水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

海外雑誌での研究 21-2

21-1に引き続き各報告の概要;報告者と連絡先、を以下に示します。

1.    ノルトラインー ウェストファーレン州における蝶類

1. Tagfalter in der Gesamtlandschaft Nordrhein-Westfakens

 報告者=Christoph Grueneberg 他2名; christoph.grueneberg@lanuv.nrw.de

 

 ノルトライン・ウエストファーレン州における蝶類について、の報告です。この報告はオスナブリュック大学と州政府の共同調査研究による昆虫類モニタリングの成果です。2017年のクレフェルトにおける調査結果の後、オスナブリュック大学と州政府の共同研究プロジェクトが立ち上がり、2019-2012間の調査結果が出されました。調査の結果を待つまでもなく、ヨーロッパでは地球温暖化により、昆虫相の貧化が指摘され、特に中西部欧州の農業景観(Agralandaschaft)における減少が指摘されています。今回の調査は特徴的な農業景観(例えば畑縁辺部、牧野縁辺部農道、森林内の小道など)で重点的に行われました。ここでは同時に鳥類、双翅目昆虫などがビオトープと対応させ調べられました。

 調査地は6年毎に調べられ2期目にN-W州全体に及びます。調査は1.5kmのトランセクトが設定され、5月から8月中旬までの晴れの時、10:00-17:00まで調査ルート線の両側2.5m(左右で5m幅)で行われました。

 調査の結果、67種、24,456頭確認、うち、38種はN-W州の危惧種でした。実数の2/3(71%)、95種は州既存種で、自然保護対象種8種も含んでいますが生息密度は極めて低くなっています(0.6=1.000㎡)。今回の調査は牧野が多い北部低地や南部隣接州山間部を含んでおらず、居住地域と畑作地域中心の州での結果です。

 今回の調査の結果、貧栄養の草地や極乾燥牧野の重要性が指摘され、その立地が山間部樹林地帯や畑作縁辺部にみられることから今後の対応では、蝶類の生息に関連するそういった農業地域の環境政策と居住地域での自生種、緑化種の確保、拡充がより重要になることが指摘されています。

 

 

 2. Monitoring der Biodiversitaet flugaktiver Insekten in NRW 

2.NRW州における双翅目(バッタ類:昆虫相)のモニタリング

報告者=Thomas Hoerren 他13名;  thomas.hoerren@koleopterologie.de

 

 この報告はNRW州政府とクレフェルト昆虫学協会の共同調査研究の成果です。2014年にすでに両団体では飛翔性の昆虫相について共同で州内の保護地において調査を行ってきており、2017年Hellmannらにより報告されています。今回のこの調査結果は、2022年、101か所の自然保護調査地点で行われ、以後、州政府とひき継ぎ、さらにDNA調査へ引き継がれています。

 種の同定はDNA法(DNA-Metabarcoding)を用いて行われ、-すでにドイツ国内で13.076種はバーコード化されデータバンク化されています。NRW州でも3,854種はデータバンクに登録されています(German-Barcode-of-Life-Initiative:GBOL)。ドイツでは34.000種以上、NRW州では25.000種以上が記録保全されています。調査地区では同地の植生調査、土地利用調査なども並行して行われデータを支えています。

 

  日本の状況はどうなっているのでしょうか。ドイツではこの報告にあるように州独自で既にかなりの部分でDNA法でデータ化されているようですが、我が国の状況は余り明らかにされていません(勝野)。

 

 3. Das Braunkehlchen im Suederbergland und Westewald

ザウアーベルクランドとヴェスターヴァルト地域におけるヒタキ科鳥類(Braunkehlchen)

3.州内のWesterwald, Seuderbergland地区におけるBraunkrhlchen; について

Braunkehlchen(BK)とは。

ヒタキ(ムシカ科)Saxicola rubetraの鳥類で2020年ドイツでレッドリストに載り、絶滅危惧種となっています。1987年、2023年にはオーストリア、ドイツで、その年の鳥に指定されました。

この鳥は牧野に生息する野鳥で希少性の高い野鳥です。鳥類連盟、ジーゲンヴィットゲンシュタイン鳥類保護連盟、州政府、連邦自然保護連盟(NABU)などにより生息域管理に関する専門家会議(Fachtagung)がNRW州の中山間地で行われました。

   報告者=Peter Herkenrath他3名;  peter.herkenrath@lanuv.nrw.de

 この報告では、Dominik Schuessler氏(Siegen-Wittgenstein 生物ステ-ション)は、EUのライフプロジェクトで「ジーガー地方の文化と自然景観」と題して報告。現在絶滅危惧種となっている種の生態、生息域(森林や牧野、湿地、乾燥地など)の保護の必要性、開けた草地(ヒタキ生息地)の保護など、また、355haの草地(Grunland)の自然再生と鳥類復元(回帰)の報告を行っています。以下報告順にその概略を記します。

◆ Dominik Schuessler:Siegen-Wittgenstein生物ステーション所属;EUのLIFEプロジェクト

"文化的ー自然景観適地(LIFE4適合地域)を紹介、このプログラムはEUの気候ー環境プログラムの支援を受け進められている。この鳥類保護地域;ブルバッハ、ホルツハウゼン地区の森林・牧野でBKにとって極めて重要な地域で、EUの重要自然地区2000の結節地区7FFH地区(Netzwerkes)と27の自然保護地区を含んでします。LIFEプロジェクトでは6年間420マンユーロの支援を受け、鳥類保護地域の森林や開けた牧野に生息する種の生息域を確保しています。重要種は森林に生息する各種キツツキ類、開けた牧野でのヒタキ類;BKです。

◆ Sven Taitmann:「ドイツ鳥類保護連盟(DDA)所属主要団体」所属:はドイツにおけるヒタキ類の生息状況や個体数などについて報告。この種はユーラシア生息域の大半にあるドイツ(北部および東部ドイツ)に生息し、2011-2016年には19,500~35,000地域で、世界の生息数の0,5%に及んでおり、ヨーロッパ内ではクロヒタキ(Schwarzkehlchen)の生息域が広がる間にBKは愁傷している。BKにとっては、特にドイツの東部地域で湿生地が減少してきている。ヨーロッパレベルでは2000年代において、これまでにドイツで経験してきた減少の状況がみられる。

ドイツの減少傾向は1990年来、76%となっている。これは農業自体の集約化による影響(早期刈り取り、過剰施肥、生息地撤去など)に関係し、また地球温暖化やキツネ、アライグマ他の動物による被害も関係してくる。そのため保護管理計画が必要であり、NRW州でもBKに対しての保全・保護措置が求められる。北部地域では1994-2017年間に年3%大規模湿生地が減少してきており、その保全は必要である。

◆ Manuel Graf;Siegen-Wittgenstein生物ステーション、BK担当者

 

 

 

Bettina Graf

Franziska Schnidt

Dr. Klaus Fischer教授

Markus Kunz

Peter Herkenrath

 

 

 

 

 4. Invasive neophytische Wasserpflanzen in Nordrhein-Westfalen

   報告者=Andreas Hussner ;   (Dr.論文;info@aquatischeneophyten.de

4.NRW州における侵略的水生植物(外来植物の異常繁茂)

 

 

5. Gewaesser im Klimawandel

5.気候変動時における水資源

 報告者=専門家会議事務局 の編集;  eva.pier@nua.nrw.de

 

 

 

 

 

 

 

研究室の歩み・変遷 (2)

研究室の歩み (2)

  研究室の30周年(2000)については、当時研究室内外でいろいろな問題があり、素直に祝賀事業が執り行えませんでした。一つは新型コロナ感染症(colona-covid-19)の問題、大勢の人が1か所に集まることは出来ませんでしたし、学科内での人事案件でも難しい問題がありました。それやこれやで30年が過ぎ去ってしまいましたが、心のどこかに、いつか30周年をやらなければ、の想いがありました。

そして遂に・・・・・・ 2002年2月23日(土)やっとの思いで遂に30周年の記念行事を行うことができました。当日は、研究室をこれまで育てて頂き、退職された高橋理喜男先生(大阪府立大名誉教授)と井手久登先生から(東大名誉教授)御祝辞を頂き、丸田頼一先生(千葉大名誉教授)の祝辞と乾杯のご発声で宴が始まりました。会場は湘南キャンパスの真新しい本館14階の大ホールで開催され、参加された卒業生(参加者110名)もその発展ぶりに大興奮でした。盛大な宴の会も2時間余で止む無く閉じ、参加者の交流は引き続き二次会、三次会(学外の六会や湘南台)へと広がっていきました。

 実は私事で失礼ながら、30周年記念祝賀会の1週間後、私・勝野は3月3日夕方、不整脈、狭心症、冠動脈狭窄により倒れ病院に緊急入院、当日夜5~6回の心停止がある中で蘇り、1か月入院の後退院、普段の生活に戻りました(当時、私は学科主任教授で卒業式がある月でした。教職員や学生のみなさんいご迷惑をおかけしてしまいました)。大変な30年目でした。

 

40周年(2010年)には「40年の想い 造園・緑地学研究室40周年記念誌:2010.7,1発行」が刊行されました。その内容を覗いて見ましょう。

 表紙、目次の後、「造園学研究室40周年に寄せて」と題し野村和成(学科主任)教授の祝辞があり、研究室年表、それまでの記念誌巻頭文より、が続き、6名の教員、9名の非常勤講師の先生方の寄稿文、それに卒業生、在学生の寄稿文と続いています。その後、50年誌にふさわしく、①湘桜みどり会のあゆみ、②コンペ入賞作品、③写真で見る研究室の移り変わり、④卒業論文、修士論文、博士論文リストが掲載され、104ページにも及ぶ記念誌です。

 6名の教員の寄稿文は、丸田頼一先生(千葉大名誉教授)、吉田博宣教授、勝野武彦教授、葉山嘉一准教授、大澤啓志准教授、藤崎健一郎専任講師です。

9名の非常勤講師の先生方のお名前と担当科目は以下の通りです。

赤木洋行先生(植物資源科学実習)、奥貫隆先生(緑地環境デザイン論)、小野寺浩先生(緑地政策論)、小木曽裕先生(緑地工学、緑地設計実習)、中野謹次先生(造形演習)、真鍋千恵子先生(造形演習)、都田徹先生(緑地環境デザイン論)、山本幹雄先生(緑地工学)、横張真先生(緑地政策論)です。 *科目名が同じのがありますが年度が異なっています

 40年記念誌に寄せていただいた卒業生のお名前(卒業年)を列記し、その寄稿に対し深くお礼申し上げます。

 清水弘子(1971)、伊藤博(1972)、島田正文(1975)、和田淳(1975)、福田一敏(1976)、島崎直司(1977)、田中行雄(1978)、荻野淳司(1980)、野沢雄一(1981)

、後藤行也(1982)、駒瀬友紀(1982)、金子隆行(1983)、石井宏和(1984)、黒田貴綱(2007・博士)、吉田健(1998)、稲垣修(2001)、小島仁志(2003)、岩田朋子(2006)、黒澤恵子(2006)、石田さちほ(2008)、森川政人(2008)、座間碧(2009)、横松広一郎(2009)、石塚恵美(2010)、風間佑紀(2010)、

院生;片岡沙織(2009)、小石川真登(2009)、天白牧夫(2009)、永野貴裕(2009)、七海絵里香(2010)、それに4年在学生5名、石川いづみ、塩島侑平、武谷亮佑、栁沢雄大、小島沙央里、総勢卒業生30名(学部・大学院含め)在学生5名でした。

 

その後、研究室半世紀・50年という記念誌が2021年3月31日発行に出されました。

この記念誌の表紙を飾って桜の花5個と花弁が散りばめられ、1970~2020の表示は、50年記念誌を彩り、表現デザイン化されています。

この50年記念誌は140ページを越える大作です。内容的には、①記念誌発行委員会の「記念誌発行にあたって」(勝野、大澤両教授)で始まり、②生命農学科学科主任授の窪田 聡教授の祝辞、③研究室歴代教員名、教職員からの寄稿文(河野英一日大名誉教授;元学部長、井手久登・東大名誉教授、丸田頼一・千葉大名誉教授、吉田博宣・京大名誉教授、勝野武彦、大澤啓志教授、葉山嘉一准教授、藤崎健一郎専任講師、黒田貴綱・FNEC職員)が続き、次いで④卒業生・在校生からの寄稿文では1972年から2020年卒業生まで43名、在校生が12名(同名簿あり)、の方々から50年目の想いが寄せられ、さらに⑤「みどり会について」と付録があります。 (残念ながらこの年までに既にお亡くなりになられた先生方は寄稿文がありません;横山、福富、吉川、村田、高橋の各先生方です;見守っていただいている先生方に深謝あるのみです)、⑥造園学関連実習等一覧、⑦写真で見る50年の歩み、⑧卒業論文題目一覧、修士論文・博士論文題目一覧です。

 寄稿していただいた卒業生・在校生は以下の通りです()学部卒業年

飯塚克身、富屋均(1072)、春成正和、島田正文、和田淳(1975)、小木曽裕、土沼隆雄(1977)、荻野淳司(1980)、野沢雄一、石川圭一((1981)、金子隆行、兵頭信二(1983)、八重沢学(1984)、佐藤英介(1985)、柳楽幸一、星野千佳子、(1993)、舩越洋二(1994)、河村光則、片受明、奥田篤(1995)、今野明子(旧姓;野口)(1996)、板垣一紀、神田祐樹、井上剛(1997)、木内健二(1998)、小畑拓也(1999)、林康裕(2000)、柏木亨(2001)、藤村陽、藤村晴美;旧姓;林(2003)、小林和博(2004)、横川宗明、赤池真(2008)、天白牧夫、片岡沙織(2009)、七海絵里香(2010)、土屋麻衣子;旧姓;二宮(2012)、元良文昭(2013)、上野澪、高橋啓太(2015)、谷藤圭悟(2017)、野口美奈子(2018)、渋沢翠(2019)、 次いで在校生、小高緋奈乃、比嘉友里恵、鈴木涼、福丸泰梧、松澤直樹、広瀬海、木下紗帆、鈴木友紀乃、川原菜月、門司夏恋、馬場湧作、石山万桜の皆さんです。

 

 50年、半世紀は大変長い歴史の一部になっています。歴代の先生方も既に鬼籍に入られ、50周年記念式典に御招待できなかった方が大半でした。また、卒業生も健康を損なわれ亡くなられた方、不慮の事故等で記念誌を見ていただけなくなった方も少なくありません。研究室の初めの卒業生はもう70歳を優に超え、元号も昭和、平成、令和へと変わり、次の半世紀目指して歩んでいます。研究室卒業生の皆さんも健康に御留意され日々お過ごしください。

 これまでに逝去された先生方は以下の通りです(年月日はお亡くなりになった日です)。2026.03.11現

 横山 光雄先生: 2010.10.20、  福富 久雄先生:2011.05.12 

 丸田 頼一先生: 2020.06.21    高橋理喜男先生:2006.10.05 

    吉川  需先生: 1995.06.04    吉田 博宣先生:2022.09.20

在職中に大変お世話になりました。ここに深くお礼申し上げると同時に、各先生方のご冥福を心よりお祈りいたします。 

 これが最後の記事になります、長い間ご支援有難うございました。

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

研究室の歩み・変遷(1)

 令和8年、新年を迎え、2026年がスタートしました。研究室・日本大学に造園学研究室が生まれてから、もう56年目の新年となります。

 

 研究室が生まれたのは1970年(昭和45年)4月。当時の東京大学農学部園芸第二研究室(緑地学研究室)を退官された横山光雄先生が日本大学農獣医学部に赴任され、農学科に新たに造園学研究室が創設され研究室の生まれたことが出発点になります。

 ここで研究室の歩みについて、これまでの記念誌を中心に触れてみたいと思います。

先にも記した通り東大を退官された横山光雄先生(1970-1979常勤)が、それまで非常勤で日大に講義に来られていたことから、退官後、日大の教授として赴任され研究室を持たれたことに因ります。それに先だって丸田頼一先生が先に日大農学科に務められており(1969年より)、横山先生の就任により正式に造園学研究室が発足しました。(これに関する事情は後に挙げる研究室15年の巻頭文;造園学研究室開設15周年にあたって;高橋文次郎教授、に詳しい

 

 研究室歴代教員の先生方のお姿は、湘南校舎12号館1階製図室内に見ることが出来ます。これは農学科(後の植物資源科学科)が紆余曲折を経ながら東京校舎から湘南藤沢校舎へ、さらに湘南キャンパス内での校舎増改築に伴う学科・研究室移転により最終的に(?)湘南キャンパス12号館へ移ったことに起因しています。研究室小史からも明らかなように学科の移転に伴い、学生時代の研究室生活は東京校舎を別として、湘南キャンパスでは7号館から12号館と転々と移転し、それに伴って学生諸君もそれぞれの時代で過ごした研究室の場所に違いがあると思います。

先年、学科再編成があり、植物資源科学科に所属していました造園学研究室は環境科学科に所属替え、研究室名は造園科学研究室になりましたが、研究室および製図室はこれまでのままで先生方の顔写真もそのままです。

 研究室創設50年以上たっていますが、最初の12-3年は東京世田谷下馬校舎6号館3-4階、小さな狭い研究室、だだっ広い、製図台が並んだ製図室でした。課題の製図を書き上げるため3階の製図室や4階の研究室に寝泊りした学生もいたでしょう。1979年秋、横山先生の最終講義が東京校舎5号館で開催され、退職とその間の先生の著述を盛り込んだ記念誌が作られました。これが研究室10年の記念事業でした。横山先生教授退職記念誌;緑地計画ー地域計画;横山光雄論文集 1979.8 1-151 参照)

この論文集は横山先生の東大退官後10年の間に公にされた幾多の論文を取りまとめたものです。国土計画、地域計画から身近な緑に関するいろいろなレベルでの先生の考え方が伺える冊子です。学内外でのご活躍を見ることができる価値ある論文集になっています。先生が日大で教授の役を果たされた間に研究室を育った卒業生は340人余になっています。

 それから5年後、「造園学研究室15年」1984年9月発行)が作られました。 

記念誌の目次を見てみましょう。研究室教員の推移(年表)のあと、3名の教員(吉川;勝野;葉山)に次いで21名の卒業生による寄稿文、研究室卒業生住所録、卒業論文名一覧、があります。寄稿文を書いてくれたのは、

西浦 克(1971卒)、飯塚克身、伊藤 博、角尾友春(1972)、黒沼美秋(1973)、島田正文(1975)、木村忠司、福田一敏(1976)、小木曽裕(1977)、梅田幸次(1978)、茶屋原智子(1979)、田代政人(1980)、野沢雄一(1981)、高井正一、森秀晴(1982)、飯塚康子、名島英二(1983)、それに現役4年生佐藤英介、前田雅志、3年生岡村裕江、三枝潤治の皆さんでした。()内は卒業年です。

 

 その5年後、「造園学研究室20年」 (1991;平成3年2月発行)が作られました。

記念誌の目次には、造園学研究室スタッフの変遷、「造園学研究室満20年」を祝して(石井賢治学科主任教授)、造園学研究室20周年にあたって(福富久雄教授、吉川 需教授、勝野武彦助教授、葉山嘉一専任講師)に続いて31名の卒業生・学生の寄稿文があり、その他に、卒業論文リスト(1969-1991)、横山光雄賞(規定、論文名)、大学院修士論文リスト(1973-1991)編集後記等があります。

編集後記に、この記念誌が完成した時、イラク、クエートの湾岸戦争が終結した日、とありますが、今(2026)、イスラエル、ヨルダンの戦争中断とあり、35年経っても依然この地域に紛争が続いていることに暗澹たる思いがします。

 この20年記念誌に寄稿してくださった卒業生他は、以下の通りです。

島田 勉(1972)、臼田 剛(1973)、吉井孝治(1074)、和田 淳(1975)、福田一敏(1976)、渡辺邦雄(1977)、田中行雄(1978)、佐々木亨、大久保茂徳(1979)、佐久間聡(1980)、石川圭一(1981)、武藤真澄、後藤行也(1982)、瀬戸恵子(1983)、磯田典江、八重沢学(1984)、山根聡子(1985)、丹野京子、岡村裕江(1986)、桜井健二、陳克林(1987)、新留伸恵、鈴木理美(1988)、焼田理一郎(1989)、佐藤文俊(1990)、そして現役学生4年生:阿部祐子、岸有人、桜井直美、佐藤浩幸、3年生:島村康行、山下亨子の皆さんです。()内は卒業年

 この前の年に元号が替わり(1989;平成元年)造園学会全国大会が湘南校舎で行われ、20年目に入って次の年(1991)には研究室を主宰されてきた福富久雄教授が定年退職され、大阪府立大学から高橋理喜男先生が後任教授として着任(1991.4-1998.3)され、研究室を発展させてくださいました。

 研究室30周年(2000)は、いろいろ大変な年となりました。世界的にコロナの流行、蔓延、社会的な対応、学科内後任人事等、それやこれやで30周年記念事業それどころでない状態でした。

 高橋理喜男先生が退職(2001.3)され、引き継いで研究室にお迎えしたのは、京都大学を定年退官されたばかりの吉田博宣先生でした(2001,4)。それから7年、先生も幾多の卒業生を造園界に送り出していただきました。先生の退職を記念して、湘松桜華波七年」という退職記念誌が出されました。この記念誌の中でも先生の略歴、在職中の著作、種々の業績に続いて、寄稿文(教職員;勝野、葉山、藤崎、島田、赤木、黒田はじめ7名の卒業生、在校生から)、更に在職中の先生の論文・著作・エッセイなど内容的に大変貴重なものが示されています。先生が前職(京都・京大・教授)時代に味わえなかった、経験したことのない事象や体験が日大での新しい体験、知識に織り込まれたことが示されています。先生の飾らない人柄に合わせて、先生の新たな見方、感じ方が示され示唆される内容の記念誌です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年 私の重大ニュース

2026年に入ってから前年の重大ニュースを書くのは、些か面映ゆい感じが否めません。本来は、その年の師走に年間の行事や事件の中でとりわけ印象強く残っている事を表すものだと思います。反省を込めて取り纏めておきたいと思います。

 

その第一は、2024年11月3日に発表された叙勲についてです。もう2年前のことになります。春先から元の勤め先・日本大学生物資源科学部から身辺調査が内々に行われ、その問い合わせがあったことに起因します。学会活動や社会的な活動についての本人確認でした。それから半年、私は日本大学の下で2024年秋の叙勲の栄誉を受けることになりました。瑞宝小綬章:学術研究分野・文科省推薦でした。中綬章以上は新聞紙全国版に掲載されますが、それより下位は地方版に掲載されていました。

その栄誉について、務めていました日大の造園学研究室卒業生がお祝い会を開いてくださり、1月25日京王プラザホテルで開催され、日大時代の上司(河野学部長=先生も瑞宝中綬章受賞)に祝辞を頂いたことが第一のニュースでした。

第二は、日本造園学会発足100年を記念して全国大会が東大安田講堂で挙行され、歴代の学会長・副会長が紹介されその栄誉に服したことです(学会誌記念号に寄稿・11月発行)。

第三は、長年乗り繋いできたトヨタの愛車ルーミーを新しくしたことです。車種は以前と変わらずワインレッド、恐らくこれが最後の新車買い替えになるでしょう。この春(2025・4)より身体上の問題から自動車運転を自粛するようにと家族から言われて、それ以後特別な場合を除いて運転することはなくなりました。

第四は、第三にも関係することですが、私の健康上の問題です。2024年の春先より腰痛が徐々に悪くなり、一時は歩くこともできない酷い坐骨神経痛の進行でした。腰より左右の足・大腿部の痛み・痺れが酷く一時は歩くことさえできないくらいでした。その後は投薬とリハビリで何とか杖を頼りに少しは歩けるまでになっています。まだ、当分この状態は続くことでしょう。完全完治は見通せないのが現状です。早く杖なしでサッサと歩けるようになることを祈るばかりです。

第五は、これまで一人で庭木・生垣の管理をしてきましたが、第四の点との関係で我が身の自由が利かず、とてもあれこれ剪定(枝抜き、切り落とし)や枝降ろし、垣根刈込などできなくなり、遂に専門業者に入ってもらうことにしました。足腰だけが悪いので何をどうするかは全てできるため、忸怩たる思いです。

第六は、2024年に高等学校の卒業生で関東にいる者の同窓会幹事を引き受け、盛大に80歳(傘寿の祝い;2024.10.10)を企画運営しましたが、その後始末の年でした。

第七は、我が身の総点検で、ペースメーカー点検、脳動脈瘤検査、胃カメラ検査、いづれも特段の問題点はなく、足腰の病気以外、無事に2025年を過ごせたことです。

第八は、大学学部執行部時代の仲間の会(鵠庵会)の恒例の現状報告会と談笑会に参加できたことです。

 

 以上が2025年の特に記憶・記録しておくべき出来事です。さて、2026年はどうなりますか。良いことが続きますように祈るばかりです。

 

 

 

2026 新年の思い

  皆さん、明けましておめでとうございます。

暫く、ブログを通しての文章作成活動から遠ざかっていました。自分の体の調子(足腰の痺れ、痛み)に不安が募る中、なかなか落ち着かず、自分が感じたことや考えたことを文章に表すことが難しくなっていました。現状では状況にあまり変化はありませんが、このままではいけないと考え、 新年に再考を重ね改めてブログ作成に努力しようと思っています。

 2025年にも、いろいろな事象が起こりました(これについては別のテーマで書きます)。2026年にはどのように進んでいくのか分かりませんが、最低限、家族が健康で明るく無事に過ごせることが一番です。

 

今日は、このブログを書くことと関係がありますが最近の電子文化の発展と日常生活の関係について思いついたことを記したいと思います。

 先日某放送局のテレビ番組があり、「文字を書く」、「文章を作りながら書く」ことの大切さに注目した内容でした。携帯電話やパソコンに特化した日常生活の中で、普通に文字を書くこと、考えながら文章を書くこと、その機会がそれらの登場により以前に比べて激減していることを示し、その重要性について、いろいろな事例を示し問題を浮き彫りにしていました。

 自分の身に置き換えてみると、日記や絵手紙を書いて、思っていること日常のいろいろな事、人との関係等を考えています。そういった機会が大変少なくなっている状況を感じながら「書く」ことの大切さを感じています。この歳になると意図した通りピッタリの漢字が思い出せなかったり、文章の表現の乏しさや貧弱さに襲われています。

このことは「本を読まなくなった」こととも深い関係がありそうで、つまり昔の文学作品を読む時、文字の意味や表現された状況を思い浮かばせられない自分のいることに忸怩たる思いに陥ります(文学作品を読んでないことがわかってしまいますね)

 

 これは活字化された文学作品だけにとどまらず、古文の書(古文書)や書・絵画の

字句にも当てはまることです。絵画や書の展覧会、美術品の展覧会に行き作品を見るたびに考えさせられることでもあります。現代に生きる人間としてそれを理解するためにも古文に対する浅学の状況はなんとかしなければと、思うことしきりです。。

 番組では欧米の古書に書かれた古い昔の文字・文章にも当てはまり、その読み書きの復活にも触れていました。この問題は今後も話題になるでしょう。私はドイツでの留学体験がありますが、その間にドイツの旧い書体の文字に興味を持ち、学校の先生(高齢の)から教えてもらった記憶があり、その文字を使って手紙を書いた記憶があります。

 

 電子機器によれば、直ぐに当該の読みや漢字。その意味が沢山出てきますが、正しく当該する用語・文字、表現に使える、表すかどうかは書く側に委ねられます。手元に国語辞典や漢和辞典が手放せない理由もここにあります。

 

新年に当たり文章を書くことの重要性を改めて認識し、このような状況に接して迷わず、的確に判断出来るようになりたい、ならねばならないと思うこと頻りです。

 

 

あれから1年

   今日は2025.10.10、昨年の今日は大垣北高等学校14回生(昭和38年3月卒)、傘寿同窓会の当日で、幹事役でした。早いものですねー、もう1年経ってしまいました。

 

 久し振りの一人幹事(指名を受け)、会場探しから参加者連絡まで久しぶりに旧友との連絡を勝手に一人で楽しんでいましたね。

前年の幹事役・後藤凌司君からいろいろ受け継ぎ、楽しんで進めました。彼にも2022年に相談しましたが面倒で止む沙汰になっていた記念タオルの件、2024年は参加者の多くが80歳を迎える・迎えた歳となるために記念品として作ることを私一人で勝手に決め、例の団体(身障者支援団体;夢屋)に注文し当日、出席者に配布しました。

 

当日の会場はアクセスの関係から、新宿。これまでに他のパーティーで使ったことのある洒落たレストランにしました(新宿中村屋・8F・グランナ)。

 

 第1報は、それまでに関東会で連絡の取れる人を中心に、記念大会・お土産付きの案内を封書で送り記念の日(10月10日;東京オリンピック開催初日)への出欠を問いました。女性会員には、この私製封筒(義母手作りで古く綺麗な柄の包装紙再生)が好評でした。

その後、第2、3,4報まで出して記念大会の会場、内容等を参加者の皆さんに連絡しました。以前から記念切手を買い求めていたことと、この先この記念切手の使い道を考え、案内連絡状にベッタリ記念切手を貼り付け送付しました(受け取った方は驚かれたでしょうね)。私の趣旨を理解して(ドイツの友人が日本の記念切手を蒐集)、別に使用済み記念切手を私に送ってくださった方もあり、嬉しいことでした(今もドイツの友人とは記念切手を挟んで旧交を温めています)。

 

 思えば私たちは昭和19~20年生まれ、戦中派?母のお腹にあった頃(昭和18-20年)は大垣市内の空襲激しい折、そんな中、無事に産んでもらい、辛い戦後の食糧難を知ってか知らずか成長し北高に入学・卒業し、30周年記念誌も作り、そして時が移り変わり身内で年と共に父母兄弟も少なくなり、我が身の処し方を考えるところまで来てしまいました。

 

 80歳を過ぎ新聞紙上などで自分達より上の人や70代の人などが亡くなられる報を聞くたびに、我が身に置き換え「生」の不思議さと有難さを感じ、健康の大切さと身近な世界の平和の有難さを痛感しています。   この途はどこまで続いて行くのでしょう。

 

 

 

 

 

 

有効期限と寿命

 私の年齢は今年81歳になります。米寿までは7年間ありますが、80歳を超えて自らの寿命との兼ね合いを考えるようになりました。70歳の時は、まだ大学を定年退職したばかりで、在職中、先延ばしにしていましたドイツ行を楽しみにしていました。ドイツの友人にもその旨を話していました。2014.11.21に日本大学勤務を終了(定年延長期限満期)、次の年春、3月まで大学でお世話になっておりました。その年(2015年)の夏、長年行きそびれていましたドイツ行を実行、旧知の友人たち(家族を含め)を再訪しました(あれからもう10年以上も経ってしまいました)。私のパスポートの有効期限は2025.05.29でしたので、今年その有効期限が切れてしまい、パスポートは無効になってしまいました。もう、海外は無理でしょうかね。

 今、私が持っている書類・カード類で有効期限があるのは、①車の運転免許で有効期限は、2026年12月22日まで、です。併しこの免許証も実際は諸般の事情により、使えていませんので、有効期限は有って無いに等しいものです。

②今、世間を騒がせていますマイナンバーカードも今年の私の誕生日が有効期限になっています。

③色々な証明書も1-2年の有効期限ですので2015-2016年には再手続が必要になります(特定医療費;指定難病;重症筋無力症)の有効期限は令和8年(2026)9月30日、後期高齢者医療資格確認書は(令和9年;2027、7月31日)、

④種々のカード類はいろいろありますが、おおむね2024-2029年が有効期限になっています。

 要はその有効期限と自分の寿命との関係が微妙になってきていることです。先にも書きましたがお祝いの年齢で近いのは、昨年傘寿(80歳)を高校の同窓会幹事として過ごしましたので次は88歳の米寿ですかね(2032)。

 

私の父は85歳、継母(実母の姉)は101歳、実母は30歳、実弟(直ぐ下)は73歳で亡くなりました。今、頑張る目標は父の85歳です。後5年です。

 

 日本大学造園学研究室は創設が1970年ですから2030年は60周年、2040年は70周年となります。その時、私はそれぞれ86、96歳となりますが。まあ、86歳まで頑張れたらなと思います(後5年です)。目下、脊柱管狭窄症?坐骨神経痛?に悩まされ、杖なしでは外出できません。つまり、わが足で自由に外出できない状態です。

なんと、閉じこもり生活を余儀なくされた身動きの取れない老人となっているのです。早く、何とかしなくっちゃ、の心境で、寿命どころではないのです(笑)。

 

 

 

 

 

 

私と車 (時代と求められるもの)

 私と車の関係は東大大学院時代の運転免許取得に始まります。まだ、文京区大塚(護国寺裏)に下宿していた時代(昭和45年頃)です。運転教習所の車(トヨタ車;ハンドルレバーシフト)に乗り、講義を受け、ミスすることなく規定通りの時間数で運転免許試験に合格、仮免許を取得、その後、横浜市の鮫洲試験場で筆記試験を受け合格。晴れて免許証を取得しました。時に昭和45年(1970)7月13日でした。奇しくも東大大学院修士課程を修了し日本大学に勤務する前の年、造園関係の設計事務所でアルバイトをしていた時代でした。就職するまで車は必要な時にレンタカーを借りたり、友人に車を借りて運転するくらいでした。1971年、日大に勤務するようになり、デイトで遠出するような時には大学同級生の仲間の車(日産サニー)を借りていました。

 身近に車を持つようになったのは 1975年頃、大学の助手時代、委託研究を受け千葉県の現場で植生調査をしていた時代です。研究室の学生仲間(通称;ヴィリデイス;Viridis)の一人が持って来ていた車(ダイハツ・フェローマックス・クオーレ;800cc;ナンバープレート:4451)でした。当時の院生春成君の愛車、どういうわけかその車、私がその後長く管理・利用し乗り回すことになってしまいました。

 自家用車を持つようになったきっかけは結婚後の住宅の新築と転居です。私の最初の住まいは川崎市麻生区の飛び地「岡上」。軽自動車は日常の買い物などで使っていました。その間、時折自動車販売の展示会等に顔を出して車を見て勉強していました。小さなアパート(1DK=恵美荘)で生活していましたが、広告で半分が建売の住宅(土台だけで来ていた)を買い、半分が注文住宅の我が家を持てることになりました。戸建て住宅を持つことに際し、家族や親戚の方々に経済的に大変お世話になってしまいました。その間も、この軽自動車・マックス・クオーレは買い物に、引っ越しにと多様に活用することになりました。2人の娘が生まれたのもこの頃、日常生活を捉えた写真の多くに今もその車活用の雄姿を見ることができます。

 ここで今までの我が家の車遍歴について書いてみます。

 

 中古のくたびれたフェローマックス(ダイハツ)に代わって自ら探し求めた最初の愛車は、トヨタ・ターセル・アヴェニュー。(車ナンバープレートには、川崎65・ち・1592)、カラーはシックな焦げ茶色でした。近くのスーパーの駐車場で開かれていたトヨタの新車試乗展示会。ディーラーの鈴木氏(秋田県出身)の穏やかな勧誘にのせられ最初の自動車購入になりました。家族4人・二人の娘が未だ小さく新車の小型車で十分満足したのを覚えています。それ以前が半分壊れかかった、褪せて薄汚れた小さなダイハツマックスでしたので余計に新車の素晴らしさ、独特の車内のにおいに、満足して試乗し初乗りに近くへ出かけたのを覚えています。

 郷里、岐阜への帰省はいつも、JRの運賃・時間、行動の自由度と車の利便性、係る諸費用との比べ合いで「車の良さ」を実感していました。子供の成長に合わせ車内の居住性・行動や時間の自由度・利便性等々を考え車選びをしてきました。ターセルの後継車には車内の居住性と車の品格、いろいろな物が載せられる積載性を考慮し、時のセダンとして品格のあるトヨタヴィスタが続きました。車体の色も紺色のヴィスタ(川崎ね・19・46)クリーム色のヴィスタ(川崎む・45・38)で6年間。それぞれの色の新車として3年間づつ乗り継ぎました。車検の時期になると馴染みの鈴木さんかトヨタの職員がカタログを持って訪れ下取り価格の交渉が恒例になっていました。私共もそれに応える余裕と意気込みが当時はありました。時には「人の好いのも程ほどに」と考えたこともありましたが、付き合いや人間関係の良さを良いことに、毎回同じように進めて来ました。 

 子供の成長に合わせ自家用車も大きさと広さが求められるようになり、そこに登場し選んだのがワンボックスカーのトヨタタウンエースでした(川崎56・ね・9970)

  いろいろな物を沢山詰め込むことができ、車内の居住性も広く大きくなり子供たちの行動自由度も上がり快適性も増しました。遠出が苦にならなくなったのもその性でしょうか。この車で家族一緒にあちこち走り回ったことが夢のようです。

 車選びは家の間取り調整と同じようで変化するものです。子供が親から離れるようになると、再び車も小型化し居住性や操縦性を重視するようになって、次いでファンカーゴ、ラクティス、スペード(川崎538・て・1123)へと移り変わっていきました。それもこれも、例(いつもの)の車検費用と車の下取り価格との兼ね合い、新車の良さや快適性につられ、説得されて車遍歴を重ねてきてしまいました。遍歴の終盤になってナンバープレートの番号を自由に選べることから結婚記念日の11-23にしました(これは現在のルーミーまで変わっていません) 

 車の在り方が時代に即して大きく変わろうとしていく中で、ガソリンエンジン、電気自動車、水素ガスエンジンなどが考えられるようになり、地球環境に優しいとか環境に配慮したエンジンなど、その技術革新も一段と進み、自動車を使う側にも燃費や操縦性・居住性・経済性を考えるようになりました。当時、弟が燃費や使用頻度との関係からトヨタ・アクアに乗っており、経済性の点から私にも強くアクアを推薦していました。そこで私共も車種変更、色合いで主張の強いオレンジ色のアクアに乗り換えました(川崎541・ち・1123)。派手な車の色で目立った後、次の車検・下取り価格の時、これまで同様車替えを実行。今度は薄黄緑色した柔らかな感じのアクアにしました。

 そして長かった教員生活を終えるのと並行して、より小型で乗り心地が良く、操縦性も良く車高がやや高いルーミー(川崎545・て・1123)に替えました。車の試乗で運転席が高く視野が広く操縦性と安全性から後部ドアがスライドするルーミーにし、私の記念の年80歳・傘寿を迎え、おそらく最後となる車、トヨタ・ルーミーのはずでした。

 ところが初代のルーミーと殆ど同じ仕様、色も全く同じのルーミー(roomy)、この車での私の運転は以後ほぼ無いでしょう。車の買い替えが近所に目立たないよう、同種同色の車に買い替えることになりました。おそらく最後となる車、トヨタ・ルーミー(川崎547・に・1123)。初代のルーミーと殆ど同じ仕様、色も全く同じのルーミーです。この車での私の運転は以後ほぼ無いでしょう;2025・07・06に納車(悲)。

 実は、昨年後半から脊椎のヘルニア、悪化して坐骨神経痛の酷い状態で歩くことが難儀になっており、病院への通院も儘なりません。車の後部座席で(自分の意に反して)他者の運転を見守る今日です(クシュン、悲)。早く健康を回復し1度新しいルーミーを運転したいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから10年

 今日は2025年7月4日。もうすぐ七夕で令和7年.7月.7日(777)の日になります。久しぶりのゴロ合わせの日。きっといろんなところで記念の半券や入場券などの収集が盛んでしょうか。日大の生物資源科学部造園学研究室同窓組織・湘桜みどり会の総会が土曜、7月5日に行われることになっています。盛会を祈るばかりです(私は体が普通に行動できないため止むを得ず欠席です=酷い坐骨神経痛:悲)。

 

 私の今日の一文は、表題の通りですが、大学を退職したのが2014年11月21日。もうすでに10年が過ぎ去ってしまいました。研究室は大きく変わって、学科名称は言うに及ばず、所属が当時の植物資源科学科から環境科学科へ、研究室の分離、統合などの影響で学生諸君もカリキュラムやら講義科目習得で苦労が続いていると思います。

研究室名はそれほど大きな変更はありませんが、カリキュラムの変動、学生数等により卒業研究をやりたい学生の所属研究室制限が無きにしも非ずで、各研究室10名前後に絞られてしまいます。そんなこんなで、年10名、ここ10年で100名程が新たに研究室卒業生(大澤啓志教授指導所属)となってきている事でしょう。

 私は2014年11月に退職し、その年度の卒業生諸君を輩出して後、2015年初夏、久しぶりにドイツを訪ね、旧友を訪問し旧交を温めました。友人その殆どが私同様公職などを退職し、造園や環境関係の部局・部署から離れてしまいました。

したがって環境保全、造園などに関する現状を具に見て歩くこともできませんでした。同じ年恰好の友人が年金生活者となり自由の身になっていて旧交を温めることが中心となりました。以後、手元に送られてきた環境保全や自然保全で中心の工業州(NRW=ノルトライン・ウエストファーレン州)の専門誌(Natur in NRW)を紹介する程度の情報提供しかできない状況です(このブログで)。

 この10年の時間経過、時代変化はそれぞれ関係してきた専門家の動きも変化する一方で、社会の変化、世界の変貌が着実に変わってきて、より複雑化、広域化してきていると思います。難しい時代、世界になってきているように思います。 人間の目には自然の本質が余り変わっているようには感じられませんが、実は細かく見たり考えたりすれば大きく変わりつつあるのでしょう。したがって日常の記録は、これまで以上に大変重要になってきていると思います。

 同時に毎年徒長枝として伸びる枝は急速に大きく成長し、木々の姿を変えてしまいます。管理(整枝・剪定、徒長枝切りつめ、枝抜き、伐採など)は一程度毎年夏前に必要なのです。こんな状況(他人に管理を依頼する)に陥るとは微塵も考えずに(自分で出来ていたので)ここまで来てしまいました。今、その専門家なのに他の人を頼らなければならない状況となってしまいました(悲)。

 

 昨年まで曲がりなりにも自分自身で行ってきたアラカシの高垣の枝抜き、整枝剪定を遂に今年から業者に依頼することになってしまいました。4-5m高に成長した10-15年生のヤマザクラを根元から伐採、3mに及ぶサザンカやモミジの整枝・剪定など自分の体が80歳を過ぎ、体力的、行動的(2m以上に脚立を立てて剪定すること)に無理のため、実行することができません。私にできることは、地上部での刈り取り後の切られた枝の整理や取りまとめ・袋詰めなど限定された仕事をこなすだけで今夏の作業は終わりました。 来年も同じことになるでしょうか(研究室の卒業生がやらせてください、と言ってくれますが)。 

 

我が家の鳥の巣 その2

   前回(5月22-24日)、シジュウカラの巣ご報告の後日談に書きましたが、一部間違いがありました。アラカシの茂った枝葉の間に作っていた鳥の巣はウグイスではなくて、メジロでした。春先に山茶花の花が咲き始めると同時に花の蜜を求めて、我が家のサザンカにもやってきています。まさか、メジロが営巣して雛をかえしているとは思ってもいませんでした。巣立った後に小さな濃い緑色の小鳥が木の枝の間を出入りしていたので、てっきりウグイスの親と勘違いしてしまいました。

 実は、私も80歳を過ぎ、それ以前まで何も気にしないで庭木(高木)の手入れをしてきました。昨年来、足腰の痛みに耐えかねて整形外科で診断してみたら坐骨神経室の酷い状態との診断。完治まで(完治するかどうか分かりませんが)時間が掛かりそうです。そんなこんなで、高所での庭木管理は到底無理、ということで業者に入ってもらいました。

 我が家の高垣の樹種はアラカシ、コブシ、ヒメシャラです。主体はアラカシ。毎年5月に徒長枝が成長するため太枝の先は多くの徒長枝が密に生えてすごい勢いで成長します(50-60cm)。それを枝打ちしないでおくと伸び放題となり、樹形が乱れてしまいます。

今年はバッサリ大きく強い枝抜き剪定、太枝切り落とし整理をしました。おかげでスッキリ枝ぶりや高垣の姿がよく見えるようになりました。

濃い緑の常緑であるため、目隠しには好都合ですが風通しが悪くなります。この枝葉の間に落葉広葉樹のヒメシャラが入っており、これが格好のメジロの営巣場所になっていました(葉が密に茂り巣を隠し、雨風が入りにくい)(添付写真参照)。

 

もう一つの巣箱、黄色に塗った巣箱は今年、シジュウカラが営巣し、卵を孵して巣立っていったようです。一時はカラスに追い立てられて巣立ちが難しいか、と思っていましたが、先日の庭木の手入れの折、近くのコナラも除伐しました折に巣箱の中を覗いて見たら、巣の中には苔が絨毯の様に敷き詰められ、大変素敵な巣でした。卵が孵った様子で抜け殻が苔のベットの中にあり、無事に卵から孵って巣立っていった様子を伺い知れました。

これでメジロもシジュウカラも無事だったことが確認できました。めでたし、めでたし。