水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔  その十二

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  第三日、この日も朝から快晴、ホテルの朝食は6:30開始なのですがスケジュールを早めるために時間より早くフロントに降りて朝食を早めてもらいました。この日の工程は14.3kmとやや少なめですが、牧の原台地を上り下りして坂道が多く、宿場を巡るために、意外と体力を使うことが予想されました。朝食後、直ぐにJR島田駅に急ぎ、7:08の下り電車に乗り次の駅、金谷へ行きました。金谷駅大井川鉄道金谷駅も隣接し、こじんまりした駅で西側はすぐにトンネルになり台地を貫いています。前日の最終点(駅下のガード)に急ぎその場所からスタートしました。この辻の案内板には旧東海道・金谷石畳、菊川方面の指示がありました。ガードを潜り直ぐ傍に長光寺は一段高くなってありました。この寺の境内には芭蕉の句碑があり、「道の辺の 木槿は馬に 食われけり」と記されていました。旧道の金谷坂の石畳は急で台地の上まで430m、地域の人達の努力で平成3年に復元されており、その先にも芭蕉の句碑が残っていました。そこには「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」とあります。芭蕉は旅の俳人といわれ全国津津浦々を旅して折々その地で句を残しています。句碑は旧東海道の各地で残されており、その長旅の気力、体力、自然観照の眼力、創造力には驚くばかりです。

 牧ノ原台地へ上り旧道の両側に広がる茶畑がどこまでも広がり、丁度新茶の穫り入れ時期に遭遇して畑では新芽を刈り取る(摘む)作業と、新芽を出すための株の強刈込作業が真っ最中でした。茶畑の中をさらに歩き続け菊川坂を下って静かな菊川の里に下り一呼吸したのも束の間、辻の石段と再びの急坂(青木坂)、進む尾根道の両側は同じ茶畑で近景から遠景まで景観の中心は茶畑と杉林(施業林)でした。この尾根道は大変見晴らしが良く、多くの歴史文化財(寺、茶屋跡、塚跡、歌碑など)があり、長く人々の交流が続いてきたことを物語っています。この日は期せずして6月16日(コジツケで十六夜;実際この日は下弦十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑がありました。そこには「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」と記されていました。「さや(小夜)」は塞(遮)る、「中山」は峠、悪霊を遮る神の宿る峠がこの峠の謂れのようです。

 このあたりが金谷町と掛川市の境で、さらに歩みを進めると久延寺がありました。この寺は733年(天平5年)開祖は行基掛川城山内一豊関ヶ原に向かう徳川家康に茶の接待をしたとされています。境内には真ん丸の夜泣き石がありましたが、家康手植えの五葉松があると案内本には記されていましたが、そんな古い松はありませんでした。石は何年も形を変えず残るけれども、生きた植物は、400年以上あり続けることは難しいです。道を挟んで筋向いに西行法師の句碑が休み所にあり、「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」法師69歳で2度目の中山峠越えの折の歌とされています。私は72歳で初めて峠に辿りつき、滴る汗をタオルで拭いペットボトルのお茶で喉を潤すのに精一杯でした。

 台地尾根部の茶畑通り(旧街道)は見晴らしも眺めも良い道で、いろいろな有名人の歌碑が並んでいました。列記しましょう。

蓮生法師:「甲斐が嶺は はや雪しろし神無月 しぐれてのこる さやの中山」

紀 友則:「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」

藤原家隆:「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を さやの中山」

壬生忠岑:「東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」

阿仏尼 :「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」

西行法師:「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」

 この先の沓掛坂は歩くのも一苦労の七曲りの急坂でした。普通なら階段になるほどの勾配です。西行きは下り坂(牧ノ原台地へ上る道)で、滑りそうになるくらい急、足を踏ん張りながら歩幅狭くし下りたのですが、畑に行く農家の車(軽車両)が喘ぎながら今にも停まりそうに登って行きました。これまで一番の急坂でした。下りきった所が日坂宿でした。

 日坂宿は500mに満たない小さな弧を描いた宿場ですが建物が上手く残され(例えば川坂屋、萬屋など)ひっそりと立ち並んでいました。宿場の西(京口)には事任(ことのまま)八幡宮が巨大な杉と楠に守られ鎮座していました。ここから先は水田地帯、県道415線となり7km程をひたすら西へ西へと炎暑の中、歩き続けました。

 掛川宿はこの日の終点、宿場の東口(江戸口)は逆川に架かる馬喰橋と袂にある一里塚(地名は葛川;日本橋から58里目)そして振袖餅で有名な創業200年におよぶ和菓子屋「もちや」(添付写真C)です。宿場町に多い枡形小路を抜けるとこれまた江戸時代から有名な葛菓子や「丁葛」(添付写真D)。いろいろな種類の葛菓子が有名で全国銘菓博で優秀賞を受賞しています。個別買いし土産として持ち帰りました。

 朝7:30から歩き始め14~15kmを走破、12:30に掛川宿(連雀西交差点=掛川城の南)に辿りつきました。5時間の一人旅歩きでした。焼けました、疲れました(笑)。

 13:08分発の新幹線こだま号に乗り小田原14:06着。今浦島、延べ8日間かけて歩き通した小田原~掛川間、涼しい新幹線で夢うつつ1時間。 家康もビックリ!

小田原から小田急線急行で柿生駅に15:20着、梅雨の間の3日間の旅は終わりました。