水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

海外専門雑誌の購読

 情報化が進んでいます。身近なニュースや連絡が瞬時に広範に広がる時代になって来ています。が、情報の内容と使われ方が問題でしょう。便利で役立つのは対象が不特定多数か特定個人かにより大いに異なります。発信する方も受信する方も、その点については十分配慮しなければなりません。

 専門化が進み、それぞれの分野における情報源も多種多様になって来ていますし、国際化が進み、より複雑で多量になって来ています。

 私のブログでも海外情報のアイテムがあり、造園緑地分野での海外(主にドイツで、部分的ですが)の情報を伝えることがあります。私の場合、その情報源は、以前在籍していました大学の図書館と私個人への寄贈誌です。

 最近、大学の図書館も専門情報誌(学会誌や機関誌など)や専門図書の発行や購読の在り様が変わって来ており、国際的専門雑誌の定期購読が減少してきています。経費節減や効率的な雑誌活用などが求められているようです。関係学科、研究室の予算とも関連し、必要最低限の海外雑誌購読に変わって来ています。

 造園緑地の専門雑誌も、学内の体制変化(学科再編や研究室統合、変更など)により購読継続が問題化し、定期購読取り止めが少なくありません。まして特定国の専門雑誌(その分野で先進国であろうとなかろうと)では尚更でしょう。

 以前私が勤めていました日本大学生物資源科学部)でも、今年(2018.4)から「造園緑地分野のドイツ専門雑誌2誌」(Stadt u. Grünと Garten und Landschaft)の購読をやめました。

 定期的に学部図書館に足を運び、上記の専門誌2誌に目を通し、現在のドイツの造園緑地界の事情をダイジェストし理解してもらうのに役立てたら、との思いでした。それも出来なくなってしまい残念です(規模・内容の縮小です)。

 目下、この専門雑誌をはじめ、他誌(Landscape Architecture(), Garten + Landschaft,  Natur + Landschaft、Neue Landschaft(いずれも独)などの雑誌をどこの大学、学部の図書館、研究室が購読しているか調査中です(もし購読しているなら足を運んで直接読みたいと考えていますが)。

 各大学の図書館では専門雑誌の文献の相互交換利用協定を実施活用しています(WEB上で雑誌の目次・論文タイトルのみ見ることは可能)。しかし、特定、固有の文献(各研究者ならOK)ではなく、全体のニュース、内容を捉えるためには雑誌の全体を見、読む必要があります。それは難しい状況です。

 近年、ドイツの専門誌では著者の連絡先(メールアドレス)が示されており、内容への質問や意見・情報交換などが容易になって来ています。日本の専門雑誌(学会誌や機関誌など)ではどうでしょうか(個人情報の壁があるのでしょうか)。

 いずれにしても、「海外の研究情報」の掲載は少し変わりますが、継続しますので覗いてください。

 

 

 

 

 

ターナーの生きた時代と ”にわ”

 W・ターナーは18-19世紀にまたがって活躍したイギリスの風景画家である。彼は76歳(亡くなった歳)に「私は今から無に帰る」という言葉を残している。この言葉は何を意味するのだろうか。描く気持ち、描く心が無くなったのか。時代の激しい変化に付いて行けなくなったのか。彼の亡骸は市内のSt.ポール教会(映画マイフェアレディーの撮影地?)地下に眠っている、とのこと(私は残念ながらまだ、イギリス・ロンドンを訪れていません)。

 彼の生きた世紀、時代(1750-1850)を見ると世の中が大きく変わった時代である。イギリス王国は世界覇権を狙って地球を駆け巡り、東アジアに進出、それを支える技術の粋(蒸気機関の燃料=石炭採掘、紡織機=綿花、大航海=蒸気船、移送手段=蒸気機関車、貴族社会=紅茶など)が大きく進展した時代である。産業革命(1760年代~1830年が欧州はじめ世界を変えた時代である。

 この時代の世界の動きには、次のようなものがあげられる。

イングランド、スコットランド合併(1707) 、ヴィクトリア王朝(1837-1901)、マリア・テレージアとハプスブルグ家(1740-1908)、清教徒革命(1642-1649)、名誉革命(1688-1689)、アメリカ独立戦争(1775-1783)、アメリカ独立宣言(1776)、アメリカ大統領(J.ワシントン;1789、J.アダムス;1797、T.ジェファーソン;1801)、 フランス革命、ルイ16世(1789)、ナポレオン皇帝(1804)、諸国民の春(1820年代、世界の国々で独立)、イギリス奴隷貿易禁止(1833)。

 また、この時代に活躍した文化人、芸術家には以下の人達がいる。

 ハイドン(1732-1809)、モーツアルト(1756-1791)、ベートーベン(1770-1827)、チャイコフスキー(1840-1893)、メンデルスゾーン(1820-1895)、ショパン(1810-1849)、E・カント(1724-1804)、K・マルクス(1818-1883)とエンゲルス(ドイツ・バルメンの紡績業社長の息子;1820-1895)と共産党宣言(1848)

日本は、宝永の大地震1707)と富士山噴火、葛飾北斎(1760-1849)と安藤広重(1797-1858)、ペリー浦賀到着(1853)、大政奉還1867)と明治維新、ロンドン万国博(1851)、太政官布告1873) 。こんな時代である

 欧州庭園史上ではこの時代、大きな変化を遂げている。地中海イタリア、スペインのルネッサンス様式(傾斜地別荘の階段式庭園)から始まりフランスのバロック様式(ボール・ビコンテやヴェルサイユ宮殿庭園)さらにはイギリスの新古典様式(ストウ庭園)へと国や社会の在り方、商工業の姿、物の考え方と合わせ大きく変わった世紀である。イギリスの風景式庭園を生み出したランスロット・ブラウン(1716-1783)はその師、W・ケント(1685-1748)に師事し造園家としてストウ庭園の作庭に関わり(1741)、その後ロンドンに出てプレナム宮殿(世界遺産)はじめ、多くの庭園の設計、建設に携わり、さらに上流階級貴族の屋敷・豪邸、別荘などの庭にも深く関係している。

 

 緩やかな傾斜地形を活かした牧草地、静かに流れる川、丘の上に建つ貴族の館や城、広大な眺め、建物と庭とその外に広がる大景観とハハー(空堀)による合体、川や湖の水面、なだらかな丘の線、広がる空。それらが作り出す一日の風景(朝~夕べ)、季節毎に変える姿、その形と色の変化。ターナーならずとも魅入る多様なイギリスの風景。

 産業革命で激しく変わる人々の暮らしと都市の姿、真っ黒で薄汚れた市街地の光景、世界。自然の持つ美しさと激しさを感じつつ「美」を追い求めたターナー

 内容やスケール、色や形こそ違え、今、現在にも見え隠れする状況。

 時代の変革、暮らしの変化を感じ知りつつも目もくれず、母国を愛し故郷を慈しみ自然の移り変わりの美しさと厳しさを表現し続けた。その折々に人々の変わらぬ暮らし、生活の姿を少しだけ絵の中に描き入れた。

 今回の作品展を見て、ターナーは自然に合わせて生きてきた人、自然に贖えないけど順応して生きる人やその中に見られる普遍的な美しさを求めて描き続けた画家だと感じた。 

 

 

 

 

展覧会巡り 18   ターナー 風景の詩

 日本の洋画家東郷青児は独自の女性画像で洋画界と言わずファッション界でも一世を風靡した画家として有名である。彼の作品を中心とした美術館が新宿にある。その名も東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館である。この美術館で4月から7月(4/24~7/1)までイギリス風景画の巨匠ターナー 風景の詩」と題する展覧会が行われている。東京での公開に先立ち北九州市立美術館(2/4迄)、京都文化博物館(2/17-4/15)で開催され東京開催後には郡山市立美術館(7/7-9/9)へ巡回して廻る。

 このターナー展は、18世紀半ばから19世紀半ばにイギリスで活躍した風景画家ターナーの作品(水彩画73点、銅版画等112点、油絵8点)を4つのテーマに分けて展示している。それは 1)地誌的風景画、2)海景--海洋国家に生きて、3)イタリア--古代への憧れ、4)山岳--新たな風景美をさがして、の4つである。

 ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775-1851)、通称 ウイリアム・ターナーはロンドンのコベントガーデンで生まれ13歳で画家(トーマス・モールトン;地誌的素描家)について風景画を模写したり描いて絵画の基礎を学び、24歳の若さで、あの権威あるイギリス・ロイヤルアカデミーの準会員になり、27歳で正会員となっている。24歳で描いた自画像(1799)を見るとなかなかのイケメンである。

展示作品で17-30代の風景画(水彩画8点油絵2点)はとにかく細部まで大変細かく描き込まれていた。第1章;地誌的風景画部門ではA3かA4大の小品だが、水面や空の表情、建物の細かい線、小さく描かれた人々の姿など注意深く観察して細部まで丹念に書きこまれ淡彩で彩られている。見ていて心が落ち着く作品が多かった(私も歳か?)。

 地誌的風景画は当時、測量や地図の作成が進められた時代で、イギリス各地の地形、植生、水系から成る風景の描写は名所案内の如く、その意味で重要であった。当時、本の挿絵として多くの風景画がエッチング(銅版画)で描かれ、写真の無い時代、各地の名所旧跡が絵で表され重要視されていた(第1章の展示作品の銅版画の多くは郡山市立美術館が所蔵)。40-50歳代の風景画もイギリス各地を巡るスケッチ旅によるものが多い。展覧会の出品作品案内にはイギリスの地図も載っており、ターナーが訪れた国内の町が示されている。それを見るとほぼイギリス全土、北はスコットランドからイングランドの東・西に及んでいる。また、テームズ河流域も度々訪れ描いている。1825年に40kmの鉄道ができ、1830年にはマンチェスター リバプール間に鉄道が開通しているが、それ以前は馬車か徒歩で全国各地を巡り描くしか手立てが無かった時代である。J,スティーブンスが蒸気機関車を、フルトンが蒸気船を作り出した時代(1740年代)。時、まさにイギリス産業革命の真っ只中の時代である。ターナーがいかに健脚で各地を歩き回り精力的に絵を描いていたかが分かる。彼の愛国心と美しい風景や自然に対する愛着が彼を駆り立てたのだろう。貴族社会で古典主義派の写実的風景画が人気を得た時代でもあり、17世紀クロード・ロラン(地中海風景・古代風建築)の絵画が、大きな貴族の館の壁に架かる絵(風景画、肖像画)として持て囃された時代である。同時代の日本の画家池大雅(1723-1776)も日本全国を旅して風景を描いているが、蘭学者を通じて西洋の遠近画法を知っていたふしがあるというのは妙である。

 

 第2の「海景--海洋国家に生きて」部門では海と空と帆船が主題である。先の地図でも海岸線、特にイングランド中西部から東部、またロンドンの東南部の海岸を頻繁に訪れ海景を描いている。静かな海の絵は殆ど無い。荒れ狂う海、大きな波と白い波頭、空を覆う真っ黒な雲と雲間の明るい空と差し込む光、波間で傾き大波に洗われる帆船、水面を飛ぶ2-3羽の海鳥。どの絵にも激しく、風雨と闘う人と帆船、自然の猛威が描かれ海に囲まれたイギリスが暗示される。ターナーは現場で簡単なスケッチをする程度、自宅アトリエでスケッチをもとに、自分の目で見て頭に入れた色、状況を思い出し作成することが殆どだったようで、スケッチを描く(記録)以上に記憶と感性(インスピレーション)に長けていたようである。

 ここでも銅版画(郡山市立美術館所蔵)が素晴らしい。ターナーの絵は銅版画で卓越した技術を持った彫版師(彫師)に支えられている。1mmの間に6本の線を描き出したり、点の数や大きさ、深さで空や水の濃淡を表す(彫り出す)彫師の技術には、日本の浮世絵木版画の彫師に通じる技術が銅版画にもあったことに大変驚ろくと同時に、洋の東西を問わず18-19世紀の技術職人の腕前には舌を巻く。「エディスタン灯台(1824)は秀逸である。難破船と灯台、その周りの荒れ狂う波、遠くの雲の切れ間から覗く星と三日月(26×35cmの銅版画メゾティント)。その小品の中に込められた自然の猛威、人間の無力さ、希望の空と星、ターナーの絵に込めた力が分かる。イギリス西部ミューストーン沖に浮かぶ灯台を時化の中、実際に見に行ったのだろうか。

 ターナーの銅版画は800点あり、常に80人からの彫版師が関わっていたと言われる。彼が銅版画に拘ったのは3つの理由があるようで、①自分の作品の普及、大衆の為の版画、②旅行ガイドとしての役割、国内外への旅行が流行る、③芸術的価値の認識 である。

 

 第3の「イタリア---古代への憧れ」。この展示部門ではターナー50-60歳代の作品が多かった。ターナーは1819年8月から1820年2月、44歳でイタリアへ旅行しローマを訪れている。この時代、欧州では「グランドツアー」と称してイギリスの貴族の子弟がルネッサンス文化華やかなイタリア・ローマへの憧れから国外旅行が流行し、多くの芸術家、文学者、詩人など有名人がフランス、イタリア、スイス、ドイツ諸国を訪れている(文豪ゲーテ1749年から2年間イタリア、メンデルスゾーン1831-1833イタリアなど)。

 どんよりとした曇り空が代名詞のイギリスと燦々と降り注ぐ太陽の光が代名詞の地中海の国イタリア、風景と歴史と自然(色や光)に憧れを抱くのは何処も、いつの時代も同じである。北ヨーロッパの国の若者が国外旅行に地中海を選び出かけることが出来たのは裕福な家庭、著名人であればこそであろう(逆の発想もあり、歴史と文化で伝統のあるイギリスを訪れた有名人も多い:例えば音楽家ハイドン;1794-1795、交響曲ロンドン、驚愕など作曲)。

 第4の「山岳ーあらたな景観美をさがして」では、20代から60代までいろいろな時代にイギリス国内はもとよりドイツ、スイス、フランス各地の景勝地、名所の景観を描いている。特にスイスアルプスの自然山岳景観(氷河景観)には強い関心を持って描いている。彼は風景画に自然の「崇高」さを感じそれを表そうとしている(「崇高」とは、畏怖を抱かせるような自然に「美」を見出す価値観である;解説より)

 彼は26歳時、初めてイギリス北部スコットランド地方への旅に出て(1801)古城景観や湖沼地方の風景を描いているし、スイスの山岳景観に魅かれ、たびたび訪れ自然の醸し出す崇高な景観を愛した。また、ドイツではハイデルベルク古城とネッカー河畔、ローレライ景観(1817年2度目の大陸旅行時に訪れている)を描いている。私も彼が訪れた場所を良く知っており、当時と全く変わっていない風景に驚くとともに、ハイデルベルク古城の絵の中にターナー自身の姿を描きこんでいるのには、驚きとともに愛嬌とユーモアのあるターナーを見た気がした。

 

(追記)この展覧会開催中に、映画「ターナー、光に愛を求めて;2014(英作品)の上映と解説があったようである。映画はWOWOWでも取り上げられ見た。映画を通してターナーを取り巻くその時代のイギリスの情景を理解でき、また彼の生き様の一端を垣間見ることが出来、彼の作品を観賞するうえで参考にもなった。人間的にも社会的にも波乱に富んだ変化の激しい時代であったことを知ることが出来た。

 また、この時代の造園庭園史(イギリス風景式庭園様式)の上での出来事がターナー作品と浅からぬ縁があることも改めて知るところとなった。これについては別途、纏めることとしたい(ターナー絵画と造園)。

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湘桜みどり会総会  (平成30年)

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 平成30年6月23日(土)午後、日本大学生物資源科学部湘桜みどり会の年次総会が大学キャンパスのある湘南六会で開催され学生を含め卒業生参加の内で就職説明会、年次総会、特別講演会と懇親会が開催されました。3,4年生在学生の参加が半分と少なく、やや盛り上がりに欠ける総会他でしたが、内容的には充実した会となりました。

 湘南キャンパスの現状は以前と比べて大きく変化してきており、40年ぶりにキャンパスを訪れた卒業生(三重県津市から参加:全国でも有数のゴルフ会社)の坂元伸行氏(株;アコーディア・ゴルフ顧問)は余りの変わり様に唖然とする心境(今浦島)ですと話されていました。

 総会では役員の交代期に当たり、会長は荻野氏(アゴラ造園;昭和55年農学科卒)から大澤先生(生命農学科教授;平成14年大学院博士課程修了)へ、幹事長は河村氏(横浜市役所;平成7年卒)へと変わり承認されました。

 特別講演会は、高柳女史(日本医科大学外科学教授)による緑の重要性についてのユニークな講演「健康とランドスケープ」、それと益子隆一氏(平成3年卒)によるファンタジー溢れた講演「児童画の製作プロセスにみる造園設計」があり、話し方も講演内容も大変魅力的でした。

 懇親会は「交流会」と合わさった様式で卒業生、在校生が和気藹々と時間の許す限り(2時間)中身の濃い時間となりました。持参した北海道根室の名品「オランダ煎餅」(研究室卒業の小畑拓也氏根室在住;環境コンサルタント・グラフィックデザイナー;平成13年院修士課程修了)と私の差し入れ)の紹介もあり、また学内でのケータリングメニューによる多彩なオードブル、いろいろなアルコール類の飲み物と合わせ、盛り上がったテーブルの内容でした。

 添付しました写真は現状の造園緑地科学研究室と総会の様子です。懐かしさや真新しさは卒業年度により違うでしょうが、現在の研究室周りは教員も学生も2スパーンずつ(図書・資料室を除く)の空間になっています(以前より狭く小さくなってしまいましたが研究室は以前にも増して明るく活気があります)。

 追;ブログに対するご感想ご意見は以下のアドレスへメールで頂ければ幸いです。

   biber1122@mri.biglobe.ne.jp

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大阪北部地震 ・ 緑ありせば

 同じ歳の子供を身内に持つ人間としてあまりに惨い、辛い、悲しすぎるニュースです。数日前の平成30年6月18日早朝(7:58)大阪北部を震源とする地震があり通勤、通学時に大きな影響を与え、同時に社会的インフラの広域的被害により日常生活がマヒする事態になっています。中でも交通機関のマヒと建造物等の倒壊による死亡事故は、数は少ないとはいえ悲しいニュースでした。

 特に、小学校通学時間と重なって起こった高槻市寿栄小学校プール脇のブロック塀倒壊による児童の圧死事故は、突然で例えようもなく悲惨で悲しい結果になってしまいました。2m弱の基礎部分の上に1.6mのブロック塀が積み上げられた構造となっており、強い横揺れにより積み上げ部が道路に倒壊、たまたま早出して通学途中だった4年生少女の上に倒れ落ち下敷きになって亡くなってしまいました。

 

 われわれ(私も緑の整備を主張する造園家の一人として造園緑地家として、これまでにも社会的インフラ整備に緑の役割の重要性を強く喚起してきました。特に阪神淡路大震災時(1995)には日本造園学会で特別調査団が組織され、詳細且つ建設的な報告・提言がなされています。街路樹や生垣、緑の塊(空間や線・点)が都市災害時において大きな役割を担っていることを明らかにしました。

 また、快適な都市空間の整備、省エネや緑環境・生き物・生態系に配慮した施策として、特に公共空間の緑の整備を推し進めることを、ドイツの事例を参考に紹介されてきました。これらの災害時よりも前から、都市内における接道部の緑の重要性も指摘され各自治体の「緑の基本計画」に反映させるよう進められてきています。

 

 今回の事故現場で、この指摘に合わせ、もっと早く(3年前に指摘されたとの報道あり)適切に対応が図られていたなら、この悲惨で悲しい事故は起こらなかったでしょう(例えば生垣整備;事実、崩れたブロック塀の隣に植え込みの植栽がされている)。

 プール利用時の生徒の姿を隠すため(?)なら生垣でも十分でしょうし、子供たちの手で苗木を植栽し育て管理し、緑のあるプールとして作られていたとすれば、いろいろな意味で効果の大きな緑になっていただろうと想像するのは私だけでしょうか。

 接道部の緑化は街路の見透し景観での「緑」の充実として意味があり、時に防風・防塵・防火的役割も併せ持つものです。学校校内で樹木の小さな苗木を植え、育て、管理するのも教育・指導の一部で、その場所が地域の緑の塊(杜)になっていくのではないかと考えます。同じような視点で、地震直後(6月19日)の読売新聞「編集手帳」に少し纏めの視点は違いますが皮肉を込めたコメントが掲載されています。

 ブロック塀中心に、事後点検がなされていますが、これを機会に「公共空間の接道部の緑の在り方」も十分検討し、街づくりの中で緑豊かに、もっと安全で快適、住み心地の良い地域となって行くことを期待するばかりです。それが亡くなった女の子との約束としてほしいです。

 

 

映画「モリのいる場所」と33周年展

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 以前訪れた熊谷守一美術館へ再び足を運びました。最初に訪れたのは春の訪れが早く桜満開の3月25日、皇居北の丸下、九段にある昭和館での特別企画展を見た後です。この昭和館特別企画展(展覧会巡り14 参照)を見終わった後、豊島区千早町にある熊谷守一美術館へ足を延ばしました。それ以前、読売新聞に掲載された熊谷守一に関する記事(3/3読売新聞;時の余白:編集委員の芥川喜好氏が書いた;純粋の人と心ひろき人々 の記事、 3/15読売新聞;文化部、岩崎氏が書いた;激情・鎮魂・愛らしさ、熊谷守一展 の記事)で、いつか彼の絵を見てみようと思っていたからです(展覧会巡り13 参照)。それと、新聞記事にもあった熊谷守一をモデルにした映画「モリのいる場所」(沖田修一監督、山崎努樹木希林出演の映画;日活作品)が公開され 6月9日に見たことにも因ります。

 映画は、守一の晩年のある一日の様子を描いたもので、守一役と奥さん役の山崎努樹木希林はなかなかの演技でしたが、映画からはそれほど強い感動や印象は得られませんでしたが、熊谷守一夫婦と周りの人々の日常的な様子(1965年)は見て取れました。晩年は殆ど自宅(現在は美術館になっている)から出ず、草木の茂る庭での生活で、生き物の在るがままの姿を観察・鑑賞、絵を描く日々だったとのこと。今風に表現するなら生き物に優しい、生物多様性を地で好く淡々とした生き方と場所であったように思います。

 守一の晩年の生活を想起しながら改めてその場所に立ち、作品を見ることにしました。折から旧居後に建てられた「熊谷守一美術館」開館33周年展が行われていました。

 彼の油絵、墨絵、書など103点が展示され、大変見ごたえのある展覧会で、守一の生まれ故郷岐阜つけち(中津川市付知町)記念館、岐阜県美術館など所蔵先からも借用、展示されていました。

 戦後の守一の油絵作品は、その多くが板に描かれており、絵の具の下に板が見える物も少なくありませんが、それがモチーフの縁取りとも合って全く違和感がありませんし、板の木目に合わせて絵の具を横や縦だけの線で塗り上げています。それにしっかりしたデッサン力(形や質量感、画面の構成、バランスなど)で絵に落ち着きがあり、単純な中に深みを感じます(絵からいろいろ想像させてくれる)。

 展示されている中で最も若い時代の作品「風」(1917)は色合いがセザンヌに似ていると思いました。1920-30年頃の油絵は絵の具が盛り上がらんばかりに塗り込められ(「百合」、「ハルシャ菊と百合」、「裸婦」など)、「陽の死んだ日;1928大原美術館蔵」と同じころの作品)、それらは戦後の作風と全く異なっています。若さ(時代)や激しい情念(感情)が絵に現れているような気がしました (苦難と悲しみの時代)。

 日常の動植物に注視してその姿を描き上げた油絵に、60代以降の守一の姿があります。静の中に動を、動を静として表す 純化された世界は深みがあると感じました。

 私自身も静物を描くことがありますが、全てを描こうとすると難しくなります。如何に簡単に表し内容豊かに多くを伝えるか、これほど難しい表現は無いのでは無いかと思います。

 明治から大正、昭和、平成へと、混乱から安定、貧困から繁栄、静穏から激動、伝統から革新、激しく動く社会を背景に97年を生きた熊谷守一横山大観とは全く違った画家人生。 65歳以降、30年余を静かに自庭に籠り絵を描き続けた姿は、仏様の様な気もします。

 

 

 

 

 

     

   

 

孟宗竹と淡竹、筍

  数日前、以前勤務していました日本大学の外部研修施設【富士自然教育センター;FNEC)を経由して現地産の淡竹の筍を戴きました。早速簡単に灰汁抜きをして数種の料理で戴きました。とても懐かしく、美味しい夕食でした。懐かしいというのは、子供の頃、生家の屋敷内に竹林がありその構成種が淡竹で、筍の季節になると藪に入って筍を取った記憶があります。味噌和えや煮物は本当に美味しくこの時期の山椒の若芽や若葉を添えて食べるのが通例でした。

 そんな子供時代の記憶を辿りながら、以前FNEC近くの農家に孟宗竹の筍掘りに行ったことも思い出しています。FNECに勤めておられた伊藤さんの知人が所有されている竹林で、土から僅かに頭を出した筍を掘り出した情景です。

 孟宗竹は中国から渡って来て本州に広く分布する代表的な竹林の構成種です。筍は頭を出す前に掘り取られ旬の初物として料亭で出される珍味でもあります。「雨後の筍」の例え宜しく、その成長の早さには目を見張るものがあります。筍のうち、孟宗竹に次いでやや遅れて出てくるのが淡竹(ハチク)で、味は孟宗竹ほどではないですが、こちらも味噌和えや味噌汁の具として珍重されています。淡竹にさらに遅れて真竹(マダケ)がす~っとした細い筍を出します。筍の味は芳しくないようです。「天は二物を与えず」と言うように何かに特化してその特徴を生かしていると言った方が良いでしょう。

 味の良い孟宗竹の筍は煮て良し揚げて良しで、根元から穂先まで料理に使われますが、竹の稈は割れ筋が乱れ使い難いです。でも丸竹は太く適期に切り出せば材もしっかりしており多用途(花筒や竿管から柱・支柱まで)に使われています(中国に初めて行った時、建築現場の足場材として、繋いで繋いで高所まで組んで使っているのを驚きを持って見た記憶があります)。最近では、竹林維持管理放棄による里山景観の変貌がいろいろ問題となっています。

 真竹は稈の筋目が整っており直線で割り、裂き易く竹籤から傘骨、茶筅さらには色々な簀子(和紙を漉く際の簀子)等いろいろな竹細工まで、これまた多用途に使われています。節目が二重線(鞘の付け根)で孟宗竹の一重とは違っています。日本独自の竹製品(工芸品や竹細工)もありますが、もともと竹の原産地が中国であることから、昔、台湾にある故宮博物館で見た竹細工(手の込んだ竹籠や竹で作った昆虫等)の見事さ、素晴らしさに驚嘆したことを思い出しました。

 (インターネットを見ていましたら高知県須崎市にある「竹虎」のHPがあり、詳しく書かれています

 淡竹の筍の先端部分は、ややグロテスクに曲がりくねり、目を凝らして見ると一種異様です。鞘の縁や先端部に赤茶けた微毛が多くあり、また皮鞘に細かく幾筋もの線が模様となって見られます。竹の姿を示すように直線で先端部まで伸びる「筋」は単子葉植物・イネ科を物語っています。

 貰った筍を見て絵心を擽ぐられ、「絵手紙」のモチーフとして描いてみました。

   右は数年前の孟宗竹の絵、左は今年(2018)の淡竹の絵です。

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平成最後の湘桜みどり会

 「お久しぶりです」、大学を退職してから既に3年半になります。日本大学の造園学研究室に同窓会を創設しようとしてから何年になるのでしょうか。「みどり会」を発足させて業界、官界、学会の中で日本大学の造園を大々的に売り出していこう、という気概でこれまで進んできました。多くの学生諸君が巣立ち、社会の中でいろいろ活躍されている姿は頼もしくあります。 

 一方で大学の研究室も日々発展、変化をしてきています。詳しくは今年の「みどり会」に参加して覗いてみましょう。近くの人、同級の人、身近におられる先輩後輩を誘って行ってみませんか。研究室スタッフが少ないので、若い卒業生の皆さん、積極的にお出かけください(私もぜひ行くつもりです)。年に1回ですから是非に!

 お会いできることを楽しみにしています。

 詳しいご案内は研究室のNUメールで連絡されるとか(藤崎先生談)、私が聞いている範囲では今月6月23日(土)午後、湘南キャンパスの会議室で行われるようです。当日は学部での色々な行事が重なっているようで、会場の確保が大変だったようです。懇親会の内容は聞いておりませんが、サプライズがあるかもしれないと、微かな期待をしていますが・・・・。

 研究室も参加してキャンパスの緑の空間を整備したり考えて行動をしてくれています。屋上緑化や壁面緑化、中庭芝生管理を具体的にしたりして、学生諸君も参加し緑を育ててくれているようです(添付写真はその一部で新2号館の屋上の緑です)。

 キャンパスの中で変わった点、変わってない点など見比べてみてください。土曜日ですのでお勤めの人は参加し難いかもしれませんね。それに女性軍はお母さんをしていたり、お子さんのことで忙しかったりで、参加したくても参加できないのかもしれませんね。でもそこをなんとか・・・・。年に一回ですから・・・。

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展覧会巡り 17  横山大観展

 

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色々な展覧会がいろいろな美術館、博物館で行われています。開催会期(展示期間)が長いものもあれば短いものもあり、いろいろです。しかも会期が長い場合、多くは前・後期2分して展示内容も一部変えて行われる場合が少なくありません。今回の展覧会は所蔵美術館の関係もあるのか、作品の展示が細かく区分されており、見所となる有名な絵画を中心に分けて展示され、その大要を見るためには少なくとも2回以上会場に足を運び入場料を払うことになります。

 今回の横山大観展は誰もが知っている著名な日本画家・横山大観の生誕150年を記念した大回顧展であり、氏のよく知られた作品や60年余を捧げた多くの作品が各時代に沿って展示されており、私は会期末の5月24日に見てきました。( 4/13-4/19, 4/13-4/25, 4/13-5/6,  4/20-5/13, 4/26-5/06,  5/15-5/27, 5/8-5/27;作品によって見れる期間が違いました)。

 横山大観(1868-1958)は明治元年水戸市生まれ、東京美術学校(現;東京芸術大学)の1期生で先生には、これまた著名な岡倉天心(1863-1913)が、同期生には菱田春草や下村観山がいます。特に菱田とは絵の表現・手法や考え方が同じで気が合ったらしく、よく行動を共にし、海外(インド、アメリカなど)へも一緒に出掛け絵を描いています。卒業後、美術学校に教員として戻っていましたが1898年、校長の岡倉天心排斥運動が起こり天心が辞職するに合わせ美術学校を辞め(春草、観山も同じく日本美術院の創設に参加しています。 

 20-30代の大観の作品で有名なものに「無我」(29歳の作品)がありますが残念ながら4/19までしか展示されず私が訪れた日にはありませんでした。しかし、第1章「明治の大観」コーナーには、美術学校卒業の年25歳の作品「村童観猿翁」があり、伝統的な日本画の描写法で多くの子供たちが猿回しを楽しんでいる様子を描いています。子供たちの表情、猿回しの翁の姿など優しさのある若き頃の大観の絵を見ることが出来ました。34歳で描いた「隠棲」と「迷児」を見て日本画の新しい方向を模索する大観の姿(絵が見る者に創造力や思考力を求めている社会性のあるモチーフ)を感じました。

 この頃、大観は結婚(29歳)し長女を得(31歳)ていますが、6年連れ添った妻を亡くし(35歳)海外(インド、アメリカ、イギリス)へ旅している途中に長女(6歳)も亡くし帰国(37歳)しています。最愛の人を次々と亡くした中で絵を描き続けていたことになります。「海---月明かり;36歳の作品」はその頃の一枚。月明かりを受ける荒波と月の明かりがある空、月を描かずはっきりしない茫洋とした境を光の輝きの違いで描いて朦朧体最初の頃の絵と言われています(「ガンジスの水」も同じ、水面はゴッホの空のようなうねり)。100年ぶりに見つかった「白衣観音」は40歳の時の作品で、観音の左手や足の組み方の描き方(デッサン)が?おかしいですが、ふくよかな女神(顔がインド人的と言われる)の感じは印象的です。

 大観、春草と言えば日本画の新しい波;朦朧体(線描を抑えた没線描法、朦朧として境がはっきりしないぼんやりした画法)を生み出したことで知られていますが、当時は受け入れられず批判に晒されています(西洋画の遠近法などを取り入れ深み、奥行きの深い空間表現)。

 海外で見た風景を題材に描かれた「瀑布(ナイアガラの滝、万里の長城);1911、6曲2隻屏風」の描き方、色使い(群青と緑青)には感激しました。それまでの日本画にはない大胆な構図と色使い、ほんの一部分だけの彩色(黒と緑)で2隻の屏風。その大胆さに言葉が見つかりません。帰国してから旅の中でのスケッチを基に43歳の作品です。どんな心境で描いたのだろうと思わずにいられません。

 「大正」の大観コーナーは、大観(45歳~58歳)の充実した絵画が数多くありました。

横浜三溪園庭園で有名な原三溪に乞われて描いた「山路」は秋の落葉樹林を殴り書きした様な筆致(薄茶色)で描いていますが初めて岩絵具を使った作品との事、また「松並木;45歳の作品」は東海道を歩いた経験から、大観の描いた松並木が何処か気になりました。絵は大変印象深く、松並木の下を歩く2人の人物が小さく描かれ、遠くの松は薄いセピア色で枯れ木のように淡く描かれていました。松の幹に、まるで蝉のように見える大観の「落款」があるのは大観ならではの面白い機知に富んだ発想と感じました。

 「柳陰;47歳」は柳の葉、樹枝が画面全体に描かれる構図で6曲1双の屏風絵。右隻一扇に描かれている驢馬の首が長すぎ、と見えたのは私だけでしょうか。

 この年の3月に、大観は下村観山、今村紫紅、小杉本醒の4人で東海道53次の旅に出かけ、歩きと馬車で小一か月かけ東京から京都までの街道を踏破、途中、絵を描きながら宿場を繋ぐ旅をしています。

 旅に出て全国の自然を観賞し美しい日本の風景を絵にしていますが、秩父から荒川を下って絵に描いてもいます(49歳)。「荒川絵巻」は、長瀞の巻と赤羽の巻の2巻で、赤羽之巻は寄居から赤羽までの川沿いの風景を描いています。

 今回の大観展の一番はやはり「生々流転」でしょう。大観55歳の作品で、今回の展覧会では下絵画帳と合わせて展示されており、長蛇の列が続いていました(最初の写真は巻物の最終一部分)。山間の滴から川を下り大海の海原、海で空へ上る大気を描いています。

  60歳以降は「昭和の大観」のコーナーとして展示されていました。この中での圧巻はやはり1930年ローマで開催された日本美術展に出された「夜桜」;6曲2双2隻の作品でしょうか。篝火に照らしだされる屏風一杯の桜、黒い奥山と山影に覗く満月。素晴らしいの一言です。さぞイタリア人も驚き、日本の美しさに感嘆したことでしょう。「紅葉」は63歳の作品ですが、同じ屏風絵で左隻には前面に紅葉したモミジ、右隻は左隻の続きの紅葉と川面、岩(荒川上流、秩父長瀞の岩の様)と雲です。これもまた圧巻、右隻2扇に描かれた飛翔するカササギもポイントでしょう(添付写真参照)。

 85歳の時の「霊峰飛鶴」は、大観が好んで描いた富士山の上空を多くの鶴が飛ぶもので1500点を越える富士山の絵の内、晩年の一枚でした。静かさと優美さがあり、ドッシリと動かぬ富士と悠然と飛翔する群鶴の動きには、「画は人なり」、「絵は何処までも心で描かねばならぬ」と言った大観の気概がこもった作品でした。「群青富士」や「彗星」は見られませんでしたが、充実した回顧展を満喫できました。

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今年は早い刈込作業    身近な緑   その3

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 不順な天候が続く2018年の5月ですが、いかがお過ごしでしょうか。大変暑い夏日になりそうな日があったかと思うと、朝夕一段と肌寒く、日中でも15度前後の曇り空の日があったりして気温の変化について行くのが大変です。季節の変化も異常な陽気に惑わされるように、10日から2週間ほど早く変化してきているようです。それにも地域差があるようで、今年は季節の花もきちんとした時期に満開を迎えている様子がありません。薔薇の花の満開は5月連休明け位と思っていましたら、今年は盛りを連休中に過ぎてしまったとの声も聴きました。草花も大変なようです。

 我が家の垣根も御多分に漏れず例年になく新芽の成長が早く、こんもり茂ってしまいました。例年では旧盆の前に垣根刈をするのですが、今年は蒸し暑くなって「むさくるしくなる前」5月3週目に実施しました(昨年は8月上旬でした。ブログ「身近な緑」2;2017.8参考)。

 垣根刈では目印や物差として糸を引いたりする例があるようですが、私はこれまで目だけを頼りにやってきました。小さい子供時代から生家の周りが生垣で囲われていましたので、旧盆会の前には父親を先頭に家族総出で垣根刈をするのが常でした。その甲斐あって垣根刈の技術を幼くして身に着けることが出来ました。この技は大学で造園の教員になってから、より大きな効果・成果を産むことになり、造園・庭園実習では学生に何の抵抗もなく実技を披露し教えることが出来ました。

 刃渡り25cmほどの刈込鋏(全長70cm位)を使って垣根に向かうのですが、この鋏仕事は初めてやると次の日には腕の筋肉痛に襲われます。動き自体は単純ですが刈込鋏を繰り返し、チョキチョキ何度も反復するため腕、肩、胸の筋肉が痛くなるのです。最初は表の縦の面、次いで上の面(平面)を刈り込みます。

 刃先で新芽や新枝の部分を刈込み大体の面づくり(概略的に線を出す;荒刈り)をし、「刈込・離れて見通し」、「また刈込・見直す」の繰り返しです。不思議なもので刈り込みが進むと次第に直線(面)が浮かび上がってきます。仕上げは、その段階からさらに刈込鋏で少しずつ「面と線」を意識しながら刈り込み、直線と均平面を出します。

 ドウダンツツジは花と紅葉の両方の美しさを味わうことが出来ますが、両方を得るのはなかなか大変です。何故かというと花を見るためには新芽が固まって早く剪定をし、新枝が秋までに充実し次の春に咲く花芽を付け充実させなければなりません。一方、紅葉の美しさを味わうためには、できるだけ遅く刈込み、刈り込んだ後の柔らかい新枝の状態で秋から初冬の冷気に晒すことが美しい赤い紅葉を生み出すうえで重要です。夏前に刈り込むか夏過ぎに刈り込むかの違いがこの点にあります。

 今年の垣根刈は2度を計画し、秋、美しい紅葉を得ようと計画して取りかかっています。第一回目の刈込は終了しましたが、これからどうなりますやら。体に鞭打って頑張ります。

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