水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔 その十一

 第二日目は18.4kmと短くなりました。というのも歩き旅では宿間距離、旅館の有無、日程と最寄駅(JRなど)の関係から歩く行程と宿を事前に決めます。この日は藤枝宿から金谷宿までの13.4kmにしました。金谷の先は日坂(6.4km)その先は掛川(7.9km)となり、日坂に宿はなく掛川まで伸ばすと24.7kmで長すぎます。それに金谷と掛川の間には牧ノ原台地があり急傾斜で上り下りの山歩きが予想されるため、第二日は重要ポイントを大井川「徒歩渡り」において短めとしました。

 快晴の二日目、藤枝パークサイドホテルを早出して前日の終点(青木五叉路)に行き、いつも通り8:00出発、西の青空には下弦の月が薄ぼんやりと残っていました。藤枝から島田までの旧街道沿いには比較的松並木がよく残っています。植栽間隔は2mと狭く、太くなったクロマツにとっては根元も狭く、息苦しそうに見えます。しかしそんな根元の状況でも10-15mほどの並木が街道を彩っており、今、クロマツの幼木(1m程度)を植栽することによって10~20年先に松並木を復元することが出来るのではと思いました。町内会や街の会などが音頭を取って県の道路局と交渉し家の前の小空間にクロマツを植えることを提唱したら、と思いました。

 この地域は北に丘陵を背負い大井川水系の堤や用水、谷川が流れて、南に開けた水田地帯です。島田宿(宿場街)は街道に沿っては短く500~600mですが、大井川の堤防下(島田市側)には大井川川越遺跡(1966;昭和41年;国の史跡)に指定された地区があり、12-3軒の番宿が遺され当時の様子をよく理解することが出来ました。特に川会所や川越人足の番宿を具に見れるのは素晴らしい展示法だと思いましたし、通りの景も昔そのまま、といった感じでした(感激)。

 昔は川に橋を架けることが難しく(①自然に抗し難い、②意図的に架けない)人足を使って渡るほか策がありませんでした。江戸時代1696年(元禄9年)、川越について取り決めた川越制度が作られ川端筋では番宿が生まれています。この島田と対岸の金谷には幕末650人ほどの人足がいたとされています。大井川は流れが急で水嵩の変化が大きく渡船が禁止、旅人は人足が蓮台か肩車で運んでいます。賃料は水量により人足の体型と合わせ、股・帯下・帯上・乳・脇の5段階があり、蓮台利用も形や大きさで5段階に分かれていたとあります。渡し場の水量・水深で4.5尺 =136cmを越えると川止めになったと言います。大変な時代で、人々は自然のなせるがままの生活を余儀なくされていますし、旅の持つ意味・形態・実態が現在とは全く別のかけ離れた物だったと感じました。松尾芭蕉も、増水のため島田宿で4日間川止めに遭遇し泊まったようです。そこで、芭蕉の句を少し、

 「馬方は しらじ時雨の 大井川」、 「駿河路や 花橘も 茶の匂い」、 

 駿河国遠江国を分けていたのは大井川。明治初めまで橋は架けられておらず、1882年(明治15年)橋が架かり、1928年(昭和3年)に5年かけてやっと橋が作られました。大井川に架かる大井川橋は全長1026.4m、鋼製、橋脚は16脚、トラス橋で2003年には日本土木学会から「学会選奨土木遺産」に選ばれています。歩き渡るのに20分程かかりました。川筋が幾重にも分かれていて急な流れもあれば浅く緩やかな流れもあり、流れないで溜まって淀んだ部分もあり、さらに河原が広く広がり河畔林になっている部分もありました。

 鮎釣りで賑わう川面を見ながら橋を渡り、金谷の宿に入りました。金谷宿は1000mほど緩やかな坂になった短い宿場街、すぐ背後には牧ノ原台地が迫って来ています。川と山に挟まれた小さな宿場街ですが、今ではSLが走る大井川鉄道の駅「金谷」でも有名。この宿場町に今は、適当な宿泊施設が無く、止む無くJRを一駅戻り島田駅前のホテルで2泊目を過ごしました。