水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その19

 

 前日の天気予報で5月2日(水)は午後から雨が降るでしょう、とありました。朝早く旅立つために前日に隣のコンビニで傘を買って、降らないうちは杖として利用することとしました。ホテルの朝食は6時半から、地元産品を使ったバイキング方式・美味しそうと思いながらも今日の天気のことが頭から離れず、先を急がねばとの思いが強く泣く泣く断念。JRの上り電車は6時台2本、駅へ急いで6:07亀山から関まで6kmを乗りました。

 関駅は誰もいなく曇り空の下、前日の東海道最終ポイントへ駆け上がりました。当然ながら朝早すぎて「関まちなみ資料館、旅籠玉屋歴史資料館」は閉まっていました。西追分(6:30)は奈良への分岐点、道標の題目碑に「ひたりは いかやまとみち;左は伊賀・大和道」とある辻を坂下宿まで6.4km、鈴鹿峠を越えて土山宿まで9.9km、そしてこの日の宿泊は水口宿11.5kmで、全長凡そ30kmの長丁場です。西追分を過ぎると道は山へ入ります。山の谷を沓掛までは国道1号線に並んで続き、関宿から4km地点で国道と別れ山道。狭く険しくなった鈴鹿川上流部の山の斜面は植林地、川辺では野藤が樹木に絡んで高く伸び、美しい薄紫の花盛りになっていました。

 伊勢国鈴鹿峠下には片山神社(写真左上)があり一休み。峠までの山道は短いながらも険しく石畳にもなっており、曇り空で林内は薄暗く一人ぽっちで寂しく少し怖い感じのする峠越えとなりました。途中には芭蕉の句碑(ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山;1691)がひっそりと置かれていました。峠道は意外と短く、下に国道1号線鈴鹿トンネルの出入り口が見えました(8時)。近江国に入って道の脇には茶畑が現れ、北方向の眺望が開けてきました。旅の朝のルーティンで自宅へ電話、土山宿までのダラダラ長い下り道は国道と重なったり平行して伸びています。山中川に沿って下り鈴鹿峠馬子唄(坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る)の碑で休息(9:00-9:15;写真右上)し猪鼻村を越えて土山に入りました。土山集落には、征夷大将軍蝦夷を平定した坂上田村麻呂を祀った田村神社があり旧い杉の大木の参道が面影を残していました。入口の神社碑文は東郷平八郎元帥の書とあり、それに対峙する「道の駅土山」で休憩、持参したオニギリを地元の「土山茶」と共に食べました(10:05-10:30)。なんと土山茶の美味しかったこと。4-5杯おかわりして堪能しました。道すがらに茶畑が多く茶葉の生産が盛んであることを示しています。新茶の味を野道でワイルドに味わおうと新芽の先端1葉を摘み口に入れ噛みながら歩いて来ました。

 道の駅で休んでいる間に雨雲が里に下りてきて、遂に雨が降り始めました。持参した傘が杖から本来の傘に変わりました。リュックサックを雨から守るためにレインコートを着、先を急ぎました。傍から見たら何とも寂しいみすぼらしい格好だろうと自問しながらの道行きです。森鴎外の祖父・森自仙が参勤交代に随行してこの地で没した家(1861)や鴎外が祖父の墓参の折に宿泊した旅籠などを見たりして土山宿を通りました写真下左)。残念ながら墓のある常明寺(鴎外が建てた墓や、芭蕉の句碑;さみだれに 鳩の浮巣を 見にゆかむ がある)には時間の関係で寄ることが出来ませんでした。

 東海道野洲川国道1号線と重なり、時に沿って北の草津方向へ下がっていきます。低地に広がった水田地帯は、後ろに里山を配し江戸時代となんら変わらない風景を今に繋げています。往時の旅人も同じ景色を見て上り下りしていたのか、と感傷に浸る雨の午後でした。関宿から28kmを歩いて来てやっと水口宿の入り口に辿り着きました。

 水口宿東海道が宿場内の道として3筋あり写真右下)、水口城下町内は例に寄り舛形、鍵の道、商家などで入り組み、旅人には道筋の分かり難い街でした。予約ホテルには15:30到着、チェックインが16時以降の為、雨と疲れで外へ出る気力もなくロビーで休みました。夕食はホテル内のレストランで取りましたが、内容も味も大変豊かで美味しくしかも適切価格でした。外は雨、食後は、ゆったりと湯船に浸かり疲れを取って次の日に備えました。

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