水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その17

東海道五十三次かち歩き」を思い立ったのは1年前の冬でした。実際に歩き始めたのは暖かくなり始めた2017年3月11日(土)。日本橋から歩きはじめ、京都三条大橋を夢見て、その日は日帰りで品川まで歩き始めました。

それから1年以上経過した2018年初夏、5月の連休前に、いよいよ「東海道五十三次かち歩き」最終ステージを実行することにしました。

 4月30日、早朝、まだ夜が明けきらず、前夜の満月も西の空に回って周りは薄暗い朝、柿生から始発電車で町田を経由し新横浜へ。連休中で混雑も予想されましたが幸い新幹線「ひかり99号」の自由席に無事に着席でき、ゆっくり1.5時間車中の人、スポーツ新聞を読み切った頃に名古屋駅に到着しました(7:30)。名古屋駅から近鉄特急賢島行に乗り桑名に到着したのは朝8時。駅前からタクシーに乗り七里の渡し(桑名)へ。タクシーの運転手と東海道歩きの話をしているうち伊勢国七里の渡し跡に着きました。名古屋熱田神宮近くの「宮宿」七里の渡しの風景と似ていましたが、「水面の近さ」が違っていました。桑名は揖斐川長良川木曽川の三川が合流する場所(岸辺)で水嵩の変化が常に気になる場所、堰堤や土手が高く(2m位高い)、水際にある「宮宿の七里の渡し」の水辺公園とは違っていました。それを物語るように渡し場跡には蟠龍場櫓や河口の治水や洪水の歴史を示す解説版、伊勢国一の鳥居が広場にありました。

 いよいよ伊勢国東海道を歩き始めました。桑名の城下町の街中では道が複雑に曲がりくねる(外敵に道を分かり難くするため;枡形など)ため、東海道を歩く者にとっては道筋を確認することは常に重要で社寺や旧家等を目印に歩きました。

 泉鏡花の小説「歌行燈」に登場するうどん屋(朝早すぎて店は閉まっていました)を右に見て京町見附へ(9:00)。桑名市博物館前には2m程の御影石の道標があり(写真C)「右;京いせ道」「左;江戸道」とありました。町中の道は鍵型に折れ曲がり多くの寺院が道沿いに位置しています。城下町を外れ、川辺に立つ大きな伊勢神宮常夜燈(1818建立)を見て(写真A)  町屋橋(1635年架橋)を渡り員弁川を越えれば四日市市

 四日市市では旧東海道に面した家々に小さな木片板が付けられており、それには「東海道四日市市」が2段に分けて書かれています。これは東海道を歩く人にとっては大変ありがたい道標。歩きながら確認でき、迷うことなく先を急ぐことが出来ます。

 近鉄名古屋線を越えて先を急ぎ、朝明川袂には多賀神社常夜燈が建っていました多賀大社は祭神がイザナギノミコト、イザナミノミコト、伊勢神宮の祭神は天照大神で親子関係)。橋の袂の広場で小休止。広場の案内板にはこの道を通った有名人の記録がありました(シーボルトが1526年2月15日長崎を発って江戸に向かった折、3月27日に四日市に入り3月28日、朝9時に松寺;この場所を通ったと:492年後に私が通過)。

 JR関西本線近鉄名古屋線を跨ぎ旧富田村。往時は焼き蛤が大変有名な村明治天皇は4度この地の富田茶屋で休憩、焼き蛤を賞味したとか。桑名は「しぐれ蛤」が有名)。街中を通り過ぎ町外れの角に「力石2個:一つは120kgの大石、もう一つは20kgの人頭石」がありました。桑名から四日市までの東海道は海抜2-3mでほぼ平坦な道でした。海蔵川畔(海蔵橋)に三ツ谷の一里塚跡(写真E)があり小公園となっていました。三滝川を渡ると遂に四日市市街。道標を確認し諏訪神社を横目に第一日目のホテルに荷物を預けました(13:00)。

 一日目の計画では、このホテルまででしたがまだ陽が高いため、先に二日目の分を歩くことにしました(13:30)。東海道に沿って、なんと鉄道が走っていました近鉄内部線;あすなろ線)。東海道はこの線に沿って南西に延びており、電車の終点が内部駅、丁度東海道の傍にあり、四日市駅から6.5kmの位置にあります。

  市内ではスワマエ通りというアーケード街が東海道です。近鉄内部線に沿って、赤堀、日永、天白橋(14:15)を歩き抜け、伊勢参宮道と東海道追分(日永の追分:1849建立の道標;右 京大坂道、左 いせ参宮道や神宮遥拝鳥居<1774>、常夜燈、水屋のある広場;写真Dで小休止しました。さらに歩を進め小古曽から内部駅前に辿り着き(15:20)、歩いて来た道をワンマンカーの近鉄内部線に乗り四日市のホテルに戻りました。この日歩いた歩数は39.076でした。

初日は無事に終了、夕食・風呂もそこそこに眠りにつきました。

 

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