水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

墓地に想う

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 私は間もなく73歳になる。以前から一家の主として「墓」について意見を求められてきた。高校を卒業し岐阜の田舎から東京に出て家を構えた。今は亡き父が生前、私の墓をどうするか考えていたようで、故郷に「墓地」を持たせたいと考え、用地を確保していた。それは、「墓地」を介して、時がたてば「郷里に戻ってくるだろう」、「歳を取ると故郷が懐かしいものだ」との「親の子に対する希望」考えがあったと想像する。家族は、その考えや実態に惑い躊躇してきた。主(私)が亡くなった後、遠く岐阜の田舎まで墓参りをすることを考えたのは止むを得ないことでもある。

 日本では、いまでも東京や首都圏への人口集中が止まっていない。社会が高齢化(高齢化を迎えている人達は、日本の素晴らしい経済成長を支えてきた地方出身の人達)し、どのような形にしろ「終活」を迎え、その亡骸をどこで、どのようなものにするか、重要なテーマになって来ている。現実的には首都圏や周辺都市が居住地である人々に対し「墓地開発、墓苑整備」は、これまでにも積極的かつ大規模に進められてきた。これまでの整備には「緑を造り出し育てる」発想は全くない。樹林地を開き多くの樹木を伐採、失くして作り出した広大な墓地を、石やコンクリートだけの場所にしてきた。墓区の一つ二つを削ってでも緑を造る場所にしてこなかった。墓苑面積の1/50、1/100でも、前に在った樹木の稚苗を植えていたら、緑多く、夏の暑さを和らげ秋の美しい紅葉を造りだせるものを、と考えたものである。儲け中心、信心衷心欠如は今も変わっていない。

 大学時代に学生の卒論指導で、こういった面的な開発(墓地や駐車場、墓地、団地など)に緑を幾らかでも増やせないか、と調査研究、提案(郷土種緑化・デザインも含め)したこともあった。公営の墓地整備計画で緑の充実を提案したこともあったが当時はその提言が早すぎたようである。叫ぶ声が小さ過ぎたか、提案・アイデアが余りに先走りすぎたのかもしれない。時代は下って現在、或る住宅建設会社の計画・設計(緑や自然・生き物を重視し季節感あふれる落ち着いた住宅)を見ると頷ける。理解を得るためには時間が要るのである。

 ドイツを中心に海外緑地事情を調べる中で、墓地を訪れたことも少なくないし、その都度、樹木や草花が豊かでゆったりした墓地が都市の中で重要な緑地空間を構成していることを羨ましくも思ってきた。さらに「墓地」の管理が行政的に「造園部局」の管轄下にあることにも驚きである。社会の高齢化は洋の東西を問わず進み、土葬中心のドイツではこれまで以上に「墓地の用地整備」は重要なテーマになってきている(例えばハンブルク市・海外研究参照)。わが国でも住宅同様、緑や自然豊かな墓地・墓苑が「再生・再考」されることを待つばかりである。 

 少しずつ緑豊かな「墓地」が注目され、また用地の活用形態や墓区の在り方から樹木を中心とした形(樹木葬、自然葬)が注目されてきている。豊かな緑の在り方や墓地、墓苑に対する考え方が少しずつ変わってきているのであろうか。しかし、まだまだ緑空間の大きな塊としての「墓地・墓苑」は見られない。せいぜい、用地の縁辺部に僅かに樹木が残されるに過ぎない。

 

 自分の墓はどうなるのであろうか。自分ではあまり興味が持てないが、家族はそう感じていない。「私が亡き後、もしも私を慕って、偲んで卒業生が来られた時に、お連れする場所が無いと言えない、まして小さな家にはとても来てもらえない、どこかに墓地を見つけなくては」とは家内の言い分である。

 

 

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電柱と景観

 先日(11月10日)の読売新聞に写真家、港 千尋氏の記事が掲載されていた。記事のタイトルは「考景・2017、電柱」であった。見出しに「異常な多さ、日常風景に」とあった。見慣れてしまっている電線のある光景に何の疑問も持たずに生活している人には、添付されていた写真は、これ日本?と異様に映ったと思う。

 写真は、港氏自ら東京都内で撮影したもので、電柱に無数の電線が絡みあい、蜘蛛の巣か縺れた糸溜りのような光景を写し出していた。氏の文章は11月10日が何の日か聞くことから始まり、3つ並ぶ「1」を電柱に見立て、それが「0」になる、すなわち「無電柱化の日」として風景を考えるべきではないかと提唱している。彼の主張に触れてみる。

 全国で無電柱化された道路比率は、僅か1%、今年9月に無電柱化推進条例が制定された東京都(23区)でも、たった8%だという。海外ではパリ、ロンドン、香港で100%、シンガポール、ベルリン90%、ニューヨーク80%、冬のスモッグで知られる北京でさえも30%を越えているという。外国人観光客が極めて多い京都でも僅か2%で、おそらく日本人にとって、電線の織り成す異様な光景は、もはや見えていないのか、あるいは話題にしても意味が無いと諦めているのかもしれない。

 無電柱化の為には地中化で対応が図られるが、それには莫大な費用が掛かること、台風や風雨の多い日本では地中化(上下水道など社会的インフラとの共同溝)による災害対応や維持管理の面倒臭さが危惧され、積極的に進まない理由なのかもしれない。

 港氏は「無電柱化民間プロジェクト」として写真コンテストを行っていると書いている。電柱が無かったら良いのにという風景、地中化されたことで美しくなった風景の写真を集め「風景を考える」運動をしている。氏は記事の最後に、「1」を「0」にする道は、遥か遠いかもしれないが最後の1本がどこに残るか想像しながらシャッターを切ることは誰にでもできるだろう、と結んでいる。

 

 われわれ造園家は、緑豊かな生活空間を考える人種である。街路樹の緑が都市の緑として重要であるという認識でその充実を叫んで来たし、電柱に代り街路樹が人にも車にも良く、潤いのある都市景観を作り出すものと考えている。電柱の殆どが道路端にあり、道路景観を占拠し緑(街路樹)と常に軋轢を起こしてきている。無電柱化が進んだ先進諸国の都市の街路景観では街路景観がすっきりしており、街路樹のある所では樹冠が道を覆って緑豊かな都市景観を作り出している。また一方で、中小都市や田園地域では伝統的、歴史的に意味ある老大木並木などを積極的に残し風景を保全している。

 日本ではこれまでに道路整備(拡幅や新設)で多くの並木や古木が取り除かれたり、都市では道路面を覆わない細い街路樹が育成されたり、樹冠を作らないように毎年整枝剪定され盆栽化したりして電線を邪魔しないようにしてきた。これでは都市の中に豊かな緑のライン(軸)を作り出すことは到底できないし(法的にできなくなっているが、法律は変えればよい)、都市の中に豊かな緑の血管網(緑のネットワーク)を張り巡らすことはできない。日本でも遅ればせながら大都市の中心市街地部で無電柱化が徐々に進められてきており、今後、道の緑の充実と合わせ、都市内の美観向上に期待するところ大である。

 

 この港氏の記事を読んで、私も彼が提唱する醜い電柱景観、美しくなった無電柱景観を探し、その写真を撮り集めてキャンペーンに参加しようと思う。

 街路樹の整備は言わずもがなである。

 

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展覧会巡り  9

葛飾北斎展  「パフォーマー北斎江戸と名古屋を駆ける を見る

10月20日、すみだ北斎美術館に足を運んだ。葛飾北斎は、江戸の下町墨田で生まれ、90歳まで画業を全うし、それでなお「未熟」を口にして亡くなった。今から200年前の57歳の時には名古屋で大ダルマ絵を描くパフォーマンスをしたと言われている。この大ダルマ絵パフォーマンスから200年を記念してすみだ北斎美術館では表題の企画展が開催された。

 今年に限らず葛飾北斎の作品およびその人となりは、洋の東西を問わず大変な人気と評判を得ている。東京はじめ全国でいろいろな特別展が開催されている(他に北斎とジャポニスム;国立西洋美術館北斎---富士を超えて---;ハルカス美術館など)。そんな折、富獄三十六景や北斎漫画で名をなした北斎の生涯と弟子の作品を見ることが出来る絶好の機会と思いすみだ北斎美術館のある両国に向かった。

 葛飾北斎(1760-1850)は30回も名前を変えた粋な江戸人と言われている。19歳で浮世絵の勝川派に入り春朗の号を得ている。当時の絵画界の狩野派、土佐派などとも関係を持ち絵の研鑽を深めている。この頃から浮世絵の版元に支持され「狂歌絵本」を作り風景や人物描写で人気を得た。39歳では北斎=辰政を名乗っている(北辰は北極星を意味している)。40歳代には質素倹約をモットーとし派手から地味へ方向転換したとされ、白黒のみの「読本」の挿絵(滝沢馬琴南総里見八犬伝、鎮西弓張月等)を描いている。

 絵の中では西洋画の影響も受け、遠近法・色彩・物の影を描き、体の構造なども詳細に捉え描いている。一方で彼の作品は19世紀後半のヨーロッパ絵画界にジャポニズムとして大きな影響を及ぼしてもいる。特に浮世絵・冨獄三十六景・神奈川沖浪裏は有名である。

 

 この展覧会では、江戸浅草の様子、墨田両国の花火の図で江戸の賑わいの様子を見ることが出来た。また、北斎の孫弟子、名古屋で活躍した森玉僊による名古屋名所図から尾張名古屋の名所と人々の様子も見ることもできた。55歳で「北斎漫画」を出し、動植物や人物のいろいろな表情、奇抜な様態などを、基本は詳細緻密で、時に奇抜で単純簡素な筆致で見事に表している(この北斎漫画は文庫本大で3冊出版されている)。北斎57歳(1817)では、名古屋の西本願寺の境内で120畳の紙に大ダルマを描くパフォーマンスを行っており、その様子を高力猿猴が「北斎大画即書」の絵に描いていた。

 北斎は酒・煙草をやらず金銭的に執着せず清貧に甘んじ93回も引越しをしたとのこと。館内にはジオラマで彼の部屋が再現されており(北斎借家の図もある)、娘応為との生活が見て取れ、画業にのみ興味がある様子が理解できた。

 72歳で「冨獄三十六景」を出し、全国の風景を大胆な構図や想像を駆使し、特異な色彩(赤富士や神奈川沖裏の絵で赤や青の見事さ)を作り出しているといわれる。70歳を越えても全国各地を旅し、いろいろな風景(冨獄百景や諸国の名橋の景)を絵に表している。

 私も今、東海道を京を目指して歩いているので、彼の「旅と絵の生活」が容易でないことは十分理解できる。74歳では絵のモチーフを常に変化する「水」に求め「諸国滝巡り」など更なる新しい試みと意欲で絵を描いている。晩年89歳、長野県小布施町にある寺院(岩松院)の天井絵に「八方睨みの鳳凰」を力強く描いている。この寺は小林一茶とも所縁があり、「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」の句は有名だ。私は以前、農村の環境と村づくりで小布施町を訪れた折、この寺を訪れその天井絵を見て驚嘆したことを思い出した。

 北斎は90歳で絵描きの人生を全うしたが、晩年の言葉として「まだこの程度しか描けないとは情けない」との心境はいかなるものであったのであろうか、と驚くばかりである。

 

 人間死ぬまで修行である。人間生涯をかけて戦う業があることはすごい。彼に倣って元気で前向きに90歳を目指そうと決めた。

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東海道五十三次  今・昔  その13

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 長らく夏休みをしていましたが秋風に誘われて、またぞろ一人旅など「あるき歩き、或る記」がしたくなって宿場巡りに出て行きました。夏前に辿り着いた宿場は掛川(6/14-16)でしたので、その続きの上洛・京上りとなります。

 この夏はいろいろなことがありました。法要にはじまり運転免許書き換え講習、結婚式、励ます会、さらには検査・入院・手術・療養等々。忙しい合間を縫って絵画展や映画も鑑賞しました(ブログをご参照ください)。ある意味では充実した夏3か月でした。

 

 異常気象は今に始まったことではないですが、季節の「らしさ」も年々はっきりしなくなって来ています。今年の夏は猛暑が少なく、雨降りや曇りの日が多く日照不足だったように思います。10月に入って2度にも亘って台風が本土来襲という異常さ。多くの幼稚園や学校が運動会を延期したり中止せざるを得なかったのではないでしょうか。

 私の一人旅もなかなか予定が立たず、宿場の宿予約に苦労しました。歩くたびに道は西に延び、自宅からの距離も増して出発点が遠くなります。前回が掛川で止まっていましたので、いつ静岡県から出られるのか問題でした。今回の3泊4日でやっと駿河の国(静岡県)を離れ三河の国(愛知県)に入ることになります。

 

 10月24日、直前まで台風の影響を心配しましたが、幸い夜間足早に通り抜け、台風一過の早朝、自宅を出ました。これまで同様、柿生の下り始発電車で小田原に出て新幹線に乗り換え、掛川に8:10着。直ちに前回の終着点、連雀西交差点から歩き始めました。東海道を歩いていると道すがらに「秋葉神社や常夜燈」が大変多くあります。火伏の神、竈の神として人々から厚く信仰され、掛川宿の西に東海道と分れ「秋葉山道」が北西に伸びています(秋葉山まで9里=35km)。昔の人々は秋葉詣で参拝のため歩いて訪れていますが、私は東海道行脚。とても本社に寄っている時間が無いので、道すがらの秋葉神社で手を合わすに留め、先を急ぎました。東海道は、現在県道253号線になっており、歩き始めて小1時間歩くと垂木川の川沿いに善光寺仲道寺がありました。「江戸と京都の丁度真ん中」を意味してその名があるとの事。「胃病の平癒に功あり」となっていたので丁寧に心を込めてお願いをしました。

 

 このあたりの街道には今も松並木が遺され、周りを丘(低山)に囲まれ田んぼが広がり、泉水もあって「袋井」の名が付いたようです。「遠州・袋井に三山あり」とされ、法多山尊永寺(厄除け)、万松山可睡斎(火伏)、医王山油山寺(眼病治癒)への参詣客で賑わったとあります。周りは今でこそ圃場が整備され、真っ直ぐな農道・水路・整った区画の田圃が広がっていますが、かっては幾く筋もの川が曲がりくねって流れ、それに沿って多くの田圃や湿地が広がっていたことでしょう。

 袋井宿は江戸日本橋からも京都三条からも、数えて丁度27番目の宿場に当たり、東海道の真ん中の宿場です。今は宿場の真ん中に公営の「ど真ん中茶屋」(写真:上左)と「宿場公園」が設けられており、茶屋ではボランティアの小母さんから接待を受け、お茶(掛川茶)をご馳走になり、公園のベンチで途中のコンビニで買ったお握りを食べ一休みしました。

   行書東海道五十三次袋井(初代歌川広重絵:1830-44)には良風を受けて凧揚げを楽しむ風景が現されていますし、広重の隷書東海道袋井にも角凧、丸凧が「名物遠州凧」の有様が描かれています。遠州地方は風が強く遠州凧はその様子を良く表しています。

 午後は磐田を目指し、また歩き始めました。このあたり木原には木原古戦場があり、三方原の戦い(武田信玄甲斐国)と徳川家康駿府)の合戦;1572)の前哨戦があったとされています。許禰神社には家康の腰掛石(写真:上右)があり家康を偲んでその石に座ってみました。近くの須賀神社(創建1225年)には樹齢600年の楠がありました。太田川を渡ると磐田市、この日の宿場(見附)に入りました。本陣、脇本陣を眺め、L字型に街道を巡って府八幡宮で旅と家内の安全、明日の天気を祈りましたが、夕やみが迫る頃ポツポツと雨が降り始め、ABホテルに入りました。次の日の天気が心配でしたが、この日歩いた歩数は38.500歩、8時間の行脚。疲れましたねー。

 

 第2日目:心配した通り朝から雨。急遽、近くのコンビニ7・11で透明の簡易傘を買いました。身なりはいつも通りですが、雨のためリュックを覆うポンチョを被り、傘を差して出発(7:30)。この地域は、昔、家康の鷹狩の名所であったようで、府中から大勢の家来を伴って訪れ楽しんだようです(宿場、本陣、茶栽培、喫茶、泉水、里山、鷹狩の関連)。

広く水田が広がる地域、降りそぶる雨の中、所々に残る名残の松を見ながら県道261号線を西へ西へ。道は天竜川左岸の土手に当たり、いよいよ天竜川を渡ります。折からの雨は一段と強くなり、歩き始めて1時間半、足元はズブヌレ状態。ズボンは膝頭まで湿ってきました。天竜川には橋が2本架かっており(天竜川橋、新天竜川橋)、古い天竜川橋には歩道がありません。国道1号線、県道312号線が重なる新天竜川橋の歩道を、傘を斜めに差して歩き渡りますが、川面は台風の影響により水嵩が増し川幅いっぱいに黄土色の濁った水が流れ、怖さを感じる景観でした。

 思わず広重の東海道53次絵柄で雨風に抗して歩く旅人の姿を我が身に置き換え想像してしまいました。また、同じ浮世絵師北斎の漫画12編にある「風」の様子や、広重の冨獄36景 駿州江尻(1830-38)の絵に表された「風」の姿を思い出しました。

 明治天皇明治11年(1878)北陸東海御行幸の折、この天竜川を渡っておられ、橋の袂には玉座跡碑があり、その折に舟橋を設けた故人(浅野茂平)の功績碑もありました。

余りに足元が濡れて重くなったので岸辺にある六所神社境内で雨宿り休憩、装備直しをしました。装備直し(乾燥、水切り、履き替え等)は昔取った杵柄で心得たものです。ポケットティッシュ、前日の下着、靴下等を取り出して靴やズボンの裾の水気を取り除いたり、お茶を飲んだりして小1時間休憩をしました。靴の爪先に新たにティッシュを詰め、靴下を履き替え、やや乾いたズボンを穿き直して出発(10:00)。すぐ近くに、天竜川の治水事業に尽力した金原明善の生家と記念館がありましたが、生憎、休館のため建物の正面を見ただけで先を急ぎました。

 浜松宿の外木戸跡(11:30)を通り浜松市街に入りました。浜松宿も東海道浜松城大手門跡で直角に曲がり、かつての中心街に入ります(浜松城徳川家康が岡崎から入り静岡・駿府に移るまでの17年間在城(1570-1586)。折から丁度昼時に当たり、多くのサラリーマンが街中の食堂を探し訪れる姿が見られました。大手門跡から連尺町、旅籠町、伝馬町界隈には箱根と並ぶ6本陣があり 、往時は城下町、宿場町として大変賑やかに栄えた道筋ですが、現在は中心が少し東のJR、遠州鉄道駅寄りに移っています。旧東海道の西側は少し高台になっており五社・諏訪神社松尾神社が東に向いて建っています。諏訪神社で諸願を祈願し、境内でオニギリを食べお昼としました。

 浜松駅で隠れた名品「あげ潮」を買い求め宅急便で送りましたが、往時は旅の名品、お土産をどのように持ち運んだのでしょうか。ご当地で賞味味わい堪能して土産話の種にしたのでしょうか。

 昼食後、この日の宿、舞阪宿を目指して歩を進めました。折から雨が上がりポンチョを外し雨傘を杖代わりにして一路、県道257号線を西へ。二日目にして再び足に豆が出来てしまいました。毎回のことですが、やわな足の裏側です。さすがに午後になると少し痛みが出て歩く速さが落ちるような気がしました。浜松から以西、浜名湖までは内陸側に東海道新幹線と在来東海道線が平行して走ります。高塚を過ぎると旧東海道は県道316号線となり街道の海側には水田が広がっていました。JR舞阪駅近くになると宿場の街並み景観が出てきます。舞阪の宿は5-600mしか無いですが落ち着いた宿場。地形的には浜名湖周辺の低地で地名が長池、砂洲が陸化し街道筋にクロマツが植えられています(700m区間に340本、正徳2年(1712)当時は1420本)。本陣、脇本陣の隣に雁木跡が3ヶ所(北、南雁木と本雁木)あり、かつての浜名湖渡り(今切の渡し)の面影が残っていました。時間は16:30、足の豆が痛くてトボトボと弁天橋を渡る頃、弁天島と鳥居をシルエットとして秋の西空に沈みゆく、真っ赤な夕日が私を迎えてくれました(写真:下左)。宿の開春楼に17:15分到着。この日の歩数は43,155歩、8時間の雨中(宇宙)遊歩でした(苦笑)。明日は快晴だーートオモフ?。

 

 3日目:快晴でーす。早起きしてホテル前の浜に出て散歩。バイキング朝食を早々に済ませ出発(8:00)し、隣の弁天神社(1708創建)に参拝。正岡子規の句碑があり、東京へ上る途中、列車の車窓から浜名湖を眺め句を詠んでいます。

 「天の川濱名の橋の十文字」1895年秋

 江戸時代当時は舞阪宿から京都を目指す新居宿(新居関所)との間、浜名湖渡し船(今切りの渡し)で行き来し、渡船場(雁下という:乗降の為、傾斜をつけた石畳乗り場)は身分により3つに分かれていました。昔の渡船、今は無く代って早朝の漁に出た小さな漁船が波を立てて行き交っていました。JRや新幹線と並んで国道1号線を歩き浜名湖を渡り終え、新居関所に着きました。箱根の関所は何度も見ていますが新居関所は全く知りませんでした。この関所は今切関所といわれ慶長5年(1600)設置、建物(面番所)は何と1855年安政2年)建て替えられ、現在国の特別史跡に指定(1955)されています。平地の関所で敷地、建物、間取りいずれもゆったりとした空間となっていました。新居宿も路がL字に曲がり地形に沿って山際を巻いて通っています。その山裾に鎮座する諏訪神社の「筒花火」は有名な行事です。

 旧東海道国道1号から分かれ丘陵の麓に沿って白須賀宿まで続く旧浜名街道で、松並木が続いています。道端に突然歌碑が表れ、藤原為家、阿仏尼の2首がありました。

  風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのほるあまの釣船  前大納言為家

  わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで  阿仏尼

為家の歌は続古今和歌集19巻にありますが、為家は藤原定家次男で(1198-1275)、阿仏尼(1222--1283;十六夜日記作者)は為家の側室で夫亡き後出家し、鎌倉へ行く途中に詠んだとされています。東海道を種々な人が、色々な想いで往来し現在まで来ています。

 道の近く南側(500m)には波風が強い遠州灘が位置し、広い海の景観が広がっており、明治元年(1868)10月1日には明治天皇がここで野立の休憩をした所がありました。この行幸では10日間で京都からこの地に入り(岩倉具視も同行)、その後13日かけて東京に到着しているようです。私も倣って休憩し、道端の草叢を歩いて膝までビッシリくっついた大量のヌスビトハギの種を一生懸命取りました(笑)。

 新居は昔「荒井」と書き、白須賀宿も以前は海辺近くにあったようですが(元白須賀)地震津波(宝永4年:1707)で壊滅的な被害を受け、内陸(現白須賀)に移っています。元町で道は曲折し丘を登り、遠江国の西端白須賀宿に下ります。丘の上からは遠州灘が見え(潮見坂)、峠からは富士山が見える最西の地となっていますが、生憎私は見ることはできませんでした。白須賀宿は丘陵下の街道に沿って細長く伸びた静かな可愛い宿場といったところでした。境川三河の国と遠江国の国境になっており、道は丘陵の上に上がり国道1号線と重なりました。暫く歩いて再び新幹線、在来線と交差し二川宿に入りました。「三河」の語源は三本の川(乙川、豊川、矢作川)がこの地域にあることに由来するようです。

 二川宿は落ち着いた、こじんまりした静かな宿場(1.3km)で、戦災を免れ街筋、建物の昔の面影がきちんと残されています。街に住んでいる人の気持ちが良くあらわれ、昔の姿を残そうとする意欲、歴史を日常生活の中に残すという気概が佇まい、家並みの隅々に見られ感激しました。本陣は度々火災で没落し再建され、現在の旧本陣は1870年の廃止後もその姿を残しています。宿場の商家も大変良く残され、東駒屋味噌醤油醸造店(写真:下右)も見事な街並みと共に町屋の姿を構成していました。

 JR二川駅西の火打坂で道を取り違え国道1号(裏東海道)を歩いてしまい(表東海道は現在、東三河環状線)単調な午後の道行となりました。柳生川に架かる殿田橋で15:30、旧東海道になり吉田宿に入りました。吉田の名は以前今橋でしたが城下町、湊町、宿場町として大いに繁栄し、明治2年(1869)豊橋と改名されましたが、先の大戦で町の8割が空襲で焼失しています。そのせいか、街中の東海道は大変分かり難く、吉田城城門の曲尺手門跡から先の市内では、小街路をうろうろしている間に夕闇が迫ってきました。この日も夕方になって足の豆が痛くなり、よろよろの状態でABホテルに入りました。この日の歩数は45,055歩、8時間半の西行きでした。治療しましたが明日、豆はどうなっているのかな ~~~?。

 4日目:「天気晴朗なれど 足まめ痛し」。朝食バイキングを十分に堪能し、お腹は万全でしたが足元の具合が宜しくなく出発を遅らせ、この日の予定を実行するかどうか判断に 迷いました。この日の計画では、名鉄名古屋線に沿った旧東海道なので何時でも途中棄権できましたが、次回の「歩き」の繋ぎ方の関係から今回の歩き旅は「吉田(豊橋)宿」までとし、計画を中止して新幹線に乗り帰途につきました。今まで同様、小田原を経由し夕方柿生の自宅に戻りました(終わり良ければ総て良し。良かった良かった!)。

 豆知識:5時間以上歩き続ける「歩き旅」では、2日目頃から足に豆が出来ます。多くの場合、足の裏に水泡ができ痛みが伴います。運悪く途中で潰れる場合もありますが、そのまま推移する場合は、針などで水泡を潰し、水を出して乾かしバンドエイドなどを患部に張ります傷口の皮膚がピッタリ張り付けばOKです。

 

 

 

 

Stadt + Grün No.6

暫くご案内が滞っておりました海外研究情報、ドイツの造園行政機関誌「都市と緑」(Stadt und Grün)の、その後の内容報告です。前回までに2017年8月までご案内しております。今回は9月号の内容のご案内です。

 公園緑地に多くの歴史的遺産が共存する例は少なくありません。そのような歴史的空間が都市において重要な公園・緑地になって来ていることを、本号は改めてその意味を紐解き、みどりの重要性を考え、喚起しています。昨年(2016)のP.J.レンネ年に呼応して彼の新たな足跡が見つかったこと(トピックス)、新しい取り組みで見直す(報告4や5、7)などがあります。 また、新しい都市緑地、公園帯への取り組みとして国際庭園博(2027)を含めたルール地方の公園の歩みについて報告しています(報告6)。

 もう一つは2014年ルール地方を中心に発生した暴風雨(通称:エラ;Ela)による都市公園、街路などの樹木被害等の修複について報告したもの(報告3)です。

以下に報告の概要を書きました。

 

Stadt + Grün  9月号の内容

トピックス

プロイセン造園家、ペーター・ヨセフ・レンネ(Peter joseph Lenne)の最も古い最初の造園的作品が見つかった。ベルリン工科大学、都市および地域計画研究分野、文化財保存研究室(Fachgebiet Denkmalpflege der TU Berlin)のSylvia Butenschön さん

庭園文化史(;特に都市の公共緑地の歴史)を研究中です。

 ヨーロッパの都市公園史研究の中で。これまで1815年のWienにあるLaxenburger Schlosspark(ラクセンブルグ城公園)が彼の最初の作品とされていた。

王立美化協会(königlichen Verschönerungs-Kanzley zu Pest 1813)

1813年ブタペスト(ハンガリーの首都)の都市公園競技設計(Wettbewerb)に若い臨時造園師(junger arbeitsuchender Gärtner;初めての造園家)として参加。100haの公園の部分に小さな林(Stadtwäldchen)や曲がりくねった径(in weich geschwungenen Bögen)などがLenneの証としている。 

ドイツの墓地情報: 1/3がキリスト教団所有 (12.400/32.000)内訳8.800はプロテスタント、3.600はカトリック。キリスト教団による墓地はドイツの北部、東部それにバイエルン州では重要視、宗派による色々な状況の違い。各州、地域、町で有り様が異なっている。市町村は法的に亡くなった住民にたいし墓地を準備し対応しなければならない。

 

★ミュンヘン工科大学とフランス;テュリスドルフ大学で姉妹提携校10年。2007年最初の両国の造園資格卒業生が出た。 

★ドイツ造園部局長協議会(Gartenamtleiterkonferenz)協会10周年

協会発足と歩み、これまでの取り組みと成果を報告 

★ドイツ庭園・造園図書室が名称変更し、ドイツ造園図書ビブリオテークとなった。

 

★FLLが都市及び広域都市圏での異常出水(豪雨や洪水)の対応にたいする指針(Regelwerkausschusses)を緑化技術、建設緑地サイドから作成;雨水対策(Regenwassermanagement)

 

【報告】

  1. Die Kinden-Allee zur Plassenburg am Kulmbach

  Uber ihre Entwicklung und Behandlung im Verlauf von 280 Jahren

Kulmbach Plassenburg間の菩提樹並木;280年経つ並木の発展史と取り扱い史

 著者:Reiner Herzog (2012までバイエルン州城跡庭園管理局局長)

 文化財としての街路樹(ヨーロッパ菩提樹)18-19世紀の姿、第一、第二次大戦中、

Kulmbach ~Plassenburg間の菩提樹の並木、1797年、1816年、色々な時代に色々な人が話題に取り上げ賞賛している。歴史的、伝統的取り扱い方を報告。

 2.Bewegung und Lebensfreude in Bad Pyrmont

   Entwicklung des denkmalgeschutzten kurparks

Bad Pyrmont保全の価値と意味、その発展過程と保養公園としての文化財保護

    著者:Michael Maekler maekler@staatsbad-pyrmond.de

 ヨーロッパ随一の歴史的保養施設・公園(Kurpark)としての評判、17世紀に既にFürst Friedrich zu Waldeck Pyrmontとして造られた。1717年の古地図には中心的並木(Hylligen Born;当時1000歩の散歩、現在でも500歩の長さ)が示されている。

1790、1886、1949各年の改修で並木の長さ、2400m。2列植栽、6m間隔の植栽、1904ヤシの庭、1930年シャクナゲの径、1912年12本のヤシ。その後500本、50種のヤシをイタリアから導入。Dieter Hennebo教授(元ハノーファー大学教授)が文化財庭園の発祥者。

Refugiumの改修計画(2006)としてアジア的植物の導入。日本の樹木?の植栽(2007-2008)竹や銀杏?石庭と池

3.Wiederherstellung der historischen Parks in Düsseldorf

  Nach Orkan Ela wird in den Anlagen nun nachgepflanzt

  著者;Silke Thyssen silke.thyssen@düsseldorf.de

2014年6月9日、ドイツ中西部、ルール地方をおそった強風(暴風雨)Elaは地域に膨大は被害を与えた。3年経ってもまだその全容は明らかでないが、特に歴史的公園に於ける高木の倒木被害は大きい。およそ330万ユーロ、市民の支援の声で財政的支援を受けた。関係団体(自然保護も含め、各種の歴史保存団体)の支援を得て補植された。

27haのHofgarten(18世紀からの町中、旧市内の緑地、樹木、古木など)Rheinparkの保全経緯、20世紀の初めからの動き、1904年の国際博、戦後の動きなど。

2014年10月にElaプロジェクトグループ発足、2017年春までに670万ユーロの植栽資金で街路樹、公園内樹木植栽され、さらに2020年までの財政支援計画がある。 

 4.Der Gutspark in Hohendorf

   Instandsetzung eines gartenkulturellen Erbes 

   著者;Martin Jeschke  m-jeschke@web.de

Hofendorfの歴史、歩み。位置はVorpommern-Rügen郡にあり、Gross-Mohrdorf市に属する。城の歴史は1321-Witzlaw Rügen地域の領主 1733年以降はKlot-Trautvetter家の所有。1854年所有者により古ネオゴチックスタイルで建てられる。DDR時代は養老施設として利用。ドイツ統一後、昔の所有者が買い戻し修復、建物は1993年450万マルク修繕費。ホテル、レストラン、2016-2017年から33軒所有の分譲住宅として利用、音楽堂、事務所として活用。2016.6.17レンネシンポジウムでノイブランデンブルク大学によりP.J.Lenneの所業として話題にされた。

周辺庭園の公園化。P.J.Lenneは王立プロイセン州庭園局長(Generaldirektor der königlich-preussischen Gärten)、公園内の樹木管理、どの時点の植栽状況にするか?維持管理法

5.Frankfurter Huthpark  

   Nach einem Jahrhundert gereift und saniert 

   著者;Thomas Herrgen  t.h.l@online.de

フランクフルト市にあるHuthparkについて。100年経過した公園の歴史と維持管理。

文化財的価値を持つHuthpark、19-20世紀の間、特に第一次大戦後、都市の緑の近郊レクリエーションとしての重要性。フランクフルト市の北部、1910年~1913年にかけて出来た。戦後多くの人がフランクフルト市、近郊に住宅を建て住む。当時の公園局長(Carl Heicke 1862-1938) 

市のコンセプト造る。18.2haの公園。 2009年以降、再生プログラム。100周年を記念して。

6.Grüne Inseln inder Industrielandschaft 

    Zur Geschichte der Stadt- und Volksgarten im Ruhrgebiet

  著者:Wolfgang Gaida gaida@rvr-online.de 

ライン地域の都市公園と昔からの代表的な国民公園(Volkspark)について。その歴史と歩み、1910年のエッセン公園の図あり。デュイスブルクからハムまで東西に並ぶ工業都市の都市再生と公園緑地整備について。各都市に於ける都市公園、Kaiser-Willhelm 皇帝記念公園など

7.Der Müseumsgarten der Kunsthalle Bielefeld  

   Vom Stadtgarten um 1900 zum modernen Skulpturenpark

  著者:Anne Steinmeister   a.steinmeister@gmx.de

  ビーレフェルト市における都市の公園緑地(1900年の都市公園から近代の彫刻公園まで) 

博物館の庭と文化センターの歴史的歩みと周辺公園について

8.Wenn die IGA kommt und ein Park integriert wird

  Garten der Welt/IGA Berlin 2017

  著者:Beate Reuber、Sibylle Esser   esser@bundesgartenschau.de

今年(2017)ベルリンで開催されたIGA Berlinについてのインタビュー記事、IGA2017Berlin の様子について報告。

 

10月号以降は、また乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

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展覧会巡り  8

    年金族は自由時間が沢山あって、「良いですねーー」って言葉が返ってきそうです。好き勝手な内容、時間、そして長い報告文。どこを向いて書き連ねているのかよく分からないですね。自分勝手に思いつくまま、気の向くままに書きなぐっています。

 巡り巡って8回目、以前鎌倉文学館での夏目漱石に関する日記、書簡の展覧会の様子を書き認めました(展覧会巡り 3)。今回は、漱石と同い年で日本の文学界に大きな足跡を残した正岡子規との二人の手紙のやり取りを中心にした展覧会を見てきました(新宿歴史博物館;漱石と子規 --松山・東京 友情の足跡 10/12)。

 

 大変興味深い、中身の濃い素晴らしい展覧会でした。前の鎌倉の展覧会で夏目漱石の姿は少し理解していましたが、正岡子規については殆ど知りませんでした。松山生まれの俳人であること、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句程度しか知りませんでした。まさか夏目漱石と同い年で、同じような学歴で過ごし、日本文学の新しい姿を目指していたとは新しい発見でした。

 私は、以前の記述(展覧会巡り 3)で二人の関係を好敵手(ライバル)と表現していましたが全く違っていました。同じ年(1867;大政奉還の年;慶応3年)に生まれ、東京での青春時代を共にし、文学や俳句を間にかけがえのない友人関係を培い、一方で病や精神的な悩みと闘いながらそれぞれの道を切り開き、努力を積み重ねながら日本文学に大きな足跡を残しています。共に一時期、新聞社で働きながら自らの著述を公表し、あるいは独自に雑誌・単行本を作り発表しています。

 

 この展覧会は主に二人の書簡を中心に、その生涯を5つの章で構成し、書簡の他、関係資料や遺品を添えて展示されていました。その内容は第1章;さあ、明治時代の東京へ、第2章;「漱石」・「子規」誕生、第3章;松山での日々、第4章;遠く離れた地から、第5章;絶筆三句、漱石の出発、でした。

最初のコーナーは、激動の明治時代の幕開け、社会のめまぐるしい変貌の中での20代の姿(予備門の頃の寮生活、集合写真での姿、第一高等中学校卒業名簿、証書など)。二つ目のコーナーは、「漱石」、「子規」の誕生です。それぞれ本名「金之助」、「常規」から漱石、子規に名前を変へ自らの作品を発表(子規の「筆まか勢」、「七草集」、有名なホトトギスは「鳴いて血を吐くホトトギス;時鳥に由来=この頃、自ら、結核で喀血)。子規は漱石の文章(木屑録)を見て彼を「千万年に一人」と評しています。1890年頃(22-25才)の書簡等を通して、二人は文学論や作品の相互批評、さらには趣味の落語や歌舞伎、義太夫などを楽しみながら生活し、いろいろ書き表しています。

 若い頃の積極的で広範な知識欲、いろいろな日本の文化とその良さ、素晴らしさを吸収し作品の中や自分たちの生活に取り込んでいます。

 

 こういった姿勢は、時代は変わっても、現在の若者にも是非欲しいものだと思います。実物(本物)主義、現物至上主義は、今こそ大変重要だと考えます。若い感性がある内に一流と言われるものを見聞きすることが極めて大切だと思います。それを自分のものにし生きたままを写すこと、「写生」は絵でも文章でも大切です。

 

 第3コーナーは、愛媛県松山市時代のものが中心です。子規は中国従軍(日清戦争)からの帰還途中、再び喀血し神戸から故郷松山に戻ります。漱石は、あの有名な作品を生んだ尋常中学の英語教師として松山に入ります。子規と漱石が52日間共同生活をした頃、漱石、子規共に28歳。漱石が俳句にのめり込むきっかけとなった「愚陀仏庵」での二人の生活とその頃の俳句を通してのやりとり、書簡。

「雲来たり雲去る瀑の紅葉かな」漱石 「追いつめたセキレイ見えず渓の景」子規

「見渡せば雪とまかふしらいとの池のたにまの紅葉かな」「われきくに秋をつき出すたきの音」子規(白猪唐岬二瀑より)

 

第4コーナー、漱石は松山・愚陀仏庵から熊本へ移り29歳で結婚、33歳(1900)の時イギリスへ留学、子規は52日間の漱石との愚陀仏庵の生活を終え上京、その上京の折、奈良に寄り、あの有名な句を詠んでいます。漱石のイギリス留学中、1902年に子規が亡くなりますが、亡くなるまでの間、子規は遠く離れた親友の漱石に宛て書簡を送り、漱石の返信の内容に大変興味を持って返事を催促し待望していた様子がありました。子規は亡くなる直前に「草花帖」で野菊を描いています(1902.8.10)。絵の説明書きには、この日、丁度今年(2017)と同じように衆議院の総選挙があり、「庭前に咲きありし一枝なりを折りせしもの来たりて」の中村不折(画家)の賛が付いていました。

 

 最終コーナーは、子規の絶筆と漱石の新たな出発となっていました。子規の絶筆三句は、一つの絵の中にあって、真ん中、左、右に分け、病床で書いています(1902.9.18)。

真ん中は、「糸瓜咲きて痰のつまりし仏かな」

左側には、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

右側には、「おととひのへちまの水も取らざりき」

 

 漱石は子規亡き後、「吾輩は猫である;1905年」「坊ちゃん、草枕二百十日等;1906年」を発表、以後神経衰弱、胃病、胃潰瘍など病に悩まされ闘いながら「門」「三四郎」「虞美人草」「彼岸過迄」「行人」など多くの作品を残し、1916年師走9日「明暗」執筆中49歳の若さで亡くなっています。

 

 今回の展覧会後、私の70年余の来し方を見ながら、同じ生く道を親友、朋友、好敵手、師弟等の関係を持ちながら、しかも自由に討論できた「友」がいただろうか、と自問するばかりです。1.5年のドイツ滞在やその後のドイツ友人との交友関係を考えると身近に同年代の友人(漱石・子規に似た)が居ないことに一抹の寂しさがあるのも事実です。とりわけ年金生活に入り、来し方や行く末の何ぞや、何たるやと考える時。

 

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展覧会巡り  7

 芸術の秋は絵画展、科学展など多数の催し物が企画され、大都市東京の大小、公私を織り交ぜて、いろいろな美術館、博物館で開催されています。今回は日本画の代表的な「琳派」の作品を見ることにしました。「琳派」は京都で活躍した尾形光琳を中心とした流派の絵画作品を総称します。江戸時代、京都と並び文化の中心「江戸・東京」においても「琳派」の画家たちの活躍、作品は目を見張るものがあり、今回の「江戸の琳派芸術」と題して絵画展が開かれています(11月5日まで:出光美術館東京丸の内)。

 

 その中心的人物は、酒井抱一と弟子の鈴木其一でしょうか。出光美術館が所蔵する抱一らの数多くの作品34点が公開展示されています。展示は5つのテーマに分けて行われ、①光琳へのまなざし---<江戸琳派>が<琳派>であること(5点)、②<江戸琳派>の自我---光琳への憧れ、光琳風からの脱却(15点)、③曲輪の絵画---<江戸琳派>の原点(4点)、④<琳派>を結ぶ花---立葵図にみる流派の系譜(5点)、⑤子弟の対話---抱一と基一の芸術(7点)でした。

 ①では、やはり夏秋草図屏風草稿と風神雷神図屏風でしょうか。夏秋草図は草稿で本体は重要文化財として上野国立博物館にあります。「風神雷神図屏風」と言えば、あの有名な俵屋宗達ですが、その原画を尾形光琳が模写して屏風にしています。その屏風の裏面の表装に抱一のこの絵が描かれたようです。抱一の絵で、夏草と秋草がそれぞれ雨と風を背景として描かれ、それは表裏一体として光琳が描いた「風神雷神図屏風」と深い関係にあると説明されています。つまり元々表裏一体であったものが別々に表装され屏風になっているようです。その性で夏草は雨に濡れた様を見事に表し、秋草は強い風に煽られ揺れる様を表しています。そうです、表の風神と雷神を意識して裏絵として描かれているとのこと。説明され改めて屏風絵を見ると「なるほど」と首肯し合点がいくのは妙です。初めて知りました。 入口を入って最初にこの二枚が並んでいるので良く理解できました。

 ②では鈴木基一(1796-1858)の三十六歌仙図と秋草図屏風が秀逸でした。抱一門下の俊才で抱一に肩を並べる画力がよく分かる作品群でした。36人の歌仙それぞれが穏やかな笑みを湛えそれぞれ気儘な姿で描かれています。秋草図は抱一の作品を髣髴とさせるものでした。

 ③では抱一が名門武家で姫路城主酒井家の次男として生まれ(1761)、20代まで兄の庇護も受け江戸で奔放な生活をすごし文化人として成長した一端が絵画としてありました。同朋の鳥文斎栄之の絵と同じ吉原の遊女(27才の作品)や風俗を描いています。

 ④は植物の芙蓉、立葵の絵でした。尾形光琳・乾山兄弟の命月(6月)の花として芙蓉・立葵はいろいろな形で描かれています。光琳・乾山兄弟への思慕の深さ、畏敬の表れがわかる展示です。

 最後のブロックで感激したものは、抱一の「十二か月花鳥図貼付屏風」です。日本画に限らず絵画では「花鳥風月」「草花」など四季折々をモチーフに描いていますが、この作品は、既に19世紀に「ビオトープ」の捉え方(いろいろな生き物と日常生活)があったことを示していて感激しました。

 1月はカラ類、ツバキ2月はスズメ、ヒバリ、ナズナ3月は桜とルリビタキ4月は牡丹、アゲハチョウ5月に菖蒲とシギ6月は紫陽花とヤンマ(トンボ)7月は向日葵、朝顔そして茎の隙間にカマキリ8月に月、ススキ、キキョウの下に鈴虫9月は菊とカラ類10月は柿とメジロ、11月にヨシの間にサギそして12月には鴛鴦の周りに梅とヤブコウジ

 身の回りの身近な生き物を季節の移り変わりに描き、変わりない穏やかな生活を送る姿、その絵を愛でる人の心持に、今の自分の生活を考えてしまいました。

 

この展覧会の前に、今評判を呼んでいる映画「関ヶ原」を見て、300年近く続いた江戸時代の原点をあらためて感じ取りました。江戸時代:17-19世紀の日本文化の奥深さと素晴らしさを再確認しています。

 

 

 

 

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Stadt + Grün No.5

 ドイツの造園専門誌の内容レビューが暫く止まっていました。秋口になり、5月以降の雑誌が溜まってしまいました。大学も後期の授業が始まりました。キャンパスも再び賑やかになり図書館もいつもの姿に戻っています。今回は、S+Gの続編になります。雑誌の5月号から8月号までの目次・内容などの概説とその月の記事(トピックス)を載せました。

 ご興味のある報告は雑誌を直接ご覧頂くか当方へご連絡ください。連絡は当方のメールアドレス(biber1122@mri.biglobe.ne.jp) です。該当する報告の翻訳内容と著者のメールアドレスをご連絡します

 

5月号 

【記事】

5月から半年間のIGAがベルリンで開催。中心テーマは近郊レクリエーション地(緑の木曜日)開会式招待参列者(5000人)Michael Müller ベルリン市長、85%が新設、閉会後も公園として利用。つまり、ロープウエーも含めベルリン市は会場をレクリエーション地として利用。ベルリンの壁崩壊後28年、統一後初めてのIGA、(100haの会場広さ)、地区名:Marzahn-Hellersdorf、25000㎡に樹木1500本、バラ6000株(新植)、草花35000株、球根300,000球。6ヶ月の来訪予定者数235万人、IGA-Agendaは大会後、種多様性公園を計画、大学・ベルリン自然保護協会、関係部局も支持、以後の中長期的維持管理方針として決めている。郷土種の導入の徹底、維持管理でも自生種を主にする。建物の屋根屋上は生物多様性を活かした緑化とする。

【トピックス】

★造園家による国際庭園キャビネット開催。イギリス、タイ、中国、ブラジル、チリ、オーストラリア、リバノンから造が参加した。

★IGAで“mertopolitan open space“ エクスカーション:5月18-21日 キャビネット参加者による視察、

★„Grün in der Stadt Essen“で第2回連邦会議開催。5月8-9日 モットーは「Stadtgrün     –Für eine lebenswerte Zukunft“  Beissbuch(環境白書) Barbara Hendricks(環境大 臣)講演;2016.6月号S+G誌参照。

★10月20-21日、ミュンヘン市で遊び場、遊具と安全性に関する専門家会議開催される。

★運動広場スポーツ競技場の騒音基準決まる:夜は20時~22時、祝祭日・日曜の午後13-15時は5デシベル以下。

【報告】

1.Wasserspielplatz mit integrierter Flusssanierung in Sinsheim:

    Eine Bewegununs und Begegenungsanlage für alle Generationen

   著者:Elke Ukas 

 ジンスハイム市における河川改修と水辺広場(平面図あり)Elsenz川を挟む1.1haの都市公園を河川改修と合わせ都市再開発的に再整備。ジンスハイム(人口35000人、ライン・ネッカー地域、D.Hopp財団支援による事業、 

2.Wasserspielplatz – Eine Tradition wird fortgesetzt

Seit 1955 werden in Düsseldorf Spielplatz für kühle Nass geplant                  著者; Thomas Hechtle  

 Düsseldorf市の児童公園内で水を使った霧状噴出施設の変容(1955年以降現在まで)

3. Ein Dirtpark für Kassel 

Untersuchung eines hindernisreichen Entstehungsprozesses   

 著者:Maximilian Grafinger

Kassel 市におけるマウンテンバイク施設、用地確保、創設の背景と利用整備経過調査(2009 

~2016) 

4.Park und Grünflächen als Sport-und Bewegungsraume 

Zur Weiterentwicklung des Wilhelmsburger Inselparks

著者:Beate Wagner-Hauthal

公園内における多様なスポーツ利用についてWilhelmsburg市のInsel公園における提案、ハンブルク近くの都市、20のスポール団体が利活用、スポーツ、体育、健康、レクリエーションをテーマ

5. Neues Bewertungssystem nachhaltiger Sportfreianlagen 

Hochschule Osnabrück entwickelt Parameter für langfristige Nützung 

著者:Jutta Katthage

オスナブリュック大学がスポーツ施設の長期的利用の在り方について提案(生態的、経済的、社会的意味を総合的に盛り込んだ提案) 

6.Umwandlung von Spielfeldern in Kunststoffrasenoberflächen  

Neuer Investitionsschwerpunkt beim Sportstättenbau in Hamburg 

著者:Torde Hauschild

スポーツ施設での人工芝への転換(ハンブルク市における新たな支援の重要点)

7.Spielräume in der Stadt  

Zuwischen Hinterhof und verkehrsberuhigter Zone  著者:Hanns-Werner Heister

都市内に於ける道路静寂化地区および集合住宅中庭における遊戯広場の状態

8.Theoriebildung über Landschaft

Zwei Tagungen zu "places of public life" und "konzepte der Moderne"

著者:Lars Hopstock 

公共緑地の景観的変遷、二つの研修会議を通して緑地の在り方を考える

 

6月号

【トピックス】

★連邦大臣Barbara Hendrick(環境相)が都市緑化白書(Weissbuch Stadtgrün)を 5/8エッセン市で公表した。連邦政府は行動施策(Arbeitprogramm)で10の対応策(Massnahme)決める。5000万ユーロ提示。

”Integrierte Planung für das Stadtgrün“, „Grünräume qualifizieren und multifunktional gestalten“ Mit Stadtgrün Klimaschutz stärken und Klimafolgen mindern“ „Stadtfrhün sozial verträglich und gesundheitförderlich entwickeln“

★ハンブルグ墓地に関する動き:Ohlsdorf 2050に関する市民参加大会(専門家会議100人参加した)将来の墓地整備に対する意見交換会。ハンブルグ市の墓地候補Ohlsdorf。他の都市でも墓地用地の確保の問題あり。 

★州の庭園博開催に問題あり。204年エアランゲン(バイエルン州.)開催するかどうかの討議。計画から維持管理まで市民参加の可能性や市民の判断待ち。同様なのは2020のシュレスビッヒホルスタイン州のキール市でも同様。

★昨年来、州の庭園博開催については問題含みが多い。

★2017年ドイツ造園学会賞はケルン・ドイチュ地区のライン川縁のプロムナードRheinboulevard)

延長500m、面積 2haの河端に決定。

【報告】

1.Zum Planungsverständnis urbaner Grün- und Freiräume

 Von biologischer Vielfalt, Nutzbarkeit und Ästhetik  著者:Katrin Korth.

都市内緑地、オープンスペース確保の計画的整備について。生物多様性、利用促進、さらに都市景観的側面から。

2.Landschaftentwicklung und Freiraumplanung in Berlin 

Strategien für das Grün in einer rasent wachsenden Stadt  著者:Ursla Tenker

 ベルリン市(市域の44%が緑地・オープンスペース、内訳;18%森林・林、7%公共緑地、7%水面;湖沼・河川、4%農業地区、3%放棄地・未利用地、3%市民農園、1%道路緑地、1%墓地

 1742年のTiergarten新設に始まる都市公園緑地。1世紀後、PeterJosef Lenneによる最初のベルリン・ポツダムの広域緑地計画、1920年代におけるMartin Wagnerの緑地計画とその継承。

 2021緑地憲章(ベルリン都市の緑Fliessdiagramm Charta)に沿って、1プログラム(景観)、1プロジェクト(緑地整備)、1キャンペ-ン(都市の樹木)、1計画(市民農園開発)、1保全(保護地区)、1指針(都市景観)を実施中。

3.Grünflächeninformationsystem(GRIS)am Beispiel Berlins

Instrument für ein effektives Grünflächenmanagement   著者:Anke Wuennecke

1993~2017の緑に関するシステム(GIS、IN, 写真データ、他)ベルリン市内の緑に関するデータの効果的集積とその方法。GISの多面的応用、活用、デジタルデータの詳細と2)のChataとの関係。

4.Das „Handbuch Gute Pflege  “著者:Karin Ruddeck

Pflegestandards für die Berliner Grünflächen und Freiflächen

ベルリン市の緑地維持管理に於けるハンドブック。

ベルリン市には11,300haの公共緑地、438,000本の街路樹、12の区に、235.000~390.000人居住する。

5.Der Mitwirkungsprozess „Deine Geest“ in Hamburg

Eine Million Euro für Bürgerprojekte im längstern Park der Hansestadt 

著者:Cornelia Peters

ハンブルク市(ハンザ独立都市州)の都市公園における1万ユーロの市民プログラム

6.Grünverbindungen in der Flächnnutzungsplanung   

Empirische Ergebnisse zur Sicherung von Grünverbindungen  著者:Charlotte Mueller

土地利用計画における緑地整備、緑地網取り込み確保についての経験的成果

7.Wie das 20.Jahrhundert zur Aera der Stauden wurde               

Entwicklung der Satudenproduktion und –verwendung in Österreich

 著者:Anja Seliger

オーストリアにおける高草丈草花生産と利用・活用について。これまで(20世紀)の歩みと今後。         

8.„Zukunft Lebensraum Stadt“ und „urbene Agrikultur       

Fachtagung Gartenbau und Landschaftsarchtektur in Osnabrück 

著者:Anke Buehrmann

「将来の生き生きした活力或る都市と都市農業」に関する庭園・造園家会議の報告。

9. Histolische Mühlen beleben ihren Standrot 

Technisches Interesse und Sehnsucht nach alten Zeiten kockt Besucher

 著者:Darijana Hahn             

造園史;Muehlenのこれまでの歩み

7月号  

【トピックス】

 2022のバイエルン州庭園博の開催都市、Darmstadtが断念したためFuldaが変わりに開催都市となった。

Geisenheim大学(Hochschule Geisenheim)に文化景観センター発足。文化景観保全に関係する30以上の共同研究施設、大学と共同研究を進める。Eckhard Jedicke HS.Geisenheim, Landschaftentwickerung教授、2-3の州の関係部局、自然保護部局、学協会など参加。

【報告】

1.Im Görli ist jeder Busch politisch  

Der Görlitzer Park  Garten der Flucht und des Standhaltens 著者:Bernhard Wiens

 ベルリンのGoerli 広場の取り扱いについて。

2) Neuer Serpentinenweg verbindet zwei Ravensburger Wahrzeichen

Spazieren und Lustwandeln vom „Mehlsack“ zur Veetsburg 著者:Annette Strasser

Ravensburg市の高台にある文化財建造物・城と市のシンボルとしての傾斜路(園路)とその施設。石積みとベンチ、歴史について。 50.000人の市民、(ボーデン湖畔の都市、南部シュバーベン地方、)

3) Ein Innenhof als Kindertrost

Clementine Kinderhospital mit grünem Patio für viele Nutzungen

著者:Thomas Hergen

都市内にある緑の子供病院の中庭再生。400㎡の中庭、28m×14mの区画、花壇と遊具。

4) Sportpark Parksport Sport im Park

Formen der Integration des Sports in den offentlichen Raum 著者:Robin Kähler

スポーツ公園、公園でのスポーツ、公共空間におけるスポーツの在り方

 5) Gartenkunst in Japans Hauptstadt Tokio 

Vom Kaisergarten zu Wandel Zen und Teegärten  著者:Horst Schmidt

2017春に訪問した東京の庭園の解説。元Kahrsruhe市公園局長。毎年日本庭園(京都)をドイツ人に案内している

6) Ein Monarch mit grünem Daumen

Auf dem fartenkulturellen Spuren von Kaiser Granz 1  著者:Shristian Hlauac

Franz josef Ⅰ世皇帝の庭園に関する功績、その歴史について。ウイーン市のBurggartenと皇帝(19世紀)、14世紀のLaxenburg、Persenbeugの城と庭

7)Flussbad Berlin

Zur Rückgewinnung des Innerstadtischen Spreekanals als Lebesraum

著者:Barbare Schneidler

ベルリン市内のスプレー運河・河川の再生利用。市内のスプレー運河とバイパス水路。1997年から計画、芸術家兄弟の提案、2011実現。水泳場、水質浄化施設、水際・水辺緑化公園地区、

8) Die Gemeinde Fichte ist Baum des Jahres 2017

Ihr Holz findet weitreichende Verwendung bis hin zum Geigenbau

著者:Renate Scheer

2017年の樹木にトウヒが選ばれた。広い範囲で使われている。

8月号

【トピックス】

ミュンヘン市のイングリッシャーガルテン(375ha)にトンネル工事計画。390mのトンネルをEnglichergartenの下に設け都市内交通を円滑にする計画。2023年に工事開始の予定。4-5年かかる見通し。

報告】

1)Umweltschutz und Sport  

Erzwungene Verbindung, Widerspruch oder Parterschaft?  著者:Tothr Hauschild

 スポーツ施設における環境対応、1991年来の環境対応の歩み。維持管理と営業、雑草対策、モグラ、・野ウサギ・野ねずみ対策。新しい視点と試み、法規制、大気汚染と浄化、雨水排水と貯留、造成工法と材料など。

2) Sport und Grünraumentwicklung   

Prozessorientiertes Planen am Beispiel der Gewässerentwicklung 

著者:Christian Siegel  

 スポーツ施設の効果、都市緑地の中での役割、スポーツ施設が結ぶ緑のネットワーク、緑地帯の中のスポーツ施設、環境貢献、環境白書での支持。

3)Nachhaltigkeit ja –Mehrkosoten nein 

Umfrage zur nachhaltigen Sportfreianlagenplanung  著者:Marcel Steffen

スポーツ施設における耐久性と経済性(維持管理費)

4) Gesundheitsprävention im öffentlichen Raum

Ein Studie zum Nutzungsverhalten in Kneippanlagen  著者:Grit Hottentrager . 

健康運動施設としての利用状況、4都市の公園内にある健康運動施設(Knaippanlage)の利用状況。

5)  Prozessorientiertes Planen am Beisspiel der Gewässerentwicklung

Renaturierung als ganzheitliche Aufgabe      著者:Henning Guenther  

水辺の修景計画、親水計画、近自然工法、水辺の自然再生

6)Brunnen und Wasserspiel – Funktion,Nutzung und Pflege

Welche Normen sind zu beachten und wie spart man kosten?  著者:Kartin Korth 

いろいろな噴水、水を使った施設について。  

7) Dauerhafte Staudenpflanzungen von Gartenshauen

Forschungen zu ehemaligen Schaufplanzungen         著者:Daniela Kuptz

1951年第1回連邦庭園博(BUGA)以来、使われてきた高草丈草花の広場面積はトータル2475haにも及ぶ。この報告はKuptz氏の博士論文で高草丈草花の使用目的、使用場所、使用方法などについて論述。

8)Die Gemeine Ficht ist Baum des Jahres 2017   著者:Renate Scheer

2017年の樹木にトウヒ(Gemainde Ficht)指定される。その歴史と応用範囲、立地と生育、利用のされ方など

 

以上のような内容になっています。9月号以降はの内容はまた、後日ご報告します。

ご関心のある方、ご意見などありましたら私のメールアドレスに。よろしく。 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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最近の心配事

食欲の秋、読書の秋、錦秋の景観など素敵な季節の到来となっていますが、日大造園研の卒業生の皆さん、お元気でお過ごしのことと思います。食欲も読書も、また素晴らしい景観を楽しむ「旅」も健康であればこそ十分に味わうことが出来ます。自らの歳もあってか、日常当たり前のように感じている「健康」に、時折心配事が入ってきます。 

 今年になって病・ガンに、より注目が集まっています。社会的に有名な人が、この病に襲われ、闘病生活がテレビや新聞・週刊誌で取り上げられ衆目を集めています。

 私のように70歳を越える高齢者はまだしも、家庭や社会で働く30-40代の若い親がこの病に襲われ闘う状況は大変です。小さいお子さん二人の若いお母さん、真央さんの闘病はその一つでした。他にもNHKやNTV(24時間テレビの番組中で)でも類似事例が放送されました。ガン専門医の先生であっても罹病は例外ではなく、ドキュメントを通して早期の健康診断の重要性や病についての知識・理解の大切さがたびたび放送されています。

 

 私の大学勤務時代、昭和60年以後研究室所属学生に女子学生が増え、女子の多い傾向は現在も続いており、明るく華やいだ色っぽい雰囲気を研究室に生み出してきています。卒業生の年齢から20-30代、結婚して子育てや家事、仕事に忙しい日々を過ごしておられる方も少なくないでしょう。普通、自分の体の状態にまで注意が行かないのは当然です。

 成人男女とも35歳以下では人間ドックのような健康の精密検査は普通ありません(簡単な健康診断のみ)。私の時代もそうでした。45歳を過ぎてから健康診断(ドック)が義務になったように記憶しています。

 病への対策は「早期発見」「早期治療」と言われています。前に書いた事例にあるように働き盛りの若い男女(結婚して親になっている方)の卒業生諸君には、無理してもこの健康診断・検査は是非してほしい、と思っています。

 「胃がん」検診・発見では胃の中のピロリ菌検査が重要だと言われています。私もこの歳になり始めて検査を受けました。最初の検査は失敗、再度やり直して菌がいないことが判明し安心しましたが、もし存在したら精密検査に入ることになったでしょう。

 自覚症状が無いのが胃がんの特徴でもあるようです。卒業生の若い夫婦の人達に、取越苦労、世話の焼き過ぎ、お節介迷惑、と言われるかもしれませんが、気に留めてもらい、病院に足を運んでもらえることを祈ります。

「そうだ! 健康診断・検査に 行こう」

 

年寄りの冷や水ですが、身近で心配事が気になり、こんなブログを書きました。

 

 

 

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展覧会巡り  6 

 芸術の秋、食欲の秋、天高く馬肥ゆる秋、読書の秋、いろいろ例えられる秋になりました。今年の夏は本当に不純な天気が続き、雨が多く晴れ間の極端に少ない夏でした。

昔、大学院時代に知り合った芸術一家の方と親交を深めており、毎年公募展の招待状を戴きます。大学で働いていた時代は何かと気忙しく慌ただしい毎日を過ごしておりましたので、展覧会に足を運べなかったのですが、退職してからは時間もあり例年、作品を拝見しています。今年は「院展」が東京上野の都立美術館、「二科会展」は六本木にある新国立美術館でした。

 院展東京美術学校(現;東京芸術大学)を辞した岡倉天心が中心になり明治31年(1898)設立した研究団体で、現在は公益財団法人日本美術院になっています。絵画、彫刻がありましたが、現在は日本画の公募展(秋)と春の院展になっています。

学生時代から、造園に関連して美術・絵画の素養や知識が必要と感じ、美術鑑賞や絵画教室に行ったりしましたが、今は専ら絵画鑑賞だけになっています。

 学生時代に見に行った院展では、今は亡き日本美術院の錚々たる有名画家(前田青邨奥村土牛小倉遊亀平山郁夫ら)が出品し、それは見事で豪華な展覧会でした。時代は確実に移って来ています。近年まで歴代の理事長も大作を出品し素晴らしい展示会でしたが、今年の秋は大御所の出品が少なく幾らか寂しい感じがしました。

 院展発祥の日本画は「朦朧体」(輪郭線を用いず色彩の濃淡によって空気や光を表現する技法)描法で、後に大きなうねりとなり海外で大きく評価され、今日も伝統的手法として位置づいています。岡倉天心が発祥した日本画の研究所第一部(絵画)は昭和25年に茨城県五浦に移り、その地で横山大観菱田春草、下村観山、橋本雅邦らが作品作りと研究に励んだとされます。この地の施設は文化財指定され、造園研究室の、今は亡き吉川 需先生文化庁におられる頃から周辺の景観、庭も含め保全、改修に尽力され、島田正文先生も関係されています。日大の造園研とも少なからず関係のある場所です。

 

 絵画は物を正しく、忠実に観察し写しだすことにはじまります。モチーフが何であれ「写生」が基本になると思います。私も静物画スケッチが好きで時々葉書などに描いています。

 今年前半には暁斎不染鉄等伯雪舟などいろいろ絵を見て、改めて日本画の良さを味わいました。

 

 二科展は知人が彫刻家であることから六本木の新国立美術館で展示公開されていました。この美術館は六本木(青山墓地日本学術会議乃木神社に近く)で建築としてもユニークな美術館でした。彫刻の部屋は木彫があり、木の香りが漂う、何とも心地よい空間でした。作品の素材は自然木の一木作品あり集成材作品ありで楽しく鑑賞できました。

 この彫刻家には若く無名の時代(1980年頃)に、研究室で創設した「横山賞」横山光雄先生の退職を記念して設けられた賞)の賞品(ブロンズ製の小皿)を作っていただきましたが、今では二科会の重鎮(理事)でとても作っていただくこと等無理です。

 一日、上野の山と六本木の緑の中で素敵な時間を過ごすことが出来ました。

 

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