水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り 3

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  ライバル、日本語訳では「好敵手」のことを言う。個々に素晴らしい能力を持ち、その分野で頂点を極めるような活躍をし、多くの作品を世に出して時代を生き抜いた仲間。どの世界にも、どの時代にも関係する分野の発展に関係し、注目を浴び発展に大きく貢献してきた人。夏目漱石正岡子規はどうであろうか。

 2017年、夏に向かって地球温暖化を示唆するような異常気象が続き、北九州地域での異常降雨は多くの被害をもたらし、まだその全容は明らかになっていない。前年に発生した熊本大地震の被害もまだ終息しないうちに、梅雨前線が地球の大気の変則移動と関連し発生した「線状降雨帯」で長時間の豪雨(時間降雨量150mm)を引き起こし大災害が発生した。

 この年の梅雨時、暑さと雨により野外活動をひかえ建物屋内を中心とした活動に切り替えた。それまでやっていた旧東海道一人旅や山野巡りを中断し、絵画や音楽、映画や演劇など室内文化を鑑賞する活動に切り替えた。表現を変えればスポーツ的な屋外活動から室内中心の文化的活動;展覧会巡りに変更したのである。

 

 一連の展覧会巡りにはそんな背景がある。

 今回訪れたのは鎌倉文学館、旧前田侯爵の鎌倉別邸がその場所である(添付写真;建物全景と背後の山)。鎌倉と言えば、一時代日本の都であった地であり、自然地史的にも歴史文化的にも特徴あり由緒ある都市で、現在も多くの人が訪れる町である。その環境に魅せられて多くの文化人達が居を構え作品を生み出してきた。

 この別邸は素晴らしい場所にある。鎌倉特有の谷戸景観(小さく切れ込んだ谷筋と行き止り空間)で後ろと東西両サイドは常緑樹の茂る丘に囲まれ、前には由比ヶ浜から続いて海が開け、浜から吹く風は心地よい。南に広がる眺望は海と空とが繋がり、好天であれば青の世界が南面に広がる。

 鎌倉文学館でも常設展示と特別企画展示があり、今回の特別展は夏目漱石の書簡(漱石からの手紙、漱石への手紙展)を中心とした展覧会であった。漱石は明治時代の文学者として多くの作品が有名である。学校の授業を通して作品は知っているが、その生涯や人となり、交流の人脈などは殆ど知らなかった。

 まず、漱石が49歳で病没したこと、長く病と闘い続けながら多くの作品を生み出したこと、子沢山だったこと、そして何より、俳人歌人として有名な正岡子規と同い年で学友であったことである。正岡子規結核を患い34歳という若い命であったことは、旧友であり親友であった漱石にとっては大きな悲しみであったろうと思う。イギリス留学中、帰国を決めた直前に正岡子規は亡くなっている。文学的には同じジャンルであるが俳人歌人の子規と文学者・作家の漱石は両雄で良友、ライバルであった。

 いろいろな人との手紙のやり取りが書簡として残っており、その一つに子規に送った俳句の習作に対し、子規が赤字で添削、評価し返信した書状、その他に本人の日記や旅の途中から知人に送った手紙、家族に宛てて近況をしたためた手紙、我が子に送った父としての葉書等々、改めて筆まめ漱石を理解することが出来た。漱石は神経衰弱や胃潰瘍を患っていたとあったが、書簡の文面、書き方、文字等から、それは何となく理解できた。小さくきちっとした文字で几帳面で真っ直ぐに書かれた候文体の文章は、いかにも神経質的で潔癖な感じが読み取れた。絵画や書にも才能を発揮し、中国絵画から習った絵や書の軸、当時の文学者の素養としての漢詩など数々が展示されていた。

 子規と漱石は共に大新聞社に勤めていた共通点もあり、病歴も似ている。展覧会では新聞社や出版社とのやり取りの書状もあり、漱石が亡くなった時の芥川龍之介の弔電もあった。

 苦難に満ちた波乱万丈の人生、戦争の時代背景の中、世界(イギリスや中国)から日本を見ていたこと、自分の体のこと、家族のことなど苦しみの多い49年だったのか、喜びと楽しみとして何があったのだろうか、文学作品と経歴が重なる部分もあり作品を書き人々の評判を呼んだことが喜びであったのかと思った展覧会であった。

 

 わが父、武久は大正3年生まれ88歳で亡くなったが父の蔵書に岩波書店漱石全集(初版本布製)が書棚にあったことを思い出した。母が肺結核で若くして亡くなったことも何か因縁を感じるし、漱石漢詩をやっていたこと、父が晩年漢詩を書いて手紙やはがきに認めていたこと、北宋画や南画など中国絵画や日本画に興味を持っていたことなどを思い出した。

 展覧会後、もう一度漱石の作品を読み返してみようと思っている。

 

 

展覧会巡り  2

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 展覧会巡り 1では、室町時代から江戸初期までの水墨画、その時代の2大巨匠雪舟(1492-1506)と等伯(1539-1610)を見てきた。展覧会巡り 2では、偶然、本当に偶然で、ほぼ同じ時代、イタリアのルネッサンス期を代表する2大巨匠の素描展を見ることが出来た。2大巨匠とは、画家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)である。

 ダヴィンチの作品でとりわけ有名な絵画は、「モナリザ」(1593-1507)と「最後の晩餐」(1498)、ミケランジェロの作品では彫像の「ダビデ像」(1504)と巨大な「システィーナ礼拝堂天井画」(1508-1512)であるが今回の展覧会は、芸術家にとって作品制作の最も基本となる「素描」69点であった。

 多くの素描は赤チョーク、黒チョーク、インクとペンで描かれており、敢て言うならば色の無い(少ない)作品である。物の形(例えば人体の筋肉、その部分と動き)や顔の表情を単純な線だけで表したものである。

 水墨画が墨と筆を自在に使って風景や物を描き出し、濃淡で深みや広さを作り出し描かれていない空間(余白)で空間の広がりを表現しているのと似て、素描ではチョーク(特に赤チョーク)やインクを用いて人の肉体や人物の表情(部分や全体)を(点と線で面を表現)詳細かつ単純に捉え描き出している。

 ダヴィンチの「少女の頭部/岩窟の聖母の天使のための習作」(1483-1485:添付写真)とミケランジェロの「レダと白鳥/の頭部のための習作」(1530)を同時に見比べることが出来た。作品としては大きくない。前者は18×16cm、後者は35×27cmである。ダヴィンチの素描でもう一つ有名な赤チョークで紙に描かれた自画像(1515-1517)でも33×21cm、A4の大きさである。

 二人の巨匠の素描を見て、共に「万能人」と言われ絵画や彫刻だけでなく建築、科学(土木工学、流体力学、光学)、解剖学まで関心を広げたダヴィンチと絵画、建築、詩作ほかに作品を残したミケランジェロ。 15世紀、イタリア、ルネッサンスの最盛期に活躍した芸術家(万能の人)の素描作品はいろいろ考えさせてくれた。

 そのころのイタリアはルネッサンス期、メディチ家(ロレンツオ・デ・メディチ)が支配する

フィレンツェ共和国(郊外の高台に別荘を建て露段式庭園を整備した時代)ではメディチ家が多くの芸術家を庇護して作品を生み出させてきている。強力なパトロンの支えによって芸術はじめ科学が急速に発展していった時代である。宗教はじめいろいろな文化や産品が世界的な広がりと共に拡大したのもこの時代である。日本では展覧会1で鑑賞した室町~安土桃山時代水墨画家の時代である。

 

 この展覧会の会場は東京丸の内、旧三菱一号館である。1894年、三菱の建築顧問であったイギリス人建築家ジョサイヤ・コンドルの設計とある。1968年に解体されたが2009年復元されている。煉瓦造りの建物の中庭は、緑に包まれたパティオ風となっており、街路樹を中心とした緑で整備された中央通りと合わせ丸の内オフィス街の中心となっている。

 この素描展は9月24日まで行われている。

 

 

 

 

 

展覧会巡り  1 日本の水墨画の足跡「等伯と雪舟」展

 水墨画と聞いて思い出すのは、昔、自宅の床の間に下がっていた掛け軸の絵である。墨絵と漢詩が混ざった静かな佇まいの風景を描いた軸が季節に合わせて掛けられていた。当時はただ何となく、その日本間の空間に合った物、装飾的な感覚で見ていただけで内容などあまり意に介していなかった。中学や高校の美術の授業で、水墨画について少しだけ習った記憶があり、雪舟等伯の名前は知っていたが、その程度であった。

 造園緑地の分野に進んで日本庭園の知識や日本文化との関係を掘り起こすことになり京都の名園や関連する絵画、書の歴史などの関係を学生に伝えることが必要となり、遅ればせながら少しずつ鑑賞の幅を広げてきた。しかし造園緑地の領域は広く、水墨画を取り巻く時代的な背景や作者や作品の時代的特徴まで深く掘り下げ日本庭園と時代文化の関係まで深く理解するところまで行けなかった。

 先月、購読している新聞に水墨画展覧会の案内記事があり、「日本の水墨画の足跡、「長谷川等伯雪舟」展、日本人の感性が発揮されていった水墨画の絵画表現の紹介(於:出光美術館)となっていた。この歳になってやっと水墨画を身近で感じてみよう、考えてみようと思い立ち、早速この展覧会へ行ってみた。

 雪舟等伯を代表とする日本の水墨画の歩み、その広がり繋がりを理解するうえでは格好の展覧会である。雪舟(1420-1506)は室町時代を代表する水墨画家で、備中岡山で生まれ京都の相国寺で修行、34歳で周防山口に移り47歳で遣明船に乗り中国へ渡り2年間中国各地を巡り主に宋、元時代の水墨画を研究し帰国(49歳)したとある。日本に帰ってからも各地を巡り風景を作品化している。今回の展覧会では「破墨山水図」(国宝)と四季花鳥図屏風(六曲一双)があった。破墨山水図は22×35cmで小さな絵であったが、墨の濃淡、筆致、全体の構図(空白部のスペース)から描かれている対象はとても大きく、広い世界が描かれており、その素晴らしさに感激。四季花鳥図屏風では、描かれたいろいろな花鳥の中で木の根元に何気なく描かれた万年青が印象的であった。以前、国立博物館での禅画展で雪舟の国宝「慧可断〇図」を見たが、それとは全く異なったものであった。雪舟水墨画同様、作庭も行っていて山口県島根県の寺院に残されている。いつか機会を見つけて鑑賞したいと思っている。

 水墨画は「無限の可能性を秘めた中国伝承の絵画表現」と言われ、「限られた空間の中に墨一色の濃淡で無限の世界を描き出している」有様は思索的で哲学的である。禅の考え方、捉え方、心に通じている。 

 もう一人の巨匠、長谷川等伯(1539-1610)は桃山時代から江戸初期に活躍した絵師で、二曲六隻二つの松林図(東京国立博物館蔵;国宝)は良く知られ有名である。等伯は幼児期より絵と深く関係しており、青年期は仏画肖像画を良くしている。京に出て狩野派と交わり狩野永徳と共に秀吉の下で多くの作品を残している、この時期に千利休と交流し始め、以後強く影響を受けている。利休を通じて京都大徳寺との関係もあり、利休が秀吉の怒りをかった大徳寺山門の天井絵(多くの龍の絵、等白の署名;1589)にも関与し、同時に大徳寺塔頭三玄院の水墨画(襖絵;1589)、旧祥雲寺障壁画(智積院蔵;1593、祥雲寺は現智積院で秀吉の嫡子鶴丸菩提寺)の松と草花図は等伯の最高傑作(国宝)と謂れている。この間、1591年に知己の千利休切腹し、1593年には長男久蔵を亡くしている。有名な「松林図」はこの頃(1593-95;等伯54歳)に描かれているが、彼の身の回りの悲しみと苦しみ、無常の気持ちを考えると黒一色、霧か靄に浮かぶ松の情景は分かる気もする。

 等伯徳川家康に乞われて江戸へ下向する折に病伏、江戸到着2日後に病没(72歳で)とある。 今回の展示作品は43点あり、雪舟等伯の他、室町時代水墨画家 玉澗、牧谿、雪村、能阿弥、伝周文、伝一之の他、江戸時代の絵師 池大雅、浦上玉堂、狩野探幽、尚信などの作品を見ることが出来た。その殆どが出光美術館所蔵で素晴らしい水墨画のコレクションであった。

 出光美術館は丸の内3丁目、皇居日比谷濠に面した帝国劇場ビルの9階にある。出光興産の本社で創設者、出光佐三の古美術コレクションで知られている。美術館休憩室は皇居外苑を近景に緑豊かな皇居が一望でき、一時、都市の喧騒を離れ時代をワープして日本文化の神髄、水墨画の巨匠二人の作品を鑑賞することが出来た。

 同じ日、同じ丸の内にある三菱一号館美術館で別の二人の巨匠展に足を延ばした。

 

 

東海道五十三次 今・昔  その十二

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  第三日、この日も朝から快晴、ホテルの朝食は6:30開始なのですがスケジュールを早めるために時間より早くフロントに降りて朝食を早めてもらいました。この日の工程は14.3kmとやや少なめですが、牧の原台地を上り下りして坂道が多く、宿場を巡るために、意外と体力を使うことが予想されました。朝食後、直ぐにJR島田駅に急ぎ、7:08の下り電車に乗り次の駅、金谷へ行きました。金谷駅大井川鉄道金谷駅も隣接し、こじんまりした駅で西側はすぐにトンネルになり台地を貫いています。前日の最終点(駅下のガード)に急ぎその場所からスタートしました。この辻の案内板には旧東海道・金谷石畳、菊川方面の指示がありました。ガードを潜り直ぐ傍に長光寺は一段高くなってありました。この寺の境内には芭蕉の句碑があり、「道の辺の 木槿は馬に 食われけり」と記されていました。旧道の金谷坂の石畳は急で台地の上まで430m、地域の人達の努力で平成3年に復元されており、その先にも芭蕉の句碑が残っていました。そこには「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」とあります。芭蕉は旅の俳人といわれ全国津津浦々を旅して折々その地で句を残しています。句碑は旧東海道の各地で残されており、その長旅の気力、体力、自然観照の眼力、創造力には驚くばかりです。

 牧ノ原台地へ上り旧道の両側に広がる茶畑がどこまでも広がり、丁度新茶の穫り入れ時期に遭遇して畑では新芽を刈り取る(摘む)作業と、新芽を出すための株の強刈込作業が真っ最中でした。茶畑の中をさらに歩き続け菊川坂を下って静かな菊川の里に下り一呼吸したのも束の間、辻の石段と再びの急坂(青木坂)、進む尾根道の両側は同じ茶畑で近景から遠景まで景観の中心は茶畑と杉林(施業林)でした。この尾根道は大変見晴らしが良く、多くの歴史文化財(寺、茶屋跡、塚跡、歌碑など)があり、長く人々の交流が続いてきたことを物語っています。この日は期せずして6月16日(コジツケで十六夜;実際この日は下弦十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑がありました。そこには「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」と記されていました。「さや(小夜)」は塞(遮)る、「中山」は峠、悪霊を遮る神の宿る峠がこの峠の謂れのようです。

 このあたりが金谷町と掛川市の境で、さらに歩みを進めると久延寺がありました。この寺は733年(天平5年)開祖は行基掛川城山内一豊関ヶ原に向かう徳川家康に茶の接待をしたとされています。境内には真ん丸の夜泣き石がありましたが、家康手植えの五葉松があると案内本には記されていましたが、そんな古い松はありませんでした。石は何年も形を変えず残るけれども、生きた植物は、400年以上あり続けることは難しいです。道を挟んで筋向いに西行法師の句碑が休み所にあり、「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」法師69歳で2度目の中山峠越えの折の歌とされています。私は72歳で初めて峠に辿りつき、滴る汗をタオルで拭いペットボトルのお茶で喉を潤すのに精一杯でした。

 台地尾根部の茶畑通り(旧街道)は見晴らしも眺めも良い道で、いろいろな有名人の歌碑が並んでいました。列記しましょう。

蓮生法師:「甲斐が嶺は はや雪しろし神無月 しぐれてのこる さやの中山」

紀 友則:「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」

藤原家隆:「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を さやの中山」

壬生忠岑:「東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」

阿仏尼 :「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」

西行法師:「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」

 この先の沓掛坂は歩くのも一苦労の七曲りの急坂でした。普通なら階段になるほどの勾配です。西行きは下り坂(牧ノ原台地へ上る道)で、滑りそうになるくらい急、足を踏ん張りながら歩幅狭くし下りたのですが、畑に行く農家の車(軽車両)が喘ぎながら今にも停まりそうに登って行きました。これまで一番の急坂でした。下りきった所が日坂宿でした。

 日坂宿は500mに満たない小さな弧を描いた宿場ですが建物が上手く残され(例えば川坂屋、萬屋など)ひっそりと立ち並んでいました。宿場の西(京口)には事任(ことのまま)八幡宮が巨大な杉と楠に守られ鎮座していました。ここから先は水田地帯、県道415線となり7km程をひたすら西へ西へと炎暑の中、歩き続けました。

 掛川宿はこの日の終点、宿場の東口(江戸口)は逆川に架かる馬喰橋と袂にある一里塚(地名は葛川;日本橋から58里目)そして振袖餅で有名な創業200年におよぶ和菓子屋「もちや」(添付写真C)です。宿場町に多い枡形小路を抜けるとこれまた江戸時代から有名な葛菓子や「丁葛」(添付写真D)。いろいろな種類の葛菓子が有名で全国銘菓博で優秀賞を受賞しています。個別買いし土産として持ち帰りました。

 朝7:30から歩き始め14~15kmを走破、12:30に掛川宿(連雀西交差点=掛川城の南)に辿りつきました。5時間の一人旅歩きでした。焼けました、疲れました(笑)。

 13:08分発の新幹線こだま号に乗り小田原14:06着。今浦島、延べ8日間かけて歩き通した小田原~掛川間、涼しい新幹線で夢うつつ1時間。 家康もビックリ!

小田原から小田急線急行で柿生駅に15:20着、梅雨の間の3日間の旅は終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次  今・昔 その十一

 第二日目は18.4kmと短くなりました。というのも歩き旅では宿間距離、旅館の有無、日程と最寄駅(JRなど)の関係から歩く行程と宿を事前に決めます。この日は藤枝宿から金谷宿までの13.4kmにしました。金谷の先は日坂(6.4km)その先は掛川(7.9km)となり、日坂に宿はなく掛川まで伸ばすと24.7kmで長すぎます。それに金谷と掛川の間には牧ノ原台地があり急傾斜で上り下りの山歩きが予想されるため、第二日は重要ポイントを大井川「徒歩渡り」において短めとしました。

 快晴の二日目、藤枝パークサイドホテルを早出して前日の終点(青木五叉路)に行き、いつも通り8:00出発、西の青空には下弦の月が薄ぼんやりと残っていました。藤枝から島田までの旧街道沿いには比較的松並木がよく残っています。植栽間隔は2mと狭く、太くなったクロマツにとっては根元も狭く、息苦しそうに見えます。しかしそんな根元の状況でも10-15mほどの並木が街道を彩っており、今、クロマツの幼木(1m程度)を植栽することによって10~20年先に松並木を復元することが出来るのではと思いました。町内会や街の会などが音頭を取って県の道路局と交渉し家の前の小空間にクロマツを植えることを提唱したら、と思いました。

 この地域は北に丘陵を背負い大井川水系の堤や用水、谷川が流れて、南に開けた水田地帯です。島田宿(宿場街)は街道に沿っては短く500~600mですが、大井川の堤防下(島田市側)には大井川川越遺跡(1966;昭和41年;国の史跡)に指定された地区があり、12-3軒の番宿が遺され当時の様子をよく理解することが出来ました。特に川会所や川越人足の番宿を具に見れるのは素晴らしい展示法だと思いましたし、通りの景も昔そのまま、といった感じでした(感激)。

 昔は川に橋を架けることが難しく(①自然に抗し難い、②意図的に架けない)人足を使って渡るほか策がありませんでした。江戸時代1696年(元禄9年)、川越について取り決めた川越制度が作られ川端筋では番宿が生まれています。この島田と対岸の金谷には幕末650人ほどの人足がいたとされています。大井川は流れが急で水嵩の変化が大きく渡船が禁止、旅人は人足が蓮台か肩車で運んでいます。賃料は水量により人足の体型と合わせ、股・帯下・帯上・乳・脇の5段階があり、蓮台利用も形や大きさで5段階に分かれていたとあります。渡し場の水量・水深で4.5尺 =136cmを越えると川止めになったと言います。大変な時代で、人々は自然のなせるがままの生活を余儀なくされていますし、旅の持つ意味・形態・実態が現在とは全く別のかけ離れた物だったと感じました。松尾芭蕉も、増水のため島田宿で4日間川止めに遭遇し泊まったようです。そこで、芭蕉の句を少し、

 「馬方は しらじ時雨の 大井川」、 「駿河路や 花橘も 茶の匂い」、 

 駿河国遠江国を分けていたのは大井川。明治初めまで橋は架けられておらず、1882年(明治15年)橋が架かり、1928年(昭和3年)に5年かけてやっと橋が作られました。大井川に架かる大井川橋は全長1026.4m、鋼製、橋脚は16脚、トラス橋で2003年には日本土木学会から「学会選奨土木遺産」に選ばれています。歩き渡るのに20分程かかりました。川筋が幾重にも分かれていて急な流れもあれば浅く緩やかな流れもあり、流れないで溜まって淀んだ部分もあり、さらに河原が広く広がり河畔林になっている部分もありました。

 鮎釣りで賑わう川面を見ながら橋を渡り、金谷の宿に入りました。金谷宿は1000mほど緩やかな坂になった短い宿場街、すぐ背後には牧ノ原台地が迫って来ています。川と山に挟まれた小さな宿場街ですが、今ではSLが走る大井川鉄道の駅「金谷」でも有名。この宿場町に今は、適当な宿泊施設が無く、止む無くJRを一駅戻り島田駅前のホテルで2泊目を過ごしました。

東海道五十三次  今・昔  その十

駿河の国(静岡県)は東西に長い国です。前回、箱根峠を越え駿河国に入ってから府中(静岡市)まで9宿を(3泊4日)歩き一旦自宅に戻りました。体調を整えて今回は府中から掛川までの8宿(府中、鞠子、岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川)を2泊3日で歩く計画にしました。1か月ぶりの東海道上洛の道です。

 一日に歩く距離は年齢と体力を考え凡そ20km前後で計画し、また季節的に蒸し暑くなる梅雨の時期でもあるため、早朝の旅立ちを旨としました。府中からの出立時間を早く設定したため自宅を6時に出て小田急線で小田原まで行き、小田原から新幹線で静岡に入りました。新幹線こだま号は空いているだろうと高を括っていましたら、なんと予想に反して地域間の通勤で新幹線を利用する人が多い~多い。小田原から熱海、三島、新富士、静岡間自由席はほぼ満席状態でした。今の世だから可能な行動(小田原6:54着、7:08発こだま631、静岡7:54着=1時間)で前回の終点、静岡駅前伝馬町交差点に朝8時に立ち、歩きを開始しました。

 静岡は昔、国府がおかれたところから府中と呼ばれますが、「府中」は「不忠」に通じるとされ、町の西の聳える賊機山から「静岡」と改められたようです。安藤広重東海道「府中;安倍川」の絵は賊機山を背景とした安倍川の川越しの風景。徳川家康駿府城を築き1605年将軍職を秀忠に譲ってこの町で過ごしています。城下町の香りは町の名前や碁盤目の町割りに見られ、西は安倍川が境となっています。街中をジグザグに進み西に進路を取って安倍川橋を渡りました。橋は1923(大正12)年完成のアーチ型とトラス型を組み合わせた鋼橋で3代目とあり、最初に橋が架けられたのは1874(明治7)年、二代目は1903(明治36)年、いずれにしても江戸時代の東海道は安倍川も川越人足(川越町名がある)の役割が重要なところだったようです。静岡側の橋の袂には安倍川餅で有名な菓子屋;石部屋(1804年創業)があり、その今も昔も大勢の人の人気の的です。

 安倍川を渡ると直ぐに鞠子宿に懸かります。鞠子は小さいながらも安倍川の川越しで賑わった宿、京口の町はずれにはこれも広重の絵(弥次郎兵衛・喜多八が店先の縁台でとろろ汁を食べる景)で有名な「丁子屋」が往時の雰囲気そのままに品のある佇まいを見せています。ここには芭蕉をはじめ有名人の歌碑が並んでいました。

  芭蕉の句 「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」(店の外観は、今・昔 12  添付写真 A

 宿場を出て丸子川に沿って進むと赤目ヶ谷地区に入ります。ここは日本の紅茶発祥の地とのこと、両側に迫る山裾で紅茶が栽培されていたようですし、長源寺には中国、インドに渡り紅茶を研究し茶の木を持ち帰った多田元吉の墓があります。茶と言えば禅宗との関係で僧栄西を思い浮かべますが、ここでもまた別の偉人を知ることが出来ました。国道1号に出て狭い谷間の空間を進むと山が迫り国道はトンネルに入ってしまいます。旧東海道はどこにあるかと探しますが見えません。トンネルに近づくと、ありました!本当に小さな狭い道が川に沿って沢筋に残っていました。これが世にいう国の史跡に指定された「宇津ノ谷峠」でした。

 じつは、ここ「宇津ノ谷峠」で旧東海道を少し見失ってしまいました。途中まで(お羽織屋前の石段)は正しかったのですが、登り切った先で別の道に入ってしまいました(宇津ノ谷隧道:1926-1930建設;現在県道208号)。肝心の峠越えを体験できず昭和のトンネルを通って藤枝市側に出ました。この「宇津ノ谷峠」は2010年(平成22年)2月22日に国の史跡に指定されています。峠を越えて辿りついたのは岡部宿です。岡部宿は岡部川に沿っており、街道の北東端でL字に曲がり藤枝方面に伸びる細長い街道宿です。1000mほどの小さな宿ですが宇津ノ谷峠、安倍川、大井川の川止めで人が溢れた時は、この宿も旅人が溢れたようです。一番大きな旅籠・柏屋(1836建築)は現在藤枝市の史跡に指定され、建物は1998年(平成10年)登録有形文化財になっています。旅籠の内部を詳細に見ることが出来、しかも多くの史料で江戸時代の様子もよく分かります。

大旅籠・柏屋の外観は、今・昔 12  添付写真 B

 街道沿いの藤枝宿商店街も、他の市町の旧道商店街と同じくシャッターの閉まった店が多く見られ(週日日中だから?)街づくりの難しさが感じ取れました。しかし市の中には活性化の生まれている部分もあり、これからの動きに期待したいものです。

駿河国の最西の市、島田宿を目前に第一日の歩きを終え、藤枝宿になりました。宿泊は藤枝パークサイドホテル、大変居心地良いホテル、設備やアメニティーが充実し、朝食が豪華、それでいて安価、藤枝で泊まるならこのホテルをお勧めします。

この日歩いた距離;22.8km, 41,874歩でした。お疲れ様でした。

庭園博覧会(都市緑化フェア)に関連して

 先日、ドイツの庭園博に類似した都市緑化フェア2017・横浜が終了した。毎年恒例で日本のどこかの都市で都市緑化、花と庭と公園を主題にしてフェアが開催されてきている。都市公園を中心に、花と緑を都市の街中に広げ、新しい緑の役割を市民に理解してもらいながら都市の緑の充実を図るよう進められてきた。私も以前からドイツの庭園博を紹介しながら、日本での都市公園や緑地の増強を期待し、そのあり方を見てきた。ドイツの庭園博(国際レベル、連邦レベル、州レベル)も財政的な問題やそのあり方の意義について、今日、いずれの場合も課題を持っているものの、計画的かつ着実に都市内の公園や緑地の整備拡充に寄与してきていることは火を見るより明らかである。

 緑化フェア2017横浜では既存の公園緑地を含め、新たに都市開発整備で生まれた地区(例えばグランモール地区)も取り込み実施されたことは意義あることである。とりわけ新たに里山地区を設定し、横浜ズーラシア(動物園)と一体的に植物園を想定し新たな緑地を生み出すこととなった点は大きく評価されて良いと思う。これまでのフェアでは少なかった緑地や公園の発展的新規拡大、増強整備が今回は進んだと言える。

 以下にドイツの最新の庭園博事情について、公園緑地に関する専門誌に示された報告を概説し、同様の問題、課題を持つ我が国の公園緑地整備に何らかの示唆を得ることが出来るのではないかと考えた。対象となった専門誌は、これまでにもここで概説してきた”Stadt  +Grün”の2017年4月号である。

4月号

Pückler.Babelsberg –Der grüne Furst und die Kaiserin 

 Michael Rohde P.13-20

 この論文の筆者は;Michael Rohde教授、プロイセン城郭・庭園財団会長;SPSG(ベルリンーブランデンブルク);Stiftung Preussische Schlosser und Garten(SPSG)  m.rohde@spsg.de 

Katrin Schroder、庭園史跡、SPSGの庭園課 k.schroeder@spsg.de

 1843年プロイセンのウイルヘルム、アウグスタ皇帝夫妻、10年掛けて造られた庭バベルスベルクの公園が造られた。P.J.レンネは3つの展望地点(ハフェル河から20mの高さ)を造っている(ヴィクトリア、レンネ、フュルステン)。この催しに先立って、2015年ボンにある連邦文化会館で造園家:Fursten Pucklerのムスクワ展が行われた。1785年ラウジッツ(Lausitz)のムスクワ城で生まれる。ナポレオンとの戦争(1806:プロイセン、ザクセン)1812、1813、1806-1810(Puckler20歳台の頃)イタリア、フランス、南ドイツへ旅をしている。 ほか、Babelsberg城の修復、復元についてPuckler の所業と歴史、現状について解説

 Pucklerは南ドイツへの旅の折、ミュンヘンでニーフェンブルク城やイギリス庭園(Friedlich Ludwig von Sckells)を見る。1810年ゲーテと知り合う。1811年父の死語ムスカウの私邸の風景式庭園計画造る。

造園家としてのFursten Pucklerについて解説

ベルリン・ブランデンブルク(ポッツダム)のバーベルスベルクにおいて2017.4.29~10.15まで行われている連邦庭園博会場での催し物「ピュックラーの造った、バーベルスベルク・公園と城」展について。

 

Highlights der internationalen Gartenausstellung 2017 in Berlin

Sibylle Esser    esser@bundesgartenschau.de

IGAベルリン会場(世界の庭園部分)の花展示に関する解説。 Blumberger Damm入口部分に造られた屋上緑化。ZinCo-Systemを採用。Fairplants-system会社設計・施工(2016夏)の植栽。都市内に於けるいろいろな緑(樹木から草・地被植物まで使った)の作り方の展示。(個人の庭だけで無く、共同、共有の中庭、広場の緑化、緑のスペースづくり等)バラ園(2000年以降に造られた品種)、ダリア園  2000㎡の温室(高さ12m)での熱帯植物などについて解説。

Experimentelles Grun in internationalen Gartenkabinetten   p.21-26 

国際庭園博2017ベルリンの施設紹介、同庭園博ベルリンについての記事は3月号にもある。

 庭園博馴染みのアザレア、ツツジ類(白花のみ)を使ったコーナー(1400㎡)、色とりどりのツツジ類の部分、植栽デザインの面白さ(波をデザインした植栽;700㎡)  。 環境に優しい自然素材の基盤における各種の植物を利用した緑化法。イギリス風庭園(6000㎡)の植栽と広場(5000人収容可)の植栽。 IGABerlinの会場(世界の庭園部分)における屋上緑化始め、世界の庭・会場の植栽について解説。会期中を通しての各種コーナーの構成とその設計意図、植物の使い方等。

 

Klarheit und Magie – die LGS in Bad Lippspringe     

  Vera Hertlein-Rieder: Sinai設計事務所の造園家 public@sinai.de 

 2017年の州庭園博会場、33haの森林を会場としたBad Lippspringeの解説、都市内と郊外の森を結ぶ緑の軸線、近郊レクリエーション利用に使う。 

 すでに19世紀から胸・肺の病気の療養地として有名で、その保養地としてKaiser-Kals公園とその周辺の森は使われてきている。ベルリンの設計事務所Sinaiが競技設計コンペで選ばれて設計、20世紀の初めに保養地として指定を受ける。すでに保養樹林(Kurwald,)に色々な療養施設(テルメ他、寝ころび広場、プール、各種病院など)1832年アルミニュームを含む泉、1000mに及ぶ軸線となる園路、シダ植物が繁茂する古い樹相など、部分的に第二次大戦後、外来樹木により植林された部分或る。4000㎡の2つの池は自然系の水路で結ばれている。

  

Der Paulinenpark in Apolda –zur Landesgartenschau saniert

     Dip-LA Michael Dane  mail@dane-la.de

 PaulinenparkはApolda市での州庭園博会場の一部、市中心部の北端にあり3ha 。

1850-1930年の泡沫社会(ドイツのバブル時代)の工場地帯(繊維会社Pauline Brandesで1924年まで住居)にあった庭(Villengarten)を中心とした町。多種多様な庭、壁、石庭、花壇などなど、2014年末、検討案件がHannoverの事務所(Lohaus und Carl)に持ち込まれ設計された。都市再開発と緑地整備、それが庭園博の主要テーマである。        

 

Industriestandorte und Villengarten als grosszugige Parkanlage

Landesgartenschau Apolda – Herressener Promenade    

  Marcel Adam          Dip-Ing. Marcel Adam   info@adam-la.de

ApoldaはThuringen州4番目の州庭園博都市。24.000人が都市中心部に居住する繊維系工業都市。都市改造を余儀なくされて来ており、働き場所創出、都市再生・改造を目標に庭園博が行われている。Apolda市の庭園博のコンセプトは歴史的遺産(昔の歴史文化財的建物、構造物などの保全と工場跡地再開発)、旧市街地の景観保全と駅前通を結ぶ居住地再開発、19世紀の終わりに市美化協会の手でプロムナードと公園が整備され、20世紀の初め頃に作り直され中心部に池が設けられた。その後南部分にも池が造られ、それらを結ぶ緑地の整備(公園の外縁部の緑地計画の充実)を目標とした。庭園博会場の整備に当たって池縁辺部の自然再生化(コンクリート護岸の撤去など)、工場跡地土壌の改良など問題点を改善しながら開催に至っている。Apolda市の将来計画にこの緑地が市の緑の骨格として重要である。 

 

Anschub fur neue stadtebauliche und freiraumplanerische Ziel

Gartenschau Bad Herrenalb 2017                                Ulrike Bohm

シュバルツバルト地方のBad-Herrnalbにおける2017年の州庭園博会場。田園地区と保養地区の町として存在。州庭園博を契機に都心部を改造。Alb川の流れを挟んで景観が牧野と樹林地、都市の背後を山間部Schwalzwaldが控えている。 

Prof.Ulrike Boehm  bbzl bohm benfer zahiri landschaften stadtebau. mail@bbzl.de

コンペのテーマは緑地の保全、市街地に点在する施設の系統化、緑地で結ぶ緑地帯とこれまでの土地利用を生かした、町の姿を活かした緑を豊かにする契機とし、都市内改造に取り組んでいる。

 

Kurpark, kurpromnade und Rathausplatz

Pfaffenhofen an die Ilm                                        Barbare Hutter

Ilm川に沿った人口24.000人の町Pfaffenhofen(Kreis レベルの中心都市)での州庭園博と町造りの報告。この町は中部バイエルン州(Munchen, Ingolstadt,Augsburg市の間に位置)の(Goldmedal by international Awards for Liveable Communities)最も将来性があり活力のある都市(die lebenswertese Stadt der Welt)として表彰されている。2012年競技設計“小さな庭園博2017”での提案。名もない都市河川Ilm (緑のない過密住居、見所のない古い町、工場、護岸河川、遊歩道のない川)の街を庭園博契機に改善。 Ill河を中心として都市内の緑地整備、河川河畔の自然化(450m)と緑地整備、遊戯広場の整備を実施。ドナウ・イザール河台地(Hugelland)に位置し、イルム低地と言われる地域である。

    

Von Industriebrachen zu “Schönheit und Produltivitat”   Dr. A. Budinger

 2027年の国際庭園博をルール地方で行う。石炭と鉄鋼の工業地帯、「将来、この地域でどの様に生活すべきか」という課題の下で、IBAエムシャーパーク(1989-1999実施)とルール文化中心都市(Kulturhauptstadt Ruhr 2010)のモットーで都市改造・再生事業、同博覧会を実施してきた。ルール地方には500万人の居住者。将来像がまだ決まっていない。これまでの地域整備、都市整備でRVR(ルール開発協議会)の果たしてきた役割は極めて大きい。2027年の国際庭園博開催を既に15年前から計画し、地域整備、都市整備の目玉にしようとしている。ルール地方の緑地整備では既にしっかりした南北軸の緑地地域(緑地帯)を決め、それに沿って連邦庭園博、IBA, KHR2010が進められてきている。さらに、地域整備・発展を狙い 一大イベントを計画する意味、効果などについて解説している。

  W.Gaida   H. Fischer bundiger@rvr-online.de galda@rvr-online.de

 

新緑の裏磐梯五色沼  その3

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 「タモリ」は今を轟くお笑いタレント、司会者、キャスターなど多彩な能力を持つ有名人で、年齢は私より1歳若いが既に70歳を越えている。NHKの「ブラタモリ」は良く知られた人気番組で、彼が訪れる所で地域の特徴を的確に捉え視聴者に伝えていることで知られている。彼は日本坂道学会の副会長とのことである。「坂道」を捉えるには地形・地質条件は必須、他に自然条件としての気象、土、水、動植物と人文・歴史的事象も欠かせない。行く先々の地域の特徴、(空間的特性や人文・社会・歴史的事象)を学び、理解することは「造園家=Landscape Architect」に求められる必須の素養と能力である。とすればタモリは既にその資質を持ち合わせており、造園家(LA)であるとも言える。

 「NHKブラタモリ・磐梯山」では会津地域も含め磐梯山を対象に見て歩き「宝の山」を検証していた。この番組の中で磐梯山山体崩壊を目にし、発生のメカニズムを理解し五色沼の誕生から今の自然の美しさを鑑賞し、その成り立ちを分かりやすく報告していた。

 今回の4日間の旅は、この番組もさることながら五色沼の春の姿(景観)を探勝しようと決めてやってきた。3日目、曇り空ながら僅かに雲間から陽も射す天気。5月中旬、裏磐梯では木陰、道端にまだ雪が残っており、施設の周りの低地には除雪で捨てられた雪が山積になっていた。五色沼地区の東端に磐梯朝日国立公園裏磐梯ビジターセンター(VC)があり、同公園と公園内の自然・文化に関する多くの情報が素晴らしい展示と共に詳細に解説されていた。VC近くの低湿地ではミズバショウが花盛り、クサソテツの小さい拳形をした若芽が円く顔を出し一斉に伸び始めていた。五色沼地区には数多くの池沼があるようだが、名の付いた8つの沼(毘沙門沼、赤沼、深泥沼、竜沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼)が東西軸の自然探勝路に沿って右に左に出現する。1888年の噴火、山体崩壊により長瀬川が膨大な岩屑で堰き止められて生まれ、強酸性の水と温泉のアルカリ成分が相まって沼では青、赤などいろいろな色を見せている。五色沼自然探勝路の東端に位置する毘沙門沼は五色沼の中で最も大きく、磐梯山を背景とする青い水色の景観は代表的な風景である。毘沙門沼縁の探勝路では大小の岩石が多いが、西に進むにつれ露頭は少なくなり岩屑から成る小山が出現。途はなだらかで沼を縫うように蛇行し違った沼が出現する。赤沼は酸化鉄の付着物か赤色(鉄錆色)が目立ち、深泥沼は深さによる違いなのか違った色の沼が並んでいた。道すがら目を上に下に、植生に気をつけながら歩く。色や形が珍しかったり花をつけたりする物を写真に収め、また歩いていく。沼の名前の由来は定かでないが、多分に水の色が関係しており水に含まれる微粒子と太陽光の関係が明らかにされている(これについてもテレビ番組で水中カメラマンと福島大の先生による五色沼の水質調査、研究の報告があった)。五色沼の中でも青色が美しい弁天沼(写真参照)を展望台(道から3m高)から眺めた後、瑠璃沼、青沼を眺めながら通りすぎ、道が分かれて一つは遠藤現夢の墓碑に続いており、もう一つは探勝路終点(西の端、裏磐梯物産館)に伸びている。遠藤現夢らは噴火の犠牲者の慰霊墓を建て、荒れた台地(1340ha)にアカマツなど10万本を植林して知られているが、彼らの墓碑が建っていた。物産館隣の柳沼畔では1本だけのヤマザクラが満開であった。バスでVCの駐車場に戻り2時間弱の五色沼巡りを終え、猪苗代地区にある地元の蕎麦屋「楽人」(地場産の天婦羅、手作りソバと絵手紙で有名)でお昼にした。

 猪苗代湖は別名「天鏡湖」と謂れ、日本で第4位の広さがあり、冬季はコハクチョウなど冬鳥が渡って来る湖として有名である。その湖岸西北の高台に「天鏡閣」がある。説明の栞によれば、明治40年(1907)8月、有栖川宮威仁(たけひと親王が東北旅行中、猪苗代湖畔を巡遊され風光明媚なこの場所に別荘を建てることを決めた、とある。明治41年(1908)年、磐梯山噴火20年後の8月に竣工し、翌年(1909)、後の大正天皇嘉仁親王)の行啓時に李白の詩から取って「天鏡閣」と命名されている。有栖川宮家から高松宮家、その後に福島県に下賜され、県が邸宅を復元修復している。建物はヨーロッパのルネッサンス様式が漂う比較的小さな部屋がいくつもあり、天井も高く、各部屋には暖炉や有栖川家伝来の家具、調度品などもあり落ち着いた明治の香りが一杯である。

 有栖川威仁親王は、明治天皇に信任篤く大正天皇のご養育や海外留学の経験から外交的な役割を担うこともあった。特に海軍関係でのイギリス留学は結婚直後やその後も3年間滞在している。この青年時代の思い出が別荘の生活に現れているようにも思われる。親王妃は旧前田藩最後の藩士の娘で3人の子供を授かったが2人は夭逝、次女は結婚して皇室を離れられ、親王、同妃が亡くなって宮家は断絶し高松宮家が引き継いでいた。別荘には生前の親王、同妃の物が展示されていた。 今は森の中に静かに建つ邸も、建設された当時は邸から朝日に輝く猪苗代湖翁島、日長その雄姿を見せる磐梯山がよく見えたことであろうと思われた。

都内にある有栖川宮庭園は、江戸時代は陸奥盛岡藩の下屋敷であったところで、後に威仁親王の邸宅と庭となった所である。宮家没後20年の命日に御用地は東京市に下賜され、1975年には東京都から港区に移管され区立公園として現在に至っている。都内に残る江戸時代の大名庭園の一つとして造園を学ぶ学生には必見の庭である。最終日はゆったりと休暇村を離れ、一路東北高速道を走り自宅へ帰還した。

 裏磐梯の旅は大変印象深く自然を満喫できる所で、錦に映える磐梯山五色沼を味わうために季節を変えて秋、今一度訪れたいところとなった。

 

新緑の裏磐梯五色沼 その2

 旅で最も嬉しいことは、朝から晴れ間が広がり快適なそよ風が頬を撫でることではないだろうか。風景が一段と美しくなるばかりか心浮き浮き足取りも軽くなる。それとは真逆の、雨天では気持ちどころか体も乗らず浮かない。裏磐梯第2日目は、朝からそんな日になった。休暇村の窓ガラスを濡らす雨は風と相まって時に強く、窓外の風景を掻き消してしまう。 

 事前に立てた計画を再度練り直し、この日は近くの磐梯山噴火記念館(1998創設)を訪れ、磐梯山の噴火について勉強することにした。実の所、旅に出る前まで磐梯山とその周辺についてよく理解せず、ただ風景の美しい「裏磐梯五色沼」の名前につられて来てしまった。隣に3Dワールドなるものもあったけれどオーソドックスに記念館に決めた。折からの天候のためか来館者もあり、贅沢を言わなければ自然のジオラマもあってそれなりの展示である。磐梯山については詳しく丁寧に展示、解説され、特に1888年7月の噴火については数少ない当時の記録写真などを中心に展示されていた。磐梯山(特に裏磐梯)については、たまたまNHKの人気番組「ブラタモリ」を以前に見ており興味を持っていた。この放送の中では、歌に歌われている磐梯山とその周辺の自然・文化を「宝の山」として捉え解き明かしていた。山体崩壊、遠藤現夢は知らない名前や用語だったが、記念館でその内容を理解することが出来た。入場券を買う折に対応してくださったのは館長の佐藤氏(歴史と火山学;地形地質学の専門家)で、たしか「ブラタモリ」の案内役で出ておられたことを後になって思い出した。

 噴火時の様子を身近で正確にとらえ、以後に正しく伝えようとした人がいたことを知ったのもこの時である。その人は岩田善平という写真家である。1888年の噴火発生と共に現場に駆けつけ磐梯山崩壊やそれに伴う集落の被災状況を14枚の写真に撮り残している。岩田は喜多方出身で19世紀中頃日本に入ってきた写真に興味を持ち、下岡蓮杖(横浜)に師事しその門下生として活躍した。写真は現実をありのままに映し出し、見る人に状況を正しく伝えるツールとして最適の方法であると理解していたと思われる。

 何の苦労もなく簡単に被写体を写すことが瞬時にでき、何処へでも直ぐ送れる今のデジカメや携帯電話と違って、重くがさばるカメラと機材を運び、被写体を選び、足場の悪い現場で設営し、アングルを決め時間を要して撮り納めることを想像すると、彼の14枚の写真の価値や意味が大変大きなものであることがわかる。記録の重要性と自分の生き様の表現として写真を考えていた岩田の信条を幾分か理解することが出来た。

 記念館ではこの常設展示と同時に企画展示として東北の写真家五十嵐健一氏の風景写真展が開催されていた。時代は変わっても写真家として東北(奥会津磐梯山)の自然の持つ四季折々の美しさ儚さ、自然の作り出す形、姿の価値を自分の足で探しだし、「時間」との戦いに向き合い作品化する姿にはただただ敬服するだけである。その瞬間、すぐに形、姿を変える自然がある一方で、何十年、何百年姿を変えない自然の生業がある。その場、その時間を探し求めカメラに収める姿はある面、岩田に通じる精神、東北魂、自然に対する心を垣間見る彼の作品であった。

 

 

 

新緑の裏磐梯五色沼 その1

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 国民休暇村は国立・国定公園内に造られた宿泊施設で、四季を通じていろいろな利用に使われ人気がある。1961(昭和36)年、自然公園法に基づき国立・国定公園内に設置され野外レクリエーションの利用に供するため集団施設として整備され、公園計画に基づいて作られ、全国に37ケ所ある。今回利用した、休暇村「裏磐梯」もその一つ、磐梯朝日国立公園の中にあって磐梯山とその麓にできた五色沼湖沼群を中心に四季を通して自然を味わうのに絶好の場所である。最も人気のある季節は秋の紅葉と冬のスキー、次いで若葉の美しい春である。裏磐梯はその名の通り、磐梯山の裏(北側)に当たり、磐梯山噴火(1888)で発生した山体崩壊により生まれた五色沼と樹林地帯が見所となっている。また、道路網の整備により見どころの多い猪苗代湖畔や史跡・名所の多い会津市街、さらには吾妻山・安達太良山を中心とした吾妻連峰の山々を訪れるのは容易である。今回の旅は3泊4日で東北自動車道を利用し車で訪れた。自宅近くの東名自動車道横浜青葉ICから首都高を通り、環状6号から東北自動車道川口JCTに出た。高速道路網の整備には目を見張るものがあり、渋滞が無ければ首都東京を通り抜け常磐、東北方面に大変出やすくなった。東北自動車道で川口から郡山まで216km、郡山から猪苗代湖まで34kmで合計250km、自宅からは約280km位である。朝早く(5:00)自宅を出て東北道川口に朝6時、2度ほどSA(蓮田、那須高原)で休憩して会津市に直行した。

 東北自動車道が建設整備され、市街地では路側に防音壁が作られその壁面に絡んだ蔓植物は自然に出現したり植栽されたりしているが、その生育は良く防音壁の固い単調な景観を蔦の緑が柔らかく自然に見せている。道路沿道緑化が上手く行った好例であろう。市街地で緑がない地区では立体的な緑の壁として、また田園地区では周辺の緑景観と調和する緑の総体として役割を演じている。

 磐梯山を地図で確認すると地形的には南に猪苗代湖、北に吾妻連峰、西に会津盆地、東は中山峠を境に郡山と安達太良山が見られる。

 会津市は周囲を山々に囲まれ代表的な盆地地形の中に位置し、日光街道、若松街道、沼田街道、喜多方、米沢、山形へ通じる道路と四方に道が発達した都市である。会津鶴ヶ城は茶色の瓦の城で有名である。城内は展示と通路(上り下り)がうまく工夫されており落ち着いてじっくり見ることができた。会津藩の歴史の中でやはり江戸幕府終焉時、尊皇派(官軍)と攘夷派(旧幕府軍)の争いの中、戊辰戦争今年は戊辰戦争150年に当たる)での白虎隊の物語には多くのスペースを使って説明されている(会津戦争1868)。歴史上といえども、まだ百数十年前の出来事であり、長く会津の風土の中で培われた気概、考え方、身の処し方、生き方を示すもので、その流れは時代が変わったとはいえ現在も人々の中に脈々と流れていると感じられた。

 城を見た後、飯盛山を訪れ栄螺堂=サザエドウ(右繞三匝;右回りに三回廻る:三匝堂)を見学、建築的に大変ユニークな建物が残されていた。会津鶴ヶ城の見学通路に似て建物の中で上りと下りで人が行違わない構造になった建物である。江戸時代後期に東北から関東地方に見られた建築様式の仏堂である。螺旋構造の回廊になっており、上り下りとなった変わった造りなのである。本来は堂内に33観音や百観音が安置され、1回の参拝で33ケ寺巡りと同じご利益が得られるような利用がされていたといわれている。螺旋構造や外観がサザエに似ていることから付けられた名前で、平面は六角形、三層構造で回廊は二重螺旋構造、右回りで上り左回りで降りる形であった。説明によれば日本大学建築学科の先生が長くこれについて調査・研究されたとあり、何となく嬉しくなった。 (添付写真参照)

 会津若松市内では松平藩の御薬園(薬草園)を見学した。ここには薬草園もさることながら、心字池を中心とした池泉回遊式様式の素晴らしい庭園があり、モミの巨木や時代を経た枝ぶりの素晴らしいゴヨウマツの老木が庭に安定感をもたらしている。東に望む磐梯山系の山を借景にしていると言われ、周りを囲む樹木も大木、古木が多く庭に落ち着きと重厚感を出している。庭は1.7ha、松平藩第三代藩主松平正容が1696年に目黒淨定、普請奉行辰野源左衛門に造らせた江戸期の大名庭園(池泉回遊式)である。目黒淨定は小堀遠州の流れをくむ庭匠であるといわれており、心字池と楽寿亭のある中島、女滝さらには園路の野筋、水際からの岸の立ち上がりの鋭さが立体感あふれる庭となっており、垂直軸(縦方向)に力強さを表している。その形、全体の雰囲気から国指定の名勝(昭和7年;1932指定)としてふさわしく大変感激した。

  会津といえば白虎隊がつとに有名であり、それに関連する場所として飯盛山がある。その折の戦いで若い隊士たちが飯盛山から鶴ヶ城が炎上、落城する光景を見、遂に事ここに至ったと思い若き命を自ら断ったことで知られているが、事実は、そのまま生きて城に戻り捕まって生き恥をかくことを潔しとせず「生き延びることは武士の本分ではない、と自刃に及んだとされている。いずれにしても19名の若き士はじめ、200名余の婦女子や戦を通して多くの人が亡くなり江戸時代が終わりを告げ、大政奉還に向かい新しい時代が開いていったのである。この、国を二分するような戦の捉え方は、それから明治、大正、昭和と続く150年余の間に、世界を相手に戦いに出ていかざるを得なかったこの国の戦いのことを考えると、いろいろ考えさせられる点が多い。現在は、鎖国の江戸時代とは異なった状態で70年も戦がない時代になっている。 

 会津から休暇村への帰途、県道を山越えして猪苗代湖畔にある野口英世記念館に立ち寄った。この記念館には野口英世の生家が移築復元され、記念館の建物に保護されて建っている。世界を股にかけて活躍した野口英世とそれを支えた人達、若き英世を女手一つで育てた母、東京に出て勉強をすることを勧めた人(小林栄)、海外留学生活や研究を長く支援した人(血脇守之助)、それに応えた英世、時代背景と世界情勢、科学・医学の進歩、科学的探究の深まりとそれを捉える技術的限界と真実の間、科学的探究の世界的競争と実験的検証の重要性、人間の生き方と家族など。考えさせられることが大変に多い記念館見学となった。

野口英世の生い立ちから亡くなるまでの歩みを調べて、新たに知ったことに驚きながら学者、研究者の生き方に敬服の念を抱きながら、一方で人間臭い野口英世(清作)に安心したのも事実である。

 一日目の会津・猪苗代訪問で改めて歴史を見直すこととなり、戊辰戦争官軍の将に長州出身の板垣退助がいたこと、白虎隊慰霊碑との関係でローマ・ポンペイの遺跡の石柱やムッソリーニの名前が出ること、白虎隊の士の中にソニーの生みの親、井深大氏の先祖(祖父:井深基)が二人いることなど、今まで殆ど知らなかった事実を知る旅となった。