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水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その九

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 風薫る5月の旧東海道上洛、箱根を越えるまでは自宅から通いの街道上りでしたが、箱根を越えて「通い」は無理、今回の歩きは宿泊型にしました。3泊4日を基本にプラニングし、事前に宿泊先を予約して計画に沿って歩くスタイルです。凡そ1日20-22kmを基本として中都市での宿泊で計画しました。元箱根から沼津、沼津~吉原、吉原~由比、そして4日目は由比から静岡(府中)迄です。「その八」までに由比に入り宿場を見学した記事を書きましたが、いよいよ今回が最終日、折から真夏と間違えるほどの快晴・暑い日になりました。例によって朝は早発ち、7:30には割烹民宿旅館の女将さんの見送りを受け出発。朝未だ早く店の閉まった由比の宿場街を通過しました。JR由比駅近くから街道は山の手に入ります。これが旧東海道かと見紛うような農道(果樹園の維持管理道)の上りが続きました。山が海に迫り出すような地形、急斜面での換金作物は柑橘類を中心とした果樹か、僅かばかりの野菜の他無いと思いました。これまでの農家の人が長年苦労して作り上げた果樹園には、琵琶、甘夏ミカンが中心に植えられています。丁度甘夏ミカンの収穫時期になっており、農家の人が収穫していました。急斜面での作業のため畑近くまでは軽トラで行きますが傾斜畑の中での収穫、収穫物の搬出は重労働で、急斜面を上り下りしなければなりません。簡易ケーブル線を果樹園に敷設して収穫した果樹を籠に詰め、ミニトロッコ列車よろしく樹園内から運び出して収穫していました。それでも木になっている果樹をもぎ取り、ショイコに入れてトロッコ籠まで運ばなければなりません。気温が上昇すれば大変な重労働で、後継者の問題、高齢化による果樹園の維持、管理は大変だろうと想像しました。甘夏と並んで栽培されている果樹はビワでした。江戸時代の参勤交代の副産物でしょうか全国での色々な産物が、それぞれの土地に紹介され全国のニュース(情報)が武士や一般の人々の移動によりもたらされたとしても何の不思議もありません。この由比地区で栽培されている品種、「田中」は1879年東京本郷の男爵、田中芳男氏が育てた品種のようですが、元は唐ビワの実生から生まれた「楠」と同様九州で栽培されていたものをこの地に広めたとありました。ちょうど訪れた時は、昨年花芽を付けた実が色づき始め大きくなる頃です。この時期大変な重労働がビワにもあります。それは果実の「袋掛け」です。枝先にたくさん付ける実の中で売り物になる大きさ、形のものに袋を掛け病害虫から守ることです。2~2.5mの木になる実の一つずつに袋を掛ける作業は想像を絶します。4ー5cm大の大粒のビワが店で1個100円近くなるのは、栽培経過を考えれば首肯できます。

 斜面いっぱいに広がる果樹園の中を旧街道は進み、山腹中ほどに、あの東海道53次の浮世絵で有名な「薩垂峠」の景観が突然出現しました。今ではこの狭い海沿いの平坦地にJR線、国道、東名道が集中し、ひとたび高潮でも来ようものならすべての交通機関がマヒするというような場所です。景観的には素晴らしく駿河湾三保の松原砂嘴)遠く伊豆半島、そして富士山、とあの浮世絵に表された景観をディフォルメした風景が目の前にありました。運悪く快晴にも拘わらず、富士山は裾野と頂上を雲に隠し浮かび上がってはいませんでした。暫く雲の動きを見ながら待ちましたが先を急ぐこともあり、後ろ髪をひかれる思いで泣く泣く後にしました。薩垂峠越えには3本(上、中、下)の道があるようで上道を通りました。上道は最も長くビワの果樹園を迂回するように山を一回り。途中、良心市で買ったビワを食べながらビワ農家の老人と話をしましたが、美味しいビワはその老人の作品でした。作っても実ると直ぐにカラスに食べられて困る、と話していました。初物で大きさは不ぞろいでしたが味は瑞々しく大変美味しかったです。

 峠を降りてきて辿りついたのが興津宿。およそ5-6kmの一本筋の宿場町でした。当時は本陣2、脇本陣2、旅籠34軒あり興津川、薩垂峠、身延山甲州路など難所近くでしかも交通の要所、大いに賑わった宿と言われています。今は静かな街道の佇まいと古い建物が残された街でした。ここで最も注目されるのは西園寺公望の別荘;坐漁荘清見寺ではないでしょうか。その昔、家康が今川氏の人質であった幼少時、この寺で過ごしていますし、秀吉が小田原(北条氏)に向かう途上、ここに宿泊したと言われています。坐漁荘は宿場の最も京都寄りに位置し清見潟に面し、後ろに奈良時代に創建された清見寺を擁しています。西園寺公望の別荘で1919年、公望70歳になった年に建てられたとあります。西園寺公望は、1849年に京都で右大臣徳大寺公純次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代、自由主義の政治家で活躍した元老です。70歳になるまで我が国の政治で極めて重要な役割を果たし、海外留学を通して世界的な視野と活動をし、政治のみならず教育・文化でも多くの功績を残しています。70歳を越えてもその見識は万人の認める所で多くの政治家が「興津詣」で訪れ、静かな晩年とはいかなかったようです。昭和15年11月24日90歳、この別荘で亡くなり国葬が営まれています。当時は風光明媚、潮騒が聞こえる海辺の別荘でしたが、主亡き後、時代の移り変わりに伴い次第に衆目を集めることなく忘れられ、近年になり古くなった建物などオリジナルは明治村に移築されていますが、同じ形で復元され現在に至っています。

 興津から江尻(現在の清水市)までは5km、海辺の国道1号線です。清水市内から分かれて旧東海道は巴川を渡り県道407号線を西に、昔チャンバラ映画で見た清水次郎長一家と都鳥、森の石松の話にでる都鳥(都田吉兵衛)の供養塔を見て時代を想い、次郎長(本名;山本長五郎、三保や富士山ろくの開墾、開拓や巴川の架橋建設に尽力)の功績を感じながら先を急ぎました。

草薙駅前からの旧街道は分岐点が分かり難く東名高速道高架を過ぎるまで県道を歩いていました。さらに街道がJR東海道本線と交差していたところには記念碑が建てられていますが、地下道で反対側に渡った先が、これまた分かり難く道を探すのに一苦労しました。ここから静岡中心街までは静岡鉄道、国道1号線、JR線と平行したり交差したりして終点が見えている中、なかなか到達しない状態で今回の歩きの終焉を迎えました。時に夕方4:30、歩行距離は24.4km、歩数は42.820歩に達していました。4日に亘る歩き旅の区間を、新幹線に揺られて僅か1時間で新横浜に降り立ちました。江戸時代では夢の夢物語です。(添付写真は坐漁荘入口)

東海道五十三次 今・昔 その七

 旅の俳人松尾芭蕉奥の細道の旅へ出発した日は5月16日だったようで、この日は「旅の日」になっています。期しくも私の旧東海道歩き旅、第7回目の出発もこの日になりました。第6回目同様、早朝一番電車で柿生駅を出発、小田急線湯本で6:57発のバスに乗り元箱根を目指しました。前回の最終地点、芦ノ湖畔の元箱根まで40分、7:45分に箱根関所の京口から歩き始めました。毎年恒例箱根駅伝の初日終点前の交差点を横切り、芦川入口から旧道に入り山道になりました。杉並木の石畳が残り、箱根で最も古い(1658)庚申塔と石仏群が迎えてくれ、いよいよここから箱根峠まで向坂、赤石坂、挟石坂と急坂の上りが続き、最後は階段でした。少し国道を歩き峠を越えれば、遂に相模の国から伊豆の国。峠から三島までを「箱根西坂」と言い、長い長い下りの坂道になります。

 この西坂入口には箱根旧街道と表示された冠門(写真参照)があり、その近くには8人の文人がデザインした石地蔵が並んでいました(峠の地蔵)。どこまでも続く長い下りの坂道、道端は2mにも及ぶハコネザサが茂り、その中に八里記念碑(井上靖)がありました(8:30)。旧街道西坂は蛇行する国道1号線と対照的にほぼ直線的に西に伸びています。下り坂の先には常に三島や駿河湾が見え隠れ、箱根外輪山南西斜面は函南町、長く南西に伸び広がっています。石原坂、大枯木坂の石畳、突然農家の軒先に出ましたが続けて坂道を下ります。小枯木坂は常緑のアカガシが石畳道の頭上を覆っており、新しく若葉が出るこの時期、それに合わせて古い葉を路一面沢山降り落としていました(9:30)。山中城跡を過ぎ、司馬遼太郎の八里記念碑を横目に石畳を下りました。

 函南町、箱根外輪山南西山地はいつごろから新田開発(畑地)されてきているのでしょうか。旧街道沿いの斜面鞍部には広い面積の畑が連なっています。野菜中心に多品目が栽培され旧道もその作業道になったりしていました。南向きの斜面で日当たりも良く土壌も畑作に適しているのでしょう。辺りの二次林・雑木林とモザイク状に景観をなしています。芭蕉の句碑のある山中新田地区は旧街道の整備のため一部通行止になっており、やむなく国道1号線の脇をビクビクしながら笹原新田まで歩くことになりました(ここまで3時間経過:10:30)。

 坂道はさらに続いて、上長坂、こわめし坂(三ツ谷新田)、小時雨坂、大時雨坂を下り市山新田地区へ、臼転坂から塚原新田で東名高速道の上を通過しやっと、本当にやっと市街地近くの住宅地・初音台(昔は谷田村)に入りました。初音台地区には初音ケ原旧東海道の松並木(写真参照)が歩道として上手く残っており、国道と平行し土手の上やや高見で上手く整備されていました。国府津八幡村地区と同様、美しい松並木の旧街道として残されています。三島市に入り暴れ川の大場川を越え、市内に入り伊豆の国一の宮三嶋大社に参拝、旅の無事を祈り絵馬を買いました(12:30)。

 境内のキンモクセイは国の天然記念物(樹齢1200年と言われている)に指定されていますが近年樹勢が一段と弱くなっているようで養生が大変、若木も植えられています。三島は富士山の伏流水が豊富で市内各所で自噴していますが、地下水低下の危機もあり自噴水池が美しい楽壽園やいかに、と心配し農業用水としても使われている清らかな源兵衛川の流れを横目で見ながら通過しました。三島から沼津までは平坦で県道145号、380号線、伊豆の国駿河の国の境には秋葉神社があり、境内にはムクノキの巨木(樹齢300年)が見下ろしていました。この先、旧伏見村玉井寺と宝池寺には「伏見の一里塚」が道の両サイドに残されており、日本橋より29里(116km、実際歩いた感じでは、もっと200km以上)です。

八幡村八幡神社境内の奥には石が2個並んでいました。これは対面石といわれ1180(治承4年)源頼朝が挙兵した折、義経が東北から駆け付け、この地で兄弟が座って対面したことに由来するとされています。狩野川の流れる水音が聞こえて沼津市内に到着、一日目の歩きが終了しました。この日歩いた歩数は、39.587歩、18.4kmでした。

 

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(左上)箱根峠の冠門にて (左下)薩垂峠  (右上)三嶋初音ヶ原の松並木 (右下)由比の宿場街並

東海道五十三次 今・昔  その八

 第二日目は、沼津から吉原(16.4km)です。ビジネスホテル近くの喫茶店でモーニング朝食し、7:30に吉原目指して出発。昨日歩きを終えた沼津廓通りから宿場本陣跡を雁行し、西に進路を取りました。ここから先は左手駿河湾に面した千本松原をすぐ近くに見据え、かっての砂丘上に連なった集落や街を繋いで進みます。海抜5-8mの丘。大井川や富士川の河口に流れ着く土砂を駿河湾の海流が北、北東に押し寄せ海浜や砂浜、砂丘台地を形成、焼津、静岡、清水、由比、蒲原、吉原、原、沼津の沿岸都市(海辺の宿場)を形成したことがわかります。沼津からは県道163号線が旧街道で、道の両側の家並から松林が見え隠れしています。しかし、松林の向こうには高さ10mにも及ぶほどの防波堤(防潮堤)が築かれ海や浜は見えません。心地よい海風だけが、とぼとぼ歩く私を撫でてくれます。

 昔からの神社仏閣、碑、道祖神などを頼りに旧街道を歩き、宿場では東木戸、宿場跡(本陣、脇本陣など)、西木戸(見附)跡を見て往時を振り返り先を急ぎました。この日の区間は海側から松林、旧街道、今の東海道線、国道1号線が並行しており、その間は住宅や田畑、水田になっています。国道1号線より内陸部は水田中心の農地、その先山麓からは果樹園やお茶畑が繋がっています。富士山手前の愛鷹山低地斜面はお茶の栽培に適しており、山裾から延びています。街道と山塊麓の間は昔は低湿地で、江戸時代から新田開発(開墾、干拓)がすすめられ米の栽培が続けられてきました。それを物語る碑や記念碑(浅間愛鷹神社、桜地蔵尊、増田平四郎碑、地名の桃里など)が道すがらに建てられています。

 千本松原の海浜は日大造園研とは浅からぬ因縁があります。昔、葉山先生と研究対象地に考えたことがあったり、葉山先生が調査に入られたりしました。最近では大学院生の新井さんが修論の研究テーマで海浜に育ち生育地が狭まり希少種になっているカワラナデシコの生態的研究を進め論文にまとめました。旧街道から少し外れ浜に出て、思い出深い、小高い砂溜りでお昼、海を眺めながら途中で買ったおにぎりとお茶でゆったりとハイキング、と思いきや突然、老年の浮浪者(野宿生活者)が近づいてきて小銭を所望されてしまいました。上空からは鳶が狙っているなど思ったより落ち着かない昼時になってしまいました。

 有名な万葉歌人の和歌に歌われた田子の浦を眺めながら助兵衛新田、植田、柏原、田原、沼田、植田、田中、桧、大野新田などを通り吉原の宿に辿りつき、駅前のビジネス旅館に入りました。 

 第三日目は、吉原から蒲原を通って由比まで20kmでした。吉原宿は、物の本によれば地震津波の被害によって3度宿場が変わったとあります(元吉原から1616年地震津波で中吉原へ、1680年の大津波で現在の地へ)。街道を歩いてみると道が内陸部へ大きく迂回しています。6年前の東北大震災が偶然でなく歴史的には必然のごとく、日本では歴史的に各地で幾多の地震津波の被害を受け、また立ち上がってきていることを改めて認識しました。元吉原から今の吉原宿の間に旧東海道上洛で街道から左手に富士を見る唯一の場所があり、広重の浮世絵にも左富士として描かれています。名残の松(広場)や馬頭観世音碑で確認しながら朝早くの通勤者をしり目に歩を進めていきました。宿場の店舗は早朝のため、どこも開いておらず有名な鯛屋旅館も閉まっており、シャッターの降りた街を通り過ぎました。県道396号に出て再び西に向きを変え、JR富士駅を尻目に富士川目指しました。川側に水神社があり、道標、常夜燈(1818建立)、渡船場跡碑が建っていました。富士川橋は中景に東名高速道の富士サービスエリアが見られ、その背後は山が迫っています。富士川を渡った岩淵地区はすぐ後ろに山が迫り、今はすぐ上の段を東名高速道が走っていますが、岩淵村は昔、駿河甲州路(また富士川の船運)の中継地で宿場も栄えたとあります。街道筋の街並みも黒塀の旧家があり、古い巨木の庭木や秋葉神社の常夜燈が雰囲気を残していました。東名の下を通り抜け、新幹線の下を潜って再び東名道を架橋で渡り、坂を下って蒲原の宿に辿りつきました。蒲原の宿の江戸側東木戸の前に一里塚があり、日本橋より38里(152km)を示しています。蒲原は昔は神原と言われ富士川の渡りを控える宿場で賑わったとありますが、この宿も1699年の地震・大津波に襲われ海辺から今の地に移っています。山地が海に迫り狭い平地にバイパス道、JR線、県道、旧道、東名道が並んで位置します。でも街道に連なる落ち着いた宿場街の様子がよく残っていました。背後の山地は上部が樹林地で常緑のシイ、カシ林、その若葉の小緑色の美しさと裏腹に、丁度開花時期で独特の匂いが風に運ばれて漂っていました。すぐ隣は由比の町、駿河湾の自然の恵み、丁度旬で、採れたての「桜エビとシラス」を宣伝する旗が風に靡いていました。お昼は、もちろん桜エビ、洒落た新しいレストランで「桜海老パスタ」を食しました。この日の宿は由比川の袂にある老舗の割烹民宿「玉鉾」。ここでも期待に沿って女将の心のこもった料理「桜エビづくし」を堪能できました。

 由比の宿(写真参照)には①正雪紺屋、②広重美術館、③お七里役所跡があり、じっくり時間を掛けて見学しました。紺屋は創業400年で由比正雪の生家といわれ、今も藍染甕が店先に残されています。手拭いを一本買い求めました。広重美術館は正式名称は静岡市東海道広重美術館で、広重の浮世絵はもとより丁度「浮世絵と広告」の企画展開催中、五十三次の浮世絵と同時に江戸時代の浮世絵広告を見ることが出来ました。ここで五十三次の浮世絵に出会えるとは予想していなかったので大変うれしく感動しました。お七里役所とは紀州家が幕府の動向を知るために七里ごとの宿場に連絡所を設けて健脚で腕と弁舌に長けた「お七里衆」を置いた場所と言われています。

 この日の20kmでの歩数は33.600歩となっていました。7:30~15:30、8時間労働でした。早めに風呂に入り、一眠りして大相撲を見て夕食に舌鼓を打ち堪能し、心地よい眠りにつきました。

Stadt u. Grün 4 ドイツ造園専門誌

しばらく海外の専門研究誌紹介情報が遅れていますが、ドイツの造園専門誌2誌(Stadt u. Grün、Garten u. Landschaft)は月刊誌、それにNRW州の自然保護機関誌は季刊誌なので、その内容の概要紹介は結構大変です。それぞれの内容を詳細に紹介するには時間がかなりかかります。

今回は今年春までの発行誌の内容を覗いてみます。目次案だけの紹介になりますが詳しくはまた別の機会にすることとします。

以下はその2誌の目次一覧です。★印は興味ある内容です。

Stadt und Grun   2017    目次および内容概説 

1月号

1)Bundesländer fördern “Grün in der Stadt”  

Umfrage von Stadt Grün zeigt eine differenzierte Förderlandschahft Michael Decker

各州(3都市州・13州)の環境保全、公園緑地他の部局が計画方針(緑に関する部局)を示している。各州色々なプロジェクトで都市内の緑の充実を図る方向にある。単に緑を増やすだけでなくどの様な効果(多目的、多用途的)か示している。ベルリンはBENE-環境のプログラムで都市内の緑の充実を計る。★

2)Toyota-Produktionssystem optimiert öffentlichen Grün

  Ohne Arbeitsverdichtung zu mehr Effizienz in Münster         Heiner Bruns

3)Neue Grünprojekte in Lyon

  Wie Parks und Plätze in der Metropole gebaut werden        Horst Schmidt

フランス、リヨン市の緑地計画について。前カールスルーエ市公園局長のシュミット氏がリヨン市の公園緑地政策や計画をレビュー。大都市の公園・広場はどうあるべきか述べている。

4)Bestand und Entwicklung im digitalen Grünflächenmanagement

  Innovationen für die Grünflächenpflege in Berlin            Andreas Kurths

ベルリン市内の緑地の維持管理に対してどの様な管理をするかを図化区分してコンピューターで管理、粗放的管理、集約的管理、低木推進区など。

5)Aufbau eines Systems zur Grünflächeninformation

Schritt für Schritt zur Kosteneinsparung im neuem Datenbestand 1 R.Semmler

公園緑地情報システムの構築。経費縮減のため新たなデータ収集1

6) Planungsphasen des Außeren Grüngürtels in Köln

  Ideen und Entwürfe von Schumacher, Encke und Nussbaum    Joachimn Bauer ケルン市の外縁部緑地帯の計画;理念と計画

7)Innovative Geholzverwendung mit Garrigue-Pflanzungen

 Bürgerbeteiligung für ein mediterranes Gemeindegrün       Karl Hillebrand

8)Artenreichtum im Kulturland: Halbtrockenrasen

  Weidefuhrung und Einsatz geeigneter Maschinen senken Kosten  J. Scheikenberge

斜面牧草地(かっては羊や山羊の放牧により維持管理してきた)乾燥した立地の草地の維持管理の機械化について。★

 

2月号

1)Exklusiv oder Inklusiv

 Zur Bedeutung von Treppen als Sozial-und Erlebnisraum in der Stadt  I.Scegk

2)Treppen –zum Steugen,Sitzen und Klettern

 Von Theater spielen bis Modeschauen – es gibt viele Moglichkeiten   H.W. Heister

3)Inhalatorium Badenweiler

 Die Choreografie der Romerquelle lasst Wasser über Treppen fliessen  K.W.Konig

4)Kings Park im australischen Perth

 Denkmal und Urwald mitten in der Stadt          Franziska Kirchner

オーストラリア・パース市のキングスパークにおける緑地のあり方について。天然記念物・ジャングル景観としてのキングスパーク

5)Vom Volkspark zur Stadelandschaft

 Ein Jahrhundert modernes Stadtgrün in China    Johannes Kuchler

都市景観の中の公園:中国に於けるここ1世紀の間の都市に於ける公園緑地について。

Naturnahe Spielraume

 Von der Kunst, Kunstliches naturlich aussehen zu lassen     Reinhard Witt

6)Optimierung naturnaher Regenwässerbewirtschaftung

 Bedeutung von Verdunstungsflächen in Stadtten steigt       Steffen Diener

7)Stadtumbau West

 Tansformation in Duisburg Bruckhausen                  Jenes  Rossa

デュイスブルク・ブリュックハウゼンにおける都市再開発、

 

3月号

Gehölzrander und –bereiche im öffentlichen Grün

 Getestete Staudenkonzepte für die Bepflanzung         Cassian Schmidt

  • Jetzt mischen wir den Schatten auf

 Versuche zu Staudenmischpflanzungen an schattigen Standorten   C. Pacalaj

  • Die Logik der “Geholzberonten Pflanzensysteme”

 Unterpflanzungen fördern Vitalitat von Strassenbaumen   A. Heinrich

  • Stadtgrüen in Solingen

 Neue Konzepte für das Strassengrün              Norbert Motzfeld

  • Der Goetheplatz in Kassel

 Eine extensive Staudenpflanzung kommt in die Jahre    Stefan Korner

  • IGA Berlin 2017: Naturnaher Erlebnisraum Kienberg

 Von der Baustelle zur Schaustelle        Sibylle Esser

  • Zwischen “Nerven” und “Aroma”             Thomas Herrgen

 10 Jahre Neuer Senchenbergischer Arzneipflanzengarten Frankfurt a.M.

8) Grüne Stadt in heissen Zeiten

 Strategisches Fachkonzept Klimaanpassung Ludwigsburg   Tom Wallenborn

 

 

 

4月号

  • Pückler.Babelberg –Der grüne Furst und die Kaiserin   Michael Rohde
  • Highlights der internationalen Gartenausstellung 2017 in Berlin   Sibylle Esser
  • Klarheit und Magie – die LGS in Bad Lippspringe       Vera Hertlein-Rieder
  • Der Paulinenpark in Apolda –zur Landesgartenschau saniert Michael Dane
  • Landesgartenschau Apolda – Herressener Promenade   Marcel Adam
  • Gartenschau Bad Herrenalb 2017                     Ulrike Bohm
  • Pfaffenhofen an die Ilm!                               Barbare Hutter
  • Von Industriebrachen zu “Schönheit und Produltivitat”   A. Budinger
  • Regionale Baumsubstrate in Schweizer Stadten        Axel Heinrich
  • Gartendirektor Ludwig Tauzettel                     Michael Rohde

 

 

 

Garten und Landschaft   2017   目次および内容概説

 

1月号Wagnis Landaschaft; Wie viele Risiko vertragt der Freiraum?

≪特集≫ オープンスペースはどのくらいの危険に耐えられるか?  

1)Warum der Freiraum Couragierte Planer braucht

Landschaftsarchitekur erfördert kunfig mehr Mut

なぜ、勇気ある、度胸のあるOS計画家(緑地計画家)が必要なのか。

造園家には将来、もっと勇気・元気が必要だ。

2)Mut sollte keine attitude sein

Ein Kommentar von Gabriele Putz,   fruppe F, Berlin

Gabriele Putzによる論評

3)Eine Frage der Kultur

Uber Mut und mutige Baukultur aus psychologischer Sicht

文化に対する一つの疑問:心理学的視点からの度胸ある建築文化と勇気について

4)Mutige Positionen

Sechs Statements zum Thema Mut

勇気・度胸に関する6つのステートメント:

5)Ein Wagnis bauen

Deutscher Städtebaupreis 2016: wagnisART, München

大胆な発想、行為で造る。2016ドイツ都市建設賞:ミュンヘン・ワグニス 

6)“Man muss viel aushalten” “人はいろいろなことに耐えなければならない”

Ein Gespräch mit Peter Latz uber Mut und den Landschaftpark Duisburg-Nord

Peter Latzが語る大胆さ、勇気について、デュイスブルク北公園の事例を通して。

7)Beweglich bleiben

Die Münchner Architekten Grub Lejeune  im Portrat

ミュンヘン建築家協会:思考しながら活動する。

 

2月号 Next Lebel Partizipation: Wie Plan und Teilhabe zusammenfinden 

1)     Was beteiligen bedeutet

  Klaus Selle über die Herausförderungen der Partizipation im postfaktischen Zeitalter

2)     Der Planer als activist?

  Ein Zwischenruf von Agnes Forster,  Studio l Stadt l  Region,  München

3)     Wille ohne Weg?

  Grenzen der Partizipation im deutschen Rechtswesen

4)     Op am öffenen Herzen

  Wie Stuttgarts Rosenstein die Bürger der Stadt wieder an einen Tisch bringt

5)     Spielend beteiligend

  Jugendliche entwickeln eine ehemalige Zeche zur Parcoursanlage weiter

6)     Raum aus dem Reagenzglas

  Studenten und Lehrende generieren partizipativ neues Wissen über und für die Karlrsruher  Oststadt

7)     Die unzahmbaren

  Experten für crossmediale Partizipation: Zebralog im Portrait

 

3月号 Grün und gut? Wie urbane Garten unsere Sicht auf Stadt verändern

 “みどり”良いもの? 都市内の庭、造園家からみてどのように変わったか。

1)   Alles kraut und ruben? すべて草と塊根

  Über den Existenzkampf des Stadtgartens und die Idee der Koopertion

都市の公園緑地に対する粗放的管理との戦い、そして共同の発想

2)     Administativ kreativ  行政的、創造的

  Urbane Gemeinschaftsgarten als Potenzial für die kommunale Stadtentwicklung

 コミュニティーレベルの都市開発に対するポテンシャルとしての都市共同体庭園

3)     Grüne Stadtaktivisten: ミュンヘン市の“緑の活動グループ”

Green City e.V. im Portrat“グリーンシティー協会”

4)     Wo sind die Garten? 庭園はどこ? 「にわ」はどこにある。

Ein Kommentar zur Zukunft des Kulturguts Garten

文化的価値のある庭の将来についてのコメント(論評)

5) Garten auf abwegen 

  Die Renaissance des Gartens in 21. Jahrhundert

 21世紀における庭園のルネッサンス

6)Visionare Dach-Bauern 理想的な屋上農家

  Gotham Greens: Ökologische Landwirtschaft auf Amerikas Dächern

アメリカにおける屋上緑化での生態的農業:ゴッタム・グリーン

7)Kompost für die Infrastruktur インフラとしてのコンポスト

  Urbane Landwirtschaft als Forschungsprojekt

研究プロジェクトとしての都市内農業

 

4月号 Platz für alle Inklusion und Inergration planen

 

1) Verstehen auslosen

  Die Welt mit anderen Augen sehen:Architektin Alejandra Loreto erzwingt mit einem Fotoprojekt den Perspektivwechsel

2)     Eine Stadt will nach oben

 Der umgestaltete Georgenbachweg ist der erste Schritt Starnbergs zur barrierefreien Modellstadt

3)     Kontrast kontrollieren

  Die Innenstadt von Meppen hat ein neues Leitsystem fur Menschen mit eingeschranktem Sehvermogen

4)     Aufgeschlossen

  Kunftig ohne Zaune: New York will seine Parks offnen

5)     Gerechtigkeit im Grün

  Wie viel Raum für wen? bdla-Prasident Till Rehwaldt über die richitge Balance aus Quantitat und Qualitat

6)     Schule macht Raum

  Portrat: Die drumrum Raumschule bezieht Kinder in die Planung von Stadten ein

7)     Kampf- oder Komfortzone?

  Muss Barrierefreiheit weh tun?  Ein Kommentar

 

 

富士自然教育センター:  貴重なる蔵書・資料

 日本庭園史にその名を残されている吉永義信先生のお名前をご存知の卒業生の方、何人ほどおられるでしょうか。先生に教えを受けた人達の多くがすでに亡くなられています。先生は、東京大学農学部を卒業され日本庭園史に関する調査研究を進めてこられましたし、日本大学専門部の拓殖科では日本庭園史を教えておられました(昭和12年~18年まで)。その先生は昭和60年4月3日に亡くなられましたが、奥様吉永フミ様が先生の遺品をお住まいであった茅ヶ崎のご自宅に長く残されていました。その奥様も亡くなられ、先生の蔵書、庭園史研究資料、先生がご自身で撮影された日本各地の庭園のガラス原版写真(モノクロ、6×7版)を日本大学の造園学研究室で利活用してほしい旨のご相談を受けました。研究室では吉永先生とご縁のあった吉川 需先生が研究室の教授であられた折に、学生の卒論として吉永先生の蔵書一覧を整理し公表(1986)しておりました(昭和60年度4年生;小林利江さん卒論;「日本造園史研究の変遷」として纏められた)。それやこれやで日大の研究室で吉永先生の蔵書その他を戴き、造園、特に先生が関係された日本庭園に関心、興味のある方々のご利用に供することが出来るよう昨年から時間を掛け、整理しリスト化を図りました。

 今回、そのご案内を幅広く造園学会機関紙にお願いしましたところ、雑誌とは別に学会のWeb上で早くお知らせしていただけることが出来ました。ご関心とご興味のある方は日本造園学会のホームページを開いていただき、日本大学の付属施設;日本大学富士自然教育センターにアクセスしていただければ、収蔵しております図書のリストをご覧いただけます。

 追:なお、吉永義信文庫のご案内にあります吉永先生のお顔は故吉川 需先生が昭和48年に撮影されました写真を使わせていただきました。

東海道五十三次 今・昔  その六

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 大磯発ち(大磯から歩き始め)に倣って早朝4時起床、小田急線下り始発電車(5:12)に乗って本厚木へ、本厚木で急行小田原行が待っており乗車し終点で箱根湯本行に乗り継ぎました。湯本に6:45着、手洗いを済ませて6日目の行軍を開始しました。駅から早川に懸かる三枚橋への途上、東の空に神の降臨を思わすような光の筋が雲間から差し込んでいて、思わず神々しい朝の出発風景となりました。前回の続き、旧東海道三枚橋から早川を渡り畑宿を目指す幅の狭い街道です。道の両側に山が迫り、箱根の山は天下の剣、函谷関もものならず、と謳われる様相を今に示しています。山肌は今盛りとヤマザクラが満開、落葉樹の若葉が萌える柔らかな小緑色、それに針葉樹のスギの深緑が加わって美しい春の山を作り出していました。

 箱根国立公園の観光メインルート(温泉ルート)は湯本から早川の流れに沿った塔ノ沢、宮ノ下、大平台、強羅、小涌谷を上る道です。新春恒例の箱根駅伝のルートでもありよく知られていますが、旧東海道の道は須雲川に沿って畑宿までは民家や旅館があるものの、景観は箱根山塊が迫る狭い谷筋の風景で、やや脇道的存在です。山の斜面は足元から急に切り立って尾根へ伸び、道沿いの僅かな平地に民家や寺院が散在しています。この旧街道は湯本と関所のある元箱根を結ぶ最短の道で、湯本から畑宿までは家並みがぱらぱらと続きますが、畑宿より上の山間地に民家はなく、石畳の狭い山道だけが森の中に伸びています。歌の文句に出てくる「昼なお暗い石畳道」。途中の大天狗山神社で休憩、おにぎりで腹ごしらえし、須雲川の鎖雲寺では仇討で有名な話に登場する初花・勝五郎の墓に参りました。この寺院には8:30に着きましたが畑宿まで1700m、元箱根まで6700mの表示があり、先はまだまだの様相でした。この先で須雲川を渡り「女転ばし坂」から国指定の史跡石畳道に入り、割石坂、大澤坂を登って畑宿に入りました。

 石畳道が整備されたのは江戸時代(延宝8年(1680)敷設、文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛に合わせて全面補修とある)とあり、それ以前は竹が敷かれてはいたものの、一雨降れば泥んこ道で、通る人たちは難儀をしたことでしょう。石畳道になって通行人には快適となり喜んだことが想像できますが、そんな石畳道でも現代人にはデコボコの道で、歩き難いことこのうえなし、江戸時代からの史跡として感激して歩くほかありません。それにしても、この石畳道を参勤交代の長い隊列はどのように通ったのでしょうか、全く理解できない道のスケールです。

 畑宿守源寺(1661年創建)で県道と別れ石畳の山道に入りましたが、この上に民家はなく草木が茂る山道です。守源寺の隣に大きな一里塚跡の小山が道の両側にあり目立ちます。山道坂道でいろいろな名前がついています。七曲りの西海子坂、橿木坂、階段と石畳道の混ざった狭い山道です。県道は多くの曲坂を車が何度もぐるぐる回り上りますが、旧東海道は直線的で距離的には短く山間を上っていきます。猿滑坂、追込坂、笈の平、於玉坂、白水坂、天ケ石坂(写真)を登っていよいよ峠となりました。箱根馬子唄碑(箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川)の場所からは下二子山、上二子山が目の前に現れ感激、芦ノ湖を見ながら権現坂を下り芦ノ湖畔の杉並木に入りました。樹齢何百年と言われる元箱根の杉並木、巨大な杉木立には今につながる時間の長さと、それを物語る30mを越す杉の巨樹に圧倒されました。芦ノ湖に突き出した県立箱根恩賜公園を横目に見て箱根関所に入りました。江戸口から京口へ素通りしバス広場でこの日の旧東海道箱根越は終了しました。時刻は丁度11:30になっていました。ここまで4時間半、箱根上りの歩数は24.500歩になっていました。 

12:15発の小田原駅行きのバスに乗り、駅伝ルートに沿って小涌園から大平台、宮ノ下を経由して箱根湯本に出、小田急線に乗り変え、早朝来た途を我が家に向かい15時に柿生に辿りつき終了しました(疲、苦、笑)。次はいよいよ三島への下りだ!

 

川沿いの桜並木 あれこれ

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私の家の近くに麻生川があります。昭和30年ころまでは里山が広がり、田畑が川沿いに多く見られた地区を流れています。近くで流域面積が大きい鶴見川に合流し横浜市から東京湾に注いでいます。以前には谷戸水田も幾らか潤していたのでしょうが昭和40年代以降、現在まで続く都市化、宅地化が進行し今では雨水排水河川になっています。区画整理河川整備(洪水対策)を合わせ、ほぼ直線の1.1kmの桜並木が整備され現在に至っています。近年、川沿いに宅地化が進み,それまで自由に枝を広げ伸ばしていた桜も、住生活に邪魔とかで枝が切られ、根元も草や笹が邪魔だと言ってコンクリートで固められるヶ所が続出、味気なくなっています。花が咲く10日間程だけ人々が愛でて散策、それ以外では全く見捨てられた並木道です。

 一方、お隣の川崎市多摩区には二ヵ領用水(全長32kmうち、宿河原用水)という名の、歴史的にも由緒ある用水路と桜並木宿河原桜並木は1958年地元有志により400本植えられた)があります。多摩川から取水(上河原堰、宿河原堰)して下流の水田地帯や農業地域(さらに工業用水にも)に長く水を供給してきた全長32kmの用水です。関ヶ原の戦いの3年前に測量され14年の歳月をかけて作られたと言われています。この用水路は直線部分は殆ど無く、流路は緩やかに蛇行し、灌漑用水として取水口で水量が調整され流れるため、地形や立地、土地利用(田畑、果樹園)を勘案し時間をかけて作られたことから、周囲の景観や人のスケールにマッチした規模と形が残っています。しかし、近代化、都市化の影響で蓋掛けにより川が見えなくなったり、直線化されたり時代の移り変わりによって激しく変化し今日まで来ているように思います。堰の建設により水路の水位が安定し、利水の時期(灌漑期)以外は水辺の維持用水だけが流れています。そのため、川の中、河床近くの水辺を歩道や休息、自然探勝のために利用することが出来ます。桜の枝は水路に覆いかぶさるほど伸び、開花時期は見事な桜トンネルになって花見ができます。つまり、人間の手によって時間をかけて作り上げ、管理され育てられてきた用水路と桜並木は、それだけ直接、間接に桜並木と関わる人々の日常生活に溶け込み、守られ育てられ維持されて来たと言えます(写真参照)。 同じ河川沿いの桜並木の名所でも麻生川とは大きな違いです。

 草花を植えて街を美しくしたり、身近な生き物の住処を守るために緑を多様で豊かにすることは今日、大変重要ですが簡単ではありません。基本的な方針を決めて、あるべき姿を理解し、時間を掛けて造り、維持する人々の力が大切です。

 愛護の心と地道で小さな継続する力が求められるのだと思います。

 

 

 

 

富士自然教育センター:FNECの春

造園学研究室並びに緑地環境計画学研究室の卒業生の皆さん、お元気でご活躍、お過ごしのことと思います。今年の春はどうもスカッとしません。なんとなく寒暖の差が激しく、草花もどうして良いのか分からず、グズグズして動きが全く安定しません。例年、3月25日の卒業式には武道館の桜が満開の年や学部入学式に湘南キャンパスの桜が満開か桜吹雪の只中だったりしました。今年は、なんと開校式やガイダンスが過ぎて講義開始日以降にそんな風景になっていました。

 春の訪れが湘南キャンパスから遅れること2-3週の富士宮では、今年は今まさに桜が満開、園内のいろいろな水仙も咲き始めています。昔の赤いトンガリ屋根の実習棟は一昨年(2015)全く新しく建て替えられ、宿泊施設も増強されて学生の実習に役立てられています(写真)

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 ここには書籍コーナーもあり、縁あって、学部が農獣医学部の時代、造園学を教えておられた故吉永義信先生の書籍や先生が研究で撮影された日本庭園の写真(原画板)が所蔵されています。

 今年の冬2月、例年実施しています造園学研究室所属の3年生20人余(現在は4年生)が実習で園内に園路を作成しました。

もしお近くに来られる折には一度訪れてみてください。研究室OBの黒田さんが常駐されておりますのでお尋ねください。

東海道五十三次 今・昔  その五

 旧東海道、神奈川県には東に川崎宿、西には箱根宿、その間に7宿(計9宿)あります。これまでに既に7宿(川崎~大磯)間を歩き、歴史上の遺跡、史跡、神社仏閣などを訪れ、いろいろな風景を眺め、事象や言い伝えを学んで歩き続けてきました。4月に入って例年になく季節巡りがゆっくりな今年の春、快晴で暖かな16日の日曜日、早朝の一番電車に乗りました。この日の出発点、大磯へ大急ぎ。

 一大決心して「旧東海道53次歩き」を考えたついた当初から、箱根越えまでは日にちと区間を区切って自宅から通い、歩き繋ぐ方法を取ろうと考えていました。5回目のこの日は、日の出も既に5時前と早くなってきていました。朝の帳が開く頃、天空にはまだ上弦の月が薄白く残り、東の空は日の出が近づいて薄赤く染まってきていました。5時12分の始発電車で相模大野を経由し藤沢へ、藤沢からJR線で大磯駅まで急ぎました。

 前回、大磯宿で終わった所(明治創業の和菓子屋新杵前)に再び立ち、歩き始めました。宿場の西に日本三大俳諧道場の一つとして有名な「鴫立庵」があり、茅葺の建物、周りの樹相(ケヤキの老巨木)、小さな川の流れなどその雰囲気にはなるほどといったものがありました。庵の名前の由来は、西行法師の歌「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」にあるとされています。

大磯は昔から避寒地・東京の別荘地として多くの有名人が住んでいたといわれています。かの島崎藤村は戦前に大磯へ疎開、この地で亡くなっており、夫妻の墓地は街道沿い地福寺にありますし、吉田茂はじめ多くの政治家(山県有朋大隈重信西園寺公望原敬など)が別荘を構えて住んでいました。旧吉田茂邸は現在、県立城山公園に含まれ当時の姿をとどめています(邸宅は残念ながら2010年焼失、復元されている)。それに引き替え、日本で最初の総理大臣であった伊藤博文の邸宅(滄浪閣)は街道沿いにあったものの、何の跡形もなく場所を示す碑だけがひっそりと立っていました。

 大磯はその名が示す通り、南に相模湾の海がすぐ近く、北の背後には大磯丘陵が迫った狭い海岸段丘に位置しています。ここから西へ、二宮、国府津、小田原まで伸びる旧街道筋周辺は海抜15-20m程度の段丘上部になっています。酒匂川から流れ込む土砂が相模湾を北上する海流や波により打ち寄せられ長い砂浜と海岸クロマツ林の景観を作り出していましたが、今ではその面影は大変少なくなっています(逆に河川による土砂の流下、供給が断たれ、海浜が痩せてきているため養浜がおこなわれています)。街道を歩いていると左手側、海に向かって緩やかに下がる地形がよく分かります。右手側は丘陵が遠く近く位置し、旧吉田邸を過ぎる辺りから霊峰富士が丹沢山塊の奥に大きく見えるようになり、街道の正面には箱根の二子山が特徴ある山容を見せてきました。満開の桜を前景とした富士山の景観は昔から変わらず目をつぶって往時の姿を連想しました。街道は少し内陸に入り込みJR東海道線と平行しています。海岸線は長い砂礫の浜(例えば大磯海岸、小陶綾ヶ浜、袖ケ浦など)が小田原まで続き、現在は西湘バイパス道路がこの海岸線の上を走っていて景観的には興ざめの感が否めません。

 JR二宮駅の西側に吾妻山が近く、街道からも目立って春の若葉色した落葉樹の中に針を刺したようなモミの常緑樹が目立ちます。山頂には吾妻神社があり街道に沿ってしっかりした碑と石鳥居が立っており、参道の軸線奥のモミは印象的でした。

 ほんの少しの区間、国道1号線と離れる旧街道には藤巻寺があり、境内には樹齢400年と言われるフジが生育し、また可愛らしい梵鐘(寛永8年;1631の銘がある)が隣に寄り添って立っていました。説明版には徳川三代将軍家光が東海道往来の際訪れたとあり、私も棚の下で写真を撮り往時を想像してみました(写真C)。フジの開花時はさぞ美しいだろうと思います。押切坂(国道1号線は大きな切通し)を上り下って中村川を渡りやっと小田原領に入りました(9:00)。

 しばらく行くと、何気ない車坂碑が立っていて、有名な3人の和歌が書かれていました。「鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌

「浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れになるかも」源実朝、「浦路ゆくこころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月」阿仏尼(北林禅尼)

我が身もこの地で歌を、と考えましたが教養・素養なく先の路を急ぎました。でもこの日は図らずも卯月16日(こじつけで十六夜)阿仏尼(十六夜日記の作者)と無縁でもないか、と自問自答しました。

 海岸線、街道、丘陵が最も狭い国府津の街並みを過ぎ、東海道で数少ない松並木の残る小八幡(写真D)を行き酒匂川東地区を過ぎて酒匂橋を渡りました。遂に小田原宿です。酒匂川の東西両地区には多くの神社仏閣があり、また本陣、脇本陣跡もあって宿場の大きさを思い起こさせますし、江戸時代酒匂川には江戸防御上、架橋が無かったとあって、天候によっては足止めになるなど難苦が多かったのではと想像しました。

 大磯を朝早く出て歩いて来て小田原に入ると街がいかに大きく賑やかかよく分かりました。背後に箱根のどっしりとした山塊を控え、整然とした街並みが続く景観は心躍る風景でもあります。現在もその様に感じるのですから江戸時代はましておや、だったと思います。

 新宿を過ぎ万町、ここは「蒲鉾通り」とも言われ私が以前に勤めていた学部の卒業生で田代氏が経営する有名な「まるう」本店のある通りです。休憩を兼ねて美味なる蒲鉾を賞味し早めのお昼ご飯、時計は11:30を示していました。

 休憩後、青物町、松原神社や多くの本陣のあった本町を通って小田原城を右手に見て箱根口に辿りつき、南町、山角町で新幹線、在来JR線を越えて板橋見附。いよいよ箱根路に入りました。ここからは殆ど旧道沿いの街並み、JRと別れて早川と箱根登山鉄道に沿って道が伸びています。箱根板橋、風祭、昔の風情が残る道すがら、入生田の紹太寺には樹齢300年の枝垂桜があり、今年の遅い春は開花期が長く、折からの春祭り(写真A)と重なって多くの来訪者が旧道を歩いていました。この先に民家は湯本まで殆ど無く箱根の山塊が眼前に迫ってきます。特徴ある二子山も山塊に隠れ上の部分だけ二つポッコリ見せているだけでした。(写真B)早川に懸かる湯本三枚橋でこの日の歩きは終了(13:00)、歩いた歩数は35.200歩を超えていました。

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東海道五十三次 今・昔  その四

その三では、東神奈川宿から藤沢宿までの道程を報告しましたが、今回は藤沢宿から大磯宿までの様子をお伝えします。その三は横浜の丘陵地に懸かり、また三浦半島へ続く地形的な特徴があり、鎌倉から三浦半島へ延びる丘陵を横切るように東海道があったため、権太坂や入り組んだ谷戸の出入りで保土ヶ谷、戸塚宿は景観的にも地形的にも複雑な街道景観であったように思います。

 藤沢宿に出ると一転、遠く丹沢山塊があり、北から南へ流れる幾つもの川の沖積平野は相模平野となり、西には次第に富士山が大きく見えるようになってきました。藤沢宿から小田原宿まで東海道はこの平坦地を東西に延び、海抜12-15mほどの海辺地帯を通ります。

 この日は藤沢宿の伊勢山橋から8時にスタート、大庭丘陵を過ぎ引地川を渡り、右に左に緩やかなカーブを描く街道を歩きました。沿道には広い屋敷を持った旧い地付きの家が散見され、東京都心の道とは違って街道らしさが感じられました。遠くに見える丹沢山塊には有名な丹沢大山が見え、往時は大山阿夫利神社の「講」に詣でる人たちが行きかった大山道東海道の合流点がありました。茅ヶ崎市に入ると旧道には松並木が残されたり再生されて、地名にも示されているように松林(しょうりん)と海近しのクロマツの風景です。茅ヶ崎村、真っ直ぐに伸びた十間坂(電柱が地中化され見通しと見晴らしの良い通り)を過ぎ千川、小出川を渡り、ほどなく行くと川の上、中、下流で呼び名が違う相模川(上流は桂川中流相模川下流は馬入川)になりました。相模川の源流域は甲州山梨の猿橋とのこと、流域圏が大変に広い河川で、昔も洪水には難儀をしただろうと思いながら渡り終えました。馬入川を渡るとすぐに平塚宿、藤沢宿から平塚宿までは13.3km、3里半で丁度3時間ほどかかって着きました。平塚宿にも当然本陣、脇本陣がありましたが、今ではその面影を残すものは殆ど無く、跡を示す表示杭も見当たりません。最も平塚宿は今は「平塚七夕祭り」がこの街道で行われ、商店街が様変わりしてきたので致し方のないことと思われました。ただ見附跡は江戸、上方共にあって往時の宿場を思い出させます。

 平塚宿は西、真近にポッコリした高麗山を眺めることができ、広重の絵そのものといった景観です。金目川地図では花水川)畔で昼ご飯とし、すぐそばの高麗山と川淵に黄色い帯のように連なって咲く菜の花を眺めながら休みました。橋を渡ると2kmほどで大磯宿はすぐ傍、高麗山に連なる山が迫り出して街道の景観は狭く押される感じと雰囲気でした。平塚宿から大磯宿までは4km、27町でした。

 この日の歩いた歩数は37500歩、13時15分に終了、行程5時間の行程となりました。帰途、JR東海道線で大磯から藤沢まで戻りましたが、この歩いた区間は電車で何と15分でした。300年前は・・・・・