水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

あれから50年

 1973年6月4日。あれからもうすぐ50年になります。生まれて初めてジャンボジェット機;B747に乗って外国へ留学した日です。50年の年月の流れの中で当時の模様を紐解いてみたくなりました。

 

  飛び立つ日に先立つこと1年前(1972年)の秋、以前に試みたドイツ留学生試験を再度受験しました。2回目にはドイツの大学、国立研究所の関係教授や所長の方々(⁂後述)からの推薦書、留学快諾書などを頂けるように手配し受験しました。その結果、1973-74年度の  DAAD

(DeutschAkademischeAustauschDienst)ドイツ交換留学生協会試験に合格内定し、1973年4月21日、最終合格通知を受けました。

 

 出発の日、生まれ故郷(岐阜・池田町)から東京見物を兼ねて父や家族(兄弟、姉一家;子連れで)が見送りに来てくれました(弟が銀行の東京支店に勤務していた)が日大や東大の研究室関係者(現役生、卒業生など)の見送りも多く、家族と身近に親しく話す余裕も無く旅立ちの別れも慌ただしく過ぎました(同じDAAD留学生の合同出発式*も忘れ、一足先にチェックイン)。

 出発ロビー(搭乗前)には日大学部から蒲原務教授、丸田頼一先生、横山光雄教授の奥様、日大造園研究室の3-4年生・院生、東大の園二研の友人・知人、関係者など「祈・健闘」の幟の下、多くの人の見送りを受けました。その中に、何と東大園芸第二研時代の友人(先日,突然亡くなった大の親友、横断幕「祈・健闘」の片端を握った井上康平君の姿がありました)も見送ってくれていました。合掌。

今にして思えば周りのあんな人にも、こんな人にも(多くの人達が)感謝・感謝,、感謝に耐えません。

 

 出発式の場では、各留学生の滞在日程(語学研修場所・ゲーテインスチチュート、滞在都市、語学研修組一覧、ドイツまでの飛行ルート、経由地・時間、最終地フランクフルト到着時間、語学研修地までの旅程・時間など)の資料が配られたようです。早とちりと何せ初めてで勝手が分からず、そのままで機内の留学生になったのでした(お恥ずかしい話ですが機内で同じ語学研修地(南ドイツ・ウルムに近いブラウボイレン町)に行く奨学生から旅程の全てを教えてもらった次第です)。

 

 留学生専用機(?係留地の国のDAAD奨学生が乗り込んだので)は6月4日15:50に羽田空港を離陸、夜の香港(20:00/21:00=日本時間以下同じ)、バンコク(23:40/0:45)、デーリー(4:30・5:30)を経由、翌朝(まだ4日)アテネ(12:10/13:10)を経由してフランクフルト飛行場(15:55=現地時間朝の8:00)に早朝、到着しました。

 機内では、何しろ初めてなので機内の様子(食事や機内の様子、B-747の構造、時間)など事細かに記録し、色々な物を記念に収集し鞄に詰め込んでいました。ドイツからの便りに絵葉書や便箋を使いました。

 

 当時、私は日本大学獣医学部の教員(助手;昭和46年4月)採用後3年目の年でした。私学の1学部(農学系)の教員がドイツ政府の奨学生になること自体が珍しく稀有であったため、学部からも全面的支援でこの留学・海外出張を支えて頂けました(留学支度金補助、在勤のままの資格で留学海外出張扱いなど、感謝するばかりでした)。

 

 

 今、私は78歳、日本大学を離れてから既に8年経過しています。令和2年(2020)に研究室創設50周年を迎えましたが、折しも丁度コロナの世界的大流行(コロナヴィールスの猛威の世界的拡大)により人の集まる式典は全て中止・延期されてしまいました。

 その延期になっていました研究室創設50周年記念祝賀会が、この留学50年後の年(2023)と重なったことも何か因縁のようにも感じています。 

 

 半世紀の後に、こんなエッセーを書くとは.........。これまで、友の死を聞くたびに我が身の先をなんとなく感じ考えるようになりましたが・・・・・・往時の事を記すのも歳の精かも。

(ドイツ滞在・留学記はいずれまた.......)

 

当時、お世話になったドイツの先生方(1973-4年時):

⁂Prof.Dr. Konrad Buchwald (ハノーファー工科大学教授;景観保全・緑地生態学研究室)

   Prof.Dr. Gerhart Olschowy (連邦植生・自然保護研究所所長、ボン大学教授)

   Dr. Hans F. Werkmeister  (ドイツ造園学会 会長、国際造園学会会長)

   Prof.Dr. Wolfgang Haber  (ミュンヘン工科大学教授、景観生態・自然保護研究室)