水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り 3

f:id:nu-katsuno:20170715122836j:plain

  ライバル、日本語訳では「好敵手」のことを言う。個々に素晴らしい能力を持ち、その分野で頂点を極めるような活躍をし、多くの作品を世に出して時代を生き抜いた仲間。どの世界にも、どの時代にも関係する分野の発展に関係し、注目を浴び発展に大きく貢献してきた人。夏目漱石正岡子規はどうであろうか。

 2017年、夏に向かって地球温暖化を示唆するような異常気象が続き、北九州地域での異常降雨は多くの被害をもたらし、まだその全容は明らかになっていない。前年に発生した熊本大地震の被害もまだ終息しないうちに、梅雨前線が地球の大気の変則移動と関連し発生した「線状降雨帯」で長時間の豪雨(時間降雨量150mm)を引き起こし大災害が発生した。

 この年の梅雨時、暑さと雨により野外活動をひかえ建物屋内を中心とした活動に切り替えた。それまでやっていた旧東海道一人旅や山野巡りを中断し、絵画や音楽、映画や演劇など室内文化を鑑賞する活動に切り替えた。表現を変えればスポーツ的な屋外活動から室内中心の文化的活動;展覧会巡りに変更したのである。

 

 一連の展覧会巡りにはそんな背景がある。

 今回訪れたのは鎌倉文学館、旧前田侯爵の鎌倉別邸がその場所である(添付写真;建物全景と背後の山)。鎌倉と言えば、一時代日本の都であった地であり、自然地史的にも歴史文化的にも特徴あり由緒ある都市で、現在も多くの人が訪れる町である。その環境に魅せられて多くの文化人達が居を構え作品を生み出してきた。

 この別邸は素晴らしい場所にある。鎌倉特有の谷戸景観(小さく切れ込んだ谷筋と行き止り空間)で後ろと東西両サイドは常緑樹の茂る丘に囲まれ、前には由比ヶ浜から続いて海が開け、浜から吹く風は心地よい。南に広がる眺望は海と空とが繋がり、好天であれば青の世界が南面に広がる。

 鎌倉文学館でも常設展示と特別企画展示があり、今回の特別展は夏目漱石の書簡(漱石からの手紙、漱石への手紙展)を中心とした展覧会であった。漱石は明治時代の文学者として多くの作品が有名である。学校の授業を通して作品は知っているが、その生涯や人となり、交流の人脈などは殆ど知らなかった。

 まず、漱石が49歳で病没したこと、長く病と闘い続けながら多くの作品を生み出したこと、子沢山だったこと、そして何より、俳人歌人として有名な正岡子規と同い年で学友であったことである。正岡子規結核を患い34歳という若い命であったことは、旧友であり親友であった漱石にとっては大きな悲しみであったろうと思う。イギリス留学中、帰国を決めた直前に正岡子規は亡くなっている。文学的には同じジャンルであるが俳人歌人の子規と文学者・作家の漱石は両雄で良友、ライバルであった。

 いろいろな人との手紙のやり取りが書簡として残っており、その一つに子規に送った俳句の習作に対し、子規が赤字で添削、評価し返信した書状、その他に本人の日記や旅の途中から知人に送った手紙、家族に宛てて近況をしたためた手紙、我が子に送った父としての葉書等々、改めて筆まめ漱石を理解することが出来た。漱石は神経衰弱や胃潰瘍を患っていたとあったが、書簡の文面、書き方、文字等から、それは何となく理解できた。小さくきちっとした文字で几帳面で真っ直ぐに書かれた候文体の文章は、いかにも神経質的で潔癖な感じが読み取れた。絵画や書にも才能を発揮し、中国絵画から習った絵や書の軸、当時の文学者の素養としての漢詩など数々が展示されていた。

 子規と漱石は共に大新聞社に勤めていた共通点もあり、病歴も似ている。展覧会では新聞社や出版社とのやり取りの書状もあり、漱石が亡くなった時の芥川龍之介の弔電もあった。

 苦難に満ちた波乱万丈の人生、戦争の時代背景の中、世界(イギリスや中国)から日本を見ていたこと、自分の体のこと、家族のことなど苦しみの多い49年だったのか、喜びと楽しみとして何があったのだろうか、文学作品と経歴が重なる部分もあり作品を書き人々の評判を呼んだことが喜びであったのかと思った展覧会であった。

 

 わが父、武久は大正3年生まれ88歳で亡くなったが父の蔵書に岩波書店漱石全集(初版本布製)が書棚にあったことを思い出した。母が肺結核で若くして亡くなったことも何か因縁を感じるし、漱石漢詩をやっていたこと、父が晩年漢詩を書いて手紙やはがきに認めていたこと、北宋画や南画など中国絵画や日本画に興味を持っていたことなどを思い出した。

 展覧会後、もう一度漱石の作品を読み返してみようと思っている。