水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り 17  横山大観展

 

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色々な展覧会がいろいろな美術館、博物館で行われています。開催会期(展示期間)が長いものもあれば短いものもあり、いろいろです。しかも会期が長い場合、多くは前・後期2分して展示内容も一部変えて行われる場合が少なくありません。今回の展覧会は所蔵美術館の関係もあるのか、作品の展示が細かく区分されており、見所となる有名な絵画を中心に分けて展示され、その大要を見るためには少なくとも2回以上会場に足を運び入場料を払うことになります。

 今回の横山大観展は誰もが知っている著名な日本画家・横山大観の生誕150年を記念した大回顧展であり、氏のよく知られた作品や60年余を捧げた多くの作品が各時代に沿って展示されており、私は会期末の5月24日に見てきました。( 4/13-4/19, 4/13-4/25, 4/13-5/6,  4/20-5/13, 4/26-5/06,  5/15-5/27, 5/8-5/27;作品によって見れる期間が違いました)。

 横山大観(1868-1958)は明治元年水戸市生まれ、東京美術学校(現;東京芸術大学)の1期生で先生には、これまた著名な岡倉天心(1863-1913)が、同期生には菱田春草や下村観山がいます。特に菱田とは絵の表現・手法や考え方が同じで気が合ったらしく、よく行動を共にし、海外(インド、アメリカなど)へも一緒に出掛け絵を描いています。卒業後、美術学校に教員として戻っていましたが1898年、校長の岡倉天心排斥運動が起こり天心が辞職するに合わせ美術学校を辞め(春草、観山も同じく日本美術院の創設に参加しています。 

 20-30代の大観の作品で有名なものに「無我」(29歳の作品)がありますが残念ながら4/19までしか展示されず私が訪れた日にはありませんでした。しかし、第1章「明治の大観」コーナーには、美術学校卒業の年25歳の作品「村童観猿翁」があり、伝統的な日本画の描写法で多くの子供たちが猿回しを楽しんでいる様子を描いています。子供たちの表情、猿回しの翁の姿など優しさのある若き頃の大観の絵を見ることが出来ました。34歳で描いた「隠棲」と「迷児」を見て日本画の新しい方向を模索する大観の姿(絵が見る者に創造力や思考力を求めている社会性のあるモチーフ)を感じました。

 この頃、大観は結婚(29歳)し長女を得(31歳)ていますが、6年連れ添った妻を亡くし(35歳)海外(インド、アメリカ、イギリス)へ旅している途中に長女(6歳)も亡くし帰国(37歳)しています。最愛の人を次々と亡くした中で絵を描き続けていたことになります。「海---月明かり;36歳の作品」はその頃の一枚。月明かりを受ける荒波と月の明かりがある空、月を描かずはっきりしない茫洋とした境を光の輝きの違いで描いて朦朧体最初の頃の絵と言われています(「ガンジスの水」も同じ、水面はゴッホの空のようなうねり)。100年ぶりに見つかった「白衣観音」は40歳の時の作品で、観音の左手や足の組み方の描き方(デッサン)が?おかしいですが、ふくよかな女神(顔がインド人的と言われる)の感じは印象的です。

 大観、春草と言えば日本画の新しい波;朦朧体(線描を抑えた没線描法、朦朧として境がはっきりしないぼんやりした画法)を生み出したことで知られていますが、当時は受け入れられず批判に晒されています(西洋画の遠近法などを取り入れ深み、奥行きの深い空間表現)。

 海外で見た風景を題材に描かれた「瀑布(ナイアガラの滝、万里の長城);1911、6曲2隻屏風」の描き方、色使い(群青と緑青)には感激しました。それまでの日本画にはない大胆な構図と色使い、ほんの一部分だけの彩色(黒と緑)で2隻の屏風。その大胆さに言葉が見つかりません。帰国してから旅の中でのスケッチを基に43歳の作品です。どんな心境で描いたのだろうと思わずにいられません。

 「大正」の大観コーナーは、大観(45歳~58歳)の充実した絵画が数多くありました。

横浜三溪園庭園で有名な原三溪に乞われて描いた「山路」は秋の落葉樹林を殴り書きした様な筆致(薄茶色)で描いていますが初めて岩絵具を使った作品との事、また「松並木;45歳の作品」は東海道を歩いた経験から、大観の描いた松並木が何処か気になりました。絵は大変印象深く、松並木の下を歩く2人の人物が小さく描かれ、遠くの松は薄いセピア色で枯れ木のように淡く描かれていました。松の幹に、まるで蝉のように見える大観の「落款」があるのは大観ならではの面白い機知に富んだ発想と感じました。

 「柳陰;47歳」は柳の葉、樹枝が画面全体に描かれる構図で6曲1双の屏風絵。右隻一扇に描かれている驢馬の首が長すぎ、と見えたのは私だけでしょうか。

 この年の3月に、大観は下村観山、今村紫紅、小杉本醒の4人で東海道53次の旅に出かけ、歩きと馬車で小一か月かけ東京から京都までの街道を踏破、途中、絵を描きながら宿場を繋ぐ旅をしています。

 旅に出て全国の自然を観賞し美しい日本の風景を絵にしていますが、秩父から荒川を下って絵に描いてもいます(49歳)。「荒川絵巻」は、長瀞の巻と赤羽の巻の2巻で、赤羽之巻は寄居から赤羽までの川沿いの風景を描いています。

 今回の大観展の一番はやはり「生々流転」でしょう。大観55歳の作品で、今回の展覧会では下絵画帳と合わせて展示されており、長蛇の列が続いていました(最初の写真は巻物の最終一部分)。山間の滴から川を下り大海の海原、海で空へ上る大気を描いています。

  60歳以降は「昭和の大観」のコーナーとして展示されていました。この中での圧巻はやはり1930年ローマで開催された日本美術展に出された「夜桜」;6曲2双2隻の作品でしょうか。篝火に照らしだされる屏風一杯の桜、黒い奥山と山影に覗く満月。素晴らしいの一言です。さぞイタリア人も驚き、日本の美しさに感嘆したことでしょう。「紅葉」は63歳の作品ですが、同じ屏風絵で左隻には前面に紅葉したモミジ、右隻は左隻の続きの紅葉と川面、岩(荒川上流、秩父長瀞の岩の様)と雲です。これもまた圧巻、右隻2扇に描かれた飛翔するカササギもポイントでしょう(添付写真参照)。

 85歳の時の「霊峰飛鶴」は、大観が好んで描いた富士山の上空を多くの鶴が飛ぶもので1500点を越える富士山の絵の内、晩年の一枚でした。静かさと優美さがあり、ドッシリと動かぬ富士と悠然と飛翔する群鶴の動きには、「画は人なり」、「絵は何処までも心で描かねばならぬ」と言った大観の気概がこもった作品でした。「群青富士」や「彗星」は見られませんでしたが、充実した回顧展を満喫できました。

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