水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

早春の鎌倉散策

    春分の日、春3月お彼岸を前に暖かな日が続きました。世の中、暗く辛いニュースばっかりの中、世の喧騒を離れて少し静かに早春の古都を訪れたいと思い、今ドラマで盛り上がっています鎌倉に足を向けました。

 鎌倉は南の海に向かって開け、後ろに切り立った丘陵の山を擁した鎌倉時代の都で、訪れる人が途切れることのない歴史で由緒ある街です。快晴で暖かい陽射しのある一日、久しぶりに古都の南東地区(雪の下から浄明寺へ)に足を延ばしました。

 鎌倉八幡宮の参道・段葛のサクラはまだ蕾が固く、しっかりした春の訪れを待っているようでした。八幡宮を横切り東に歩いて岐れ道から浄明寺方面へ向かいました。複雑な谷戸の景観は市内随所で見られますが、八幡宮から東の地域も南に向け開いた谷戸がいくつも連なっており頼朝の墓所や有名な神社があります。

 三浦半島を横断して東の東京湾側と繋がる道(金沢街道=塩の道)に沿って足を進めていきますと、谷戸際に点在する歴史と由緒のある寺院がいくつも出てきます。最初に出てくるのが杉本寺です。

 杉本寺(天台宗・大倉山):南に向け建てられた寺院の地勢は、後ろに森を擁し2体の仁王(運慶作)が睨む山門が斜面の中ほどにありました。山門を潜ると、また直線に延びる参道が連なり苔むし石が擦り減って旧さと時代を表す石段の参道が本堂に続いています。この石段は、何とも言えない自然と人間と時間が作り出した作品。木漏れ陽が段の苔に模様を浮かばせ、静けさと共に小緑色のモミジの若葉が最高の雰囲気を作り出していました。残念ながら、この旧き苔の石段は現在利用不可で、迂回園路が設置されています。梅やヤブツバキの花に誘われメジロが数羽甘い蜜を吸いに来ていました。

高台にはさすが古閑、名刹、静かで落ち着いた茅葺の本堂があり、ご本尊が安置されています(堂内には地蔵菩薩像、観音三十三身、十一面観音菩薩像(源頼朝寄進;共に運慶作=非公開)。また、この寺は大変古く奈良時代と深い関係があるとされ、天平6年(734)時の光明皇后の御願により僧 行基が建立したと記されています。鎌倉最古仏地で十一面観音菩薩像が3体(行基(734年)、慈覚大師(円仁851年)、恵心僧都源信;986年)作の十一面観音像)が本堂内に安置されています。

 この寺の立地を理解できるのは、本堂から鐘楼脇を回って下りの山門への斜面を降りる時、辺りを眺めた眺望から分かります。

 

 滑川に沿って東に歩を進めると報国寺華頂宮旧宅の入口があり、その先に浄明寺がありました。いろいろな花色の梅やサンシュユが咲き、ボタンの芽が動き始めていました。浄明寺は臨済宗建仁寺派の禅寺、当初は真言宗極楽寺と称したようですが、後に蘭渓道隆建仁寺開山)の弟子、月峰了然により現在の臨済宗・浄明寺に変わっています。開基は足利儀兼(1188)で鎌倉五山の一つで、杉本寺同様、南向きの静かな禅寺です。比較的広い境内には花木や日本古来の草花も植えられ、西隅には茶庭に囲まれた茶室喜泉庵がありました。境内の広場(砂利敷)のベンチで簡単なお昼をすませました。

 

報国寺臨済宗  建長寺派:滑川を渡って少し進んだら右側の狭い谷筋(宅間の谷)に寺の境内があります。宅間の谷にある本殿は東向き、庭園並びに竹林は堂の北側、および西側に広がっています。段差をうまく処理した寺院の入り口までの径は高低差を利用し、苔むした前庭になっています。本堂裏の日本庭園には見事に丸く刈り込まれた3mほどの「山茱萸」があり満開でした。池、流れ、池の周りに紅白梅、奥には「やぐら」と称される岩肌に彫られた穴があり、後ろの山の常緑樹と一体になった庭は見事です。

当寺の開基は、足利家時足利尊氏の祖父に当たります。足利4代90年続き 二代後、尊氏、基氏の菩提寺でもあります。西隣にはよく手入れされた孟宗竹林があり、午後の陽射しを受け落ち着いた茶席(休耕庵)が設けられていました。寺院を出ると筋向いの人家に百日紅の古木が数本参道を見下ろしていました。夏の暑い日には見事な桃色の房花が咲き、訪れる人を迎えてくれるでしょう。  

 

 この時期の鎌倉の寺社巡りでは、ウメ、ヒガンザクラ、カンヒザクラサンシュユ、マンサク、コブシ、ジンチョウゲといった春を告げる多くの花木が花を咲かせています。みどりの鮮やかさはまだ無いのですが、薄茶色の落葉樹叢の背景の中に花木や早い芽出しの若緑が見られ、「生」を感ずることができる静かな早春の古都を巡る事が出来ました。

     早春の花とお寺散策巡り、を一度お楽しみください。