水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次   今・昔  その十六

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 平成29年の師走14日、東海道独り歩き3日目。6時起床、着替え6時半洗顔・朝食そして7時には出発、JR岡崎駅から愛知環状鉄道線(高架線)高蔵寺行に乗り、前日の終点・中岡崎で下車。この日の目的地(25km先)目指して歩き始めました(7:30)。

 旧東海道高架鉄道とクロスして下を走っていますが、この地は「八丁味噌・まるや」で有名、この「八丁味噌」名は三河尾張の2軒(他の店はカクキュー;創業350年)のみに許された名称とのこと。老舗のまるやの店舗・工場(太田弥次右衛門が自家製味噌を作り出し八丁味噌と名付けた)の味のある黒塀の建物群を見ながら先を急ぎました。老舗の建物群を過ぎると直ぐに東海道一の長い橋「矢作大橋;長蛇曲橋」を渡ります。暫く行くと十王堂や境内に有名な芭蕉の句碑(古池や蛙飛び込む水の音)がある誓願寺が現れましたが、現在はお寺が幼稚園を経営しており、昨今の不審者侵入防止で一般の見学者立ち入りが出来なくなっていました(残念)。

 1時間近く歩くと街道が国道1号線と重なり、旧宇頭村先まで激しい車の往来に合わせて歩きました。途中、樹齢400年の枝垂桜と案内書に示された聖善寺があったので訪ねましたが、巨木は見る影もなくみすぼらしい姿に変わってしまっていました。説明版には昭和34年の伊勢湾台風によって老銘木が倒れ、残った一部が細々と生を繋いでいました。岡崎市から安城市に入り、旧柿崎村から道は1号線と別れ再び旧道になりました。日本橋から83里(332km)の尾崎の一里塚周辺は、先の世界大戦時に第一岡崎海軍航空隊基地予科練練習生のいた所で招魂碑が建っていました。歩き始めて2時間、丁度見所の「永安寺」に着きました(9:30)。この寺の境内にはそれはそれは見事な雲流の松添付写真)がドカーンと鎮座していました。この松は物の本によると、義民柴田助太夫(刈谷藩、再検地、年貢取り立て、大浜茶屋、庄屋、助郷免除願い出処刑)の屋敷にあった木で、今はこの寺に移されているとの事。いつ移されたかは不明でも姿、形からかなり以前から彼の墓ともどもこの寺に祀られ保存されています。樹高は3m足らずですが枝振りと枝張りが15m以上、それはそれは見事な雲流松でした。

 矢作川があるとは言え、この地域もかって安城ヶ原と呼ばれる不毛の地で西三河地方一帯の灌漑のため「明治用水天明14年(1784)ー明治14年(1881)建設    な、な、なんと100年近くかかって完成!!!」が整備されたところでもありました。道の近くに明治川神社があり、道端には大きな自然石を使った明治用水碑(疎通千里利澤萬世; 内務卿松方正義、 聖朝嘉精良民義峯;大蔵卿佐野常民 碑文)がありました。

 このあたり、安城市の松並木も以前は見事で樹齢200-250年(市指定天然記念物)の松が並んでいました。昭和34年の伊勢湾台風で70%ほどが倒れ現在は450m区間に面影を残しています。この先直ぐに知立国道1号線と交差して市街地に入りました。宿場の入口部には小林一茶の句碑(はつ雪やちりふの市の銀口入)が建っており、道標には「池鯉鮒宿」と書かれています。岡崎市から12.2km、休みを入れて4時間半かかりました。問屋場、本陣跡を見ながらこじんまりと纏まった市内を通り知立神社でお参り(ここにも芭蕉句碑;不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市)と国の重要文化財多宝塔がありました。趣味で蒐集している絵馬を戴いて境内で昼休み。

13時に出発、逢妻川在原業平を慕ってここまで来た杜若(カキツバタ)姫が逢えた所;逢妻橋)を渡り国道1号線と着かず離れず街村のように道沿いの旧家を見て歩き続け、遂に三河尾張の国境となる「境川」を14時に渡りました。

 日が西に落ちていくのに急かされて休むことなく歩き続け、かっての兵どもが夢の後、桶狭間古戦場を眺め、進んだ先に「重要伝統的建造物群保存地区の有松」がありました。ほぼすべての店先には仮名で書かれた「ありまつ」の絞の暖簾が架けられ電線も看板もない落ち着いた古い商家(竹田家、小塚家、岡家、服部邸、中舛竹田荘)の建物が多く、整然と建ち並んでいました(添付写真)。夕日を浴びて輝く旧家の甍や家並の景に日本の古き伝統の良さと和風建築の佇まいの素晴らしさに感嘆しました。

 手越川を下に見て名鉄鳴海駅に16:15着。鳴海にビジネスホテルが無く、急行に乗り名古屋駅へ。夕方チェックインする前に地下街で温かい豚骨ラーメンを食べて大満足しホテルに入りました(17:30)。

 この日は今回の歩きで最長距離25km、歩数はなんと、41.375歩になっていました。

 

12月15日 (年末一人歩き4日目)

 いよいよ今年最後の東海道中、尾張名古屋までの陸路の最終地点、七里の渡し;を目指す日となりました。広重の東海道絵図;宮は熱田神事(馬の塔)が描かれています。裸馬に荒薦を被せた俄馬を走らせ競う様子の絵です。最後の区間は、前日の最終地点鳴海からまでの7.7kmで、朝早く7:30にはスタート地点に立ちました。鳴海の桝形を曲がり、県道22号線に沿って進み千鳥塚(芭蕉存命中に作られた塚;星崎の闇を見よとや鳴く千鳥芭蕉自筆の碑文)を見て進路を西にとり、天白川に架かる天白橋を渡りました。橋から遥か北方には、雪を被った御嶽山が見え尾張に来たことを実感しました。笠寺町には立派な一里塚が残っておりの老木が枝を大きく広げ聳えていました。一里塚は9m×9m、高さ3mの規格でこの笠寺一里塚はきっちり附合し立派で大きな塚でした。一里塚の正面からは尾張地方で有名な「笠寺観音」が真正面に見え、境内で一休みしました(みづからはぬれつつわれにおほいする あまのはやしに笠はくちせじ;藤原兼平)。瑞穂通りを歩いて呼続よびつき;昔は浜であった)地区辺りから低地(昔の浜)へ下りはじめ信長が整備したと伝えられる八丁畷の直進道路を進むと堀川近くの伝馬町、北に宮の名の由来する熱田宮(あつたみや)が見えてきました。国道1号線を渡るとそこは本陣や脇本陣、西浜御殿のあった七里の渡し。ついに尾張東海道陸路の最終地点、静かな入り江の公園になっています(添付写真)。ブラタモリで紹介された所、昔の人はこの場所に立って何を想ったのだろうか、と遠く続く海を眺めました。太陽が南高く上り快晴の海辺、時計は11時をさしていました。

 この地まで無事に辿り着いたお礼とこれから先、関西方面への足取りに加護を戴くため熱田神宮に詣で祈り、記念に絵馬を買い求めました。何と師走15日に既に来る新年・平成30年の戌の干支絵馬付き破魔矢がありました。娘の干支でもあり勿論拝受してきました。

 名鉄神宮前駅から名古屋駅に出て、駅の地下街で名古屋グルメの味噌カツを食べ帰路に着きました。今回の4日間に渡る道行きでは、一日平均20km、豊橋~宮まで66kmを歩きました。我ながら良く頑張ったと、我が身を褒めることにしました。

健康第一を実感した一人旅でした。