水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔   その十四

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  早いもので今日は平成29年(2017)12月25日、クリスマスになってしまいました。2017年もいろいろありました。年の最終月(師走)恒例、今年の10大ニュースの記事が新聞紙上に掲載されています。新アメリカ大統領誕生(トランプ=赤いハートか真っ黒なスペードか)。北朝鮮金正恩:リトルロケットマン)の度重なる実験、発射。金正男氏暗殺などいずれも暗くなるようなニュースばかり。当たり前とはいえ世界的に衝撃度の高いニュースと言えばそうなりますが、嬉しく楽しく希望の持てるニュースは10大ニュースには入ってこれません(僅かにノーベル文学賞をノグチ氏が受賞)。

 私の身の回りでのニュースでは、トップにこの東海道一人旅開始、が入ります。何といっても3月11日から始めた一人歩き、繋いで繋いで遂に尾張名古屋まで行くことが出来たのですから。昔の時間と今の時間を体感し想いを巡らせながら沿道の史跡を訪ねてお願いしたり教えて戴いたりした日々でした。

 今回、平成29年最後の道行きは豊橋(吉田宿)~名古屋(宮宿)間でした。

 吉田宿、古くは今橋、読み名が「忌まわしい」に通ずることから「吉田」と改称され明治になり「豊橋」となったようです。この地は伊勢湾を挟んで三重県伊勢地方から近畿圏との交流(船運)で栄えた街で船着き場のある豊川縁(廻米集積や伊勢参宮の便)、吉田城に宿場が発達していました。市内は第二次大戦で80%が焼失しており宿場の名残は全くありませんが旧東海道の指標は明示されていて、朝早くまだ町が起ききっていないうちに抜けることになりました。

 これまでも早朝、新幹線で出発地まで行き、歩き始めましたが、今回も朝一番の電車で自宅を出(5:12)、新横浜から豊橋まで急ぎ8:00には歩き始める強行日程となりました。豊川縁の船着き場跡を横目に豊橋を渡り聖願寺へ。この寺には原田圭岳(1803-1885)の老松図(凄そう)があるようですが芭蕉句碑だけ見て一休み。橋の袂の弁天社にも芭蕉の句碑があり、この時節の姿が浮かびました。

 「ごを焼(たい)て手拭あふる寒さ哉」

 「寒けれど二人寝ねぞたのもしき」

 この先、御油までは平坦な水田地帯(かっては湿地帯;豊川はじめいろいろな河川の氾濫原野の様で、国指定の弥生式低湿地瓜郷遺跡がある)が広がり豊川放水路が南北に貫いています。かっての伊那村立場茶屋跡(碑のみ)にも芭蕉の句碑があり「かくさぬぞ宿は菜汁に唐が羅し」、東京遷都で明治天皇行幸の折に休憩された所とありました。

 御油宿は鉄道や国道から離れたため、鄙びた宿場の景(連子格子の家並)が残っていました。道すがらの村社速須佐之男神社の石積の素晴らしさに感激。

丁度お昼頃、当宿に辿り着き、芭蕉句碑に魅かれて国府観音を訪ねましたが、境内はやや荒れており、天保14年(1843)建立の芭蕉碑と地蔵尊群だけがひっそりと建っていました(紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ   ばせを)。御油には姫街道本坂越;浜名湖の北を巡って遠州見附(磐田)に至る道60km)の追分があり、次の赤坂宿(以前の計画10月27日ではここまで辿り着くはずでした)までには国の天然記念物のクロマツ並木(私が生まれた昭和19年指定);御油松並木が600mほど見事に残されています(日本名松百選の一つ: 添付写真)。

赤坂宿は御油宿と2km、次の藤川宿へは11kmの位置にあり、有名な旅籠:大橋屋伊右衛門鯉屋は創業が慶安2年(1649)現在の母屋は正徳5年(1716)建てられた有形文化財とありましたが、丁度修復工事中で外観は見れませんでした。宿場東口にある関川神社には樹齢800年の巨木:楠が聳え、根元には芭蕉句碑

夏の月御油よりいでて赤坂や)がありました(添付写真)。

 計画では1日目に赤坂宿までとしていましたが、快調に歩いた結果、まだ日が残り、先(本宿まで7km)を目指し歩き続けました。この先は両側から山が街道に迫り、奇しくも東名高速道、国道1号線名鉄線が旧東海道と並んで通っていました。本宿東口に15時、旧道を通ってこの日の終点、本宿駅に15:15着、歩数は38.000歩となっていました。豆が出来た足を引きずりながら名鉄線急行に乗り豊橋駅に戻り、夕食を買い込んでホテルに入り、体を休めることになりました。