水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

「勝ち歩き」のルーツはここに! 血は争えません。

 コロナ感染症の世界的大流行の時代、2022年に入って突然、世界が侵略戦争の嵐の渦の中に落ち込んでいます。核の時代、いざこざはあるとしても他国への侵略戦は考えがおよびません。ロシアとウクライナの戦争は、その解決策が見つからないまま1か月以上が経過しようとしています。憎しみだけを残して。

 大学勤務時代には、若い学生に対して「造園緑地学」の分野、その広がり、源流をどのように理解させ、如何に体験させるか、いろいろ考えながらの毎日でした。同じ研究分野、研究室という集団の中で、専門的な知識だけに限らず仲間意識をいかに醸成させ纏められるかも重要な点でした。

 大学4年間の内、専門分野に振り分けられるのは3年次になってからです。4年生にとっては新しい仲間であると同時に調査研究を助けてくれる後輩として3年生の研究室入室は重要でした。研究室専攻の全員が「造園学研究室」のためにone teamになるため親睦の行事は大切でした。造園学、環境緑地学に関連し、かつ交流の場として意味ある行事には何があるか、何をすべきか、悩んだ末に「地域研究」「足場をしっかり見直す」という基本的な命題に行きつきました。湘南地域にいながら、湘南の歴史・環境やそれを含む地域の緑について理解していないことに気づいたのです。そのためには歩いて、直接見て触れて、体で感じることが大切であると考えました。

 以来、湘南藤沢キャンパスの東西南北に広がる多摩丘陵地帯から高座丘陵、はては三浦半島箱根山系までを念頭にした地域の巡検、緑の理解をすることが適切であると決めました。飲まず食わずで一日歩き廻り、地域を見て観ることを考え付きました。道すがらでの地域の緑(身近な垣根や庭木から集落の史跡、遺跡の緑など)の理解は言わずもがな、学生同士の懇親、日常的な交流と忍耐の意味などを現実的に体験することを目的にしました。以来、研究室の毎年春の恒例行事としてキャンパスから近傍の緑や自然の中で「歩く、知る、体験する、交流する」勝ち歩きを実施してきました。

 

 私の生い立ちと造園緑地へ進んだ背景については、学会から学会賞と上原敬二賞をいただいた折の談話(学会誌ランドスケープ研究)に少し書いてあります。祖父が教育畑にいたこと、子供か孫の誰かに教員職を継いでほしい事を父から聞かされたことを思い出しました。

 そんな中、大学での教鞭の職を辞して後、すっかりその事は忘れていました。先日、弟が、とあるところから祖父の若かりし頃(30歳)の関係誌における報告の文章(後ろに掲載)を送ってくれました。それを読んで・・・・・(絶句)・・・・

なんと祖父の記録・報告は明治38年(1905)6月のもの。当時、田舎とはいえ大垣は街、街中の小学校に赴任した祖父が「ふるさとの生活と文化」を知らしめ考えさせるために学外教授をしていたこと、児童生徒を連れて農村のあり様を見せ考えさせ教えていたとは。1900年頃の「勝ち歩き」でした。祖父は昭和16年(1941)に亡くなっていて昭和19年生まれの私は父(祖父の三男坊)から祖父の人となりなど何も聞いていませんでした。祖父が報告を纏めた年は日露戦争終結(ロシアが日本に負けた1905年)した年です。

 117年後、今ロシアが再び他の国へ侵出し戦争になっているのは何と形容してよいのやら、心が痛みます。

 ここには、その時代の正確な生きたあり様の記録の重要性があります。私が大学を辞したのは平成27年(2015)、祖父の記録の110年後でした。在職中の「勝ち歩き」が世代を超えて再び私の手で同じ意図で実現していたとは大いなる驚きです。 

 

最後に、祖父が若かりし教員時代の頃(祖父30歳)の手記(機関誌に投稿)を記しておきます。(原文のまま、一部現代仮名、漢字

 

【機関誌名】岐阜縣教育會雑誌  【発表年月日】 明治38年6月28日発行(1905)

【表題】 教授訓練  野外教授案

【著者】 勝野 金吾  【所属】 大垣興文男子小学校 尋常科第三四学年主任

 我が校は年四回宛野外教授を実施して居ります。其は実科教授のつもりである、それだから、教室外で郷土に於ける色々の地理的物件、理科的材料の現在せる所へ引率していって、実地の教授を行ふと云ふのである。今茲にその理由や価値を論ずるのではなくって、既に実行せし一部の実況を記して見やうと思うのであります。併しこれは尋常科第三、四学年の児童を引率して野外教授を試みたのだから、郷土科の実地教授とは其の方法が違ってゐるから、前以て御断りして置きます。

 (一)出発前の準備

目的指示: 来る五月廿三日(晴天ならば)火曜日に、第三時体操科第四時讀方科の二時を以て野外教授に出掛くべきことを告ぐ。實習地は北杭瀬村字木戸冲、杭瀬川堤防まで(学校を距る約八町計り也)

準備: これ迄郊外運動の為め引率されし時に、実地学びし事につきて問答をなし、今回は次の事柄の大略を教ゆる旨報告せり。

(一)木戸村の東一面の田圃は何処から用水をひくか、

(二)麦に幾色あるか又何々に用ふるか、

(三)黄色の菜種田はだうなったか、

(四)田植前の仕事、(畦ぬり、苗代田、紫雲華かり、など)

(五)雲雀が何処にゐるか、

(六)冬中かくれてゐた蛙蛇のこと

(七)野鼠が作物を食ひ荒らすこと、

(八)梨畑の手入、

以上の事を予め告げて、其の範囲に於いて見聞せんと告げましたら児童は大に勇んでゐました。

(二)当日実施の大略

廿三日は晴天で餘り暑からず、又風も軟かでしたが午前十時出発の時刻となりました。一行四十九人を(二名欠席)四列縦隊に整列しました。そこで一通り服装を検し、一同に対して、途上は規律を重んじること、教師が話す時は其の方向に注目して傾聴することを約して、出掛けました。行く事暫くにして西崎と云う村へつきました。是れより西は一面の田圃ですが此処に小藪があって竹に花が咲いてゐました。又一方の藪に筍が生へてゐる處を見、少し話してから前進しました。時に青空に鳶と烏とがからかって居るのを見て、児童は大に喜びました。此處で歩を停め、畦ぬり、紫雲英刈り、苗代田の彼方にゐるのを示し、ここにて古畦に穴があるのを指して、鼠が田の作物を食い荒らすこと、農夫が罠で捕る事や、苗代田を短冊形にして害虫をとる事を説いた。これは大切の事で、若し之を怠ると、戦争には勝っても虫に負けて、大事の糧食を分捕られた様なものであると告げてやりました。不園一生は挙手で発問した。何かと思えば、新畦に「むぐら」の通った跡が目に止まったのであった。又苗代田に小さな立札があるのを尋ねたから、恰も朝顔の札をつけると同じだと申しましたら、又一生が田の中央に鳥の羽が串してある譯はとききましたで、それはあちらに糸の張ってあるのも同じで、鳥が種を食ふからおどす為だと申してやりましたら、さも満足した様に見へました。尚ほ進んで、梨畑の傍を通りかけた處で、害虫の事や番小屋の事を語りて中堤へ上がりました。草の上に腰をかけて、ふり返りて大麦や小麦やそら豆の事につき大略を語り、右に見へる農家の屋根を指して、葺き草は何かと尋ねたら、知る者は半数程あった。そこで食用になること、帽子に用ふることなど、三学年で覚へた事を復現させて効用の廣き事を思はしめた。此處の川筋に一つの堰が設けてあったから、これで田へ用水をひく仕掛けを説明し、兼て公共物に対する徳義心を強めたよーなきがした。此處から西に當って小さな祠がある。其の境内の木陰で憩ふべく告げて解散した。時に午前十時四十五分であった。休憩中面白い質問がでた。それは社前に貼りある正月の粥つけのことである。これは農家の天気卜ひであることや、上に狂俳の額があったから、それが讀めんとて尋ねてきた、これは歌の一種であると云って、内容は明す譯にいかぬ事が多かったが、教育上差支ないのを讀んで聞かせたら大笑をした。( )「よそ見て行くで鍋をはく」。又其の近傍に馬の糞や爪や髪の毛が散らかってゐつたのを何だと尋ねたら、馬の灸治をしたのである、委しい事は帰校の上で語るとして前に進みました。又此の遍の農家に陸稲の苗代があったから、此處で一行を停めて之を見せ、又養蚕の器具を消毒してゐたのを見せてから、大きな堤防へ駆け登りて解散した。時に午前十一時五分過ぎであった。此の處で十分間程遊びて、児童の摘草を許してやった後、列を整えて帰路につき、程なく学校へ着た。時に午前十一時二十五分であった。

(三)実施後の處理  帰校後直ちに塵を拂ひて教室へ入り、未だ昼食までは二十分程あるから、実地見聞せし事を板上に羅列して、思想整理をしましたら、次の様な結果が得られました。

 児童が本日初めて見聞せし事柄

(一)むぐらを知ったもの     26人 

(二)苗代田の立札など知ったもの 45人

(三)堰の仕掛          33人

(四)竹の花           49人

(五)粥つけ           49人

(六)馬の灸治          31人

(七)野鼠の害を知たもの     44人

(八)陸稲            48人

(九)養蚕の事          48人

(十)梨の害虫          21人

(十一)冬眠の話         18人

児童たるもの農作物を害せぬ事、殊に苗代田へ石など投げぬ事を教え、最後に本日見聞せし事を国語帖に綴ることを約して、完結せり。