水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り 18   ターナー 風景の詩

 日本の洋画家東郷青児は独自の女性画像で洋画界と言わずファッション界でも一世を風靡した画家として有名である。彼の作品を中心とした美術館が新宿にある。その名も東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館である。この美術館で4月から7月(4/24~7/1)までイギリス風景画の巨匠ターナー 風景の詩」と題する展覧会が行われている。東京での公開に先立ち北九州市立美術館(2/4迄)、京都文化博物館(2/17-4/15)で開催され東京開催後には郡山市立美術館(7/7-9/9)へ巡回して廻る。

 このターナー展は、18世紀半ばから19世紀半ばにイギリスで活躍した風景画家ターナーの作品(水彩画73点、銅版画等112点、油絵8点)を4つのテーマに分けて展示している。それは 1)地誌的風景画、2)海景--海洋国家に生きて、3)イタリア--古代への憧れ、4)山岳--新たな風景美をさがして、の4つである。

 ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775-1851)、通称 ウイリアム・ターナーはロンドンのコベントガーデンで生まれ13歳で画家(トーマス・モールトン;地誌的素描家)について風景画を模写したり描いて絵画の基礎を学び、24歳の若さで、あの権威あるイギリス・ロイヤルアカデミーの準会員になり、27歳で正会員となっている。24歳で描いた自画像(1799)を見るとなかなかのイケメンである。

展示作品で17-30代の風景画(水彩画8点油絵2点)はとにかく細部まで大変細かく描き込まれていた。第1章;地誌的風景画部門ではA3かA4大の小品だが、水面や空の表情、建物の細かい線、小さく描かれた人々の姿など注意深く観察して細部まで丹念に書きこまれ淡彩で彩られている。見ていて心が落ち着く作品が多かった(私も歳か?)。

 地誌的風景画は当時、測量や地図の作成が進められた時代で、イギリス各地の地形、植生、水系から成る風景の描写は名所案内の如く、その意味で重要であった。当時、本の挿絵として多くの風景画がエッチング(銅版画)で描かれ、写真の無い時代、各地の名所旧跡が絵で表され重要視されていた(第1章の展示作品の銅版画の多くは郡山市立美術館が所蔵)。40-50歳代の風景画もイギリス各地を巡るスケッチ旅によるものが多い。展覧会の出品作品案内にはイギリスの地図も載っており、ターナーが訪れた国内の町が示されている。それを見るとほぼイギリス全土、北はスコットランドからイングランドの東・西に及んでいる。また、テームズ河流域も度々訪れ描いている。1825年に40kmの鉄道ができ、1830年にはマンチェスター リバプール間に鉄道が開通しているが、それ以前は馬車か徒歩で全国各地を巡り描くしか手立てが無かった時代である。J,スティーブンスが蒸気機関車を、フルトンが蒸気船を作り出した時代(1740年代)。時、まさにイギリス産業革命の真っ只中の時代である。ターナーがいかに健脚で各地を歩き回り精力的に絵を描いていたかが分かる。彼の愛国心と美しい風景や自然に対する愛着が彼を駆り立てたのだろう。貴族社会で古典主義派の写実的風景画が人気を得た時代でもあり、17世紀クロード・ロラン(地中海風景・古代風建築)の絵画が、大きな貴族の館の壁に架かる絵(風景画、肖像画)として持て囃された時代である。同時代の日本の画家池大雅(1723-1776)も日本全国を旅して風景を描いているが、蘭学者を通じて西洋の遠近画法を知っていたふしがあるというのは妙である。

 

 第2の「海景--海洋国家に生きて」部門では海と空と帆船が主題である。先の地図でも海岸線、特にイングランド中西部から東部、またロンドンの東南部の海岸を頻繁に訪れ海景を描いている。静かな海の絵は殆ど無い。荒れ狂う海、大きな波と白い波頭、空を覆う真っ黒な雲と雲間の明るい空と差し込む光、波間で傾き大波に洗われる帆船、水面を飛ぶ2-3羽の海鳥。どの絵にも激しく、風雨と闘う人と帆船、自然の猛威が描かれ海に囲まれたイギリスが暗示される。ターナーは現場で簡単なスケッチをする程度、自宅アトリエでスケッチをもとに、自分の目で見て頭に入れた色、状況を思い出し作成することが殆どだったようで、スケッチを描く(記録)以上に記憶と感性(インスピレーション)に長けていたようである。

 ここでも銅版画(郡山市立美術館所蔵)が素晴らしい。ターナーの絵は銅版画で卓越した技術を持った彫版師(彫師)に支えられている。1mmの間に6本の線を描き出したり、点の数や大きさ、深さで空や水の濃淡を表す(彫り出す)彫師の技術には、日本の浮世絵木版画の彫師に通じる技術が銅版画にもあったことに大変驚ろくと同時に、洋の東西を問わず18-19世紀の技術職人の腕前には舌を巻く。「エディスタン灯台(1824)は秀逸である。難破船と灯台、その周りの荒れ狂う波、遠くの雲の切れ間から覗く星と三日月(26×35cmの銅版画メゾティント)。その小品の中に込められた自然の猛威、人間の無力さ、希望の空と星、ターナーの絵に込めた力が分かる。イギリス西部ミューストーン沖に浮かぶ灯台を時化の中、実際に見に行ったのだろうか。

 ターナーの銅版画は800点あり、常に80人からの彫版師が関わっていたと言われる。彼が銅版画に拘ったのは3つの理由があるようで、①自分の作品の普及、大衆の為の版画、②旅行ガイドとしての役割、国内外への旅行が流行る、③芸術的価値の認識 である。

 

 第3の「イタリア---古代への憧れ」。この展示部門ではターナー50-60歳代の作品が多かった。ターナーは1819年8月から1820年2月、44歳でイタリアへ旅行しローマを訪れている。この時代、欧州では「グランドツアー」と称してイギリスの貴族の子弟がルネッサンス文化華やかなイタリア・ローマへの憧れから国外旅行が流行し、多くの芸術家、文学者、詩人など有名人がフランス、イタリア、スイス、ドイツ諸国を訪れている(文豪ゲーテ1749年から2年間イタリア、メンデルスゾーン1831-1833イタリアなど)。

 どんよりとした曇り空が代名詞のイギリスと燦々と降り注ぐ太陽の光が代名詞の地中海の国イタリア、風景と歴史と自然(色や光)に憧れを抱くのは何処も、いつの時代も同じである。北ヨーロッパの国の若者が国外旅行に地中海を選び出かけることが出来たのは裕福な家庭、著名人であればこそであろう(逆の発想もあり、歴史と文化で伝統のあるイギリスを訪れた有名人も多い:例えば音楽家ハイドン;1794-1795、交響曲ロンドン、驚愕など作曲)。

 第4の「山岳ーあらたな景観美をさがして」では、20代から60代までいろいろな時代にイギリス国内はもとよりドイツ、スイス、フランス各地の景勝地、名所の景観を描いている。特にスイスアルプスの自然山岳景観(氷河景観)には強い関心を持って描いている。彼は風景画に自然の「崇高」さを感じそれを表そうとしている(「崇高」とは、畏怖を抱かせるような自然に「美」を見出す価値観である;解説より)

 彼は26歳時、初めてイギリス北部スコットランド地方への旅に出て(1801)古城景観や湖沼地方の風景を描いているし、スイスの山岳景観に魅かれ、たびたび訪れ自然の醸し出す崇高な景観を愛した。また、ドイツではハイデルベルク古城とネッカー河畔、ローレライ景観(1817年2度目の大陸旅行時に訪れている)を描いている。私も彼が訪れた場所を良く知っており、当時と全く変わっていない風景に驚くとともに、ハイデルベルク古城の絵の中にターナー自身の姿を描きこんでいるのには、驚きとともに愛嬌とユーモアのあるターナーを見た気がした。

 

(追記)この展覧会開催中に、映画「ターナー、光に愛を求めて;2014(英作品)の上映と解説があったようである。映画はWOWOWでも取り上げられ見た。映画を通してターナーを取り巻くその時代のイギリスの情景を理解でき、また彼の生き様の一端を垣間見ることが出来、彼の作品を観賞するうえで参考にもなった。人間的にも社会的にも波乱に富んだ変化の激しい時代であったことを知ることが出来た。

 また、この時代の造園庭園史(イギリス風景式庭園様式)の上での出来事がターナー作品と浅からぬ縁があることも改めて知るところとなった。これについては別途、纏めることとしたい(ターナー絵画と造園)。

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