水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

新緑の裏磐梯五色沼  その3

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 「タモリ」は今を轟くお笑いタレント、司会者、キャスターなど多彩な能力を持つ有名人で、年齢は私より1歳若いが既に70歳を越えている。NHKの「ブラタモリ」は良く知られた人気番組で、彼が訪れる所で地域の特徴を的確に捉え視聴者に伝えていることで知られている。彼は日本坂道学会の副会長とのことである。「坂道」を捉えるには地形・地質条件は必須、他に自然条件としての気象、土、水、動植物と人文・歴史的事象も欠かせない。行く先々の地域の特徴、(空間的特性や人文・社会・歴史的事象)を学び、理解することは「造園家=Landscape Architect」に求められる必須の素養と能力である。とすればタモリは既にその資質を持ち合わせており、造園家(LA)であるとも言える。

 「NHKブラタモリ・磐梯山」では会津地域も含め磐梯山を対象に見て歩き「宝の山」を検証していた。この番組の中で磐梯山山体崩壊を目にし、発生のメカニズムを理解し五色沼の誕生から今の自然の美しさを鑑賞し、その成り立ちを分かりやすく報告していた。

 今回の4日間の旅は、この番組もさることながら五色沼の春の姿(景観)を探勝しようと決めてやってきた。3日目、曇り空ながら僅かに雲間から陽も射す天気。5月中旬、裏磐梯では木陰、道端にまだ雪が残っており、施設の周りの低地には除雪で捨てられた雪が山積になっていた。五色沼地区の東端に磐梯朝日国立公園裏磐梯ビジターセンター(VC)があり、同公園と公園内の自然・文化に関する多くの情報が素晴らしい展示と共に詳細に解説されていた。VC近くの低湿地ではミズバショウが花盛り、クサソテツの小さい拳形をした若芽が円く顔を出し一斉に伸び始めていた。五色沼地区には数多くの池沼があるようだが、名の付いた8つの沼(毘沙門沼、赤沼、深泥沼、竜沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼)が東西軸の自然探勝路に沿って右に左に出現する。1888年の噴火、山体崩壊により長瀬川が膨大な岩屑で堰き止められて生まれ、強酸性の水と温泉のアルカリ成分が相まって沼では青、赤などいろいろな色を見せている。五色沼自然探勝路の東端に位置する毘沙門沼は五色沼の中で最も大きく、磐梯山を背景とする青い水色の景観は代表的な風景である。毘沙門沼縁の探勝路では大小の岩石が多いが、西に進むにつれ露頭は少なくなり岩屑から成る小山が出現。途はなだらかで沼を縫うように蛇行し違った沼が出現する。赤沼は酸化鉄の付着物か赤色(鉄錆色)が目立ち、深泥沼は深さによる違いなのか違った色の沼が並んでいた。道すがら目を上に下に、植生に気をつけながら歩く。色や形が珍しかったり花をつけたりする物を写真に収め、また歩いていく。沼の名前の由来は定かでないが、多分に水の色が関係しており水に含まれる微粒子と太陽光の関係が明らかにされている(これについてもテレビ番組で水中カメラマンと福島大の先生による五色沼の水質調査、研究の報告があった)。五色沼の中でも青色が美しい弁天沼(写真参照)を展望台(道から3m高)から眺めた後、瑠璃沼、青沼を眺めながら通りすぎ、道が分かれて一つは遠藤現夢の墓碑に続いており、もう一つは探勝路終点(西の端、裏磐梯物産館)に伸びている。遠藤現夢らは噴火の犠牲者の慰霊墓を建て、荒れた台地(1340ha)にアカマツなど10万本を植林して知られているが、彼らの墓碑が建っていた。物産館隣の柳沼畔では1本だけのヤマザクラが満開であった。バスでVCの駐車場に戻り2時間弱の五色沼巡りを終え、猪苗代地区にある地元の蕎麦屋「楽人」(地場産の天婦羅、手作りソバと絵手紙で有名)でお昼にした。

 猪苗代湖は別名「天鏡湖」と謂れ、日本で第4位の広さがあり、冬季はコハクチョウなど冬鳥が渡って来る湖として有名である。その湖岸西北の高台に「天鏡閣」がある。説明の栞によれば、明治40年(1907)8月、有栖川宮威仁(たけひと親王が東北旅行中、猪苗代湖畔を巡遊され風光明媚なこの場所に別荘を建てることを決めた、とある。明治41年(1908)年、磐梯山噴火20年後の8月に竣工し、翌年(1909)、後の大正天皇嘉仁親王)の行啓時に李白の詩から取って「天鏡閣」と命名されている。有栖川宮家から高松宮家、その後に福島県に下賜され、県が邸宅を復元修復している。建物はヨーロッパのルネッサンス様式が漂う比較的小さな部屋がいくつもあり、天井も高く、各部屋には暖炉や有栖川家伝来の家具、調度品などもあり落ち着いた明治の香りが一杯である。

 有栖川威仁親王は、明治天皇に信任篤く大正天皇のご養育や海外留学の経験から外交的な役割を担うこともあった。特に海軍関係でのイギリス留学は結婚直後やその後も3年間滞在している。この青年時代の思い出が別荘の生活に現れているようにも思われる。親王妃は旧前田藩最後の藩士の娘で3人の子供を授かったが2人は夭逝、次女は結婚して皇室を離れられ、親王、同妃が亡くなって宮家は断絶し高松宮家が引き継いでいた。別荘には生前の親王、同妃の物が展示されていた。 今は森の中に静かに建つ邸も、建設された当時は邸から朝日に輝く猪苗代湖翁島、日長その雄姿を見せる磐梯山がよく見えたことであろうと思われた。

都内にある有栖川宮庭園は、江戸時代は陸奥盛岡藩の下屋敷であったところで、後に威仁親王の邸宅と庭となった所である。宮家没後20年の命日に御用地は東京市に下賜され、1975年には東京都から港区に移管され区立公園として現在に至っている。都内に残る江戸時代の大名庭園の一つとして造園を学ぶ学生には必見の庭である。最終日はゆったりと休暇村を離れ、一路東北高速道を走り自宅へ帰還した。

 裏磐梯の旅は大変印象深く自然を満喫できる所で、錦に映える磐梯山五色沼を味わうために季節を変えて秋、今一度訪れたいところとなった。