水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り  8

    年金族は自由時間が沢山あって、「良いですねーー」って言葉が返ってきそうです。好き勝手な内容、時間、そして長い報告文。どこを向いて書き連ねているのかよく分からないですね。自分勝手に思いつくまま、気の向くままに書きなぐっています。

 巡り巡って8回目、以前鎌倉文学館での夏目漱石に関する日記、書簡の展覧会の様子を書き認めました(展覧会巡り 3)。今回は、漱石と同い年で日本の文学界に大きな足跡を残した正岡子規との二人の手紙のやり取りを中心にした展覧会を見てきました(新宿歴史博物館;漱石と子規 --松山・東京 友情の足跡 10/12)。

 

 大変興味深い、中身の濃い素晴らしい展覧会でした。前の鎌倉の展覧会で夏目漱石の姿は少し理解していましたが、正岡子規については殆ど知りませんでした。松山生まれの俳人であること、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句程度しか知りませんでした。まさか夏目漱石と同い年で、同じような学歴で過ごし、日本文学の新しい姿を目指していたとは新しい発見でした。

 私は、以前の記述(展覧会巡り 3)で二人の関係を好敵手(ライバル)と表現していましたが全く違っていました。同じ年(1867;大政奉還の年;慶応3年)に生まれ、東京での青春時代を共にし、文学や俳句を間にかけがえのない友人関係を培い、一方で病や精神的な悩みと闘いながらそれぞれの道を切り開き、努力を積み重ねながら日本文学に大きな足跡を残しています。共に一時期、新聞社で働きながら自らの著述を公表し、あるいは独自に雑誌・単行本を作り発表しています。

 

 この展覧会は主に二人の書簡を中心に、その生涯を5つの章で構成し、書簡の他、関係資料や遺品を添えて展示されていました。その内容は第1章;さあ、明治時代の東京へ、第2章;「漱石」・「子規」誕生、第3章;松山での日々、第4章;遠く離れた地から、第5章;絶筆三句、漱石の出発、でした。

最初のコーナーは、激動の明治時代の幕開け、社会のめまぐるしい変貌の中での20代の姿(予備門の頃の寮生活、集合写真での姿、第一高等中学校卒業名簿、証書など)。二つ目のコーナーは、「漱石」、「子規」の誕生です。それぞれ本名「金之助」、「常規」から漱石、子規に名前を変へ自らの作品を発表(子規の「筆まか勢」、「七草集」、有名なホトトギスは「鳴いて血を吐くホトトギス;時鳥に由来=この頃、自ら、結核で喀血)。子規は漱石の文章(木屑録)を見て彼を「千万年に一人」と評しています。1890年頃(22-25才)の書簡等を通して、二人は文学論や作品の相互批評、さらには趣味の落語や歌舞伎、義太夫などを楽しみながら生活し、いろいろ書き表しています。

 若い頃の積極的で広範な知識欲、いろいろな日本の文化とその良さ、素晴らしさを吸収し作品の中や自分たちの生活に取り込んでいます。

 

 こういった姿勢は、時代は変わっても、現在の若者にも是非欲しいものだと思います。実物(本物)主義、現物至上主義は、今こそ大変重要だと考えます。若い感性がある内に一流と言われるものを見聞きすることが極めて大切だと思います。それを自分のものにし生きたままを写すこと、「写生」は絵でも文章でも大切です。

 

 第3コーナーは、愛媛県松山市時代のものが中心です。子規は中国従軍(日清戦争)からの帰還途中、再び喀血し神戸から故郷松山に戻ります。漱石は、あの有名な作品を生んだ尋常中学の英語教師として松山に入ります。子規と漱石が52日間共同生活をした頃、漱石、子規共に28歳。漱石が俳句にのめり込むきっかけとなった「愚陀仏庵」での二人の生活とその頃の俳句を通してのやりとり、書簡。

「雲来たり雲去る瀑の紅葉かな」漱石 「追いつめたセキレイ見えず渓の景」子規

「見渡せば雪とまかふしらいとの池のたにまの紅葉かな」「われきくに秋をつき出すたきの音」子規(白猪唐岬二瀑より)

 

第4コーナー、漱石は松山・愚陀仏庵から熊本へ移り29歳で結婚、33歳(1900)の時イギリスへ留学、子規は52日間の漱石との愚陀仏庵の生活を終え上京、その上京の折、奈良に寄り、あの有名な句を詠んでいます。漱石のイギリス留学中、1902年に子規が亡くなりますが、亡くなるまでの間、子規は遠く離れた親友の漱石に宛て書簡を送り、漱石の返信の内容に大変興味を持って返事を催促し待望していた様子がありました。子規は亡くなる直前に「草花帖」で野菊を描いています(1902.8.10)。絵の説明書きには、この日、丁度今年(2017)と同じように衆議院の総選挙があり、「庭前に咲きありし一枝なりを折りせしもの来たりて」の中村不折(画家)の賛が付いていました。

 

 最終コーナーは、子規の絶筆と漱石の新たな出発となっていました。子規の絶筆三句は、一つの絵の中にあって、真ん中、左、右に分け、病床で書いています(1902.9.18)。

真ん中は、「糸瓜咲きて痰のつまりし仏かな」

左側には、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

右側には、「おととひのへちまの水も取らざりき」

 

 漱石は子規亡き後、「吾輩は猫である;1905年」「坊ちゃん、草枕二百十日等;1906年」を発表、以後神経衰弱、胃病、胃潰瘍など病に悩まされ闘いながら「門」「三四郎」「虞美人草」「彼岸過迄」「行人」など多くの作品を残し、1916年師走9日「明暗」執筆中49歳の若さで亡くなっています。

 

 今回の展覧会後、私の70年余の来し方を見ながら、同じ生く道を親友、朋友、好敵手、師弟等の関係を持ちながら、しかも自由に討論できた「友」がいただろうか、と自問するばかりです。1.5年のドイツ滞在やその後のドイツ友人との交友関係を考えると身近に同年代の友人(漱石・子規に似た)が居ないことに一抹の寂しさがあるのも事実です。とりわけ年金生活に入り、来し方や行く末の何ぞや、何たるやと考える時。