水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

生活の中の静けさと緑

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 「静けさ」は私たちの生活の中でどのように考えたらよいのであろうか。

 先日、民間放送(日本放送)の番組(朝ラジ)の中でアナウンサーが投書を紹介し問題を提起していた。その投書の内容は、寒い冬の夜、火の用心の注意を喚起させる子供たちによる火の用心の夜回りの声についてであった。新聞紙上で、ある老人が「夜回りの声が五月蠅い」と投書し、それに対して番組のアナウンサーは、「何と世知辛い、心が狭く、生活文化を理解できない人がいることか」と嘆いていた。同じような内容で、幼稚園や小学校の近くに住む人が、「子供たちの声が五月蠅い」というものもあると聞く。

 類似の例で対照的なものとして、ドイツの好事例を挙げよう。都市への人口集中が進んだ先進国の都市内では緑の空間や子供の遊び場の減少は著しい。ドイツでは緑の空間の創出や充実、身近なコミュニティー育成、安全な子供の遊び場確保として「中庭の緑化、充実(Innenhofbegrünung」を既に1980年代から進めてきている(拙著:環境情報科学18(4);1989)。集合住宅に住む子供たちの遊び場として中庭を整備し、緑多い中庭の再生・活性化、整備への住民参加(総合的な環境対策)を推し進めてきた。この場合、子供の遊び空間での「声」が住民間で問題となり、遊戯時間の設定(決められた曜日・時間の取り決め)で住民合意形成を図り進めてきている。つまり、住民総意(老若男女)の取り決めとして安全安心快適な環境を作りだすよう努力を積重ねてきている。

 日本でドイツと同様の取り決めや方策が取られているかどうか知らないが、騒音と生活音(日常生活の中の音)の間にはなかなか難しい問題がある。

 ここに挙げた「静けさ」は別の角度から見れば自然と文化の中に混在している。歌の文句に登場する「春の小川」の水の流れ、木の間を吹き抜ける風の音(松籟など)、「雪の降る町」の雪空もあれば、日本庭園のなかで聞く「僧都の響き」、手水の水や水琴窟など多種多様で聞く人、感じ取る人の文化的素養とも関係する。

 ドイツでのもう一つの環境対策と音について述べてみよう。この内容も既にドイツでは1980年代から日常生活環境の見直し、改善の中で取り上げられて来たことである。それは、中庭の緑再生・充実と機を一にしている。身近な生活環境を快適にするため、「静けさ」をより大切にしようというものである。すなわち、「静寂化推進」である。最初の住空間での静寂化は、先にも示した通り、子供の遊び時間に関するものもあるが、同時に身近な街路空間の「静寂化=Strassenberuhigung」である(前掲著)。この環境対策は、緑の再生・充実と合わせ、より広範に進められてきている(私が2015年ドイツ再訪の折、多くの町で道路静寂化事業=Strassenberuhigungが取り入れられていた。つまり居住地区内では時速30km以下での走行が義務付けられている。その速度は今日の電気自動車(HV)の環境社会対応に適する速度である)。

 この静寂化施策は、同時に街路空間での緑の充実(一方通行路の充実、街路の曲路化、街路樹植栽、緑のアイランド新設、ラウンドアバウト化(環状交差点)と緑)に深く関係してきており、都市内の緑空間の更なる充実と連携して整備が図られてきているのである。

 

 生活の中の「音」についての議論は論点の違いにより内容が複雑、多様で評価は難しい。

しかし、日本の都市や居住地域内での「静けさ」の充実には、理論的・物理的数値のみでなく情緒的、抒情的考えも加味して進められることを期待したい。 

 

 投書で挙げられた記述のようなものが出ることは人の心の広さ、自然の豊かさ、文化の奥深さを消し去るようなことであり、何とも嘆かわしいことである。