水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

仁和寺と御室派のみほとけ  

f:id:nu-katsuno:20180317223330j:plain

  3月7日、以前から楽しみにしており、マスコミでも大きく取り上げられ評判の仁和寺展に出かけた。展覧会の目玉は千手観音菩薩坐像(国宝;大阪葛井寺蔵)、「聖十一面観音菩薩立像(国宝;道明寺蔵)、阿弥陀如来坐像と両脇侍立像」、「薬師如来坐像さらに空海ゆかりの国宝「三十帖冊子」(国宝;仁和寺蔵)等である。

 上野の東京国立博物館・平成館における今回の展覧会は、前に運慶展が行われた会場(

添付写真は平成館入り口の看板)。前回同様、展覧会の人気は素晴らしく真言宗御室派総本山、仁和寺を中心(134点)とした全国各地の御室派寺院に収蔵されている仏像(40点)等が一堂に会するものであった。入場に際して運慶展同様、長蛇の列で館に入る待ち時間が1時間を越える盛況になっていた。

 展示は①御室仁和寺の歴史、②修法の世界、③御室の宝蔵、④仁和寺の江戸再興と観音像、⑤御室派のみほとけ、のテーマごと展示物が分けられ、全部で174点(うち国宝24、重文75)の仏像、宸翰、肖像画、書、工芸品などであった。全体を見終わるには優に3時間を要する内容であり、すべてを細かく丁寧に鑑賞するには数回(実際に展示期間が8期に分けられていた)足を運ぶ必要があると感じられた。私は、正午前から3時間ほど休憩無しで鑑賞し、見終わって疲れと溜息「フウ~」(足腰が・・・)。 

 千手観音菩薩坐像(国宝;西国33ヶ所5番札所大阪葛井寺の本尊;奈良時代:8世紀)は圧巻であった。観音菩薩の柔和な顔は例えようの無い柔らかさ、優しいまなざしであり、1041本と言われる手を光背として無限の拡がりを示す姿は見る者を引き付けてしまい、大袈裟に言えば実像よりきわめて大きな世界(宇宙)を感じてしまう。坐像は正面、横、後のどこからでも見ることが出来るように展示されていたが、対峙する人の「心」からすれば(仏と我が身だけの心情)正面だけが良い。像の個々の造りや構造・形態を視て知るためには、この見せ方もあるだろうが「ほとけ」本来の観方は別であると思う(仏像と場と雰囲気)。四国屋島寺の同じ千手観音菩薩坐像(平安時代:10世紀)も大きさこそ違え、素敵な像であった。

 さらに観音堂の再現にも驚きを隠せなかった。現在の超越技術を駆使し壁画を高精密画像で再現。この観音堂は普段、修験道場のため非公開であるがここでは観音堂内の様子、雰囲気を作り出していた。28部衆立像を含む33体の仏像が置かれたこの空間で、ここだけカメラ撮影が許されており、殆どの人がカメラや携帯を駆使して撮影していた(フラッシュを焚かないでくださいの連呼)。 

 

 仁和寺真言宗御室派総本山であり光孝天皇(830-887)が発願、その第七皇子、宇多天皇(867-931)により創建されている。御願寺(皇室ゆかりの私寺)として歴代天皇から崇敬され、応仁の乱(1467-1477)で伽藍が全焼したが、その後、江戸時代寛永年間(1624-1644)に、徳川家光の支援で伽藍再興整備がなされている。この時期の皇居建て替えに際して紫宸殿、清涼殿、常御殿などが同寺に下賜され、移築され仁和寺金堂(国宝:近世の寝殿造り建築の遺構;宮殿建築)として残されている。宇多天皇は東寺で伝法灌頂を受け真言宗阿闍梨となっており(901年)、息子の醍醐天皇真言宗開祖空海に「弘法大師」の号を与えている(921)。

 

 仁和寺弘法大師空海(774-835)を宗祖(真言宗)としており、今回の展覧会にも寺が所蔵する三十帖冊子(国宝;平安時代:9世紀)が出されていた。空海ほかの直筆が展示されており、平安時代三筆(釈空海嵯峨天皇橘逸勢の一人、空海遣唐使で中国に渡り仏典を書写し持ち帰ったこの冊子は、真言密教を広める秘書として知られており、また書道史上で貴重かつ重要なものとして知られている。その為、この展覧会でも「書」に造詣の深い人、興味や関心のある人達が多く訪れている。

 

 仁和寺宸殿の南北に庭があり北庭には池泉がある。日大の造園学研究室では毎年、京都の庭園見学実習を実施してきている。京都市や周辺都市にある奈良平城・京都平安時代から江戸、明治期の庭園を見学鑑賞する実習である。これまでに仁和寺庭園を見学対象として来なかったため、私も見ていないが時代考証や歴史文化的な位置づけから見逃してきたのは不勉強極まりなく不徳の致すところである。これまでの研究室卒業の学生諸君に謝らなければならない。貴族社会の寝殿造り、寝殿造り庭園を見てこなかったのである。

 今回の展覧会では天平真言密教の名宝(仏像、肖像画曼荼羅絵、書、宸翰、工芸品など)を鑑賞することが出来た。その多くを所蔵する京都仁和寺を訪れても拝観することのできないものがあったり、他の御室派有名寺院所蔵の仏像を見るためには別途足を運ばなければ見ることもできない。それぞれの名宝にはそれぞれの由緒、歴史、歩み、物語があるが、それを現地で一つ一つ見て考え、味わうことは到底無理である。

その意味で貴重な一日、一期一会となった。