水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り  13  熊谷守一

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 これまで「展覧会巡り」の題でいろいろなものを見て書いてきた。展覧会の内容の案内や鑑賞のポイントは新聞に掲載されるものを参考にすることが多い。3月3日付読売新聞「時の余白に;純粋の人とひろき人々と;編集員芥川喜好の解説記事」があった。画家、熊谷守一の回顧展に関連した記事で、芸術家とそれを支える無私の支援の人々の話である。その記事に興味を持ち熊谷守一に出かけようと考えていた。

 そのまま時間が流れ、2週間ほど経った3月15日、今度は新聞の文化欄に「熊谷守一回顧展;東京国立近代美術館」の評があり、彼の画業の経歴と私生活の歩みの中で「激情 鎮魂 愛らしさ;熊谷守一展、多面性に光」と見出しされ「没後40年回顧展」の記事が掲載されていた。会期の締め切りが近いことを感じながら、この回顧展を見逃し行けないうちに日々過ごしてしまい残念な想いであった。

 記事の中に守一の次女、熊谷 榧さん(豊島区立熊谷守一美術館館長)の話があり、池袋近く豊島区千早の同館を訪れ作品を見たいと思い足を運んだ。同館は熊谷守一が45年間住んだ居宅に建てられ(1985年)、守一の作品153点が豊島区に寄贈され(2007年)区立美術館となっている。

 

 熊谷守一1880年岐阜県恵那郡付知村の生まれ、父は初代の岐阜市長:熊谷孫六郎。彼は画家を志し上京、1900年父の反対を押し切り現在の東京芸大(当時東京美術学校西洋画科に入学、1902年には父の死、稼業倒産に会い悲しみと苦しみの中で勉学・研鑽を積み重ね、1904年卒業している。同級生には青木繁、有島生馬らがいる。

 館の1階には守一の油絵、彫刻などが展示されていた。小品ながら数点の彫刻「裸婦」は絵と同様、姿・形の特徴が良く表され魅かれた。墨絵を土台に彩色された生き物を題材にした掛け軸も素晴らしい。油絵の特徴は、モチーフが殆ど凹凸が無く平面的に彩色表現され、縁の線(赤や黒など)も単調だが力強く、それでいてすっきりしたライン、形は守一独自のもの。画面構成など簡素・単調であるにも拘わらず力感、質量感が感じられ見飽きない。色遣いでは色が混じることなく単色で構成されているが絵に奥行きの深みが見いだせる。2階、3階にも墨絵や書など展示されており、部屋に合った大きさの作品が殆どで見やすくゆったりと静かに鑑賞できた。

 晩年は殆ど家から出ることが無く、庭でもっぱら写生をしたり来客と談笑したりする日々であった、とある。家庭的には多くの悲しみ(子供の死)や辛さ(売れない画家生活)に会いながらも心静かに身近な生き物たちを描いている。彼の作品を愛して若き時代から守一の作品を集め制作を支援した人(例えば木村定三コレクション)に励まされ画業を続けてきた経緯がある。心広き人が守一の周りを取り巻いたのは守一の生き方、人となり(絵に表れる)に魅せられたことによるのだろう。それが新聞の見出しに表されたことであろう。新聞紙上でも話題になり私自身も一番見たかった絵「陽の死んだ日」は回顧展に出されて強烈な印象があるが、実物は愛知美術館にあり見ることは出来なかった。