水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その13

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 長らく夏休みをしていましたが秋風に誘われて、またぞろ一人旅など「あるき歩き、或る記」がしたくなって宿場巡りに出て行きました。夏前に辿り着いた宿場は掛川(6/14-16)でしたので、その続きの上洛・京上りとなります。

 この夏はいろいろなことがありました。法要にはじまり運転免許書き換え講習、結婚式、励ます会、さらには検査・入院・手術・療養等々。忙しい合間を縫って絵画展や映画も鑑賞しました(ブログをご参照ください)。ある意味では充実した夏3か月でした。

 

 異常気象は今に始まったことではないですが、季節の「らしさ」も年々はっきりしなくなって来ています。今年の夏は猛暑が少なく、雨降りや曇りの日が多く日照不足だったように思います。10月に入って2度にも亘って台風が本土来襲という異常さ。多くの幼稚園や学校が運動会を延期したり中止せざるを得なかったのではないでしょうか。

 私の一人旅もなかなか予定が立たず、宿場の宿予約に苦労しました。歩くたびに道は西に延び、自宅からの距離も増して出発点が遠くなります。前回が掛川で止まっていましたので、いつ静岡県から出られるのか問題でした。今回の3泊4日でやっと駿河の国(静岡県)を離れ三河の国(愛知県)に入ることになります。

 

 10月24日、直前まで台風の影響を心配しましたが、幸い夜間足早に通り抜け、台風一過の早朝、自宅を出ました。これまで同様、柿生の下り始発電車で小田原に出て新幹線に乗り換え、掛川に8:10着。直ちに前回の終着点、連雀西交差点から歩き始めました。東海道を歩いていると道すがらに「秋葉神社や常夜燈」が大変多くあります。火伏の神、竈の神として人々から厚く信仰され、掛川宿の西に東海道と分れ「秋葉山道」が北西に伸びています(秋葉山まで9里=35km)。昔の人々は秋葉詣で参拝のため歩いて訪れていますが、私は東海道行脚。とても本社に寄っている時間が無いので、道すがらの秋葉神社で手を合わすに留め、先を急ぎました。東海道は、現在県道253号線になっており、歩き始めて小1時間歩くと垂木川の川沿いに善光寺仲道寺がありました。「江戸と京都の丁度真ん中」を意味してその名があるとの事。「胃病の平癒に功あり」となっていたので丁寧に心を込めてお願いをしました。

 

 このあたりの街道には今も松並木が遺され、周りを丘(低山)に囲まれ田んぼが広がり、泉水もあって「袋井」の名が付いたようです。「遠州・袋井に三山あり」とされ、法多山尊永寺(厄除け)、万松山可睡斎(火伏)、医王山油山寺(眼病治癒)への参詣客で賑わったとあります。周りは今でこそ圃場が整備され、真っ直ぐな農道・水路・整った区画の田圃が広がっていますが、かっては幾く筋もの川が曲がりくねって流れ、それに沿って多くの田圃や湿地が広がっていたことでしょう。

 袋井宿は江戸日本橋からも京都三条からも、数えて丁度27番目の宿場に当たり、東海道の真ん中の宿場です。今は宿場の真ん中に公営の「ど真ん中茶屋」(写真:上左)と「宿場公園」が設けられており、茶屋ではボランティアの小母さんから接待を受け、お茶(掛川茶)をご馳走になり、公園のベンチで途中のコンビニで買ったお握りを食べ一休みしました。

   行書東海道五十三次袋井(初代歌川広重絵:1830-44)には良風を受けて凧揚げを楽しむ風景が現されていますし、広重の隷書東海道袋井にも角凧、丸凧が「名物遠州凧」の有様が描かれています。遠州地方は風が強く遠州凧はその様子を良く表しています。

 午後は磐田を目指し、また歩き始めました。このあたり木原には木原古戦場があり、三方原の戦い(武田信玄甲斐国)と徳川家康駿府)の合戦;1572)の前哨戦があったとされています。許禰神社には家康の腰掛石(写真:上右)があり家康を偲んでその石に座ってみました。近くの須賀神社(創建1225年)には樹齢600年の楠がありました。太田川を渡ると磐田市、この日の宿場(見附)に入りました。本陣、脇本陣を眺め、L字型に街道を巡って府八幡宮で旅と家内の安全、明日の天気を祈りましたが、夕やみが迫る頃ポツポツと雨が降り始め、ABホテルに入りました。次の日の天気が心配でしたが、この日歩いた歩数は38.500歩、8時間の行脚。疲れましたねー。

 

 第2日目:心配した通り朝から雨。急遽、近くのコンビニ7・11で透明の簡易傘を買いました。身なりはいつも通りですが、雨のためリュックを覆うポンチョを被り、傘を差して出発(7:30)。この地域は、昔、家康の鷹狩の名所であったようで、府中から大勢の家来を伴って訪れ楽しんだようです(宿場、本陣、茶栽培、喫茶、泉水、里山、鷹狩の関連)。

広く水田が広がる地域、降りそぶる雨の中、所々に残る名残の松を見ながら県道261号線を西へ西へ。道は天竜川左岸の土手に当たり、いよいよ天竜川を渡ります。折からの雨は一段と強くなり、歩き始めて1時間半、足元はズブヌレ状態。ズボンは膝頭まで湿ってきました。天竜川には橋が2本架かっており(天竜川橋、新天竜川橋)、古い天竜川橋には歩道がありません。国道1号線、県道312号線が重なる新天竜川橋の歩道を、傘を斜めに差して歩き渡りますが、川面は台風の影響により水嵩が増し川幅いっぱいに黄土色の濁った水が流れ、怖さを感じる景観でした。

 思わず広重の東海道53次絵柄で雨風に抗して歩く旅人の姿を我が身に置き換え想像してしまいました。また、同じ浮世絵師北斎の漫画12編にある「風」の様子や、広重の冨獄36景 駿州江尻(1830-38)の絵に表された「風」の姿を思い出しました。

 明治天皇明治11年(1878)北陸東海御行幸の折、この天竜川を渡っておられ、橋の袂には玉座跡碑があり、その折に舟橋を設けた故人(浅野茂平)の功績碑もありました。

余りに足元が濡れて重くなったので岸辺にある六所神社境内で雨宿り休憩、装備直しをしました。装備直し(乾燥、水切り、履き替え等)は昔取った杵柄で心得たものです。ポケットティッシュ、前日の下着、靴下等を取り出して靴やズボンの裾の水気を取り除いたり、お茶を飲んだりして小1時間休憩をしました。靴の爪先に新たにティッシュを詰め、靴下を履き替え、やや乾いたズボンを穿き直して出発(10:00)。すぐ近くに、天竜川の治水事業に尽力した金原明善の生家と記念館がありましたが、生憎、休館のため建物の正面を見ただけで先を急ぎました。

 浜松宿の外木戸跡(11:30)を通り浜松市街に入りました。浜松宿も東海道浜松城大手門跡で直角に曲がり、かつての中心街に入ります(浜松城徳川家康が岡崎から入り静岡・駿府に移るまでの17年間在城(1570-1586)。折から丁度昼時に当たり、多くのサラリーマンが街中の食堂を探し訪れる姿が見られました。大手門跡から連尺町、旅籠町、伝馬町界隈には箱根と並ぶ6本陣があり 、往時は城下町、宿場町として大変賑やかに栄えた道筋ですが、現在は中心が少し東のJR、遠州鉄道駅寄りに移っています。旧東海道の西側は少し高台になっており五社・諏訪神社松尾神社が東に向いて建っています。諏訪神社で諸願を祈願し、境内でオニギリを食べお昼としました。

 浜松駅で隠れた名品「あげ潮」を買い求め宅急便で送りましたが、往時は旅の名品、お土産をどのように持ち運んだのでしょうか。ご当地で賞味味わい堪能して土産話の種にしたのでしょうか。

 昼食後、この日の宿、舞阪宿を目指して歩を進めました。折から雨が上がりポンチョを外し雨傘を杖代わりにして一路、県道257号線を西へ。二日目にして再び足に豆が出来てしまいました。毎回のことですが、やわな足の裏側です。さすがに午後になると少し痛みが出て歩く速さが落ちるような気がしました。浜松から以西、浜名湖までは内陸側に東海道新幹線と在来東海道線が平行して走ります。高塚を過ぎると旧東海道は県道316号線となり街道の海側には水田が広がっていました。JR舞阪駅近くになると宿場の街並み景観が出てきます。舞阪の宿は5-600mしか無いですが落ち着いた宿場。地形的には浜名湖周辺の低地で地名が長池、砂洲が陸化し街道筋にクロマツが植えられています(700m区間に340本、正徳2年(1712)当時は1420本)。本陣、脇本陣の隣に雁木跡が3ヶ所(北、南雁木と本雁木)あり、かつての浜名湖渡り(今切の渡し)の面影が残っていました。時間は16:30、足の豆が痛くてトボトボと弁天橋を渡る頃、弁天島と鳥居をシルエットとして秋の西空に沈みゆく、真っ赤な夕日が私を迎えてくれました(写真:下左)。宿の開春楼に17:15分到着。この日の歩数は43,155歩、8時間の雨中(宇宙)遊歩でした(苦笑)。明日は快晴だーートオモフ?。

 

 3日目:快晴でーす。早起きしてホテル前の浜に出て散歩。バイキング朝食を早々に済ませ出発(8:00)し、隣の弁天神社(1708創建)に参拝。正岡子規の句碑があり、東京へ上る途中、列車の車窓から浜名湖を眺め句を詠んでいます。

 「天の川濱名の橋の十文字」1895年秋

 江戸時代当時は舞阪宿から京都を目指す新居宿(新居関所)との間、浜名湖渡し船(今切りの渡し)で行き来し、渡船場(雁下という:乗降の為、傾斜をつけた石畳乗り場)は身分により3つに分かれていました。昔の渡船、今は無く代って早朝の漁に出た小さな漁船が波を立てて行き交っていました。JRや新幹線と並んで国道1号線を歩き浜名湖を渡り終え、新居関所に着きました。箱根の関所は何度も見ていますが新居関所は全く知りませんでした。この関所は今切関所といわれ慶長5年(1600)設置、建物(面番所)は何と1855年安政2年)建て替えられ、現在国の特別史跡に指定(1955)されています。平地の関所で敷地、建物、間取りいずれもゆったりとした空間となっていました。新居宿も路がL字に曲がり地形に沿って山際を巻いて通っています。その山裾に鎮座する諏訪神社の「筒花火」は有名な行事です。

 旧東海道国道1号から分かれ丘陵の麓に沿って白須賀宿まで続く旧浜名街道で、松並木が続いています。道端に突然歌碑が表れ、藤原為家、阿仏尼の2首がありました。

  風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのほるあまの釣船  前大納言為家

  わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで  阿仏尼

為家の歌は続古今和歌集19巻にありますが、為家は藤原定家次男で(1198-1275)、阿仏尼(1222--1283;十六夜日記作者)は為家の側室で夫亡き後出家し、鎌倉へ行く途中に詠んだとされています。東海道を種々な人が、色々な想いで往来し現在まで来ています。

 道の近く南側(500m)には波風が強い遠州灘が位置し、広い海の景観が広がっており、明治元年(1868)10月1日には明治天皇がここで野立の休憩をした所がありました。この行幸では10日間で京都からこの地に入り(岩倉具視も同行)、その後13日かけて東京に到着しているようです。私も倣って休憩し、道端の草叢を歩いて膝までビッシリくっついた大量のヌスビトハギの種を一生懸命取りました(笑)。

 新居は昔「荒井」と書き、白須賀宿も以前は海辺近くにあったようですが(元白須賀)地震津波(宝永4年:1707)で壊滅的な被害を受け、内陸(現白須賀)に移っています。元町で道は曲折し丘を登り、遠江国の西端白須賀宿に下ります。丘の上からは遠州灘が見え(潮見坂)、峠からは富士山が見える最西の地となっていますが、生憎私は見ることはできませんでした。白須賀宿は丘陵下の街道に沿って細長く伸びた静かな可愛い宿場といったところでした。境川三河の国と遠江国の国境になっており、道は丘陵の上に上がり国道1号線と重なりました。暫く歩いて再び新幹線、在来線と交差し二川宿に入りました。「三河」の語源は三本の川(乙川、豊川、矢作川)がこの地域にあることに由来するようです。

 二川宿は落ち着いた、こじんまりした静かな宿場(1.3km)で、戦災を免れ街筋、建物の昔の面影がきちんと残されています。街に住んでいる人の気持ちが良くあらわれ、昔の姿を残そうとする意欲、歴史を日常生活の中に残すという気概が佇まい、家並みの隅々に見られ感激しました。本陣は度々火災で没落し再建され、現在の旧本陣は1870年の廃止後もその姿を残しています。宿場の商家も大変良く残され、東駒屋味噌醤油醸造店(写真:下右)も見事な街並みと共に町屋の姿を構成していました。

 JR二川駅西の火打坂で道を取り違え国道1号(裏東海道)を歩いてしまい(表東海道は現在、東三河環状線)単調な午後の道行となりました。柳生川に架かる殿田橋で15:30、旧東海道になり吉田宿に入りました。吉田の名は以前今橋でしたが城下町、湊町、宿場町として大いに繁栄し、明治2年(1869)豊橋と改名されましたが、先の大戦で町の8割が空襲で焼失しています。そのせいか、街中の東海道は大変分かり難く、吉田城城門の曲尺手門跡から先の市内では、小街路をうろうろしている間に夕闇が迫ってきました。この日も夕方になって足の豆が痛くなり、よろよろの状態でABホテルに入りました。この日の歩数は45,055歩、8時間半の西行きでした。治療しましたが明日、豆はどうなっているのかな ~~~?。

 4日目:「天気晴朗なれど 足まめ痛し」。朝食バイキングを十分に堪能し、お腹は万全でしたが足元の具合が宜しくなく出発を遅らせ、この日の予定を実行するかどうか判断に 迷いました。この日の計画では、名鉄名古屋線に沿った旧東海道なので何時でも途中棄権できましたが、次回の「歩き」の繋ぎ方の関係から今回の歩き旅は「吉田(豊橋)宿」までとし、計画を中止して新幹線に乗り帰途につきました。今まで同様、小田原を経由し夕方柿生の自宅に戻りました(終わり良ければ総て良し。良かった良かった!)。

 豆知識:5時間以上歩き続ける「歩き旅」では、2日目頃から足に豆が出来ます。多くの場合、足の裏に水泡ができ痛みが伴います。運悪く途中で潰れる場合もありますが、そのまま推移する場合は、針などで水泡を潰し、水を出して乾かしバンドエイドなどを患部に張ります傷口の皮膚がピッタリ張り付けばOKです。