水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

新緑の裏磐梯五色沼 その1

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 国民休暇村は国立・国定公園内に造られた宿泊施設で、四季を通じていろいろな利用に使われ人気がある。1961(昭和36)年、自然公園法に基づき国立・国定公園内に設置され野外レクリエーションの利用に供するため集団施設として整備され、公園計画に基づいて作られ、全国に37ケ所ある。今回利用した、休暇村「裏磐梯」もその一つ、磐梯朝日国立公園の中にあって磐梯山とその麓にできた五色沼湖沼群を中心に四季を通して自然を味わうのに絶好の場所である。最も人気のある季節は秋の紅葉と冬のスキー、次いで若葉の美しい春である。裏磐梯はその名の通り、磐梯山の裏(北側)に当たり、磐梯山噴火(1888)で発生した山体崩壊により生まれた五色沼と樹林地帯が見所となっている。また、道路網の整備により見どころの多い猪苗代湖畔や史跡・名所の多い会津市街、さらには吾妻山・安達太良山を中心とした吾妻連峰の山々を訪れるのは容易である。今回の旅は3泊4日で東北自動車道を利用し車で訪れた。自宅近くの東名自動車道横浜青葉ICから首都高を通り、環状6号から東北自動車道川口JCTに出た。高速道路網の整備には目を見張るものがあり、渋滞が無ければ首都東京を通り抜け常磐、東北方面に大変出やすくなった。東北自動車道で川口から郡山まで216km、郡山から猪苗代湖まで34kmで合計250km、自宅からは約280km位である。朝早く(5:00)自宅を出て東北道川口に朝6時、2度ほどSA(蓮田、那須高原)で休憩して会津市に直行した。

 東北自動車道が建設整備され、市街地では路側に防音壁が作られその壁面に絡んだ蔓植物は自然に出現したり植栽されたりしているが、その生育は良く防音壁の固い単調な景観を蔦の緑が柔らかく自然に見せている。道路沿道緑化が上手く行った好例であろう。市街地で緑がない地区では立体的な緑の壁として、また田園地区では周辺の緑景観と調和する緑の総体として役割を演じている。

 磐梯山を地図で確認すると地形的には南に猪苗代湖、北に吾妻連峰、西に会津盆地、東は中山峠を境に郡山と安達太良山が見られる。

 会津市は周囲を山々に囲まれ代表的な盆地地形の中に位置し、日光街道、若松街道、沼田街道、喜多方、米沢、山形へ通じる道路と四方に道が発達した都市である。会津鶴ヶ城は茶色の瓦の城で有名である。城内は展示と通路(上り下り)がうまく工夫されており落ち着いてじっくり見ることができた。会津藩の歴史の中でやはり江戸幕府終焉時、尊皇派(官軍)と攘夷派(旧幕府軍)の争いの中、戊辰戦争今年は戊辰戦争150年に当たる)での白虎隊の物語には多くのスペースを使って説明されている(会津戦争1868)。歴史上といえども、まだ百数十年前の出来事であり、長く会津の風土の中で培われた気概、考え方、身の処し方、生き方を示すもので、その流れは時代が変わったとはいえ現在も人々の中に脈々と流れていると感じられた。

 城を見た後、飯盛山を訪れ栄螺堂=サザエドウ(右繞三匝;右回りに三回廻る:三匝堂)を見学、建築的に大変ユニークな建物が残されていた。会津鶴ヶ城の見学通路に似て建物の中で上りと下りで人が行違わない構造になった建物である。江戸時代後期に東北から関東地方に見られた建築様式の仏堂である。螺旋構造の回廊になっており、上り下りとなった変わった造りなのである。本来は堂内に33観音や百観音が安置され、1回の参拝で33ケ寺巡りと同じご利益が得られるような利用がされていたといわれている。螺旋構造や外観がサザエに似ていることから付けられた名前で、平面は六角形、三層構造で回廊は二重螺旋構造、右回りで上り左回りで降りる形であった。説明によれば日本大学建築学科の先生が長くこれについて調査・研究されたとあり、何となく嬉しくなった。 (添付写真参照)

 会津若松市内では松平藩の御薬園(薬草園)を見学した。ここには薬草園もさることながら、心字池を中心とした池泉回遊式様式の素晴らしい庭園があり、モミの巨木や時代を経た枝ぶりの素晴らしいゴヨウマツの老木が庭に安定感をもたらしている。東に望む磐梯山系の山を借景にしていると言われ、周りを囲む樹木も大木、古木が多く庭に落ち着きと重厚感を出している。庭は1.7ha、松平藩第三代藩主松平正容が1696年に目黒淨定、普請奉行辰野源左衛門に造らせた江戸期の大名庭園(池泉回遊式)である。目黒淨定は小堀遠州の流れをくむ庭匠であるといわれており、心字池と楽寿亭のある中島、女滝さらには園路の野筋、水際からの岸の立ち上がりの鋭さが立体感あふれる庭となっており、垂直軸(縦方向)に力強さを表している。その形、全体の雰囲気から国指定の名勝(昭和7年;1932指定)としてふさわしく大変感激した。

  会津といえば白虎隊がつとに有名であり、それに関連する場所として飯盛山がある。その折の戦いで若い隊士たちが飯盛山から鶴ヶ城が炎上、落城する光景を見、遂に事ここに至ったと思い若き命を自ら断ったことで知られているが、事実は、そのまま生きて城に戻り捕まって生き恥をかくことを潔しとせず「生き延びることは武士の本分ではない、と自刃に及んだとされている。いずれにしても19名の若き士はじめ、200名余の婦女子や戦を通して多くの人が亡くなり江戸時代が終わりを告げ、大政奉還に向かい新しい時代が開いていったのである。この、国を二分するような戦の捉え方は、それから明治、大正、昭和と続く150年余の間に、世界を相手に戦いに出ていかざるを得なかったこの国の戦いのことを考えると、いろいろ考えさせられる点が多い。現在は、鎖国の江戸時代とは異なった状態で70年も戦がない時代になっている。 

 会津から休暇村への帰途、県道を山越えして猪苗代湖畔にある野口英世記念館に立ち寄った。この記念館には野口英世の生家が移築復元され、記念館の建物に保護されて建っている。世界を股にかけて活躍した野口英世とそれを支えた人達、若き英世を女手一つで育てた母、東京に出て勉強をすることを勧めた人(小林栄)、海外留学生活や研究を長く支援した人(血脇守之助)、それに応えた英世、時代背景と世界情勢、科学・医学の進歩、科学的探究の深まりとそれを捉える技術的限界と真実の間、科学的探究の世界的競争と実験的検証の重要性、人間の生き方と家族など。考えさせられることが大変に多い記念館見学となった。

野口英世の生い立ちから亡くなるまでの歩みを調べて、新たに知ったことに驚きながら学者、研究者の生き方に敬服の念を抱きながら、一方で人間臭い野口英世(清作)に安心したのも事実である。

 一日目の会津・猪苗代訪問で改めて歴史を見直すこととなり、戊辰戦争官軍の将に長州出身の板垣退助がいたこと、白虎隊慰霊碑との関係でローマ・ポンペイの遺跡の石柱やムッソリーニの名前が出ること、白虎隊の士の中にソニーの生みの親、井深大氏の先祖(祖父:井深基)が二人いることなど、今まで殆ど知らなかった事実を知る旅となった。