えていると言われています。そこからは昔の東海道を髣髴とさせる道幅、建物の佇まいになります。大変心地よい街並みのスケールです。本陣、目黒川を渡り、脇本陣跡を歩いていると、左手(海側)は先の方まで少しずつ僅かに地面が下がっていることに気づきました。その頃はすぐ傍まで海がきていたことが想像され、この地形的特徴は大森辺りまで続きます。東海道はこの先、国道15号、第一京浜と重なり京浜急行電車と平行して伸び、今では大変な交通量の幹線道路に変わっています。六郷神社で一休み、この神社には源頼朝が寄進した謂れのある手水鉢があり、その時代六郷一円の総鎮守となっていました。今も風格のある社の佇まいと境内でした。

 昔の人は多摩川をどのように渡ったのだろう、と思いながら橋を渡り終えたら、明治天皇六郷渡御碑があり、明治元年(1868)東下の折に23隻の船で橋を作り渡ったとありました。家康は200mもの長さの橋を作った(1600)ものの元禄元年(1688)洪水で流され、以後は橋が無かったとあります。

 橋の先は川崎宿。この道も昔の風情がよく残って本陣跡や宿場があった街中の佇まいを感じながら歩いて行きました。品川から12.6km(二里半)、11時でここまで3時間かかり、時速4kmの計算になります。

 京浜急行八丁畷駅手前に芭蕉の句碑がありました。碑には元禄7年(1694)芭蕉が伊賀に帰る折に見送りの門人とこの地で別れたとあり「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の句を作ったとありました。碑の前の花壇には青々とした麦が生育しており、句を彩っていました。芭蕉は5ヶ月後、大坂で亡くなって(1694)いて、死出の旅路の様だと感じました。お昼過ぎに鶴見川を渡り、京浜鶴見駅を跨いでベルロード鶴見商店街(様変わり)を通り、生麦へ。この地は文久2年(1862)に生麦事件が起こった所で碑も立っています。国際事件である生麦事件の折、薩摩藩の士はイギリス駐留軍の反撃を恐れて3日目で沼津まで進んだとあり、ものすごい速さで東海道を駆け下ったとありました。我が身ののんびり徒歩とは全く別、思いを巡らすとさもありなん、と感じました。

この後は国道に沿って、味気ない道を歩きJRの東神奈川駅に辿りつきました。

品川宿から川崎宿が12.6km(二里半)、川崎宿から神奈川宿まで8.9km(二里)計21.5kmを歩いたことになります。時計は14:30を指していました。JR東神奈川駅から横浜線で町田に出て、町田から自宅に戻りました。

安藤広重神奈川宿は(台の景)で海岸の景が素晴らしい所になっています。ここから先は東海道は海蝕台地下を通っており、崖下の道といった様子です。

東海道五十三次 今・昔 その一 

 私が東海道を歩いてみようと思ったのは、昨年の秩父34ケ寺観音巡り(巡礼)で満願達成したことにあります。時代は変わっても、先人の残した道、路があれば懐かしさも手伝って、その面影やいかに風景・景観はどうなっているか、と辿ってみたくなったのです。松尾芭蕉は45歳で奥の細道の旅に出ていますが、私は72歳で、それも昔の人に倣って東海道を徒歩で巡ってみようという大それた、大胆な企てを思いついたのです。芭蕉は1644年の生まれ、私は1944年の生まれで、何かの縁を感じ372年違いでの思い立ちです。

 平成29年弥生3月11日(土)早朝に、出発地点の日本橋に向かいました。川崎の西郊外、柿生の里の住人であるため、日本橋までは電車を利用し辿りつきました。一日にどのくらい歩けるか、全く未知数のため兎に角、先人同様早朝に出発と決め、自宅を朝未だ気の6時に出ました。日本橋の袂には陽が昇り始めた7時半頃到着。橋の袂には天気の良い土曜とあって、何やら歳のいった同好の士が三々五々集まっていました。出発地点の証拠には、昔なら日本橋をモチーフに絵を描いたであろう(広重の東海道53次日本橋の絵)と思いながら、スマートフォンを取り出し近くにいた人に頼んで一枚。早速朝日を浴びて歩き始め、銀座通りを西に向かいました。銀座は日本の商店街で第一(No.1)としての自負があるかのように、街路沿いは草花と低木の植え込みで美しく装飾されています。植え込みには訪れる人、道行く人達に豆知識とクイズを示すような小さな札が立てられていました。2mほどで円錐形のキャラボクは周囲の建物に比べてあまりに小さく、かっての「銀座の柳」は歌にも歌われ近代化の進む日本の都市を代表する街路樹でした。今はその面影はなく、ござっぱりと成型の常緑低木が続いています。昔あった電柱は地下に埋設され見通しの良い広い街路空間を生み出していますが、緑の重要性が認識されているにもかかわらず、ほんの少しの緑だけで止まってしまっているのは、何とも歯がゆく残念な思いです。

 そんなことを考え感じながら銀座通りを過ぎ、新橋駅を越えて小さな日比谷神社を覗き、海側にある浜離宮を想像して歩を進めました。芝大門を右に眺め、芝五丁目の「勝海舟西郷隆盛の会見跡地の碑」を見て時代を想い、歩道を陸側へ移し高輪、泉岳寺を過ぎて第一日目の終点、品川駅に到着しました。歩き始めて2時間、案内書には7.4km,二里とありました。ほぼ時速4kmの歩く速度となりました。

 東海道を歩く方法として、その歩き方にはいろいろやり方があるようですが、私は箱根を過ぎるまでは「通い」の方法で回を重ねようと考えました。毎回到達点(宿場)を決め、次回はその到達点を出発点として繋いでまた歩き始めるという方法です。二回目は品川が出発点となりました。

Stadt + Grün 3

海外専門雑誌(Stadt und Grün) の内容概説です。昨年2016年の「都市と緑」の3回目です。3月ー4月号の内容について解説します。

以下はその雑誌の記事、報告の概要を書き示しました。

3月号

記事;2017IGA ベルリンにむけて(2017.4.13-)、100ha 6000㎡の水辺の遊び場、230万人予想(1/3ベルリン、ブランデンブルグ 1/3;150km圏内、 1/3;それ以外外国も含め(整備状況)2016-2017;建物関係、遊び場関連2015年に完成、2015年秋以後は植物(バラ6000株、低木。花木35.000株、2017年春までに草地緑化完成、IGA中央入口(Kienbergpark)に1000.本以上の白樺、ミズナラの林(Baumhain)完成、10人の建築家が造園業者とタイアップして120㎡の庭展示“Haus- und Privatgarten”,サツキやツツジの植栽と300.000株球根類定植(2016秋)とあります。今年2017年の半年間、ドイツの首都ベルリン郊外で国際庭園博覧会(IGA)が開催されます。ドイツへ旅行をされる方は是非、この庭園博をご覧いただきたいと思います。周りには高層住宅、中低層住宅、戸建て住宅区があり、会期後はその人たちに重要な都市公園になります。

【報告】 

1.Gehölzverwendung bei Peter Joseph Lenne Clemens Alexander Wimmer

Eine Annäherung mit Schwierigkeiten

 P.J. Lenne の庭園作成と樹種選択・デザイン

C.A.WimmweはPozdam在住の庭園史家、Lenneが植物について図面など史料・資料を用い説明、Lenneの著作が少ないことを6つの要因から説明。

1)レンネ自身に書いた物が無く、マグデブルクの植栽計画に関する公表は無く少しの記述に限られている。2)植栽表示記述は構想に限られ、植栽計画は例外的にあり、彼の時代それは必要とされなかった(G.Meyer)、3)個々の点についてはLaut Hermann(1815-1890)に任せ、当時は同業者が計画、実施していたと考えられる。4)植物リストは僅かに存在し、印刷したカタログは州の植木業協会にあるくらい、レンネの計画の実際がその時代に使われていない。5)施設の現状の植栽には僅かにレンネの物が見られるが時代的に同じか不明。6)レンネ自身が色々な計画で植栽について色々な考え方があり、詳細は明らかでない、とされている。Georg Kuphaldt(1853-1938), Hermann Jaegerはレンネは造園家Gartenkunstler)で特段重要な個々の専門的技術、知識を持っていないし、考え方をよく変えていた。

ここに登場した専門家達により、1820-30年代の関係資料(図面など)から分析している。

Magdeburger の庭園植栽について歴史的に考察。関係した造園家の説明と合わせLenneの所業を述べている。

2.Ökologisches Pflegemanagement von Staudenpflanzungen Karl Hillebrand

Erfahrungen im pannonischen Gemeindegrün Petrnell-Carnuntum

Pannonisches Gemeindegrün”、Wien大学造園学科が「町村の緑;Gemeindegrün」を2010年から研究。”ウイーン・ブラティスラバ間にある1200人の町で実験。道路沿道、公共空間に於ける開花性高草丈植物による緑化の適応種を探し出した報告

3.Vom Sinn und Unsinn der Splitt-und Schottergäten     Karia Krieger著

Ein unansehnlicher Trend macht sich in Deutschlands Vorgärten breit

自然石(砂利)を含め人工素材による垣根や植栽ベットの比較。どちらがより自然や景観によいか、について検討。

4.Einsatz von Staudenfluren im öffentlichen Grün     Jana Schultze著

Transparenz über kosten schafft Plannungssicherheit

1月号1番目の論文と同じ人の報告で、公共の緑のあり方、維持管理と経費について考察している。

5.Wildbienen und Wespen auf Gründächern   Rolf Witt著

Ergebnisse einer Studie aus dem Jahr 2015

. 野生密蜂、アブなど(ドイツ全土で561種)360種(NS州)について、いろいろな屋上緑化に伴う植物とそれに集まる蜂類の報告。

  1. Potenziale von Stauden in der Vertikalbegrünung    Henning Guenther著

Ergebnisse eines Forschungsprojektes zu Grüner Infrastruktur

Grüner Infrastrukturプロジェクトの結果報告、傾斜角80°の傾斜面(1,5㎡の箱;6区画、40種の植物導入し)の緑化法結果について報告。

  1. Wie kann Biodiversität im urbanen Raum gefördert warden?

Ein Beitrag zur Diskussion um Forschungsbedarf

大都市圏における生物多様性とは、どの様に対応できるか、すべきか。

研究の必要性についての討論。

  1. Wiedergewinnung der Englichen Partie im Rheinsberger Lustgarten

   Mathias Gebauer著    Eine Biotopumwandlung im Gartendenkmal

  文化財的庭園における生物多様性対策(ビオトープ再生)

  プロイセン・ベルリン庭園支援機構(Stiftung)がラインスベルガー庭園・イギリス庭園区の植生を生態的に調査し自然再生型の湿地植生に変更し成功した事例報告(1773-1816-2015)。

 

4月号

記事  2016はレンネ年であったためP.J.Lenne の記事が多い。レンネ没後150年。ポツダム市におけるレンネ関連事業(プロイセン・ベルリン庭園支援機構(Stiftung)は彼が26歳で造園家(Gartenkunstler)としてポツダム市に来てから200年。彼の業績を忍んで行事を開催。

レンネに関する12項: ①彼はその時代、有名なGartenkunstlerであった。②彼はイギリス風景式庭園(englicher Garten)を造り上げた、③彼は偉大な都市計画家Stadtplanner)であった。④彼は常に市民生活の中で公園、緑地、庭園を意味づけた。⑤彼は庭園学をパリのガブリエルテョインで学んだ。⑥ラクセンブルグ時代、彼は帝国造園家(kaiserliche Garteningenuier)であった。⑦彼は1816年ポツダム市に招聘された。⑧彼はドイツで最初に造園学学校を造った。⑨彼はドイツ最初の造園家協会(現在のDGG)会長である。⑩彼は1823年最初の造園局長になった。⑪彼は1854年帝国造園局長になった。⑫全ヨーロッパにおいて300の公園・庭園を造った。

 本号は庭園博に関する記事が多い。これまでの庭園博会場およびこれからのIGA(国際),BUGA(連邦),LGA(州)の庭園博の在り方、現状について掲載されている。

 Bad-Lippspringe(保養地)は2017年のNRW州の庭園博開催市、会期は4/12-10/15。

33haの2会場、

【報告】

1.Landesgartenschau in Bayreuth am Rosten Main   Inge Hahn著

Ein spannungsvoller Landschaftpark zwischen Stadt und Eremitage

バイロイト市(ニュルンベルク北)、ロステンマイン川沿岸の市におけるバイエルン州庭園博について。会場は40ha、バイロイト市内から近いエレミタージェ、ロスターマイン河畔の公園地区。洪水調整池機能を併せ持つレクリエーション公園として創出。

  1. Sanierter Hofgarten und neugestalteter Landschaftspark

  Johannes Czerniejewski著

Farbige Stellen kündigen Landesgartenschau Öhringen an

オーリンゲンのバーデンヴュルテンベルグ州庭園博会場について。修復された宮廷庭園と新設なった公園を解説している。

23000人程の町を流れる小河川オールを中心軸として、都市公園や教会中庭庭園を核とした緑の軸整備(庭園博会場造りコンセプト)の庭園博会場。5年間掛けて都市再開発し(河川改修、堤防改修、公園緑地整備など)会場整備についての報告している。

  1. Entiner Landesgartenschau mit Neuentdeckungen am See   Vera Hertlein著

Städische Uferanlagen verbinden Stadt und Landschaft

オイティナーの州庭園博会場における新しい試み;市街地と郊外を結ぶ水辺プロムナードの報告。

第3回シュレスビッヒ・ホルスタイン州の庭園博開催(オルティン市)。27haのエイティン河、河畔、湖を含む会場。市内と会場を結ぶ新たな公園緑地の整備について、

  1. Internationale Gartenausstellung Berlin 2017    Sibylle Esser著

Wohnen an der Pheripherie Berlins wird mit der IGA attraktiv

国際庭園博(IGA)2017はドイツの首都Berlinで 会期を2017.4.13—10.15として開催される。会場の敷地は100haにおよび、会場の Marzahn-Hellersdorfはベルリン市東部に位置する郊外住宅地区。中国庭園は既に2000年に建設されている。 

  1. Bunesgartenschau Heilbronn 2019 am Neckarbogen;  インタビュー記事

Gätenschaupark und Stadtausstellung initiieren ein neues Quaritier

 会場の敷地100ha、10年間Experimentierfeld 新規の緑地、

会場担当はHanspeter Faas氏、2019年の連邦庭園博会場はハイルブロン市(ネッカー河河畔)で、その設計、建設、計画などについて解説している。

  1. Wiener Internationale Gartenschau 1974 過去と現在   Christian Hlavac著

Herausforderungen für die Pflege im heutigen Kurpark Oberlaa

ウイーン国際庭園博(1974)の20年後の状況、これまでの維持管理と現状・課題について。

  1. Futuristische Formensprache noch fragmentarisch vorhanden

   Harketa Haist著

  Die Bundesgartenschau 1967 in Karlsruhe

 1967年のカールスルーエ市における連邦庭園博会場の現状と将来のあるべき像について考察

  1. “New German Style” Diskussion eines Trendbegriffs

Perennial Perspectives und neue Ideen zur Staudenverwendeung, Teil 1

  新しいドイツスタイルとは何か。伝統についての討論。この10年くらいドイツも造園会は停滞の10年といわれてきた。環境配慮、省資源、生物多様性といった時代の今後、造園緑地の分野はどうしていったらいいのか、高草丈草花をどう展開していくかについて検討。

 

 以上のようにドイツでは連邦庭園博、各州の庭園博が毎年どこかで開催されています。財政的な問題があり、州、市町いずれも公共投資の難しさが問題になっており、これは日本も同じですが、ドイツは市民にその意義を問いかけ、地域経済効果やインフラ整備も合わせ継続させてきています。それぞれの市町村がゆとりある安全・安心の生活環境時代、生物多様性の時代に公園や緑地の整備に努力している点は見習うべき点が多々あると思います。