水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

ドイツ・NRW州機関誌 Natur in NRW 夏号(2018.No.2) より

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● 今回の報告はNo.2(夏号)の話題で、以下の通りです。(上の写真は冊子の表紙絵です) 

 草地果樹園(Streuobstwiesen)は果樹の下の草地の在り方について述べられています。ドイツでは街路樹*としても以前から果樹が良く使われていましたが、果樹の生産に特化した果樹園としてでなく、生物多様性、伝統的農村風景、伝統的果樹品種**の保全など多様な価値を持つ、集落内や周辺部にある野生草で地表を被覆された果樹園の見直しが進められて来ています。それは昆虫はじめ野鳥や野生草の生育、生息空間として重要であり、かつ伝統的な維持管理法、農村・集落景観としても価値を有し文化景観(Kulturlandschaft)の保護の視点、地産地消、食の安全性等からも保全・再生が指摘されてきています。この号は、それに関する報告が中心になっています。

*今日でも農村の中の遊歩道整備(例えばハイキング、サイクリングロード等)の際に、街路樹整備の対象として果樹(多くはリンゴやナシ等)の苗木をを名札(樹種名・寄付者名付)を付けて植栽をしていますまた、伝統的に農村の街路樹整備「郷土保護;heimatschutzとして」で果樹(リンゴやナシ)を植栽してきました(例えばG.Vorherr)。最後の段の写真はドイツ・ハノーファ市郊外の遊歩道沿いに植栽されたリンゴ(寄付者の名前とリンゴの品種が書かれています)

**日本の果樹試験場?にも伝統的な古来からの旧い品種が生体保存(品種保存)されていると思いますが、ドイツでは報告にある通り特定の機関でしっかり保存・育成されています

 

2018.  No.2(夏)

1) Streuobstwiesen:  Weiter auf dem absteigenden Ast? (草地果樹園;増大傾向の今後)   著者:Corinna Dierichs   連絡先:dierichs@biostation-rhein-sieg.de

 ライン・ジーク郡内4町村における1990-2013年(23年間)の草地果樹園の動態について報告しています。高木果樹のある樹園草地はNRW州の文化景観として保全され、かっては代表的な経営形態でありましたが今日ではとりわけ、自然保護ー種保護の視点に注目されてきています。こういった果樹園の動態(1990/2013比較)が全体では、9万本/1400ha/3千ヵ所(1990年代半ば)あったのが現在どうなっているか調査されています。自然保護地区内とそれ以外(無指定地区)で状況が変化してきています(全体でー48%減;自然保護区内は17%減に対しそれ以外では54%減)。この調査には航空写真(精度も地上で40cm~20cm判読可)も使われています。現況では、保護地区も無指定地区も共に旧い果樹園が増え(60%以上)、 共に90%以上で樹木の老化が進んでいると報告しています。

これに対する対応施策として、自然保護地区内での果樹園の充実、改善、果樹園における家畜(豚や羊、山羊等)の放牧の再生、推進、所有農家の理解と参加、民間団体の果樹園保全に対する積極的参加、学校の環境教育・体験教育での理解と参加と推進、州の自然保護法42条(4項)の積極的適応などを挙げています。また、今年中に州内の草地果樹園のデータが整備される予定です。

2) Wildapfel im Spannungsfeld menschlichen Wirtschaftens(社会経済的に緊張感のある 野生リンゴの位置づけ) 著者: Ulrike Hoffmann  連絡先:mahpa@web.de

 ここで言う野生リンゴ(Malus sylvestris)は2011年にレッドリストで絶滅危惧種に指定され、2013年にはその年の樹木にもなり、遺伝子保存まで行われています。これはNRW州での野生リンゴに関する調査・研究史の報告で、文化景観の構成要素として野生リンゴ(7000年以上の歴史)は重要視され、歴史的にも林内放牧や用地境界樹としても利用されてきたことを述べています。これまでの時間的経過の中で野生リンゴの意味を再確認し、現在の地球環境時代における種多様性、種保護、生物多様性、伝統的農法の視点から重要性を喚起しています。 

 

3) Aktuelle Vorschriften zur Artenschutzprufung in NRW (NRWにおける種保護検証規約)  著者:Dr.Ernst-Friedrich Kiel 連絡先:ernst-friedrich.kiel@mulnv. nrw.de    

 FFH指針(Fauna-Flora-Habitat-Richtlinie)、鳥類保護指針はEU生物多様性保全に関する重要な案件です。この指針はNATURA2000の保護システム(Schutzgebietssystem NATURA2000)に基づく厳しい条件での指針になっています。したがって関係国の自然保護の計画、許認可に際して重要なテーマです。NRW州ではこれに従って前年、規定(Vorschriften)を出しました。この報告はそれに関連する手続き(連邦自然保護法、州自然保護法との関係)の流れと、種保護試験(Artenschutzpruefungen)の成り立ちについて解説、同時に保護計画重要種の捉え方についても明らかにしています。例えばNRW州では哺乳類76種中25種、鳥類では260種中133種が計画重要種になっています。これらの種の現地調査方法基準、モニタリング調査基準、特定の計画対応などを説明しています(NRW州では2017年末より風力発電施設計画、許認可に対して新しい手法・基準が決まっている)。 

4) Die EG-Verordnung Invasive Arten: Stand der  Umsetzung (輸入種のEG規則、変換基準)     著者:Carla Michels    連絡先:carla.michels@lanuv.nrw.de

 外来生物の取り扱いについては何処の国も、その対応には苦労しています。ドイツでもEUとの関係を考慮しながら(EUリスト)国内での種の生育・生息状況を説明しています。さらにEU指針16,19条に基づく種の取り扱いについて検討中もあり、例えばアライグマ(Waschbaer)についての説明もされています。

 わが国と異なり、ドイツではEUという繋がりの中と国内との違いについて(EUレベルと国内レベル)検討の必要性が指摘されています。

 

5) Die neuen Roten Listen der Vogel NRW(NRWにおける野鳥の新レッドリスト)   

 著者:Peter Herkenrath   連絡先:peter.herkenrath@lanuv.nrw.de  

  NRW州では他の団体と共同で新しいレッドリスト(第6次)を公表しました。繁殖鳥と渡り鳥について、国内1000人以上の旧・現担当官により調査し造られたデータ(6段階に区分)を基に決められています。州内で繁殖する鳥種の半分以上が危機に瀕していると報告しています。また渡り鳥(国内、国際:長距離;サハラ以南の45%、中距離;地中海沿岸の32%)についても危機に瀕しているとしています。

6) Das Projekt Rotmilan -- Land zum Leben(アカワシ保全プロジェクト---州内の生息に向けて) 

 著者:Otto Florian Schollnhammer 連絡先:schoellnhammer@bs-bl.de

 重要保護鳥(Rotmilan;ドイツ国旗)の保護計画プロジェクトについて。ケルン東部の町ベルギッシュグラッドバッハ(Bergischgladbach)地域における調査対象地での生息、繁殖状況、繁殖樹木(ブナ33%、ミズナラ51%)、採餌場所(40%農耕地(畑、刈り取り牧野、放牧牧野)、40%樹林地(針葉樹・落葉樹50%)の結果が報告されています。

 

7)Vertragsnaturschutz:Management mit freier Software (ソフトウエアによる管理;自然保護協定)    著者:Melanie Hein    連絡先:m.hein@biostationeuskirchen. de

 特定農家と協定を交わし自然保護を進める際の方法について。調査データの作成に関してソフトウエアーの管理を事例を使って説明しています。関連事項(地形、地質、植生、土地利用など既にデータ化されたフォーマットに追加して対象空間の農地の維持管理データを取り込む方法で関係する自然保護の指針作り、データ造りに使うものです。

  

  1)の報告事例について、日本でも無農薬、無施肥で似た報告・話題があります。青森県のリンゴ農家で無施肥、無農薬果樹園の維持管理に下草を活かした栽培で優れた効果、成果を上げあげておられるものです。無施肥、無農薬での栽培管理、下草管理と果樹(リンゴ)の生育(味や形など)について永年の経験を活かし生態的、生理的栽培を行っておられるようです。

1),2)に関連して:今年の4月、Wassenbergの品種保存園(Sortengarten)に果樹品種多様性保護協会(Foerdervereines Obstsortenwielfalt)により次の3つの古種(Rheinischer Krummstiel, Keulemann, Johannes Boettner)の幼木が植栽されたまた、4万ユーロの資金を使い州内の草地果樹園網整備のため随時、果樹の若木植栽をし、表示板で内容を掲示している(Bruchhausen自然保護センター;4月末、Berleburg-Richsteinの果樹園;5月中旬)。

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映画;ルイ14世の死・雑感

 

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身の周り近くに、知る人ぞ知る名画館「川崎市アートセンター」があります。世界の名画、ロードショウ劇場で取り上げられることのない名画を上映しています。近くであるため、時々鑑賞に出かけています。先日も「ルイ14世の死」と「マルクス・エンゲルス」(どちらもフランス映画)を見ました。

 「ルイ14世の死」は造園学の欧州庭園史に必ず登場する「ヴェルサイユ宮殿」を造らせた王、”太陽王”と称されたフランス・ブルボン王朝14代王様が死ぬ数週間前の様子を映画化したものでした(ヴェルサイユ宮殿の庭園はルイ14世が稀代の造園家アンドレ・ル・ノートルに造らせた平面幾何学式庭園)。映画の口コミでは、なかなかの評価を得ていましたが、私自身映画としては「退屈な作品」と評価しました。しかし、2016年のカンヌ国際映画名誉パルムドール賞、2017年リュミエール賞最優秀男優賞を受賞したジャン・ピエール・レオのルイ14世役には、さすがの感がありました。

 J・P・レオは私と同じ1944年生まれということもあり、映画が製作された2016年は彼(71歳)がルイ14世の76歳に極めて近い年齢で、一目置いて見ましたが、評に違わずの迫真の名演でした。映画の場面は殆ど全シーンが王の寝室、死の間際の数週間のベット上での様子を映し出していました。ルイ14世は160cm足らずの小人だったようですが病床の王は、それとは別の威厳と貫録を示す風袋、18世紀当時のコスチュームを身に纏い、大きな鬘を付け、病と闘い死と向き合う姿は、陳腐でもありましたが同情を禁じ得ませんでした。でも・・・・

 

 それに先立って義兄の3周忌法要の為、岐阜の郷里へ出かけました。義兄の結婚式当日は私の大学入学式と同じ日(1963.4)であったために欠席、それ以来、長くいろいろな面で苦労や心配を掛け世話になったことを思い出しています。相前後して100歳で継母(伯母)を見送り昨年1周忌を済ませたばかりでした。人間の「死」、「家族」を考えさせられるここ数年ですが、そんな折にこのフランス映画を見て、人の死の様相をどう考え、捉えたらよいのか、自分の身に置き換えることも少なくありません。まして、義母が脳挫傷の後遺症で意識なく「ルイ14世」とは真逆の状態で既に1か月以上ベットに伏せって明日世も知れぬ姿を見せており、人の置かれた状況の違いと「死」の捉え方の違いに戸惑っています。

    浄土庭園は、現世の困難辛苦を耐え、来世に喜びをもたらす現世の楽園を表していますが、寺院伽藍、極楽浄土と信仰の在り様に悩む今日この頃です。

 74歳に垂んとする齢になり、体のどこかが何らかの問題を来す我が身を想うとき、映画の主役がそれほど遠い存在でないことを知らされます。火星が地球に最も接近した2018年の7月大晦日、次の大接近は17年後の2035年とか。

 それを地球上で健康で見ることが出来る我が身の存在がありや否や。 

 何とも夢の少ない有様ですが、元気を奮い立たせ望遠鏡で覗いてみたいものです。

 

 

ドイツ・NRW州機関誌 Natur in NRW 春号(2018.No.1) より

   今、手元の届く「自然や公園、緑地に関する専門機関誌」では、たった一つ ”Natur in NRW ”だけです。昨年(2017)の分は住所記載不適格で届きませんでしたが、今年になり調べた後にドイツの出版社に対応してもらい、届くようになりました。暫く途絶えていました海外情報を再開します。

 御存じのとおり、この機関誌はノルトラインーウエストファーレン(NRW)州の ”自然・環境・利用者保護局;Landesamt fur Natur,Umwelt und Verbraucherschutz”から発行されている機関誌です。取り上げられている内容は、NRW州独自およびドイツ連邦政府との関係を見ながら州が関係する「自然、環境、利用者保護」項目を中心に編集されています。しかし、内容からも明らかな通り、州政府関連省庁を横断的に捉え、様々な課題に対して自然、環境等に関する具体的なテーマ、地域、内容に基づいて話題を提供してきています。現在までの歩みをはじめ、これまでの状況(現況)、これからの動向、等について詳細に報告、検討しています。

  わが国で言えば圏、県レベルで、同様の機関(研究、行政で)が無いこと、似た機関(行政部所)があっても同じような内容、行動を行っていないことは寂しい限りです。 

 

 まず、この機関誌の2018年春号の見出し・著者・連絡先を下記に挙げます。

2018、No.1(春)

1) Fledermause in der Eingriffspalnung (コウモリの保全に関する代償計画)    

  著者;Saskia Helm   連絡先:saskia.helm@nua.nrw.de

 驚きです。既に2008年から、コウモリ(Fledermaus)を対象として毎年、専門の研究者、行政や計画づくりの担当者が集い情報交換し成果を公表してきています(州の自然保護・環境保護研究アカデミー;Natur- und Umweltschutz-Akademieから)。

 この冊子の内容では、これまでの成果から高速道路における代償措置、風力発電タワー建設における代償措置など調査、対策を通して事例が幾多検討されてきています。2017年11月の集会では専門家ら200人が参加し”コウモリ”と①建物、②高速道路、③風力発電施設それぞれに対応した現状、対策、課題が討議されています。

①の建物については、撤退後20年経つ工場建物(レンガ建)にコウモリ等が生息し、動物調査会社が調査し連邦自然保護法に準拠して代償措置を提言しています。

②の高速道路については、緑の橋(Grunbrucke ; 動物の移動を考慮し生息域を分断する高速道路に幅広の緑化した橋を架けたもの)の周辺に鉄柵網を設けコウモリの飛翔ルートとFFH*でどのような成果が出るか代償措置検討の報告がされている。*FFH地域;フロラ・ファウナ・ハビタット保護地域

③の風力発電施設についてはライプニッツ大学の動物学研究室が行っている調査のデータ集積があったことを報告しています。 

2) Konversion einer Kaserne bei Coesfeld  (Coesfeldにおける演習場の建物)

 著者;Olaf Miosga       連絡先:miosga@oekon.de

 コエスフェルト市は以前の軍施設  ”Freiherr-vom-Stein-Kaserne"(Coesfeld市)の利用を「市の工業地域(ziviles Industriegebiet)」に変更し、その中で自然度の高い地区を「新しい自然保護地区」に決め中心地区を自然-種保護地区(Natur-und Artenschutz Gebiet)=に、またその中にある2つの建築物を「緑の核」(Grune Mitte)に指定しました。

    旧演習地は以前の農地、樹林地が演習場として使われ、立ち入りが制限されていたこと、生産に関わる農薬の使用が見られないこと、土壌的な点(砂質、粘土質土壌、地下水位が5m深など)などから希少な動植物の生息が確認されています。調査の結果(2009年までに)、旧建物では各種の燕類の営巣地となっており、地区内には特殊は蛙のハビタットが存在すると判明しています。2010-2011年には敷地内の道のアスファルトが剥がされ建物も一部回収を含むものの殆ど旧いまま壊れたままの状態にされました。

 調査結果に基づいて、旧施設(燃料貯蓄ヤードのプール)を蛙の生息場として再活用することや地域内の緑地管理方針が示され、生き物に優しい、生態的・伝統的管理(ハイデ植物の保全とヒツジの放牧など)が提示されています。

 

 まさに「生態的調査に基づいて跡地の利用が決められ、州の中で特徴ある緑地;OS(オープンスペース)が時間を掛けて計画、整備されてきていることがよく分かる報告です。このような方法は既にドイツでは20世紀後半から進められて来ており、事例の積み重ねでより具体的な手法まで展開してきていることが分かります。

 

3) Vom Kasernengebaude zum Ganzjahres-Fledermausquartier (演習所建物におけるコウモリの通年生息状況)

 著者; Sandra Pawlik           連絡先:s.pawlik@buero-echolot.de

 旧演習場における5ケ年のコウモリ生息調査結果。5年前に"Animal Inn"と銘打って残された建物におけるコウモリの1年目からの通年生息状況の報告です。北ウエストファーレン「工場跡地公園;Industriepark」;旧演習場(10ha)に残された2つの旧い建物(2012年Animal Innと命名:地下1階、地上3階の建物:35室;建物内に85、野外に50の巣箱設置)におけるコウモリ他の動物生息調査です。建物内部におけるコウモリ生息・繁殖のための室内改善(2009年、2013,2017モニタリング)なども含め調査。通年生息種6種、不定期生息種5種など建物内の状況と合わせ調査結果を報告しています。

 この報告は①に続く同じ場所での事例の報告です。以前、軍の演習場であった所の建物におけるコウモリの生息状況です。

 

4) Biotopverbund fur gefahrdete Tierarten(危機に瀕する動物種のためのビオトープ網)   

 著者;Christian Beckmann  連絡先:christian.beckmann@lanuv.nrw.de

  既に1990年代から「ビオトープ網計画;Biotopverbundplan」の重要性は指摘されており、連邦自然保護法20,21条はじめNRW州の自然保護法8,10,35条でも明確にされ下位計画でもネットワークの重要性は指摘されてきています。2016年のNRW州計画(Landesentwicklungsplan)でも州レベルの諸計画と関連付けたビオトープネットワークが示されています。それに基づいてデットモルト地方(Regierungsbezirk Detmold)ではモデルプランが作られています。2017年までにアマガエル類の生息環境保護、チョウ類の生息空間保護のための事例地区検討(郡レベルで)が進められています。この報告はその要旨です。

 

5) Auf der Suche nach Flache- Kompensationen in Bochum(Bochumにおける代償用地探し)   著者;Dr. Peter Gausmann  連絡先: pgausmann@bochum.de

 都市近郊への開発が進んできているルール工業地帯では「自然・環境保全のための代償地」探しが始まっています。これは連邦自然保護法14-15条、NRW州自然保護法30-31条に決められた代償措置、代償施策の取り決めに関連しています。目下、この取り扱いは大変難しい問題・課題となっています。それについてのBochum市を例にした報告です。これについて、森林法との関係、自然保護法との関係から代償措置に対する問題解決の在り方を述べています。

6) Floristische Diversitat  einer ehemaligen Sturmwurfflache(暴風荒廃地の植物種の多様性)  著者;Dr. Bertram Leder     連絡先:bertram.leder@wald-und-holz.nrw.de

 2007年の暴風被害(Kyrill)に合った森林(植生調査地23.7ha;標高320-345m)の植生遷移状況報告です。以前は104年生のドイツトウヒ林であった所で、2008-2015までの調査地の植物調査結果。地形、地質、土壌、気象との関係を調べ、30×30mの方形区252地点設定。結果、木本種/haで5千-2万本区が45%、2-5万本区が20%、種数は118(2008)から175種(2017)に増加、を報告しています。

 

7) Gesellschaftliches Bewusstsein fur biologische Vielfalt in NRW (NRWにおける生物多様性のための社会的意識) 著者:Andre Seitz    連絡先:andre.seitz@mulnv.nrw.d

  ドイツでは2009年から2年おきに生物多様性や種の保護、エコシステム、生息域の多様性から遺伝子の多様性までについての国民の意識調査をしています。この報告では、最初に国レベルの意識について述べ、次いでNRW州の住民の意識について報告しています。

 

 

化石展示と昆虫展示

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 7月14日(土)東京・紀尾井町にある城西大学水田三喜男記念博物館大石化石ギャラリーを訪れました。なぜ急に化石博物館?と問われるかもしれませんが、その伏線はやはり私が生まれた田舎に関係があります。岐阜県揖斐郡池田町、その南に接して金生山があります。昔は岐阜県不破郡赤坂町、今は大垣市赤坂町。現在も石灰岩が産出される山で、かなり昔から石灰工業や大理石工業が発達しています。それに加えていろいろな化石が産出する山として世界的にも有名です。

 石灰岩の中には大理石も含まれ、石灰工業と並び大理石工業も盛んでした。金生山の山容は、その昔、私の子供時代と比較すれば、かなり大きく変わり果てています。子供時代に山を登って北側から金生山の寺社(真言宗明星輪寺;虚空蔵菩薩や金生山神社)に参拝できましたが、今はその山も寺院の南側部分だけを残していますが、周りの山の部分は石灰岩の採掘が進み山肌が大きく抉られ、昔の緑の山容の面影はありません。

 金生山を構成する岩石は白亜紀ジュラ紀石灰岩で、全国的に良く知られた化石の多く出現する山です。いろいろな化石(有名なウミユリ、フズリナなど;山の中腹に化石博物館がある)が見られます。小学校の遠足でその地を訪れ、道端の石に小さく細かなフズリナの化石が含まれていることを知りました。あれから、何十年と経って家族を連れ博物館を訪ねたことがありますが寺院は昔のままでしたが、周りの山の様変わりには驚きました。

 そんなことも関係しているのでしょうか。小学生の孫が化石に興味を持った時、首都近郊で化石を見ることになりました。国立科学博物館もありますが、インターネットで調べたら都内の大学に併設された化石ギャラリーのあることが分かり、早速訪れることにしました。その名は、城西大学水田記念博物館・大石化石ギャラリー紀尾井町キャンパス3号棟地下1階)です。大石道夫東京大学名誉教授および中国遼寧省古生物博物館からの寄託・寄贈を受けた200点におよぶ実物化石標本が保管・展示され研究・教育に供されている様です。

 このギャラリーには、大石コレクションとしてブラジル、レバノンで採集された約1億年前・白亜紀*の魚類化石、アメリカ、ヨーロッパ(主にドイツ)の古生代**の魚類化石を中心に昆虫、植物、甲殻類などの化石が沢山ありました。特にドイツ(シュベービッシェ地方)産の化石は、私が初めてドイツに行った地域(1973-4年;ドイツシュベービッシェ地域ブラウボイレン町のゲーテ・インスティテュートで4ヶ月過ごした)でもあり懐かしい思い出が蘇りました。大変種類も豊富で素晴らしいコレクションを静かな雰囲気の中でじっくり堪能できました(孫より自分が満足し感動しました(後の写真)。

 化石の中に、蟻や蟋蟀など昆虫の化石もありましたが、実物を見ようということになり、丁度この日からオープンした、東京大学総合研究博物館の「珠玉の昆虫標本」と銘打った収蔵品公開展示に足を向けました。

 地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅から歩いて5分、東大本郷キャンパスの最南端、懐徳門から直ぐの所に煉瓦造りの総合研究博物館はありました最初の写真。 

  こちらの展示も素晴らしいの一言です。「好きこそものの上手なれ」の諺通り、時間を掛け世界や国内を駆けまわり集められたそれぞれの昆虫達。江戸時代から現在まで14人(武蔵石寿;1766-1861、佐々木忠次郎;1857-1938、箕作佳吉;1858-1909、加藤正世;1898-1967、山階芳麿;1900-1989、五十嵐邁;1924-2008、江田茂;1930-2008、須田孫七;1931-2018、石川良輔;1931-  、尾本恵市;1933-  、濱正彦;1935-2012、宮野浩二;  白石浩次郎;1941- 、岸田泰則;1949- )がそれぞれに蒐集した昆虫の標本が展示されていました。チョウをはじめ ガ、トンボ、オサムシ、セミ、ハチ、ゴミムシ、果てはアリまでそれぞれの昆虫を雌雄や幼老は当然として、地域個体の違い、採集場所や季節・年の違い等々、その数は膨大に上り、しかもきちっとした展翅、ラベル表示され標本箱に納められいます。案内書には東大博物館の所蔵する秘蔵コレクション50.000点を公開しているとありました。展示方法は、標本箱が壁に沿って縦に足元から天井近くまで隙間なく吊り下げられており、それはそれは筆舌に尽くし難い展示の様相でした(写真参照)。展示の全体風景に驚くばかりで、個々の昆虫の内容の詳細は、身の丈の周り以外は見ることが出来ませんし、細かいものはルーペ無しで見ることは出来ません。実物、本物の色や形の多様さに驚くのは当然ですが、とにかく蒐集家の尋常ならざる意欲と行動の弛まぬ遂行・努力には敬服するほかありません。   展示公開は10/14まで開催・入場無料 

 化石でも昆虫類の存在を知り、実物・本物の標本展でもその多様性を知ることが出来ました。

 何億年前から連綿と続く生物の存在、地球環境の途方もない長い歴史、生き物の存在。そして今、これからの地球の在り方、一個人の自分の存在、どう捉えて、何を考え生きるか、分からないことばかりの行く末を感じる日になりました。

 

 

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    (写真左側;城西大学大石化石ギャラリー   : 写真右側;東大総合研究博物館秘蔵昆虫コレクション)

参考;

* 白亜紀地球の地質時代の一つ。約1.45億年~6.6万年前ジュラ紀に続く時代。石灰岩から成る地層でなる呼び名。温暖で湿潤な気候が続き被子植物が主流、

** 古生代約5.42億万年~約2.51億万年前。デボン紀は魚類が生息。サメも出現、石炭紀には爬虫類が出現。

追記;東大博物館「珠玉の昆虫標本」URL;http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2018konchu_description.html 紹介記事より。

 日本の昆虫学は東京大学に端を発し、様々な学術分野や研究領域に枝分かれして今日に至ります。この学問の発展には専門機関の研究者だけでなく、むしろ在野の研究者の貢献も大きいところです。 (中略)

 本特別展では、東京大学総合研究博物館に収蔵されている約70万点の昆虫標本のうち、日本の昆虫研究史の源流ともいえる学術標本から現在に至るまで継続的に収集、研究されてきた秘蔵コレクション約50.000点を一挙公開。この中には約200年前の江戸時代に製作された日本最古の昆虫標本、近代養蚕学の父、佐々木忠次郎やミツクリザメで知られる箕作佳吉の明治~大正期の昆虫標本、昭和初期に採集された鳥類学者の侯爵・山階芳麿の昆虫標本、ブータン国王陛下から贈呈されたブータンシボリアゲハ、昆虫学史上に名を連ねる加藤正世、五十嵐邁、石川良輔のコレクショウなどが含まれる。  以下略・・・

海外専門雑誌の購読

 情報化が進んでいます。身近なニュースや連絡が瞬時に広範に広がる時代になって来ています。が、情報の内容と使われ方が問題でしょう。便利で役立つのは対象が不特定多数か特定個人かにより大いに異なります。発信する方も受信する方も、その点については十分配慮しなければなりません。

 専門化が進み、それぞれの分野における情報源も多種多様になって来ていますし、国際化が進み、より複雑で多量になって来ています。

 私のブログでも海外情報のアイテムがあり、造園緑地分野での海外(主にドイツで、部分的ですが)の情報を伝えることがあります。私の場合、その情報源は、以前在籍していました大学の図書館と私個人への寄贈誌です。

 最近、大学の図書館も専門情報誌(学会誌や機関誌など)や専門図書の発行や購読の在り様が変わって来ており、国際的専門雑誌の定期購読が減少してきています。経費節減や効率的な雑誌活用などが求められているようです。関係学科、研究室の予算とも関連し、必要最低限の海外雑誌購読に変わって来ています。

 造園緑地の専門雑誌も、学内の体制変化(学科再編や研究室統合、変更など)により購読継続が問題化し、定期購読取り止めが少なくありません。まして特定国の専門雑誌(その分野で先進国であろうとなかろうと)では尚更でしょう。

 以前私が勤めていました日本大学生物資源科学部)でも、今年(2018.4)から「造園緑地分野のドイツ専門雑誌2誌」(Stadt u. Grünと Garten und Landschaft)の購読をやめました。

 定期的に学部図書館に足を運び、上記の専門誌2誌に目を通し、現在のドイツの造園緑地界の事情をダイジェストし理解してもらうのに役立てたら、との思いでした。それも出来なくなってしまい残念です(規模・内容の縮小です)。

 目下、この専門雑誌をはじめ、他誌(Landscape Architecture(), Garten + Landschaft,  Natur + Landschaft、Neue Landschaft(いずれも独)などの雑誌をどこの大学、学部の図書館、研究室が購読しているか調査中です(もし購読しているなら足を運んで直接読みたいと考えていますが)。

 各大学の図書館では専門雑誌の文献の相互交換利用協定を実施活用しています(WEB上で雑誌の目次・論文タイトルのみ見ることは可能)。しかし、特定、固有の文献(各研究者ならOK)ではなく、全体のニュース、内容を捉えるためには雑誌の全体を見、読む必要があります。それは難しい状況です。

 近年、ドイツの専門誌では著者の連絡先(メールアドレス)が示されており、内容への質問や意見・情報交換などが容易になって来ています。日本の専門雑誌(学会誌や機関誌など)ではどうでしょうか(個人情報の壁があるのでしょうか)。

 いずれにしても、「海外の研究情報」の掲載は少し変わりますが、継続しますので覗いてください。

 

 

 

 

 

ターナーの生きた時代と ”にわ”

 W・ターナーは18-19世紀にまたがって活躍したイギリスの風景画家である。彼は76歳(亡くなった歳)に「私は今から無に帰る」という言葉を残している。この言葉は何を意味するのだろうか。描く気持ち、描く心が無くなったのか。時代の激しい変化に付いて行けなくなったのか。彼の亡骸は市内のSt.ポール教会(映画マイフェアレディーの撮影地?)地下に眠っている、とのこと(私は残念ながらまだ、イギリス・ロンドンを訪れていません)。

 彼の生きた世紀、時代(1750-1850)を見ると世の中が大きく変わった時代である。イギリス王国は世界覇権を狙って地球を駆け巡り、東アジアに進出、それを支える技術の粋(蒸気機関の燃料=石炭採掘、紡織機=綿花、大航海=蒸気船、移送手段=蒸気機関車、貴族社会=紅茶など)が大きく進展した時代である。産業革命(1760年代~1830年が欧州はじめ世界を変えた時代である。

 この時代の世界の動きには、次のようなものがあげられる。

イングランド、スコットランド合併(1707) 、ヴィクトリア王朝(1837-1901)、マリア・テレージアとハプスブルグ家(1740-1908)、清教徒革命(1642-1649)、名誉革命(1688-1689)、アメリカ独立戦争(1775-1783)、アメリカ独立宣言(1776)、アメリカ大統領(J.ワシントン;1789、J.アダムス;1797、T.ジェファーソン;1801)、 フランス革命、ルイ16世(1789)、ナポレオン皇帝(1804)、諸国民の春(1820年代、世界の国々で独立)、イギリス奴隷貿易禁止(1833)。

 また、この時代に活躍した文化人、芸術家には以下の人達がいる。

 ハイドン(1732-1809)、モーツアルト(1756-1791)、ベートーベン(1770-1827)、チャイコフスキー(1840-1893)、メンデルスゾーン(1820-1895)、ショパン(1810-1849)、E・カント(1724-1804)、K・マルクス(1818-1883)とエンゲルス(ドイツ・バルメンの紡績業社長の息子;1820-1895)と共産党宣言(1848)

日本は、宝永の大地震1707)と富士山噴火、葛飾北斎(1760-1849)と安藤広重(1797-1858)、ペリー浦賀到着(1853)、大政奉還1867)と明治維新、ロンドン万国博(1851)、太政官布告1873) 。こんな時代である

 欧州庭園史上ではこの時代、大きな変化を遂げている。地中海イタリア、スペインのルネッサンス様式(傾斜地別荘の階段式庭園)から始まりフランスのバロック様式(ボール・ビコンテやヴェルサイユ宮殿庭園)さらにはイギリスの新古典様式(ストウ庭園)へと国や社会の在り方、商工業の姿、物の考え方と合わせ大きく変わった世紀である。イギリスの風景式庭園を生み出したランスロット・ブラウン(1716-1783)はその師、W・ケント(1685-1748)に師事し造園家としてストウ庭園の作庭に関わり(1741)、その後ロンドンに出てプレナム宮殿(世界遺産)はじめ、多くの庭園の設計、建設に携わり、さらに上流階級貴族の屋敷・豪邸、別荘などの庭にも深く関係している。

 

 緩やかな傾斜地形を活かした牧草地、静かに流れる川、丘の上に建つ貴族の館や城、広大な眺め、建物と庭とその外に広がる大景観とハハー(空堀)による合体、川や湖の水面、なだらかな丘の線、広がる空。それらが作り出す一日の風景(朝~夕べ)、季節毎に変える姿、その形と色の変化。ターナーならずとも魅入る多様なイギリスの風景。

 産業革命で激しく変わる人々の暮らしと都市の姿、真っ黒で薄汚れた市街地の光景、世界。自然の持つ美しさと激しさを感じつつ「美」を追い求めたターナー

 内容やスケール、色や形こそ違え、今、現在にも見え隠れする状況。

 時代の変革、暮らしの変化を感じ知りつつも目もくれず、母国を愛し故郷を慈しみ自然の移り変わりの美しさと厳しさを表現し続けた。その折々に人々の変わらぬ暮らし、生活の姿を少しだけ絵の中に描き入れた。

 今回の作品展を見て、ターナーは自然に合わせて生きてきた人、自然に贖えないけど順応して生きる人やその中に見られる普遍的な美しさを求めて描き続けた画家だと感じた。 

 

 

 

 

展覧会巡り 18   ターナー 風景の詩

 日本の洋画家東郷青児は独自の女性画像で洋画界と言わずファッション界でも一世を風靡した画家として有名である。彼の作品を中心とした美術館が新宿にある。その名も東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館である。この美術館で4月から7月(4/24~7/1)までイギリス風景画の巨匠ターナー 風景の詩」と題する展覧会が行われている。東京での公開に先立ち北九州市立美術館(2/4迄)、京都文化博物館(2/17-4/15)で開催され東京開催後には郡山市立美術館(7/7-9/9)へ巡回して廻る。

 このターナー展は、18世紀半ばから19世紀半ばにイギリスで活躍した風景画家ターナーの作品(水彩画73点、銅版画等112点、油絵8点)を4つのテーマに分けて展示している。それは 1)地誌的風景画、2)海景--海洋国家に生きて、3)イタリア--古代への憧れ、4)山岳--新たな風景美をさがして、の4つである。

 ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775-1851)、通称 ウイリアム・ターナーはロンドンのコベントガーデンで生まれ13歳で画家(トーマス・モールトン;地誌的素描家)について風景画を模写したり描いて絵画の基礎を学び、24歳の若さで、あの権威あるイギリス・ロイヤルアカデミーの準会員になり、27歳で正会員となっている。24歳で描いた自画像(1799)を見るとなかなかのイケメンである。

展示作品で17-30代の風景画(水彩画8点油絵2点)はとにかく細部まで大変細かく描き込まれていた。第1章;地誌的風景画部門ではA3かA4大の小品だが、水面や空の表情、建物の細かい線、小さく描かれた人々の姿など注意深く観察して細部まで丹念に書きこまれ淡彩で彩られている。見ていて心が落ち着く作品が多かった(私も歳か?)。

 地誌的風景画は当時、測量や地図の作成が進められた時代で、イギリス各地の地形、植生、水系から成る風景の描写は名所案内の如く、その意味で重要であった。当時、本の挿絵として多くの風景画がエッチング(銅版画)で描かれ、写真の無い時代、各地の名所旧跡が絵で表され重要視されていた(第1章の展示作品の銅版画の多くは郡山市立美術館が所蔵)。40-50歳代の風景画もイギリス各地を巡るスケッチ旅によるものが多い。展覧会の出品作品案内にはイギリスの地図も載っており、ターナーが訪れた国内の町が示されている。それを見るとほぼイギリス全土、北はスコットランドからイングランドの東・西に及んでいる。また、テームズ河流域も度々訪れ描いている。1825年に40kmの鉄道ができ、1830年にはマンチェスター リバプール間に鉄道が開通しているが、それ以前は馬車か徒歩で全国各地を巡り描くしか手立てが無かった時代である。J,スティーブンスが蒸気機関車を、フルトンが蒸気船を作り出した時代(1740年代)。時、まさにイギリス産業革命の真っ只中の時代である。ターナーがいかに健脚で各地を歩き回り精力的に絵を描いていたかが分かる。彼の愛国心と美しい風景や自然に対する愛着が彼を駆り立てたのだろう。貴族社会で古典主義派の写実的風景画が人気を得た時代でもあり、17世紀クロード・ロラン(地中海風景・古代風建築)の絵画が、大きな貴族の館の壁に架かる絵(風景画、肖像画)として持て囃された時代である。同時代の日本の画家池大雅(1723-1776)も日本全国を旅して風景を描いているが、蘭学者を通じて西洋の遠近画法を知っていたふしがあるというのは妙である。

 

 第2の「海景--海洋国家に生きて」部門では海と空と帆船が主題である。先の地図でも海岸線、特にイングランド中西部から東部、またロンドンの東南部の海岸を頻繁に訪れ海景を描いている。静かな海の絵は殆ど無い。荒れ狂う海、大きな波と白い波頭、空を覆う真っ黒な雲と雲間の明るい空と差し込む光、波間で傾き大波に洗われる帆船、水面を飛ぶ2-3羽の海鳥。どの絵にも激しく、風雨と闘う人と帆船、自然の猛威が描かれ海に囲まれたイギリスが暗示される。ターナーは現場で簡単なスケッチをする程度、自宅アトリエでスケッチをもとに、自分の目で見て頭に入れた色、状況を思い出し作成することが殆どだったようで、スケッチを描く(記録)以上に記憶と感性(インスピレーション)に長けていたようである。

 ここでも銅版画(郡山市立美術館所蔵)が素晴らしい。ターナーの絵は銅版画で卓越した技術を持った彫版師(彫師)に支えられている。1mmの間に6本の線を描き出したり、点の数や大きさ、深さで空や水の濃淡を表す(彫り出す)彫師の技術には、日本の浮世絵木版画の彫師に通じる技術が銅版画にもあったことに大変驚ろくと同時に、洋の東西を問わず18-19世紀の技術職人の腕前には舌を巻く。「エディスタン灯台(1824)は秀逸である。難破船と灯台、その周りの荒れ狂う波、遠くの雲の切れ間から覗く星と三日月(26×35cmの銅版画メゾティント)。その小品の中に込められた自然の猛威、人間の無力さ、希望の空と星、ターナーの絵に込めた力が分かる。イギリス西部ミューストーン沖に浮かぶ灯台を時化の中、実際に見に行ったのだろうか。

 ターナーの銅版画は800点あり、常に80人からの彫版師が関わっていたと言われる。彼が銅版画に拘ったのは3つの理由があるようで、①自分の作品の普及、大衆の為の版画、②旅行ガイドとしての役割、国内外への旅行が流行る、③芸術的価値の認識 である。

 

 第3の「イタリア---古代への憧れ」。この展示部門ではターナー50-60歳代の作品が多かった。ターナーは1819年8月から1820年2月、44歳でイタリアへ旅行しローマを訪れている。この時代、欧州では「グランドツアー」と称してイギリスの貴族の子弟がルネッサンス文化華やかなイタリア・ローマへの憧れから国外旅行が流行し、多くの芸術家、文学者、詩人など有名人がフランス、イタリア、スイス、ドイツ諸国を訪れている(文豪ゲーテ1749年から2年間イタリア、メンデルスゾーン1831-1833イタリアなど)。

 どんよりとした曇り空が代名詞のイギリスと燦々と降り注ぐ太陽の光が代名詞の地中海の国イタリア、風景と歴史と自然(色や光)に憧れを抱くのは何処も、いつの時代も同じである。北ヨーロッパの国の若者が国外旅行に地中海を選び出かけることが出来たのは裕福な家庭、著名人であればこそであろう(逆の発想もあり、歴史と文化で伝統のあるイギリスを訪れた有名人も多い:例えば音楽家ハイドン;1794-1795、交響曲ロンドン、驚愕など作曲)。

 第4の「山岳ーあらたな景観美をさがして」では、20代から60代までいろいろな時代にイギリス国内はもとよりドイツ、スイス、フランス各地の景勝地、名所の景観を描いている。特にスイスアルプスの自然山岳景観(氷河景観)には強い関心を持って描いている。彼は風景画に自然の「崇高」さを感じそれを表そうとしている(「崇高」とは、畏怖を抱かせるような自然に「美」を見出す価値観である;解説より)

 彼は26歳時、初めてイギリス北部スコットランド地方への旅に出て(1801)古城景観や湖沼地方の風景を描いているし、スイスの山岳景観に魅かれ、たびたび訪れ自然の醸し出す崇高な景観を愛した。また、ドイツではハイデルベルク古城とネッカー河畔、ローレライ景観(1817年2度目の大陸旅行時に訪れている)を描いている。私も彼が訪れた場所を良く知っており、当時と全く変わっていない風景に驚くとともに、ハイデルベルク古城の絵の中にターナー自身の姿を描きこんでいるのには、驚きとともに愛嬌とユーモアのあるターナーを見た気がした。

 

(追記)この展覧会開催中に、映画「ターナー、光に愛を求めて;2014(英作品)の上映と解説があったようである。映画はWOWOWでも取り上げられ見た。映画を通してターナーを取り巻くその時代のイギリスの情景を理解でき、また彼の生き様の一端を垣間見ることが出来、彼の作品を観賞するうえで参考にもなった。人間的にも社会的にも波乱に富んだ変化の激しい時代であったことを知ることが出来た。

 また、この時代の造園庭園史(イギリス風景式庭園様式)の上での出来事がターナー作品と浅からぬ縁があることも改めて知るところとなった。これについては別途、纏めることとしたい(ターナー絵画と造園)。

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湘桜みどり会総会  (平成30年)

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 平成30年6月23日(土)午後、日本大学生物資源科学部湘桜みどり会の年次総会が大学キャンパスのある湘南六会で開催され学生を含め卒業生参加の内で就職説明会、年次総会、特別講演会と懇親会が開催されました。3,4年生在学生の参加が半分と少なく、やや盛り上がりに欠ける総会他でしたが、内容的には充実した会となりました。

 湘南キャンパスの現状は以前と比べて大きく変化してきており、40年ぶりにキャンパスを訪れた卒業生(三重県津市から参加:全国でも有数のゴルフ会社)の坂元伸行氏(株;アコーディア・ゴルフ顧問)は余りの変わり様に唖然とする心境(今浦島)ですと話されていました。

 総会では役員の交代期に当たり、会長は荻野氏(アゴラ造園;昭和55年農学科卒)から大澤先生(生命農学科教授;平成14年大学院博士課程修了)へ、幹事長は河村氏(横浜市役所;平成7年卒)へと変わり承認されました。

 特別講演会は、高柳女史(日本医科大学外科学教授)による緑の重要性についてのユニークな講演「健康とランドスケープ」、それと益子隆一氏(平成3年卒)によるファンタジー溢れた講演「児童画の製作プロセスにみる造園設計」があり、話し方も講演内容も大変魅力的でした。

 懇親会は「交流会」と合わさった様式で卒業生、在校生が和気藹々と時間の許す限り(2時間)中身の濃い時間となりました。持参した北海道根室の名品「オランダ煎餅」(研究室卒業の小畑拓也氏根室在住;環境コンサルタント・グラフィックデザイナー;平成13年院修士課程修了)と私の差し入れ)の紹介もあり、また学内でのケータリングメニューによる多彩なオードブル、いろいろなアルコール類の飲み物と合わせ、盛り上がったテーブルの内容でした。

 添付しました写真は現状の造園緑地科学研究室と総会の様子です。懐かしさや真新しさは卒業年度により違うでしょうが、現在の研究室周りは教員も学生も2スパーンずつ(図書・資料室を除く)の空間になっています(以前より狭く小さくなってしまいましたが研究室は以前にも増して明るく活気があります)。

 追;ブログに対するご感想ご意見は以下のアドレスへメールで頂ければ幸いです。

   biber1122@mri.biglobe.ne.jp

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大阪北部地震 ・ 緑ありせば

 同じ歳の子供を身内に持つ人間としてあまりに惨い、辛い、悲しすぎるニュースです。数日前の平成30年6月18日早朝(7:58)大阪北部を震源とする地震があり通勤、通学時に大きな影響を与え、同時に社会的インフラの広域的被害により日常生活がマヒする事態になっています。中でも交通機関のマヒと建造物等の倒壊による死亡事故は、数は少ないとはいえ悲しいニュースでした。

 特に、小学校通学時間と重なって起こった高槻市寿栄小学校プール脇のブロック塀倒壊による児童の圧死事故は、突然で例えようもなく悲惨で悲しい結果になってしまいました。2m弱の基礎部分の上に1.6mのブロック塀が積み上げられた構造となっており、強い横揺れにより積み上げ部が道路に倒壊、たまたま早出して通学途中だった4年生少女の上に倒れ落ち下敷きになって亡くなってしまいました。

 

 われわれ(私も緑の整備を主張する造園家の一人として造園緑地家として、これまでにも社会的インフラ整備に緑の役割の重要性を強く喚起してきました。特に阪神淡路大震災時(1995)には日本造園学会で特別調査団が組織され、詳細且つ建設的な報告・提言がなされています。街路樹や生垣、緑の塊(空間や線・点)が都市災害時において大きな役割を担っていることを明らかにしました。

 また、快適な都市空間の整備、省エネや緑環境・生き物・生態系に配慮した施策として、特に公共空間の緑の整備を推し進めることを、ドイツの事例を参考に紹介されてきました。これらの災害時よりも前から、都市内における接道部の緑の重要性も指摘され各自治体の「緑の基本計画」に反映させるよう進められてきています。

 

 今回の事故現場で、この指摘に合わせ、もっと早く(3年前に指摘されたとの報道あり)適切に対応が図られていたなら、この悲惨で悲しい事故は起こらなかったでしょう(例えば生垣整備;事実、崩れたブロック塀の隣に植え込みの植栽がされている)。

 プール利用時の生徒の姿を隠すため(?)なら生垣でも十分でしょうし、子供たちの手で苗木を植栽し育て管理し、緑のあるプールとして作られていたとすれば、いろいろな意味で効果の大きな緑になっていただろうと想像するのは私だけでしょうか。

 接道部の緑化は街路の見透し景観での「緑」の充実として意味があり、時に防風・防塵・防火的役割も併せ持つものです。学校校内で樹木の小さな苗木を植え、育て、管理するのも教育・指導の一部で、その場所が地域の緑の塊(杜)になっていくのではないかと考えます。同じような視点で、地震直後(6月19日)の読売新聞「編集手帳」に少し纏めの視点は違いますが皮肉を込めたコメントが掲載されています。

 ブロック塀中心に、事後点検がなされていますが、これを機会に「公共空間の接道部の緑の在り方」も十分検討し、街づくりの中で緑豊かに、もっと安全で快適、住み心地の良い地域となって行くことを期待するばかりです。それが亡くなった女の子との約束としてほしいです。

 

 

映画「モリのいる場所」と33周年展

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 以前訪れた熊谷守一美術館へ再び足を運びました。最初に訪れたのは春の訪れが早く桜満開の3月25日、皇居北の丸下、九段にある昭和館での特別企画展を見た後です。この昭和館特別企画展(展覧会巡り14 参照)を見終わった後、豊島区千早町にある熊谷守一美術館へ足を延ばしました。それ以前、読売新聞に掲載された熊谷守一に関する記事(3/3読売新聞;時の余白:編集委員の芥川喜好氏が書いた;純粋の人と心ひろき人々 の記事、 3/15読売新聞;文化部、岩崎氏が書いた;激情・鎮魂・愛らしさ、熊谷守一展 の記事)で、いつか彼の絵を見てみようと思っていたからです(展覧会巡り13 参照)。それと、新聞記事にもあった熊谷守一をモデルにした映画「モリのいる場所」(沖田修一監督、山崎努樹木希林出演の映画;日活作品)が公開され 6月9日に見たことにも因ります。

 映画は、守一の晩年のある一日の様子を描いたもので、守一役と奥さん役の山崎努樹木希林はなかなかの演技でしたが、映画からはそれほど強い感動や印象は得られませんでしたが、熊谷守一夫婦と周りの人々の日常的な様子(1965年)は見て取れました。晩年は殆ど自宅(現在は美術館になっている)から出ず、草木の茂る庭での生活で、生き物の在るがままの姿を観察・鑑賞、絵を描く日々だったとのこと。今風に表現するなら生き物に優しい、生物多様性を地で好く淡々とした生き方と場所であったように思います。

 守一の晩年の生活を想起しながら改めてその場所に立ち、作品を見ることにしました。折から旧居後に建てられた「熊谷守一美術館」開館33周年展が行われていました。

 彼の油絵、墨絵、書など103点が展示され、大変見ごたえのある展覧会で、守一の生まれ故郷岐阜つけち(中津川市付知町)記念館、岐阜県美術館など所蔵先からも借用、展示されていました。

 戦後の守一の油絵作品は、その多くが板に描かれており、絵の具の下に板が見える物も少なくありませんが、それがモチーフの縁取りとも合って全く違和感がありませんし、板の木目に合わせて絵の具を横や縦だけの線で塗り上げています。それにしっかりしたデッサン力(形や質量感、画面の構成、バランスなど)で絵に落ち着きがあり、単純な中に深みを感じます(絵からいろいろ想像させてくれる)。

 展示されている中で最も若い時代の作品「風」(1917)は色合いがセザンヌに似ていると思いました。1920-30年頃の油絵は絵の具が盛り上がらんばかりに塗り込められ(「百合」、「ハルシャ菊と百合」、「裸婦」など)、「陽の死んだ日;1928大原美術館蔵」と同じころの作品)、それらは戦後の作風と全く異なっています。若さ(時代)や激しい情念(感情)が絵に現れているような気がしました (苦難と悲しみの時代)。

 日常の動植物に注視してその姿を描き上げた油絵に、60代以降の守一の姿があります。静の中に動を、動を静として表す 純化された世界は深みがあると感じました。

 私自身も静物を描くことがありますが、全てを描こうとすると難しくなります。如何に簡単に表し内容豊かに多くを伝えるか、これほど難しい表現は無いのでは無いかと思います。

 明治から大正、昭和、平成へと、混乱から安定、貧困から繁栄、静穏から激動、伝統から革新、激しく動く社会を背景に97年を生きた熊谷守一横山大観とは全く違った画家人生。 65歳以降、30年余を静かに自庭に籠り絵を描き続けた姿は、仏様の様な気もします。