水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その十五

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 年末東海道一人旅の2日目。12月13日快晴。ホテルで朝食も早々に早出(7:15)して名鉄特急に乗り、国府で各停に乗り換え本宿(8:05)着。前日の終着点から第二日目が始まりました。本宿は間宿でこじんまりした宿場です。国道1号線に沿って暫く行くと藤川宿になりました。この辺りは道の両側に山が迫り山綱川(乙川の支流)の間に細く伸びる宿場でした。宿場の東口には鬱蒼とした社叢に囲まれた山中八幡宮がありました。この神社の赤い鳥居は徳川家康が寄進したもので、朝日を浴びて赤く輝いていました。三代将軍家光は上洛の折にこの神社に参拝したとあります。境内の樹林は愛知県の自然環境保全地域に指定(平成16年2月27日)されており、一向一揆(1563)の折に家康が隠れたという洞窟もありました。地区全体の中で神社境内は普通地区ですが、東斜面樹林は特別保全地区でツブラジイを主体とした常緑針葉樹林、この中に生息するヒメハルゼミも希少種(準絶滅危惧種)です(添付写真)。早朝で人気のない境内で静かに願い事をし休憩をしてさらに歩を進めました。

 藤川宿も国道1号線に沿って立ち並び、京側には二代将軍秀忠の命による黒松並木が非常に良く残され、岡崎市指定天然記念物になっています(添付写真)。現在も藤川小学校や中学校の卒業記念樹で若木が植え継がれており着実に時代が継承されていました。この好例を参考に、東海道沿いの松並木復元のため、沿道地域で小中学校を中心に地域の人達が息長く植栽活動する動きが生まれることを望んでやみません。駅近くの「史跡十王堂」は今秋新しく立て直され、傍らに芭蕉句碑(1793)がありました。

  「ここも三河むらさき麦のかきつばた」

 国道1号線と別れ美合地区を過ぎ乙川に架かる大平橋を渡ると岡崎市街も直ぐそこ、手前には世に名高い名奉行大岡越前守忠相の陣屋跡(大岡忠相寛延元年;1748に西大平藩の大名(1万石)になり当地を収めている)が恵光寺裏の高台にあり史跡として整備されていました。乙川の河岸段丘沿いにある街道を西に進むと、岡崎城内に入り岡崎二十七曲の碑と冠木門がありました。二十七曲なるものが何なのか初めてで知る由もありません。城の防御と城下の繁栄のために生み出されたものらしく天正18年(1590)家康関東移封後に秀吉の臣、田中吉政が整備したとされています。原型は宿場の出入り口によくある「枡型」の道にあります。河岸段丘の上に位置する岡崎城下、この日は快晴で見晴らしも効き、方位もよく分かりますが、天気が悪いと見晴らしが効かず方位も失うこと必定です(これに27曲がりが重なると自分がどこにいて、どっちに向かっているのか分からず、街を守る上で重要)。城下を歩いてみるとこのことがよく分かります。

 岡崎宿の中心地、東、西の本陣跡を眺めながら和菓子の「備前屋」に立ち寄り銘菓「あわ雪」「八丁味噌カステラ、味噌煎餅」を買い求め、この日の最終ポイント「中岡崎」向け岡崎城周りをクネクネ、ジグザグ曲がり、街中を歩き進みました。

 JR岡崎駅は城下町の市街地と少し離れており、名鉄東岡崎駅も乙川を挟んで離れています。この日のホテルはJR駅前のため、電車を乗り継ぎ辿り着きました。時間は15:30、ホテルには15:40。この日歩いた歩数は27.400歩、7.5時間に及ぶ長丁場になっていました。