水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔 その一 

 私が東海道を歩いてみようと思ったのは、昨年の秩父34ケ寺観音巡り(巡礼)で満願達成したことにあります。時代は変わっても、先人の残した道、路があれば懐かしさも手伝って、その面影やいかに風景・景観はどうなっているか、と辿ってみたくなったのです。松尾芭蕉は45歳で奥の細道の旅に出ていますが、私は72歳で、それも昔の人に倣って東海道を徒歩で巡ってみようという大それた、大胆な企てを思いついたのです。芭蕉は1644年の生まれ、私は1944年の生まれで、何かの縁を感じ372年違いでの思い立ちです。

 平成29年弥生3月11日(土)早朝に、出発地点の日本橋に向かいました。川崎の西郊外、柿生の里の住人であるため、日本橋までは電車を利用し辿りつきました。一日にどのくらい歩けるか、全く未知数のため兎に角、先人同様早朝に出発と決め、自宅を朝未だ気の6時に出ました。日本橋の袂には陽が昇り始めた7時半頃到着。橋の袂には天気の良い土曜とあって、何やら歳のいった同好の士が三々五々集まっていました。出発地点の証拠には、昔なら日本橋をモチーフに絵を描いたであろう(広重の東海道53次日本橋の絵)と思いながら、スマートフォンを取り出し近くにいた人に頼んで一枚。早速朝日を浴びて歩き始め、銀座通りを西に向かいました。銀座は日本の商店街で第一(No.1)としての自負があるかのように、街路沿いは草花と低木の植え込みで美しく装飾されています。植え込みには訪れる人、道行く人達に豆知識とクイズを示すような小さな札が立てられていました。2mほどで円錐形のキャラボクは周囲の建物に比べてあまりに小さく、かっての「銀座の柳」は歌にも歌われ近代化の進む日本の都市を代表する街路樹でした。今はその面影はなく、ござっぱりと成型の常緑低木が続いています。昔あった電柱は地下に埋設され見通しの良い広い街路空間を生み出していますが、緑の重要性が認識されているにもかかわらず、ほんの少しの緑だけで止まってしまっているのは、何とも歯がゆく残念な思いです。

 そんなことを考え感じながら銀座通りを過ぎ、新橋駅を越えて小さな日比谷神社を覗き、海側にある浜離宮を想像して歩を進めました。芝大門を右に眺め、芝五丁目の「勝海舟西郷隆盛の会見跡地の碑」を見て時代を想い、歩道を陸側へ移し高輪、泉岳寺を過ぎて第一日目の終点、品川駅に到着しました。歩き始めて2時間、案内書には7.4km,二里とありました。ほぼ時速4kmの歩く速度となりました。

 東海道を歩く方法として、その歩き方にはいろいろやり方があるようですが、私は箱根を過ぎるまでは「通い」の方法で回を重ねようと考えました。毎回到達点(宿場)を決め、次回はその到達点を出発点として繋いでまた歩き始めるという方法です。二回目は品川が出発点となりました。