水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔  その十二

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  第三日、この日も朝から快晴、ホテルの朝食は6:30開始なのですがスケジュールを早めるために時間より早くフロントに降りて朝食を早めてもらいました。この日の工程は14.3kmとやや少なめですが、牧の原台地を上り下りして坂道が多く、宿場を巡るために、意外と体力を使うことが予想されました。朝食後、直ぐにJR島田駅に急ぎ、7:08の下り電車に乗り次の駅、金谷へ行きました。金谷駅大井川鉄道金谷駅も隣接し、こじんまりした駅で西側はすぐにトンネルになり台地を貫いています。前日の最終点(駅下のガード)に急ぎその場所からスタートしました。この辻の案内板には旧東海道・金谷石畳、菊川方面の指示がありました。ガードを潜り直ぐ傍に長光寺は一段高くなってありました。この寺の境内には芭蕉の句碑があり、「道の辺の 木槿は馬に 食われけり」と記されていました。旧道の金谷坂の石畳は急で台地の上まで430m、地域の人達の努力で平成3年に復元されており、その先にも芭蕉の句碑が残っていました。そこには「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」とあります。芭蕉は旅の俳人といわれ全国津津浦々を旅して折々その地で句を残しています。句碑は旧東海道の各地で残されており、その長旅の気力、体力、自然観照の眼力、創造力には驚くばかりです。

 牧ノ原台地へ上り旧道の両側に広がる茶畑がどこまでも広がり、丁度新茶の穫り入れ時期に遭遇して畑では新芽を刈り取る(摘む)作業と、新芽を出すための株の強刈込作業が真っ最中でした。茶畑の中をさらに歩き続け菊川坂を下って静かな菊川の里に下り一呼吸したのも束の間、辻の石段と再びの急坂(青木坂)、進む尾根道の両側は同じ茶畑で近景から遠景まで景観の中心は茶畑と杉林(施業林)でした。この尾根道は大変見晴らしが良く、多くの歴史文化財(寺、茶屋跡、塚跡、歌碑など)があり、長く人々の交流が続いてきたことを物語っています。この日は期せずして6月16日(コジツケで十六夜;実際この日は下弦十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑がありました。そこには「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」と記されていました。「さや(小夜)」は塞(遮)る、「中山」は峠、悪霊を遮る神の宿る峠がこの峠の謂れのようです。

 このあたりが金谷町と掛川市の境で、さらに歩みを進めると久延寺がありました。この寺は733年(天平5年)開祖は行基掛川城山内一豊関ヶ原に向かう徳川家康に茶の接待をしたとされています。境内には真ん丸の夜泣き石がありましたが、家康手植えの五葉松があると案内本には記されていましたが、そんな古い松はありませんでした。石は何年も形を変えず残るけれども、生きた植物は、400年以上あり続けることは難しいです。道を挟んで筋向いに西行法師の句碑が休み所にあり、「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」法師69歳で2度目の中山峠越えの折の歌とされています。私は72歳で初めて峠に辿りつき、滴る汗をタオルで拭いペットボトルのお茶で喉を潤すのに精一杯でした。

 台地尾根部の茶畑通り(旧街道)は見晴らしも眺めも良い道で、いろいろな有名人の歌碑が並んでいました。列記しましょう。

蓮生法師:「甲斐が嶺は はや雪しろし神無月 しぐれてのこる さやの中山」

紀 友則:「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」

藤原家隆:「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を さやの中山」

壬生忠岑:「東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」

阿仏尼 :「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」

西行法師:「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」

 この先の沓掛坂は歩くのも一苦労の七曲りの急坂でした。普通なら階段になるほどの勾配です。西行きは下り坂(牧ノ原台地へ上る道)で、滑りそうになるくらい急、足を踏ん張りながら歩幅狭くし下りたのですが、畑に行く農家の車(軽車両)が喘ぎながら今にも停まりそうに登って行きました。これまで一番の急坂でした。下りきった所が日坂宿でした。

 日坂宿は500mに満たない小さな弧を描いた宿場ですが建物が上手く残され(例えば川坂屋、萬屋など)ひっそりと立ち並んでいました。宿場の西(京口)には事任(ことのまま)八幡宮が巨大な杉と楠に守られ鎮座していました。ここから先は水田地帯、県道415線となり7km程をひたすら西へ西へと炎暑の中、歩き続けました。

 掛川宿はこの日の終点、宿場の東口(江戸口)は逆川に架かる馬喰橋と袂にある一里塚(地名は葛川;日本橋から58里目)そして振袖餅で有名な創業200年におよぶ和菓子屋「もちや」(添付写真C)です。宿場町に多い枡形小路を抜けるとこれまた江戸時代から有名な葛菓子や「丁葛」(添付写真D)。いろいろな種類の葛菓子が有名で全国銘菓博で優秀賞を受賞しています。個別買いし土産として持ち帰りました。

 朝7:30から歩き始め14~15kmを走破、12:30に掛川宿(連雀西交差点=掛川城の南)に辿りつきました。5時間の一人旅歩きでした。焼けました、疲れました(笑)。

 13:08分発の新幹線こだま号に乗り小田原14:06着。今浦島、延べ8日間かけて歩き通した小田原~掛川間、涼しい新幹線で夢うつつ1時間。 家康もビックリ!

小田原から小田急線急行で柿生駅に15:20着、梅雨の間の3日間の旅は終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次  今・昔 その十一

 第二日目は18.4kmと短くなりました。というのも歩き旅では宿間距離、旅館の有無、日程と最寄駅(JRなど)の関係から歩く行程と宿を事前に決めます。この日は藤枝宿から金谷宿までの13.4kmにしました。金谷の先は日坂(6.4km)その先は掛川(7.9km)となり、日坂に宿はなく掛川まで伸ばすと24.7kmで長すぎます。それに金谷と掛川の間には牧ノ原台地があり急傾斜で上り下りの山歩きが予想されるため、第二日は重要ポイントを大井川「徒歩渡り」において短めとしました。

 快晴の二日目、藤枝パークサイドホテルを早出して前日の終点(青木五叉路)に行き、いつも通り8:00出発、西の青空には下弦の月が薄ぼんやりと残っていました。藤枝から島田までの旧街道沿いには比較的松並木がよく残っています。植栽間隔は2mと狭く、太くなったクロマツにとっては根元も狭く、息苦しそうに見えます。しかしそんな根元の状況でも10-15mほどの並木が街道を彩っており、今、クロマツの幼木(1m程度)を植栽することによって10~20年先に松並木を復元することが出来るのではと思いました。町内会や街の会などが音頭を取って県の道路局と交渉し家の前の小空間にクロマツを植えることを提唱したら、と思いました。

 この地域は北に丘陵を背負い大井川水系の堤や用水、谷川が流れて、南に開けた水田地帯です。島田宿(宿場街)は街道に沿っては短く500~600mですが、大井川の堤防下(島田市側)には大井川川越遺跡(1966;昭和41年;国の史跡)に指定された地区があり、12-3軒の番宿が遺され当時の様子をよく理解することが出来ました。特に川会所や川越人足の番宿を具に見れるのは素晴らしい展示法だと思いましたし、通りの景も昔そのまま、といった感じでした(感激)。

 昔は川に橋を架けることが難しく(①自然に抗し難い、②意図的に架けない)人足を使って渡るほか策がありませんでした。江戸時代1696年(元禄9年)、川越について取り決めた川越制度が作られ川端筋では番宿が生まれています。この島田と対岸の金谷には幕末650人ほどの人足がいたとされています。大井川は流れが急で水嵩の変化が大きく渡船が禁止、旅人は人足が蓮台か肩車で運んでいます。賃料は水量により人足の体型と合わせ、股・帯下・帯上・乳・脇の5段階があり、蓮台利用も形や大きさで5段階に分かれていたとあります。渡し場の水量・水深で4.5尺 =136cmを越えると川止めになったと言います。大変な時代で、人々は自然のなせるがままの生活を余儀なくされていますし、旅の持つ意味・形態・実態が現在とは全く別のかけ離れた物だったと感じました。松尾芭蕉も、増水のため島田宿で4日間川止めに遭遇し泊まったようです。そこで、芭蕉の句を少し、

 「馬方は しらじ時雨の 大井川」、 「駿河路や 花橘も 茶の匂い」、 

 駿河国遠江国を分けていたのは大井川。明治初めまで橋は架けられておらず、1882年(明治15年)橋が架かり、1928年(昭和3年)に5年かけてやっと橋が作られました。大井川に架かる大井川橋は全長1026.4m、鋼製、橋脚は16脚、トラス橋で2003年には日本土木学会から「学会選奨土木遺産」に選ばれています。歩き渡るのに20分程かかりました。川筋が幾重にも分かれていて急な流れもあれば浅く緩やかな流れもあり、流れないで溜まって淀んだ部分もあり、さらに河原が広く広がり河畔林になっている部分もありました。

 鮎釣りで賑わう川面を見ながら橋を渡り、金谷の宿に入りました。金谷宿は1000mほど緩やかな坂になった短い宿場街、すぐ背後には牧ノ原台地が迫って来ています。川と山に挟まれた小さな宿場街ですが、今ではSLが走る大井川鉄道の駅「金谷」でも有名。この宿場町に今は、適当な宿泊施設が無く、止む無くJRを一駅戻り島田駅前のホテルで2泊目を過ごしました。

東海道五十三次  今・昔  その十

駿河の国(静岡県)は東西に長い国です。前回、箱根峠を越え駿河国に入ってから府中(静岡市)まで9宿を(3泊4日)歩き一旦自宅に戻りました。体調を整えて今回は府中から掛川までの8宿(府中、鞠子、岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川)を2泊3日で歩く計画にしました。1か月ぶりの東海道上洛の道です。

 一日に歩く距離は年齢と体力を考え凡そ20km前後で計画し、また季節的に蒸し暑くなる梅雨の時期でもあるため、早朝の旅立ちを旨としました。府中からの出立時間を早く設定したため自宅を6時に出て小田急線で小田原まで行き、小田原から新幹線で静岡に入りました。新幹線こだま号は空いているだろうと高を括っていましたら、なんと予想に反して地域間の通勤で新幹線を利用する人が多い~多い。小田原から熱海、三島、新富士、静岡間自由席はほぼ満席状態でした。今の世だから可能な行動(小田原6:54着、7:08発こだま631、静岡7:54着=1時間)で前回の終点、静岡駅前伝馬町交差点に朝8時に立ち、歩きを開始しました。

 静岡は昔、国府がおかれたところから府中と呼ばれますが、「府中」は「不忠」に通じるとされ、町の西の聳える賊機山から「静岡」と改められたようです。安藤広重東海道「府中;安倍川」の絵は賊機山を背景とした安倍川の川越しの風景。徳川家康駿府城を築き1605年将軍職を秀忠に譲ってこの町で過ごしています。城下町の香りは町の名前や碁盤目の町割りに見られ、西は安倍川が境となっています。街中をジグザグに進み西に進路を取って安倍川橋を渡りました。橋は1923(大正12)年完成のアーチ型とトラス型を組み合わせた鋼橋で3代目とあり、最初に橋が架けられたのは1874(明治7)年、二代目は1903(明治36)年、いずれにしても江戸時代の東海道は安倍川も川越人足(川越町名がある)の役割が重要なところだったようです。静岡側の橋の袂には安倍川餅で有名な菓子屋;石部屋(1804年創業)があり、その今も昔も大勢の人の人気の的です。

 安倍川を渡ると直ぐに鞠子宿に懸かります。鞠子は小さいながらも安倍川の川越しで賑わった宿、京口の町はずれにはこれも広重の絵(弥次郎兵衛・喜多八が店先の縁台でとろろ汁を食べる景)で有名な「丁子屋」が往時の雰囲気そのままに品のある佇まいを見せています。ここには芭蕉をはじめ有名人の歌碑が並んでいました。

  芭蕉の句 「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」(店の外観は、今・昔 12  添付写真 A

 宿場を出て丸子川に沿って進むと赤目ヶ谷地区に入ります。ここは日本の紅茶発祥の地とのこと、両側に迫る山裾で紅茶が栽培されていたようですし、長源寺には中国、インドに渡り紅茶を研究し茶の木を持ち帰った多田元吉の墓があります。茶と言えば禅宗との関係で僧栄西を思い浮かべますが、ここでもまた別の偉人を知ることが出来ました。国道1号に出て狭い谷間の空間を進むと山が迫り国道はトンネルに入ってしまいます。旧東海道はどこにあるかと探しますが見えません。トンネルに近づくと、ありました!本当に小さな狭い道が川に沿って沢筋に残っていました。これが世にいう国の史跡に指定された「宇津ノ谷峠」でした。

 じつは、ここ「宇津ノ谷峠」で旧東海道を少し見失ってしまいました。途中まで(お羽織屋前の石段)は正しかったのですが、登り切った先で別の道に入ってしまいました(宇津ノ谷隧道:1926-1930建設;現在県道208号)。肝心の峠越えを体験できず昭和のトンネルを通って藤枝市側に出ました。この「宇津ノ谷峠」は2010年(平成22年)2月22日に国の史跡に指定されています。峠を越えて辿りついたのは岡部宿です。岡部宿は岡部川に沿っており、街道の北東端でL字に曲がり藤枝方面に伸びる細長い街道宿です。1000mほどの小さな宿ですが宇津ノ谷峠、安倍川、大井川の川止めで人が溢れた時は、この宿も旅人が溢れたようです。一番大きな旅籠・柏屋(1836建築)は現在藤枝市の史跡に指定され、建物は1998年(平成10年)登録有形文化財になっています。旅籠の内部を詳細に見ることが出来、しかも多くの史料で江戸時代の様子もよく分かります。

大旅籠・柏屋の外観は、今・昔 12  添付写真 B

 街道沿いの藤枝宿商店街も、他の市町の旧道商店街と同じくシャッターの閉まった店が多く見られ(週日日中だから?)街づくりの難しさが感じ取れました。しかし市の中には活性化の生まれている部分もあり、これからの動きに期待したいものです。

駿河国の最西の市、島田宿を目前に第一日の歩きを終え、藤枝宿になりました。宿泊は藤枝パークサイドホテル、大変居心地良いホテル、設備やアメニティーが充実し、朝食が豪華、それでいて安価、藤枝で泊まるならこのホテルをお勧めします。

この日歩いた距離;22.8km, 41,874歩でした。お疲れ様でした。

庭園博覧会(都市緑化フェア)に関連して

 先日、ドイツの庭園博に類似した都市緑化フェア2017・横浜が終了した。毎年恒例で日本のどこかの都市で都市緑化、花と庭と公園を主題にしてフェアが開催されてきている。都市公園を中心に、花と緑を都市の街中に広げ、新しい緑の役割を市民に理解してもらいながら都市の緑の充実を図るよう進められてきた。私も以前からドイツの庭園博を紹介しながら、日本での都市公園や緑地の増強を期待し、そのあり方を見てきた。ドイツの庭園博(国際レベル、連邦レベル、州レベル)も財政的な問題やそのあり方の意義について、今日、いずれの場合も課題を持っているものの、計画的かつ着実に都市内の公園や緑地の整備拡充に寄与してきていることは火を見るより明らかである。

 緑化フェア2017横浜では既存の公園緑地を含め、新たに都市開発整備で生まれた地区(例えばグランモール地区)も取り込み実施されたことは意義あることである。とりわけ新たに里山地区を設定し、横浜ズーラシア(動物園)と一体的に植物園を想定し新たな緑地を生み出すこととなった点は大きく評価されて良いと思う。これまでのフェアでは少なかった緑地や公園の発展的新規拡大、増強整備が今回は進んだと言える。

 以下にドイツの最新の庭園博事情について、公園緑地に関する専門誌に示された報告を概説し、同様の問題、課題を持つ我が国の公園緑地整備に何らかの示唆を得ることが出来るのではないかと考えた。対象となった専門誌は、これまでにもここで概説してきた”Stadt  +Grün”の2017年4月号である。

4月号

Pückler.Babelsberg –Der grüne Furst und die Kaiserin 

 Michael Rohde P.13-20

 この論文の筆者は;Michael Rohde教授、プロイセン城郭・庭園財団会長;SPSG(ベルリンーブランデンブルク);Stiftung Preussische Schlosser und Garten(SPSG)  m.rohde@spsg.de 

Katrin Schroder、庭園史跡、SPSGの庭園課 k.schroeder@spsg.de

 1843年プロイセンのウイルヘルム、アウグスタ皇帝夫妻、10年掛けて造られた庭バベルスベルクの公園が造られた。P.J.レンネは3つの展望地点(ハフェル河から20mの高さ)を造っている(ヴィクトリア、レンネ、フュルステン)。この催しに先立って、2015年ボンにある連邦文化会館で造園家:Fursten Pucklerのムスクワ展が行われた。1785年ラウジッツ(Lausitz)のムスクワ城で生まれる。ナポレオンとの戦争(1806:プロイセン、ザクセン)1812、1813、1806-1810(Puckler20歳台の頃)イタリア、フランス、南ドイツへ旅をしている。 ほか、Babelsberg城の修復、復元についてPuckler の所業と歴史、現状について解説

 Pucklerは南ドイツへの旅の折、ミュンヘンでニーフェンブルク城やイギリス庭園(Friedlich Ludwig von Sckells)を見る。1810年ゲーテと知り合う。1811年父の死語ムスカウの私邸の風景式庭園計画造る。

造園家としてのFursten Pucklerについて解説

ベルリン・ブランデンブルク(ポッツダム)のバーベルスベルクにおいて2017.4.29~10.15まで行われている連邦庭園博会場での催し物「ピュックラーの造った、バーベルスベルク・公園と城」展について。

 

Highlights der internationalen Gartenausstellung 2017 in Berlin

Sibylle Esser    esser@bundesgartenschau.de

IGAベルリン会場(世界の庭園部分)の花展示に関する解説。 Blumberger Damm入口部分に造られた屋上緑化。ZinCo-Systemを採用。Fairplants-system会社設計・施工(2016夏)の植栽。都市内に於けるいろいろな緑(樹木から草・地被植物まで使った)の作り方の展示。(個人の庭だけで無く、共同、共有の中庭、広場の緑化、緑のスペースづくり等)バラ園(2000年以降に造られた品種)、ダリア園  2000㎡の温室(高さ12m)での熱帯植物などについて解説。

Experimentelles Grun in internationalen Gartenkabinetten   p.21-26 

国際庭園博2017ベルリンの施設紹介、同庭園博ベルリンについての記事は3月号にもある。

 庭園博馴染みのアザレア、ツツジ類(白花のみ)を使ったコーナー(1400㎡)、色とりどりのツツジ類の部分、植栽デザインの面白さ(波をデザインした植栽;700㎡)  。 環境に優しい自然素材の基盤における各種の植物を利用した緑化法。イギリス風庭園(6000㎡)の植栽と広場(5000人収容可)の植栽。 IGABerlinの会場(世界の庭園部分)における屋上緑化始め、世界の庭・会場の植栽について解説。会期中を通しての各種コーナーの構成とその設計意図、植物の使い方等。

 

Klarheit und Magie – die LGS in Bad Lippspringe     

  Vera Hertlein-Rieder: Sinai設計事務所の造園家 public@sinai.de 

 2017年の州庭園博会場、33haの森林を会場としたBad Lippspringeの解説、都市内と郊外の森を結ぶ緑の軸線、近郊レクリエーション利用に使う。 

 すでに19世紀から胸・肺の病気の療養地として有名で、その保養地としてKaiser-Kals公園とその周辺の森は使われてきている。ベルリンの設計事務所Sinaiが競技設計コンペで選ばれて設計、20世紀の初めに保養地として指定を受ける。すでに保養樹林(Kurwald,)に色々な療養施設(テルメ他、寝ころび広場、プール、各種病院など)1832年アルミニュームを含む泉、1000mに及ぶ軸線となる園路、シダ植物が繁茂する古い樹相など、部分的に第二次大戦後、外来樹木により植林された部分或る。4000㎡の2つの池は自然系の水路で結ばれている。

  

Der Paulinenpark in Apolda –zur Landesgartenschau saniert

     Dip-LA Michael Dane  mail@dane-la.de

 PaulinenparkはApolda市での州庭園博会場の一部、市中心部の北端にあり3ha 。

1850-1930年の泡沫社会(ドイツのバブル時代)の工場地帯(繊維会社Pauline Brandesで1924年まで住居)にあった庭(Villengarten)を中心とした町。多種多様な庭、壁、石庭、花壇などなど、2014年末、検討案件がHannoverの事務所(Lohaus und Carl)に持ち込まれ設計された。都市再開発と緑地整備、それが庭園博の主要テーマである。        

 

Industriestandorte und Villengarten als grosszugige Parkanlage

Landesgartenschau Apolda – Herressener Promenade    

  Marcel Adam          Dip-Ing. Marcel Adam   info@adam-la.de

ApoldaはThuringen州4番目の州庭園博都市。24.000人が都市中心部に居住する繊維系工業都市。都市改造を余儀なくされて来ており、働き場所創出、都市再生・改造を目標に庭園博が行われている。Apolda市の庭園博のコンセプトは歴史的遺産(昔の歴史文化財的建物、構造物などの保全と工場跡地再開発)、旧市街地の景観保全と駅前通を結ぶ居住地再開発、19世紀の終わりに市美化協会の手でプロムナードと公園が整備され、20世紀の初め頃に作り直され中心部に池が設けられた。その後南部分にも池が造られ、それらを結ぶ緑地の整備(公園の外縁部の緑地計画の充実)を目標とした。庭園博会場の整備に当たって池縁辺部の自然再生化(コンクリート護岸の撤去など)、工場跡地土壌の改良など問題点を改善しながら開催に至っている。Apolda市の将来計画にこの緑地が市の緑の骨格として重要である。 

 

Anschub fur neue stadtebauliche und freiraumplanerische Ziel

Gartenschau Bad Herrenalb 2017                                Ulrike Bohm

シュバルツバルト地方のBad-Herrnalbにおける2017年の州庭園博会場。田園地区と保養地区の町として存在。州庭園博を契機に都心部を改造。Alb川の流れを挟んで景観が牧野と樹林地、都市の背後を山間部Schwalzwaldが控えている。 

Prof.Ulrike Boehm  bbzl bohm benfer zahiri landschaften stadtebau. mail@bbzl.de

コンペのテーマは緑地の保全、市街地に点在する施設の系統化、緑地で結ぶ緑地帯とこれまでの土地利用を生かした、町の姿を活かした緑を豊かにする契機とし、都市内改造に取り組んでいる。

 

Kurpark, kurpromnade und Rathausplatz

Pfaffenhofen an die Ilm                                        Barbare Hutter

Ilm川に沿った人口24.000人の町Pfaffenhofen(Kreis レベルの中心都市)での州庭園博と町造りの報告。この町は中部バイエルン州(Munchen, Ingolstadt,Augsburg市の間に位置)の(Goldmedal by international Awards for Liveable Communities)最も将来性があり活力のある都市(die lebenswertese Stadt der Welt)として表彰されている。2012年競技設計“小さな庭園博2017”での提案。名もない都市河川Ilm (緑のない過密住居、見所のない古い町、工場、護岸河川、遊歩道のない川)の街を庭園博契機に改善。 Ill河を中心として都市内の緑地整備、河川河畔の自然化(450m)と緑地整備、遊戯広場の整備を実施。ドナウ・イザール河台地(Hugelland)に位置し、イルム低地と言われる地域である。

    

Von Industriebrachen zu “Schönheit und Produltivitat”   Dr. A. Budinger

 2027年の国際庭園博をルール地方で行う。石炭と鉄鋼の工業地帯、「将来、この地域でどの様に生活すべきか」という課題の下で、IBAエムシャーパーク(1989-1999実施)とルール文化中心都市(Kulturhauptstadt Ruhr 2010)のモットーで都市改造・再生事業、同博覧会を実施してきた。ルール地方には500万人の居住者。将来像がまだ決まっていない。これまでの地域整備、都市整備でRVR(ルール開発協議会)の果たしてきた役割は極めて大きい。2027年の国際庭園博開催を既に15年前から計画し、地域整備、都市整備の目玉にしようとしている。ルール地方の緑地整備では既にしっかりした南北軸の緑地地域(緑地帯)を決め、それに沿って連邦庭園博、IBA, KHR2010が進められてきている。さらに、地域整備・発展を狙い 一大イベントを計画する意味、効果などについて解説している。

  W.Gaida   H. Fischer bundiger@rvr-online.de galda@rvr-online.de

 

新緑の裏磐梯五色沼  その3

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 「タモリ」は今を轟くお笑いタレント、司会者、キャスターなど多彩な能力を持つ有名人で、年齢は私より1歳若いが既に70歳を越えている。NHKの「ブラタモリ」は良く知られた人気番組で、彼が訪れる所で地域の特徴を的確に捉え視聴者に伝えていることで知られている。彼は日本坂道学会の副会長とのことである。「坂道」を捉えるには地形・地質条件は必須、他に自然条件としての気象、土、水、動植物と人文・歴史的事象も欠かせない。行く先々の地域の特徴、(空間的特性や人文・社会・歴史的事象)を学び、理解することは「造園家=Landscape Architect」に求められる必須の素養と能力である。とすればタモリは既にその資質を持ち合わせており、造園家(LA)であるとも言える。

 「NHKブラタモリ・磐梯山」では会津地域も含め磐梯山を対象に見て歩き「宝の山」を検証していた。この番組の中で磐梯山山体崩壊を目にし、発生のメカニズムを理解し五色沼の誕生から今の自然の美しさを鑑賞し、その成り立ちを分かりやすく報告していた。

 今回の4日間の旅は、この番組もさることながら五色沼の春の姿(景観)を探勝しようと決めてやってきた。3日目、曇り空ながら僅かに雲間から陽も射す天気。5月中旬、裏磐梯では木陰、道端にまだ雪が残っており、施設の周りの低地には除雪で捨てられた雪が山積になっていた。五色沼地区の東端に磐梯朝日国立公園裏磐梯ビジターセンター(VC)があり、同公園と公園内の自然・文化に関する多くの情報が素晴らしい展示と共に詳細に解説されていた。VC近くの低湿地ではミズバショウが花盛り、クサソテツの小さい拳形をした若芽が円く顔を出し一斉に伸び始めていた。五色沼地区には数多くの池沼があるようだが、名の付いた8つの沼(毘沙門沼、赤沼、深泥沼、竜沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼)が東西軸の自然探勝路に沿って右に左に出現する。1888年の噴火、山体崩壊により長瀬川が膨大な岩屑で堰き止められて生まれ、強酸性の水と温泉のアルカリ成分が相まって沼では青、赤などいろいろな色を見せている。五色沼自然探勝路の東端に位置する毘沙門沼は五色沼の中で最も大きく、磐梯山を背景とする青い水色の景観は代表的な風景である。毘沙門沼縁の探勝路では大小の岩石が多いが、西に進むにつれ露頭は少なくなり岩屑から成る小山が出現。途はなだらかで沼を縫うように蛇行し違った沼が出現する。赤沼は酸化鉄の付着物か赤色(鉄錆色)が目立ち、深泥沼は深さによる違いなのか違った色の沼が並んでいた。道すがら目を上に下に、植生に気をつけながら歩く。色や形が珍しかったり花をつけたりする物を写真に収め、また歩いていく。沼の名前の由来は定かでないが、多分に水の色が関係しており水に含まれる微粒子と太陽光の関係が明らかにされている(これについてもテレビ番組で水中カメラマンと福島大の先生による五色沼の水質調査、研究の報告があった)。五色沼の中でも青色が美しい弁天沼(写真参照)を展望台(道から3m高)から眺めた後、瑠璃沼、青沼を眺めながら通りすぎ、道が分かれて一つは遠藤現夢の墓碑に続いており、もう一つは探勝路終点(西の端、裏磐梯物産館)に伸びている。遠藤現夢らは噴火の犠牲者の慰霊墓を建て、荒れた台地(1340ha)にアカマツなど10万本を植林して知られているが、彼らの墓碑が建っていた。物産館隣の柳沼畔では1本だけのヤマザクラが満開であった。バスでVCの駐車場に戻り2時間弱の五色沼巡りを終え、猪苗代地区にある地元の蕎麦屋「楽人」(地場産の天婦羅、手作りソバと絵手紙で有名)でお昼にした。

 猪苗代湖は別名「天鏡湖」と謂れ、日本で第4位の広さがあり、冬季はコハクチョウなど冬鳥が渡って来る湖として有名である。その湖岸西北の高台に「天鏡閣」がある。説明の栞によれば、明治40年(1907)8月、有栖川宮威仁(たけひと親王が東北旅行中、猪苗代湖畔を巡遊され風光明媚なこの場所に別荘を建てることを決めた、とある。明治41年(1908)年、磐梯山噴火20年後の8月に竣工し、翌年(1909)、後の大正天皇嘉仁親王)の行啓時に李白の詩から取って「天鏡閣」と命名されている。有栖川宮家から高松宮家、その後に福島県に下賜され、県が邸宅を復元修復している。建物はヨーロッパのルネッサンス様式が漂う比較的小さな部屋がいくつもあり、天井も高く、各部屋には暖炉や有栖川家伝来の家具、調度品などもあり落ち着いた明治の香りが一杯である。

 有栖川威仁親王は、明治天皇に信任篤く大正天皇のご養育や海外留学の経験から外交的な役割を担うこともあった。特に海軍関係でのイギリス留学は結婚直後やその後も3年間滞在している。この青年時代の思い出が別荘の生活に現れているようにも思われる。親王妃は旧前田藩最後の藩士の娘で3人の子供を授かったが2人は夭逝、次女は結婚して皇室を離れられ、親王、同妃が亡くなって宮家は断絶し高松宮家が引き継いでいた。別荘には生前の親王、同妃の物が展示されていた。 今は森の中に静かに建つ邸も、建設された当時は邸から朝日に輝く猪苗代湖翁島、日長その雄姿を見せる磐梯山がよく見えたことであろうと思われた。

都内にある有栖川宮庭園は、江戸時代は陸奥盛岡藩の下屋敷であったところで、後に威仁親王の邸宅と庭となった所である。宮家没後20年の命日に御用地は東京市に下賜され、1975年には東京都から港区に移管され区立公園として現在に至っている。都内に残る江戸時代の大名庭園の一つとして造園を学ぶ学生には必見の庭である。最終日はゆったりと休暇村を離れ、一路東北高速道を走り自宅へ帰還した。

 裏磐梯の旅は大変印象深く自然を満喫できる所で、錦に映える磐梯山五色沼を味わうために季節を変えて秋、今一度訪れたいところとなった。

 

新緑の裏磐梯五色沼 その2

 旅で最も嬉しいことは、朝から晴れ間が広がり快適なそよ風が頬を撫でることではないだろうか。風景が一段と美しくなるばかりか心浮き浮き足取りも軽くなる。それとは真逆の、雨天では気持ちどころか体も乗らず浮かない。裏磐梯第2日目は、朝からそんな日になった。休暇村の窓ガラスを濡らす雨は風と相まって時に強く、窓外の風景を掻き消してしまう。 

 事前に立てた計画を再度練り直し、この日は近くの磐梯山噴火記念館(1998創設)を訪れ、磐梯山の噴火について勉強することにした。実の所、旅に出る前まで磐梯山とその周辺についてよく理解せず、ただ風景の美しい「裏磐梯五色沼」の名前につられて来てしまった。隣に3Dワールドなるものもあったけれどオーソドックスに記念館に決めた。折からの天候のためか来館者もあり、贅沢を言わなければ自然のジオラマもあってそれなりの展示である。磐梯山については詳しく丁寧に展示、解説され、特に1888年7月の噴火については数少ない当時の記録写真などを中心に展示されていた。磐梯山(特に裏磐梯)については、たまたまNHKの人気番組「ブラタモリ」を以前に見ており興味を持っていた。この放送の中では、歌に歌われている磐梯山とその周辺の自然・文化を「宝の山」として捉え解き明かしていた。山体崩壊、遠藤現夢は知らない名前や用語だったが、記念館でその内容を理解することが出来た。入場券を買う折に対応してくださったのは館長の佐藤氏(歴史と火山学;地形地質学の専門家)で、たしか「ブラタモリ」の案内役で出ておられたことを後になって思い出した。

 噴火時の様子を身近で正確にとらえ、以後に正しく伝えようとした人がいたことを知ったのもこの時である。その人は岩田善平という写真家である。1888年の噴火発生と共に現場に駆けつけ磐梯山崩壊やそれに伴う集落の被災状況を14枚の写真に撮り残している。岩田は喜多方出身で19世紀中頃日本に入ってきた写真に興味を持ち、下岡蓮杖(横浜)に師事しその門下生として活躍した。写真は現実をありのままに映し出し、見る人に状況を正しく伝えるツールとして最適の方法であると理解していたと思われる。

 何の苦労もなく簡単に被写体を写すことが瞬時にでき、何処へでも直ぐ送れる今のデジカメや携帯電話と違って、重くがさばるカメラと機材を運び、被写体を選び、足場の悪い現場で設営し、アングルを決め時間を要して撮り納めることを想像すると、彼の14枚の写真の価値や意味が大変大きなものであることがわかる。記録の重要性と自分の生き様の表現として写真を考えていた岩田の信条を幾分か理解することが出来た。

 記念館ではこの常設展示と同時に企画展示として東北の写真家五十嵐健一氏の風景写真展が開催されていた。時代は変わっても写真家として東北(奥会津磐梯山)の自然の持つ四季折々の美しさ儚さ、自然の作り出す形、姿の価値を自分の足で探しだし、「時間」との戦いに向き合い作品化する姿にはただただ敬服するだけである。その瞬間、すぐに形、姿を変える自然がある一方で、何十年、何百年姿を変えない自然の生業がある。その場、その時間を探し求めカメラに収める姿はある面、岩田に通じる精神、東北魂、自然に対する心を垣間見る彼の作品であった。

 

 

 

新緑の裏磐梯五色沼 その1

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 国民休暇村は国立・国定公園内に造られた宿泊施設で、四季を通じていろいろな利用に使われ人気がある。1961(昭和36)年、自然公園法に基づき国立・国定公園内に設置され野外レクリエーションの利用に供するため集団施設として整備され、公園計画に基づいて作られ、全国に37ケ所ある。今回利用した、休暇村「裏磐梯」もその一つ、磐梯朝日国立公園の中にあって磐梯山とその麓にできた五色沼湖沼群を中心に四季を通して自然を味わうのに絶好の場所である。最も人気のある季節は秋の紅葉と冬のスキー、次いで若葉の美しい春である。裏磐梯はその名の通り、磐梯山の裏(北側)に当たり、磐梯山噴火(1888)で発生した山体崩壊により生まれた五色沼と樹林地帯が見所となっている。また、道路網の整備により見どころの多い猪苗代湖畔や史跡・名所の多い会津市街、さらには吾妻山・安達太良山を中心とした吾妻連峰の山々を訪れるのは容易である。今回の旅は3泊4日で東北自動車道を利用し車で訪れた。自宅近くの東名自動車道横浜青葉ICから首都高を通り、環状6号から東北自動車道川口JCTに出た。高速道路網の整備には目を見張るものがあり、渋滞が無ければ首都東京を通り抜け常磐、東北方面に大変出やすくなった。東北自動車道で川口から郡山まで216km、郡山から猪苗代湖まで34kmで合計250km、自宅からは約280km位である。朝早く(5:00)自宅を出て東北道川口に朝6時、2度ほどSA(蓮田、那須高原)で休憩して会津市に直行した。

 東北自動車道が建設整備され、市街地では路側に防音壁が作られその壁面に絡んだ蔓植物は自然に出現したり植栽されたりしているが、その生育は良く防音壁の固い単調な景観を蔦の緑が柔らかく自然に見せている。道路沿道緑化が上手く行った好例であろう。市街地で緑がない地区では立体的な緑の壁として、また田園地区では周辺の緑景観と調和する緑の総体として役割を演じている。

 磐梯山を地図で確認すると地形的には南に猪苗代湖、北に吾妻連峰、西に会津盆地、東は中山峠を境に郡山と安達太良山が見られる。

 会津市は周囲を山々に囲まれ代表的な盆地地形の中に位置し、日光街道、若松街道、沼田街道、喜多方、米沢、山形へ通じる道路と四方に道が発達した都市である。会津鶴ヶ城は茶色の瓦の城で有名である。城内は展示と通路(上り下り)がうまく工夫されており落ち着いてじっくり見ることができた。会津藩の歴史の中でやはり江戸幕府終焉時、尊皇派(官軍)と攘夷派(旧幕府軍)の争いの中、戊辰戦争今年は戊辰戦争150年に当たる)での白虎隊の物語には多くのスペースを使って説明されている(会津戦争1868)。歴史上といえども、まだ百数十年前の出来事であり、長く会津の風土の中で培われた気概、考え方、身の処し方、生き方を示すもので、その流れは時代が変わったとはいえ現在も人々の中に脈々と流れていると感じられた。

 城を見た後、飯盛山を訪れ栄螺堂=サザエドウ(右繞三匝;右回りに三回廻る:三匝堂)を見学、建築的に大変ユニークな建物が残されていた。会津鶴ヶ城の見学通路に似て建物の中で上りと下りで人が行違わない構造になった建物である。江戸時代後期に東北から関東地方に見られた建築様式の仏堂である。螺旋構造の回廊になっており、上り下りとなった変わった造りなのである。本来は堂内に33観音や百観音が安置され、1回の参拝で33ケ寺巡りと同じご利益が得られるような利用がされていたといわれている。螺旋構造や外観がサザエに似ていることから付けられた名前で、平面は六角形、三層構造で回廊は二重螺旋構造、右回りで上り左回りで降りる形であった。説明によれば日本大学建築学科の先生が長くこれについて調査・研究されたとあり、何となく嬉しくなった。 (添付写真参照)

 会津若松市内では松平藩の御薬園(薬草園)を見学した。ここには薬草園もさることながら、心字池を中心とした池泉回遊式様式の素晴らしい庭園があり、モミの巨木や時代を経た枝ぶりの素晴らしいゴヨウマツの老木が庭に安定感をもたらしている。東に望む磐梯山系の山を借景にしていると言われ、周りを囲む樹木も大木、古木が多く庭に落ち着きと重厚感を出している。庭は1.7ha、松平藩第三代藩主松平正容が1696年に目黒淨定、普請奉行辰野源左衛門に造らせた江戸期の大名庭園(池泉回遊式)である。目黒淨定は小堀遠州の流れをくむ庭匠であるといわれており、心字池と楽寿亭のある中島、女滝さらには園路の野筋、水際からの岸の立ち上がりの鋭さが立体感あふれる庭となっており、垂直軸(縦方向)に力強さを表している。その形、全体の雰囲気から国指定の名勝(昭和7年;1932指定)としてふさわしく大変感激した。

  会津といえば白虎隊がつとに有名であり、それに関連する場所として飯盛山がある。その折の戦いで若い隊士たちが飯盛山から鶴ヶ城が炎上、落城する光景を見、遂に事ここに至ったと思い若き命を自ら断ったことで知られているが、事実は、そのまま生きて城に戻り捕まって生き恥をかくことを潔しとせず「生き延びることは武士の本分ではない、と自刃に及んだとされている。いずれにしても19名の若き士はじめ、200名余の婦女子や戦を通して多くの人が亡くなり江戸時代が終わりを告げ、大政奉還に向かい新しい時代が開いていったのである。この、国を二分するような戦の捉え方は、それから明治、大正、昭和と続く150年余の間に、世界を相手に戦いに出ていかざるを得なかったこの国の戦いのことを考えると、いろいろ考えさせられる点が多い。現在は、鎖国の江戸時代とは異なった状態で70年も戦がない時代になっている。 

 会津から休暇村への帰途、県道を山越えして猪苗代湖畔にある野口英世記念館に立ち寄った。この記念館には野口英世の生家が移築復元され、記念館の建物に保護されて建っている。世界を股にかけて活躍した野口英世とそれを支えた人達、若き英世を女手一つで育てた母、東京に出て勉強をすることを勧めた人(小林栄)、海外留学生活や研究を長く支援した人(血脇守之助)、それに応えた英世、時代背景と世界情勢、科学・医学の進歩、科学的探究の深まりとそれを捉える技術的限界と真実の間、科学的探究の世界的競争と実験的検証の重要性、人間の生き方と家族など。考えさせられることが大変に多い記念館見学となった。

野口英世の生い立ちから亡くなるまでの歩みを調べて、新たに知ったことに驚きながら学者、研究者の生き方に敬服の念を抱きながら、一方で人間臭い野口英世(清作)に安心したのも事実である。

 一日目の会津・猪苗代訪問で改めて歴史を見直すこととなり、戊辰戦争官軍の将に長州出身の板垣退助がいたこと、白虎隊慰霊碑との関係でローマ・ポンペイの遺跡の石柱やムッソリーニの名前が出ること、白虎隊の士の中にソニーの生みの親、井深大氏の先祖(祖父:井深基)が二人いることなど、今まで殆ど知らなかった事実を知る旅となった。

 

東海道五十三次  今・昔  その九

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 風薫る5月の旧東海道上洛、箱根を越えるまでは自宅から通いの街道上りでしたが、箱根を越えて「通い」は無理、今回の歩きは宿泊型にしました。3泊4日を基本にプラニングし、事前に宿泊先を予約して計画に沿って歩くスタイルです。凡そ1日20-22kmを基本として中都市での宿泊で計画しました。元箱根から沼津、沼津~吉原、吉原~由比、そして4日目は由比から静岡(府中)迄です。「その八」までに由比に入り宿場を見学した記事を書きましたが、いよいよ今回が最終日、折から真夏と間違えるほどの快晴・暑い日になりました。例によって朝は早発ち、7:30には割烹民宿旅館の女将さんの見送りを受け出発。朝未だ早く店の閉まった由比の宿場街を通過しました。JR由比駅近くから街道は山の手に入ります。これが旧東海道かと見紛うような農道(果樹園の維持管理道)の上りが続きました。山が海に迫り出すような地形、急斜面での換金作物は柑橘類を中心とした果樹か、僅かばかりの野菜の他無いと思いました。これまでの農家の人が長年苦労して作り上げた果樹園には、琵琶、甘夏ミカンが中心に植えられています。丁度甘夏ミカンの収穫時期になっており、農家の人が収穫していました。急斜面での作業のため畑近くまでは軽トラで行きますが傾斜畑の中での収穫、収穫物の搬出は重労働で、急斜面を上り下りしなければなりません。簡易ケーブル線を果樹園に敷設して収穫した果樹を籠に詰め、ミニトロッコ列車よろしく樹園内から運び出して収穫していました。それでも木になっている果樹をもぎ取り、ショイコに入れてトロッコ籠まで運ばなければなりません。気温が上昇すれば大変な重労働で、後継者の問題、高齢化による果樹園の維持、管理は大変だろうと想像しました。甘夏と並んで栽培されている果樹はビワでした。江戸時代の参勤交代の副産物でしょうか全国での色々な産物が、それぞれの土地に紹介され全国のニュース(情報)が武士や一般の人々の移動によりもたらされたとしても何の不思議もありません。この由比地区で栽培されている品種、「田中」は1879年東京本郷の男爵、田中芳男氏が育てた品種のようですが、元は唐ビワの実生から生まれた「楠」と同様九州で栽培されていたものをこの地に広めたとありました。ちょうど訪れた時は、昨年花芽を付けた実が色づき始め大きくなる頃です。この時期大変な重労働がビワにもあります。それは果実の「袋掛け」です。枝先にたくさん付ける実の中で売り物になる大きさ、形のものに袋を掛け病害虫から守ることです。2~2.5mの木になる実の一つずつに袋を掛ける作業は想像を絶します。4ー5cm大の大粒のビワが店で1個100円近くなるのは、栽培経過を考えれば首肯できます。

 斜面いっぱいに広がる果樹園の中を旧街道は進み、山腹中ほどに、あの東海道53次の浮世絵で有名な「薩垂峠」の景観が突然出現しました。今ではこの狭い海沿いの平坦地にJR線、国道、東名道が集中し、ひとたび高潮でも来ようものならすべての交通機関がマヒするというような場所です。景観的には素晴らしく駿河湾三保の松原砂嘴)遠く伊豆半島、そして富士山、とあの浮世絵に表された景観をディフォルメした風景が目の前にありました。運悪く快晴にも拘わらず、富士山は裾野と頂上を雲に隠し浮かび上がってはいませんでした。暫く雲の動きを見ながら待ちましたが先を急ぐこともあり、後ろ髪をひかれる思いで泣く泣く後にしました。薩垂峠越えには3本(上、中、下)の道があるようで上道を通りました。上道は最も長くビワの果樹園を迂回するように山を一回り。途中、良心市で買ったビワを食べながらビワ農家の老人と話をしましたが、美味しいビワはその老人の作品でした。作っても実ると直ぐにカラスに食べられて困る、と話していました。初物で大きさは不ぞろいでしたが味は瑞々しく大変美味しかったです。

 峠を降りてきて辿りついたのが興津宿。およそ5-6kmの一本筋の宿場町でした。当時は本陣2、脇本陣2、旅籠34軒あり興津川、薩垂峠、身延山甲州路など難所近くでしかも交通の要所、大いに賑わった宿と言われています。今は静かな街道の佇まいと古い建物が残された街でした。ここで最も注目されるのは西園寺公望の別荘;坐漁荘清見寺ではないでしょうか。その昔、家康が今川氏の人質であった幼少時、この寺で過ごしていますし、秀吉が小田原(北条氏)に向かう途上、ここに宿泊したと言われています。坐漁荘は宿場の最も京都寄りに位置し清見潟に面し、後ろに奈良時代に創建された清見寺を擁しています。西園寺公望の別荘で1919年、公望70歳になった年に建てられたとあります。西園寺公望は、1849年に京都で右大臣徳大寺公純次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代、自由主義の政治家で活躍した元老です。70歳になるまで我が国の政治で極めて重要な役割を果たし、海外留学を通して世界的な視野と活動をし、政治のみならず教育・文化でも多くの功績を残しています。70歳を越えてもその見識は万人の認める所で多くの政治家が「興津詣」で訪れ、静かな晩年とはいかなかったようです。昭和15年11月24日90歳、この別荘で亡くなり国葬が営まれています。当時は風光明媚、潮騒が聞こえる海辺の別荘でしたが、主亡き後、時代の移り変わりに伴い次第に衆目を集めることなく忘れられ、近年になり古くなった建物などオリジナルは明治村に移築されていますが、同じ形で復元され現在に至っています。

 興津から江尻(現在の清水市)までは5km、海辺の国道1号線です。清水市内から分かれて旧東海道は巴川を渡り県道407号線を西に、昔チャンバラ映画で見た清水次郎長一家と都鳥、森の石松の話にでる都鳥(都田吉兵衛)の供養塔を見て時代を想い、次郎長(本名;山本長五郎、三保や富士山ろくの開墾、開拓や巴川の架橋建設に尽力)の功績を感じながら先を急ぎました。

草薙駅前からの旧街道は分岐点が分かり難く東名高速道高架を過ぎるまで県道を歩いていました。さらに街道がJR東海道本線と交差していたところには記念碑が建てられていますが、地下道で反対側に渡った先が、これまた分かり難く道を探すのに一苦労しました。ここから静岡中心街までは静岡鉄道、国道1号線、JR線と平行したり交差したりして終点が見えている中、なかなか到達しない状態で今回の歩きの終焉を迎えました。時に夕方4:30、歩行距離は24.4km、歩数は42.820歩に達していました。4日に亘る歩き旅の区間を、新幹線に揺られて僅か1時間で新横浜に降り立ちました。江戸時代では夢の夢物語です。(添付写真は坐漁荘入口)

東海道五十三次 今・昔 その七

 旅の俳人松尾芭蕉奥の細道の旅へ出発した日は5月16日だったようで、この日は「旅の日」になっています。期しくも私の旧東海道歩き旅、第7回目の出発もこの日になりました。第6回目同様、早朝一番電車で柿生駅を出発、小田急線湯本で6:57発のバスに乗り元箱根を目指しました。前回の最終地点、芦ノ湖畔の元箱根まで40分、7:45分に箱根関所の京口から歩き始めました。毎年恒例箱根駅伝の初日終点前の交差点を横切り、芦川入口から旧道に入り山道になりました。杉並木の石畳が残り、箱根で最も古い(1658)庚申塔と石仏群が迎えてくれ、いよいよここから箱根峠まで向坂、赤石坂、挟石坂と急坂の上りが続き、最後は階段でした。少し国道を歩き峠を越えれば、遂に相模の国から伊豆の国。峠から三島までを「箱根西坂」と言い、長い長い下りの坂道になります。

 この西坂入口には箱根旧街道と表示された冠門(写真参照)があり、その近くには8人の文人がデザインした石地蔵が並んでいました(峠の地蔵)。どこまでも続く長い下りの坂道、道端は2mにも及ぶハコネザサが茂り、その中に八里記念碑(井上靖)がありました(8:30)。旧街道西坂は蛇行する国道1号線と対照的にほぼ直線的に西に伸びています。下り坂の先には常に三島や駿河湾が見え隠れ、箱根外輪山南西斜面は函南町、長く南西に伸び広がっています。石原坂、大枯木坂の石畳、突然農家の軒先に出ましたが続けて坂道を下ります。小枯木坂は常緑のアカガシが石畳道の頭上を覆っており、新しく若葉が出るこの時期、それに合わせて古い葉を路一面沢山降り落としていました(9:30)。山中城跡を過ぎ、司馬遼太郎の八里記念碑を横目に石畳を下りました。

 函南町、箱根外輪山南西山地はいつごろから新田開発(畑地)されてきているのでしょうか。旧街道沿いの斜面鞍部には広い面積の畑が連なっています。野菜中心に多品目が栽培され旧道もその作業道になったりしていました。南向きの斜面で日当たりも良く土壌も畑作に適しているのでしょう。辺りの二次林・雑木林とモザイク状に景観をなしています。芭蕉の句碑のある山中新田地区は旧街道の整備のため一部通行止になっており、やむなく国道1号線の脇をビクビクしながら笹原新田まで歩くことになりました(ここまで3時間経過:10:30)。

 坂道はさらに続いて、上長坂、こわめし坂(三ツ谷新田)、小時雨坂、大時雨坂を下り市山新田地区へ、臼転坂から塚原新田で東名高速道の上を通過しやっと、本当にやっと市街地近くの住宅地・初音台(昔は谷田村)に入りました。初音台地区には初音ケ原旧東海道の松並木(写真参照)が歩道として上手く残っており、国道と平行し土手の上やや高見で上手く整備されていました。国府津八幡村地区と同様、美しい松並木の旧街道として残されています。三島市に入り暴れ川の大場川を越え、市内に入り伊豆の国一の宮三嶋大社に参拝、旅の無事を祈り絵馬を買いました(12:30)。

 境内のキンモクセイは国の天然記念物(樹齢1200年と言われている)に指定されていますが近年樹勢が一段と弱くなっているようで養生が大変、若木も植えられています。三島は富士山の伏流水が豊富で市内各所で自噴していますが、地下水低下の危機もあり自噴水池が美しい楽壽園やいかに、と心配し農業用水としても使われている清らかな源兵衛川の流れを横目で見ながら通過しました。三島から沼津までは平坦で県道145号、380号線、伊豆の国駿河の国の境には秋葉神社があり、境内にはムクノキの巨木(樹齢300年)が見下ろしていました。この先、旧伏見村玉井寺と宝池寺には「伏見の一里塚」が道の両サイドに残されており、日本橋より29里(116km、実際歩いた感じでは、もっと200km以上)です。

八幡村八幡神社境内の奥には石が2個並んでいました。これは対面石といわれ1180(治承4年)源頼朝が挙兵した折、義経が東北から駆け付け、この地で兄弟が座って対面したことに由来するとされています。狩野川の流れる水音が聞こえて沼津市内に到着、一日目の歩きが終了しました。この日歩いた歩数は、39.587歩、18.4kmでした。

 

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(左上)箱根峠の冠門にて (左下)薩垂峠  (右上)三嶋初音ヶ原の松並木 (右下)由比の宿場街並

東海道五十三次 今・昔  その八

 第二日目は、沼津から吉原(16.4km)です。ビジネスホテル近くの喫茶店でモーニング朝食し、7:30に吉原目指して出発。昨日歩きを終えた沼津廓通りから宿場本陣跡を雁行し、西に進路を取りました。ここから先は左手駿河湾に面した千本松原をすぐ近くに見据え、かっての砂丘上に連なった集落や街を繋いで進みます。海抜5-8mの丘。大井川や富士川の河口に流れ着く土砂を駿河湾の海流が北、北東に押し寄せ海浜や砂浜、砂丘台地を形成、焼津、静岡、清水、由比、蒲原、吉原、原、沼津の沿岸都市(海辺の宿場)を形成したことがわかります。沼津からは県道163号線が旧街道で、道の両側の家並から松林が見え隠れしています。しかし、松林の向こうには高さ10mにも及ぶほどの防波堤(防潮堤)が築かれ海や浜は見えません。心地よい海風だけが、とぼとぼ歩く私を撫でてくれます。

 昔からの神社仏閣、碑、道祖神などを頼りに旧街道を歩き、宿場では東木戸、宿場跡(本陣、脇本陣など)、西木戸(見附)跡を見て往時を振り返り先を急ぎました。この日の区間は海側から松林、旧街道、今の東海道線、国道1号線が並行しており、その間は住宅や田畑、水田になっています。国道1号線より内陸部は水田中心の農地、その先山麓からは果樹園やお茶畑が繋がっています。富士山手前の愛鷹山低地斜面はお茶の栽培に適しており、山裾から延びています。街道と山塊麓の間は昔は低湿地で、江戸時代から新田開発(開墾、干拓)がすすめられ米の栽培が続けられてきました。それを物語る碑や記念碑(浅間愛鷹神社、桜地蔵尊、増田平四郎碑、地名の桃里など)が道すがらに建てられています。

 千本松原の海浜は日大造園研とは浅からぬ因縁があります。昔、葉山先生と研究対象地に考えたことがあったり、葉山先生が調査に入られたりしました。最近では大学院生の新井さんが修論の研究テーマで海浜に育ち生育地が狭まり希少種になっているカワラナデシコの生態的研究を進め論文にまとめました。旧街道から少し外れ浜に出て、思い出深い、小高い砂溜りでお昼、海を眺めながら途中で買ったおにぎりとお茶でゆったりとハイキング、と思いきや突然、老年の浮浪者(野宿生活者)が近づいてきて小銭を所望されてしまいました。上空からは鳶が狙っているなど思ったより落ち着かない昼時になってしまいました。

 有名な万葉歌人の和歌に歌われた田子の浦を眺めながら助兵衛新田、植田、柏原、田原、沼田、植田、田中、桧、大野新田などを通り吉原の宿に辿りつき、駅前のビジネス旅館に入りました。 

 第三日目は、吉原から蒲原を通って由比まで20kmでした。吉原宿は、物の本によれば地震津波の被害によって3度宿場が変わったとあります(元吉原から1616年地震津波で中吉原へ、1680年の大津波で現在の地へ)。街道を歩いてみると道が内陸部へ大きく迂回しています。6年前の東北大震災が偶然でなく歴史的には必然のごとく、日本では歴史的に各地で幾多の地震津波の被害を受け、また立ち上がってきていることを改めて認識しました。元吉原から今の吉原宿の間に旧東海道上洛で街道から左手に富士を見る唯一の場所があり、広重の浮世絵にも左富士として描かれています。名残の松(広場)や馬頭観世音碑で確認しながら朝早くの通勤者をしり目に歩を進めていきました。宿場の店舗は早朝のため、どこも開いておらず有名な鯛屋旅館も閉まっており、シャッターの降りた街を通り過ぎました。県道396号に出て再び西に向きを変え、JR富士駅を尻目に富士川目指しました。川側に水神社があり、道標、常夜燈(1818建立)、渡船場跡碑が建っていました。富士川橋は中景に東名高速道の富士サービスエリアが見られ、その背後は山が迫っています。富士川を渡った岩淵地区はすぐ後ろに山が迫り、今はすぐ上の段を東名高速道が走っていますが、岩淵村は昔、駿河甲州路(また富士川の船運)の中継地で宿場も栄えたとあります。街道筋の街並みも黒塀の旧家があり、古い巨木の庭木や秋葉神社の常夜燈が雰囲気を残していました。東名の下を通り抜け、新幹線の下を潜って再び東名道を架橋で渡り、坂を下って蒲原の宿に辿りつきました。蒲原の宿の江戸側東木戸の前に一里塚があり、日本橋より38里(152km)を示しています。蒲原は昔は神原と言われ富士川の渡りを控える宿場で賑わったとありますが、この宿も1699年の地震・大津波に襲われ海辺から今の地に移っています。山地が海に迫り狭い平地にバイパス道、JR線、県道、旧道、東名道が並んで位置します。でも街道に連なる落ち着いた宿場街の様子がよく残っていました。背後の山地は上部が樹林地で常緑のシイ、カシ林、その若葉の小緑色の美しさと裏腹に、丁度開花時期で独特の匂いが風に運ばれて漂っていました。すぐ隣は由比の町、駿河湾の自然の恵み、丁度旬で、採れたての「桜エビとシラス」を宣伝する旗が風に靡いていました。お昼は、もちろん桜エビ、洒落た新しいレストランで「桜海老パスタ」を食しました。この日の宿は由比川の袂にある老舗の割烹民宿「玉鉾」。ここでも期待に沿って女将の心のこもった料理「桜エビづくし」を堪能できました。

 由比の宿(写真参照)には①正雪紺屋、②広重美術館、③お七里役所跡があり、じっくり時間を掛けて見学しました。紺屋は創業400年で由比正雪の生家といわれ、今も藍染甕が店先に残されています。手拭いを一本買い求めました。広重美術館は正式名称は静岡市東海道広重美術館で、広重の浮世絵はもとより丁度「浮世絵と広告」の企画展開催中、五十三次の浮世絵と同時に江戸時代の浮世絵広告を見ることが出来ました。ここで五十三次の浮世絵に出会えるとは予想していなかったので大変うれしく感動しました。お七里役所とは紀州家が幕府の動向を知るために七里ごとの宿場に連絡所を設けて健脚で腕と弁舌に長けた「お七里衆」を置いた場所と言われています。

 この日の20kmでの歩数は33.600歩となっていました。7:30~15:30、8時間労働でした。早めに風呂に入り、一眠りして大相撲を見て夕食に舌鼓を打ち堪能し、心地よい眠りにつきました。