水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り  5

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 前に「展覧会巡り 1」で雪舟等伯水墨画展について書きました。日本文化の多くが中国の影響を受けていますが水墨画も同様、宋、明時代(日本で室町時代)に発達した禅宗や中国の墨画との繋がりが深く牧谿や夏珪、周文、刑浩の名が知られています。矢代幸雄水墨画(1969)岩波新書)は「水墨画は東洋絵画の精粋である。それは東洋に特有なる材料および技術に成り、そのあらわすところは、東洋人に独特なる感覚および心境である」とあり、「絵画としてはなやかなる自然美の世界よりもう一つ奥の世界、すなわち精神の世界」であると述べています。そして「色彩、線および明暗濃淡の調子の三要素からなる芸術的性質からみて、水墨画は色彩から離脱し、線と明暗の調子とを大いに発達させて、それらにすべての精神的含蓄を託したところの、特殊なる絵画形式」であるとしています。しかも他の優れた絵画(大和絵や浮世絵など)と比較してその精神性の重要性を強調し水墨画を評価しています。少し長いですが引用してみます。

 「墨画の技術の背景に、心構えの問題があった。老蒼にして質実なる墨色を好むほどの人は、精神家として、しっかりした性格や信念を有する人間である場合が多く、このことは、墨画が主として禅門に育ち、また禅的修行によって精神の鍛練を心の願いとして持っていた武人たちによって好まれ、優れたる水墨画家のうちには、多数の禅僧、或いはその他の仏教者、さらに武士、或いは剣道家、等々が見いだされることによっても、この間の実情は、推測に難くない」(引用:1)

 水墨画は「眼前なる関心事は、眼前の実景を描写するよりも、否、描写するつもりでありながら、山というもの、樹というもの、水というもの、等々の、原初に戻ったような原型、或いは典型、を探求し、それによって、それぞれの本質的様相を把握せんとする努力に、いつの間にか推移転移する」とあります。(引用:2)  

 

 今回の博物館の新しい試み(綴プロジェクト;文化財未来継承プロジェクト)として、 ①超精密最新技術による絵画の復元(キャノン高精細復元技術;キャノンのカラーマッチングとインクジェットプリンター技術)、②海外に渡った名画の復製(フリーア美術館所蔵名画)、があり、更に③新しい絵画展示の試み、があると思います。

 ①については撮影機器、印刷機材・技術・機械、さらに修復・再現技術と素材があり、このプロジェクトが既に2007年から進められ2012年までに実現され、俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」を始め名画が作製されています。②については門外不出とされているフーリア美術館所有の名画;尾形光琳「群鶴図屏風」、菱川師宣「江戸風俗図屏風」、俵屋宗達「松島図屏風」など国宝級の名画を複製し、日本の美術館や寺院に収められています。③については、単なる絵画や屏風などを作品だけとして展示するこれまでの手法から、新技術や応用技術を使った立体的、感覚的(視覚・聴覚・臭覚)鑑賞方法を試みていました。

 上野国立博物館(本館;特別4,5室)において、長谷川等伯の「松林図屏風」;二曲六双二面と尾形光琳の「群鶴図屏風」;二曲六双二面を使っての展示でした。

 5室では、松林のアロマの香り、波や松籟の音、吊る下がった薄衣布に映る等伯の松、を演出した入り口部、半円形のスクリーンに映し出される墨絵風四季の景観動画、海の波上から松林を抜け移動する景(ドローンの映像風)、そして等伯の屏風絵と重なる画面で終わりました(5分ほど)。動画に気を取られ肝心の等伯の屏風絵には殆ど注意が行きません。屏風絵は衝立でしかなく名画鑑賞というより絵画を使った見世物、と言った方が良いでしょう。

 4室ではL字型の部屋のレイアウトで再生復元された光琳の群鶴図屏風(二面)を袖において、その鶴に似た姿・形の鶴の飛翔群舞が映像で壁面に映し出される仕掛けでした。

矢代の引用:2にある、絵画の奥の世界、色や形から超越した心象、心情など精神的な在り様を、鑑賞者が各自に持つことが絵画鑑賞の本質であるなら、この企画は十分な効果を出すかどうかは疑問でしょう。新しい展示法や鑑賞形を否定するものでもありません。否、高精細技術は大変重要な価値ある技術であり、その応用領域・範囲は計り知れません。また、復元に関連する歴史的伝統技術の維持、保護に役立つことは必定です。

 

 しかし、それでもあらゆる歴史的文化財(特に水墨画)の公開展示で、形(絵)の中に「静」を表し、鑑賞者の心に「動」、「考」を求めるとしたら、「絵・作品」と対峙し、凝視し、静かに熟考・推考すべき場が求められるべきであると感じました。 

 

 矢代は、水墨画で描く対象を具体的に表すうえで「墨、絹・紙、筆」の重要性を挙げています。同時に「書」と「水墨」・「水墨画」の関連を「滲み」や「暈し」に見出し「心象・心情」の表現に迫っています。この本「水墨画;初版」を院生時代に買い読みましたが難解な文章表現もあり、十分に理解できませんでしたが、今、70を越える歳になりやっと理解できそうな気がします。これまで忙しくて読み返す暇もなく積読になっていた「本」を読み、新しく考える機会が持てる時代(終戦後72年)に感謝の心境です。

 

 

 

我が家の庭の歴史; 身近な緑とは 2

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 庭や公園の竣工時には植栽工が完成形で納められる場合が殆どです。建物周りが植物(樹木や草花)で埋め尽くされ、ともすると低木が密植、植え過ぎであったり、高木の支柱がやたらと目立って外部造園空間の美しさが台無しになる場合も少なくありません。また、時間が経過すれば植物は成長し枝葉を茂らせ、丈を延ばすのですが、それが制限され植栽による美しさの演出が台無しになったり、成長管理(維持管理)に支障が出てきたりします。「景」が落ち着くには10年近くかかるし、そのためにその期間の維持管理は大変重要になります。工事が終了し持ち主に引き渡されてしまえば関係は無くなりますが、施工者としては、その後も作品には関心を持って覗いてもらいたいものです。作品に対して長い目で育て、作り上げて行く気持ちや考えが必要だと思います。

 

 自分の持ち家の小さな外部空間では、とても最初から高木を用いて修景する空間的余裕は無かったのです。限られたスペースで将来的に纏まった緑を作り出すためには小さな苗木を植栽し、それを時間を掛けて管理育成して作り上げることが必要でした。40年近く身近で適切に維持管理してきた姿が現在のボリュームある緑を作り上げています。ドウダンツツジの生垣は高さも厚みも、さらには季節的美しさも、その樹木本来の特徴をいかんなく発揮しています。

 当初、小さなヒメシャラやアラカシの苗木も狭い場所にも拘わらず10mほどの高さまで成長し、花や芽出しの美しさ、適切な遮蔽の機能を果たしています。高木になった後は毎年適切な剪定(枝抜き、徒長枝剪定)をして現状を維持しています。

 

 家が代替わりして他の人の手に移った後、この纏まった緑はそのままの姿を維持することはできないでしょう。家を建て直す工事に伴って消えて行く運命にあります。それは個人家屋に限らず他の建物、建物群でも同じでしょうか。

 時代を重ね残す価値のある緑は残したいものです。

 

 小さな緑の充実を基本として身近な街づくり、緑のネットワーク、多様な緑の構成、時代と歴史を生かした緑のコミュニティーづくりなどが理解され、個人レベルでの緑の作り方、近隣レベルでの緑の充実、「繋ぐ緑」の重要性、時間・時代を感じさせる「緑の網」づくりが注目されることを期待したいのです。

 

 

我が家の庭の歴史;  身近な緑とは  1

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 小さな面積で大きな緑を作り上げるには、どうしたらよいのでしょうか?

日本の都市では狭い空間に多くの人が住んでいるため、緑を増やすのに大変苦労しています。街路樹一つとっても歩道や車道が狭く、すぐ近くに建物が接しており自由に枝葉を広げ大きな緑を作り出すことは難しいのです。それに落葉だ日陰だ野鳥の塒だと樹木があることのデメリットが槍玉に挙げられます。それでも街路樹を街のシンボルとして育て大切にしている地区も少なくありません。

 植える場所と植える樹木の大きさが問題になります。樹高7-8mにも及ぶ木を植えるには根鉢や支柱にそれなりの広さが求められます。植栽する場所が十分に確保できる場合は問題ありませんが、そうでない時はそれなりに工夫が要ります。

 以前、大学の研究室で卒業論文のテーマを探していた折にこの課題について考えたことがあります。完成した樹木(多くの場合成木)植栽と苗木樹木植栽との関係でした。施工時点を完成とするか、時間が経過して樹木が成長し機能する時を完成と考えるか、の違いでした。後者の場合、植栽場所は大きく広く取らなくてもよくなりますが、前者では2-3倍の用地が必要となります。

 

 1977(昭和52)年、結婚後3年目に100㎡に満たない小さな建売住宅(半分注文住宅)を買って我が家としました。用途地域は住宅地区で建蔽率60%、家の外構を考えると庭は殆どありませんでした。そんな所に樹木など入れる余地は全くありません。でも職業柄、小さくても「庭」は「見本園」的でも作る考えを持っていました。場所は幸い私道脇の「東南の角地」で敷地外の空間に余裕が取れて縁辺部の緑を考えることが出来ました。プライバシー確保として周りの家はブロック塀が殆ど。我が家は外に広く見せ、狭苦しさや窮屈さを出さないため2面を生垣で境とすることにしました。1面は幅1m足らずの段差の上にドウダンツツジの苗木(20cm)を列植、他の面はヒメシャラの苗木を植えました。

 私道から玄関へのアプローチは直接取れば1m足らずですが、わざとL字型にして3mほど、その周辺にサツキツツジの玉物を植栽して終了です。40cm程の段差は拾ってきた自然石や間地石、大谷石の平面を生かして設置しました。

 その外構造園工事を手伝ってくれたのは、当時の教え子の学生諸君(院生や3-4年生;5-6人)で、庭園施工実習さながらに私の指示に従って皆で作り上げました。ドウダンツツジの垣根の長さは5~6m、ヒメシャラの植栽は長さ5m程度、いずれも幅は3~40cm程でした(添付写真)。

 なんともはや、建売区画の絵にもならない、全くの子供の植木遊び場的雰囲気でしかありませんでした。

 

 

 

 

展覧会巡り  4

 不染 鉄という日本画家を知っていますか? 新聞の記事(7月22日の読売新聞朝刊、時の余白に;編集委員芥川喜好)の見出し「放浪の果てに浄土あり」に魅かれて読み興味を持ちました。それは日本画家、不染 鉄の展覧会(没後40年、幻の画家「不染鉄」展;東京ステーションギャラリー)に関しての批評記事で、「放浪」や「浄土」に目を取られ読み進めたら、不染の作品と人生に光を当てた展覧会への招待文でした。美しく改修復元された東京駅ギャラリーでの展示にも魅かれて出かけてきました。

 

 安野光雅という画家はご存知ですか?いろいろなファンタジー溢れる風景や物の絵本を出している作家です。私は風景を描くことに少なからず興味を持っていましたので、安野の絵本は以前から身近に買って持っていました。きめ細かな風景描写、絵の中での多様な人物表現、これまでどこかに忘れてきてしまったような景色、佇まいなどを見事に描き出しています。

 不染の絵にも、それに似た雰囲気や描写法がありました。詳細で緻密・繊細な線描表現(細い面相筆で描かれる線は、どこか浮世絵美人の髪に似て)、ノスタルジックな民家や田舎風景、大胆な構図(軸装でも扁額でも)、全く違和感のない抽象表現(波や岩、雲など)それにもまして目立たない人や生き物の挿入、本当に久しぶりに作品を見て感激し堪能しました。明治・大正・昭和と激動の時代に生涯を送り、波乱にとんだ人生(主に海と古都を愛して過ごした84年)を送り、描き続けた人のようです。

 回顧展が東京で開かれるのは初めてで今回は絵画から陶器の絵付まで120点が出されていました。中でも昭和40年代(70歳過ぎ)に書かれたはがきの絵はボールペンで書いた絵に着色されたもので、文章と相まって大変味のあるものでした。私も似たことを時節の葉書で描いていますので興味深く魅入ってしまい、気が付いたら3時間余り経ってしまっていました。

 

 この展覧会は8月27日までやっています。造園・緑地の関係者や興味のある学生諸君にぜひ見てほしいと思います。

 会場の東京駅ギャラリーは東京駅丸の内北口にあります。東京駅は2003年、国の重要文化財に指定され、2012年(2007-2012)には全面改修(保存・復元)されました。東京駅は不染 鉄が生まれた(1891)ころ東京市区改正条例で東京駅が決まり(1889)、ドイツ人バルツアーや辰野金吾が設計(1910年までに)1914年に開業しています。ギャラリー内部の階段部は煉瓦の形、積み方、大戦被災の跡など目にし触れることが出来る展示ともなっており、修復工事の様子も見ることが出来ます。

 

 

 

最近見た映画あれこれ

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 年金生活に入って厚遇されることはシニアとしての優待、特典ですかね。60歳、65歳か70歳か、現代社会では線引きの難しさもありますが、年金についても、早く貰うか遅く貰うかどちらが良いか思案しどころです。人の平均寿命と関係があったり明日への命の保証も分かり難い世の中で早遅の決断の鈍るところでもあります。私も72歳になりました。友人知人も多くが年金族です。

 頭や体が元気なうちに、今まで知らなかったこと、経験できなかったこと等を

できるだけ多く見たり聞いたり考えたりして身に着け、楽しみや喜びに置き換えることが一番素晴らしいことではないかな、と感じています。

 そんなことを考えながら、今月は映画と向き合ってみました。

 今どきの映画館ではシニア割引や夫婦、女性割引等、一人千円で1本映画を見ることが出来ます。川崎市では文化事業の一環でアートセンターなる施設があり映画や演劇、寄席など文化的娯楽を市民に提供しています。ロードショウ映画は普通の映画館で見れますが、単館映画や配給元の限られた名画は見ることが出来ません。このセンターでは、そういったあまり見れない映画を毎月15-16本上映し映画ファンを増やしています。

 今月は、猛暑の夏、冷房の効いた館内で名画を見ることにしました。映画は次の4本です。

 ①娘よ(女性監督作品、実話、パキスタンカラコルム山間地、ソノマ国際映画祭)

 ②光 (女性監督作品、目の不自由な人、映画音声ガイド、イメージ、カンヌ映画祭) 

 ③草原の河(中国チベット草原、少数民族、遊牧生活、家族、上海国際映画祭

 ④素敵な遺産相続(遺産、年金生活、女性の夢、幸せ、アカデミー賞受賞の2女優)

 

 ①は2014-15年の各種国際映画祭で賞を取ったパキスタン映画でした。カラコルム山地の少数民族間で起こった政略結婚に向き合い自由と闘った母娘の実話の映画化。自分の娘(10歳)を山間部族間の安定のために敵対する部族の長老に差し出すことを拒む母が娘を連れて都市に住む祖母の下へ逃避行をする物語。裏切られた部族から追われる家族や母娘、逃走を助ける長距離運転手。壮大なカラコルム山地の自然を背景に描かれた母と娘の強い絆を描いていました。脚本、製作、そして監督の3役を成し遂げた女性の美しいきめ細かな作品でした。

 人質の世界が今も世界のどこかにあって、それが男女の関係である場合、「人」と「社会」のどちらで決まるのか、決められるのか難しい問題です。「社会」の体制、「地域」という纏まりの中で、人としての権利や自由はどう考えるべきなのでしょうか? イスラム社会の実話といえども考える切り口からすれば、大変複雑です。

 

 ②も世界的に有名な女性の映画監督の作品。「あん」で一躍名の知れた監督(社会派映画=私の独断)となった河瀬直美さんの映画です。病で次第に視力を失いゆくカメラマンと映画音声ガイド(視覚障害者に映画を楽しんでもらうため画面の情景を解説・説明する声優)が繰り広げる物語でした。健常者であった時、を扱って素晴らしい作品を生み出していたカメラマンが病の進行の中でかすかな光を頼りに写真を撮る姿と、その彼が映画音声ガイドとしてどのように解説・説明すればハンディキャッパーに分かってもらえるか、映像ガイドに苦悩する若い女性との間の心と気持ちの流れを描いていました。

 目が見えることの大切さを殆ど意識しないでこれまで生きてきたので、この映画はいろいろなことを考えさせてくれました。色、形、それが時間とともに変化する様相。そのいずれをも「イメージ」としてしか考えられない視覚障害の強さ、辛さを教えられたような気がします。何の違和感も持たないで普通に「見える」ことが当たり前ですが、そのことがいかに有難く嬉しく素晴らしいことか考えさせられました。

 どこかで書いた正岡子規は晩年、あまり目が見えなかったとあり、音に対して大変細やかな受け取り方と表現をして俳句に表していたようで、彼のいろいろな句にそれが表れていると言われています。

 もう一度、五体満足の意味を考え直し周りを見回しなおす契機となりました。

 

 ③は中国の少数民族チベット族の生活から作られた映画です。①の映画同様に少ない登場人物で進行する物語です。放牧を営む父と母と女の子、広大なチベットの草原(緑が滴るような大地でなく、セピア色した早春の平原)を舞台にした家族の生活と心の葛藤を描いていました。何にもまして特筆すべきは、女の子を演じる子役(6歳)が国際映画祭で最優秀女優賞(史上最年少)を受賞したことです。もちろんこの映画で重要な主役です。物語の陰に二つ目の主題で祖父と父親の心の蟠りもありますが、それを含め大草原を流れる河が小さな家族を見守っている姿がこの映画の題になっていました。

 最後に会いたかった母の気持ちを無にし、会いに来なかった父とそれを許せない息子、しかし孫娘のお見舞いに笑顔を見せ楽しそうに話しこむ父、許せない父の病状(限りある命)を聞き落胆する息子(孫娘の父)、新しい命を宿して懸命に生活を支える妻、新しい子供の出現に母を取られると思い戸惑う女の子。オオカミに親羊が殺され残った仔羊を育て宝物のようにいつくしむ女の子、でもその仔羊もある夜オオカミに襲われ行方不明に、探しあぐねた後に丘の上で死体を見つける。 命あるものの生死をいろいろな事象で捉え、描き考えさせる秀逸の作品でした。この女の子が余命幾ばくもないお爺さんを見舞って次の春に再会を約束したところで物語は終わりました。

 終演後、次の年の春、お爺さんに会えず話せなかったけど、新しい家族が出来て素晴らしく美しい草原の春、大きくなった羊の群れを追ってお姉ちゃんとなって嬉しそうな顔の女の子を想像しました。  (添付写真は、各映画のパンフレットです)

 

 ④は明るく楽しい年金生活に入った老婦人(以前は教師)がご主人の遺産を受け取ったことによる喜劇でした。この遺産が保険会社の手違いで5000$を500万$と書き間違えたことによって起こるコメディー物語でした。

 こんな楽しい間違いを私もしてみたい、と思いました。夢の実現にはやはりお金が要りますね。楽しい夢には歳はとっても恋をしてみたいものですね。行ってみたい、やってみたい夢のリゾート生活、夢だからこそなのかな、と思ったりしました。

 ところで私の遺産ってどのくらいなのかな~?

 私が居なくなってからの世界の話ですよね~?。     心 境 複 雑!  

 

 

 

 

 

 

 

展覧会巡り 3

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  ライバル、日本語訳では「好敵手」のことを言う。個々に素晴らしい能力を持ち、その分野で頂点を極めるような活躍をし、多くの作品を世に出して時代を生き抜いた仲間。どの世界にも、どの時代にも関係する分野の発展に関係し、注目を浴び発展に大きく貢献してきた人。夏目漱石正岡子規はどうであろうか。

 2017年、夏に向かって地球温暖化を示唆するような異常気象が続き、北九州地域での異常降雨は多くの被害をもたらし、まだその全容は明らかになっていない。前年に発生した熊本大地震の被害もまだ終息しないうちに、梅雨前線が地球の大気の変則移動と関連し発生した「線状降雨帯」で長時間の豪雨(時間降雨量150mm)を引き起こし大災害が発生した。

 この年の梅雨時、暑さと雨により野外活動をひかえ建物屋内を中心とした活動に切り替えた。それまでやっていた旧東海道一人旅や山野巡りを中断し、絵画や音楽、映画や演劇など室内文化を鑑賞する活動に切り替えた。表現を変えればスポーツ的な屋外活動から室内中心の文化的活動;展覧会巡りに変更したのである。

 

 一連の展覧会巡りにはそんな背景がある。

 今回訪れたのは鎌倉文学館、旧前田侯爵の鎌倉別邸がその場所である(添付写真;建物全景と背後の山)。鎌倉と言えば、一時代日本の都であった地であり、自然地史的にも歴史文化的にも特徴あり由緒ある都市で、現在も多くの人が訪れる町である。その環境に魅せられて多くの文化人達が居を構え作品を生み出してきた。

 この別邸は素晴らしい場所にある。鎌倉特有の谷戸景観(小さく切れ込んだ谷筋と行き止り空間)で後ろと東西両サイドは常緑樹の茂る丘に囲まれ、前には由比ヶ浜から続いて海が開け、浜から吹く風は心地よい。南に広がる眺望は海と空とが繋がり、好天であれば青の世界が南面に広がる。

 鎌倉文学館でも常設展示と特別企画展示があり、今回の特別展は夏目漱石の書簡(漱石からの手紙、漱石への手紙展)を中心とした展覧会であった。漱石は明治時代の文学者として多くの作品が有名である。学校の授業を通して作品は知っているが、その生涯や人となり、交流の人脈などは殆ど知らなかった。

 まず、漱石が49歳で病没したこと、長く病と闘い続けながら多くの作品を生み出したこと、子沢山だったこと、そして何より、俳人歌人として有名な正岡子規と同い年で学友であったことである。正岡子規結核を患い34歳という若い命であったことは、旧友であり親友であった漱石にとっては大きな悲しみであったろうと思う。イギリス留学中、帰国を決めた直前に正岡子規は亡くなっている。文学的には同じジャンルであるが俳人歌人の子規と文学者・作家の漱石は両雄で良友、ライバルであった。

 いろいろな人との手紙のやり取りが書簡として残っており、その一つに子規に送った俳句の習作に対し、子規が赤字で添削、評価し返信した書状、その他に本人の日記や旅の途中から知人に送った手紙、家族に宛てて近況をしたためた手紙、我が子に送った父としての葉書等々、改めて筆まめ漱石を理解することが出来た。漱石は神経衰弱や胃潰瘍を患っていたとあったが、書簡の文面、書き方、文字等から、それは何となく理解できた。小さくきちっとした文字で几帳面で真っ直ぐに書かれた候文体の文章は、いかにも神経質的で潔癖な感じが読み取れた。絵画や書にも才能を発揮し、中国絵画から習った絵や書の軸、当時の文学者の素養としての漢詩など数々が展示されていた。

 子規と漱石は共に大新聞社に勤めていた共通点もあり、病歴も似ている。展覧会では新聞社や出版社とのやり取りの書状もあり、漱石が亡くなった時の芥川龍之介の弔電もあった。

 苦難に満ちた波乱万丈の人生、戦争の時代背景の中、世界(イギリスや中国)から日本を見ていたこと、自分の体のこと、家族のことなど苦しみの多い49年だったのか、喜びと楽しみとして何があったのだろうか、文学作品と経歴が重なる部分もあり作品を書き人々の評判を呼んだことが喜びであったのかと思った展覧会であった。

 

 わが父、武久は大正3年生まれ88歳で亡くなったが父の蔵書に岩波書店漱石全集(初版本布製)が書棚にあったことを思い出した。母が肺結核で若くして亡くなったことも何か因縁を感じるし、漱石漢詩をやっていたこと、父が晩年漢詩を書いて手紙やはがきに認めていたこと、北宋画や南画など中国絵画や日本画に興味を持っていたことなどを思い出した。

 展覧会後、もう一度漱石の作品を読み返してみようと思っている。

 

 

展覧会巡り  2

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 展覧会巡り 1では、室町時代から江戸初期までの水墨画、その時代の2大巨匠雪舟(1492-1506)と等伯(1539-1610)を見てきた。展覧会巡り 2では、偶然、本当に偶然で、ほぼ同じ時代、イタリアのルネッサンス期を代表する2大巨匠の素描展を見ることが出来た。2大巨匠とは、画家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)である。

 ダヴィンチの作品でとりわけ有名な絵画は、「モナリザ」(1593-1507)と「最後の晩餐」(1498)、ミケランジェロの作品では彫像の「ダビデ像」(1504)と巨大な「システィーナ礼拝堂天井画」(1508-1512)であるが今回の展覧会は、芸術家にとって作品制作の最も基本となる「素描」69点であった。

 多くの素描は赤チョーク、黒チョーク、インクとペンで描かれており、敢て言うならば色の無い(少ない)作品である。物の形(例えば人体の筋肉、その部分と動き)や顔の表情を単純な線だけで表したものである。

 水墨画が墨と筆を自在に使って風景や物を描き出し、濃淡で深みや広さを作り出し描かれていない空間(余白)で空間の広がりを表現しているのと似て、素描ではチョーク(特に赤チョーク)やインクを用いて人の肉体や人物の表情(部分や全体)を(点と線で面を表現)詳細かつ単純に捉え描き出している。

 ダヴィンチの「少女の頭部/岩窟の聖母の天使のための習作」(1483-1485:添付写真)とミケランジェロの「レダと白鳥/の頭部のための習作」(1530)を同時に見比べることが出来た。作品としては大きくない。前者は18×16cm、後者は35×27cmである。ダヴィンチの素描でもう一つ有名な赤チョークで紙に描かれた自画像(1515-1517)でも33×21cm、A4の大きさである。

 二人の巨匠の素描を見て、共に「万能人」と言われ絵画や彫刻だけでなく建築、科学(土木工学、流体力学、光学)、解剖学まで関心を広げたダヴィンチと絵画、建築、詩作ほかに作品を残したミケランジェロ。 15世紀、イタリア、ルネッサンスの最盛期に活躍した芸術家(万能の人)の素描作品はいろいろ考えさせてくれた。

 そのころのイタリアはルネッサンス期、メディチ家(ロレンツオ・デ・メディチ)が支配する

フィレンツェ共和国(郊外の高台に別荘を建て露段式庭園を整備した時代)ではメディチ家が多くの芸術家を庇護して作品を生み出させてきている。強力なパトロンの支えによって芸術はじめ科学が急速に発展していった時代である。宗教はじめいろいろな文化や産品が世界的な広がりと共に拡大したのもこの時代である。日本では展覧会1で鑑賞した室町~安土桃山時代水墨画家の時代である。

 

 この展覧会の会場は東京丸の内、旧三菱一号館である。1894年、三菱の建築顧問であったイギリス人建築家ジョサイヤ・コンドルの設計とある。1968年に解体されたが2009年復元されている。煉瓦造りの建物の中庭は、緑に包まれたパティオ風となっており、街路樹を中心とした緑で整備された中央通りと合わせ丸の内オフィス街の中心となっている。

 この素描展は9月24日まで行われている。

 

 

 

 

 

展覧会巡り  1 日本の水墨画の足跡「等伯と雪舟」展

 水墨画と聞いて思い出すのは、昔、自宅の床の間に下がっていた掛け軸の絵である。墨絵と漢詩が混ざった静かな佇まいの風景を描いた軸が季節に合わせて掛けられていた。当時はただ何となく、その日本間の空間に合った物、装飾的な感覚で見ていただけで内容などあまり意に介していなかった。中学や高校の美術の授業で、水墨画について少しだけ習った記憶があり、雪舟等伯の名前は知っていたが、その程度であった。

 造園緑地の分野に進んで日本庭園の知識や日本文化との関係を掘り起こすことになり京都の名園や関連する絵画、書の歴史などの関係を学生に伝えることが必要となり、遅ればせながら少しずつ鑑賞の幅を広げてきた。しかし造園緑地の領域は広く、水墨画を取り巻く時代的な背景や作者や作品の時代的特徴まで深く掘り下げ日本庭園と時代文化の関係まで深く理解するところまで行けなかった。

 先月、購読している新聞に水墨画展覧会の案内記事があり、「日本の水墨画の足跡、「長谷川等伯雪舟」展、日本人の感性が発揮されていった水墨画の絵画表現の紹介(於:出光美術館)となっていた。この歳になってやっと水墨画を身近で感じてみよう、考えてみようと思い立ち、早速この展覧会へ行ってみた。

 雪舟等伯を代表とする日本の水墨画の歩み、その広がり繋がりを理解するうえでは格好の展覧会である。雪舟(1420-1506)は室町時代を代表する水墨画家で、備中岡山で生まれ京都の相国寺で修行、34歳で周防山口に移り47歳で遣明船に乗り中国へ渡り2年間中国各地を巡り主に宋、元時代の水墨画を研究し帰国(49歳)したとある。日本に帰ってからも各地を巡り風景を作品化している。今回の展覧会では「破墨山水図」(国宝)と四季花鳥図屏風(六曲一双)があった。破墨山水図は22×35cmで小さな絵であったが、墨の濃淡、筆致、全体の構図(空白部のスペース)から描かれている対象はとても大きく、広い世界が描かれており、その素晴らしさに感激。四季花鳥図屏風では、描かれたいろいろな花鳥の中で木の根元に何気なく描かれた万年青が印象的であった。以前、国立博物館での禅画展で雪舟の国宝「慧可断〇図」を見たが、それとは全く異なったものであった。雪舟水墨画同様、作庭も行っていて山口県島根県の寺院に残されている。いつか機会を見つけて鑑賞したいと思っている。

 水墨画は「無限の可能性を秘めた中国伝承の絵画表現」と言われ、「限られた空間の中に墨一色の濃淡で無限の世界を描き出している」有様は思索的で哲学的である。禅の考え方、捉え方、心に通じている。 

 もう一人の巨匠、長谷川等伯(1539-1610)は桃山時代から江戸初期に活躍した絵師で、二曲六隻二つの松林図(東京国立博物館蔵;国宝)は良く知られ有名である。等伯は幼児期より絵と深く関係しており、青年期は仏画肖像画を良くしている。京に出て狩野派と交わり狩野永徳と共に秀吉の下で多くの作品を残している、この時期に千利休と交流し始め、以後強く影響を受けている。利休を通じて京都大徳寺との関係もあり、利休が秀吉の怒りをかった大徳寺山門の天井絵(多くの龍の絵、等白の署名;1589)にも関与し、同時に大徳寺塔頭三玄院の水墨画(襖絵;1589)、旧祥雲寺障壁画(智積院蔵;1593、祥雲寺は現智積院で秀吉の嫡子鶴丸菩提寺)の松と草花図は等伯の最高傑作(国宝)と謂れている。この間、1591年に知己の千利休切腹し、1593年には長男久蔵を亡くしている。有名な「松林図」はこの頃(1593-95;等伯54歳)に描かれているが、彼の身の回りの悲しみと苦しみ、無常の気持ちを考えると黒一色、霧か靄に浮かぶ松の情景は分かる気もする。

 等伯徳川家康に乞われて江戸へ下向する折に病伏、江戸到着2日後に病没(72歳で)とある。 今回の展示作品は43点あり、雪舟等伯の他、室町時代水墨画家 玉澗、牧谿、雪村、能阿弥、伝周文、伝一之の他、江戸時代の絵師 池大雅、浦上玉堂、狩野探幽、尚信などの作品を見ることが出来た。その殆どが出光美術館所蔵で素晴らしい水墨画のコレクションであった。

 出光美術館は丸の内3丁目、皇居日比谷濠に面した帝国劇場ビルの9階にある。出光興産の本社で創設者、出光佐三の古美術コレクションで知られている。美術館休憩室は皇居外苑を近景に緑豊かな皇居が一望でき、一時、都市の喧騒を離れ時代をワープして日本文化の神髄、水墨画の巨匠二人の作品を鑑賞することが出来た。

 同じ日、同じ丸の内にある三菱一号館美術館で別の二人の巨匠展に足を延ばした。

 

 

東海道五十三次 今・昔  その十二

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  第三日、この日も朝から快晴、ホテルの朝食は6:30開始なのですがスケジュールを早めるために時間より早くフロントに降りて朝食を早めてもらいました。この日の工程は14.3kmとやや少なめですが、牧の原台地を上り下りして坂道が多く、宿場を巡るために、意外と体力を使うことが予想されました。朝食後、直ぐにJR島田駅に急ぎ、7:08の下り電車に乗り次の駅、金谷へ行きました。金谷駅大井川鉄道金谷駅も隣接し、こじんまりした駅で西側はすぐにトンネルになり台地を貫いています。前日の最終点(駅下のガード)に急ぎその場所からスタートしました。この辻の案内板には旧東海道・金谷石畳、菊川方面の指示がありました。ガードを潜り直ぐ傍に長光寺は一段高くなってありました。この寺の境内には芭蕉の句碑があり、「道の辺の 木槿は馬に 食われけり」と記されていました。旧道の金谷坂の石畳は急で台地の上まで430m、地域の人達の努力で平成3年に復元されており、その先にも芭蕉の句碑が残っていました。そこには「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」とあります。芭蕉は旅の俳人といわれ全国津津浦々を旅して折々その地で句を残しています。句碑は旧東海道の各地で残されており、その長旅の気力、体力、自然観照の眼力、創造力には驚くばかりです。

 牧ノ原台地へ上り旧道の両側に広がる茶畑がどこまでも広がり、丁度新茶の穫り入れ時期に遭遇して畑では新芽を刈り取る(摘む)作業と、新芽を出すための株の強刈込作業が真っ最中でした。茶畑の中をさらに歩き続け菊川坂を下って静かな菊川の里に下り一呼吸したのも束の間、辻の石段と再びの急坂(青木坂)、進む尾根道の両側は同じ茶畑で近景から遠景まで景観の中心は茶畑と杉林(施業林)でした。この尾根道は大変見晴らしが良く、多くの歴史文化財(寺、茶屋跡、塚跡、歌碑など)があり、長く人々の交流が続いてきたことを物語っています。この日は期せずして6月16日(コジツケで十六夜;実際この日は下弦十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑がありました。そこには「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」と記されていました。「さや(小夜)」は塞(遮)る、「中山」は峠、悪霊を遮る神の宿る峠がこの峠の謂れのようです。

 このあたりが金谷町と掛川市の境で、さらに歩みを進めると久延寺がありました。この寺は733年(天平5年)開祖は行基掛川城山内一豊関ヶ原に向かう徳川家康に茶の接待をしたとされています。境内には真ん丸の夜泣き石がありましたが、家康手植えの五葉松があると案内本には記されていましたが、そんな古い松はありませんでした。石は何年も形を変えず残るけれども、生きた植物は、400年以上あり続けることは難しいです。道を挟んで筋向いに西行法師の句碑が休み所にあり、「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」法師69歳で2度目の中山峠越えの折の歌とされています。私は72歳で初めて峠に辿りつき、滴る汗をタオルで拭いペットボトルのお茶で喉を潤すのに精一杯でした。

 台地尾根部の茶畑通り(旧街道)は見晴らしも眺めも良い道で、いろいろな有名人の歌碑が並んでいました。列記しましょう。

蓮生法師:「甲斐が嶺は はや雪しろし神無月 しぐれてのこる さやの中山」

紀 友則:「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」

藤原家隆:「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を さやの中山」

壬生忠岑:「東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」

阿仏尼 :「雪かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の日」

西行法師:「歳たけて また越ゆべしとおもひきや いのちなりけり さやの中山」

 この先の沓掛坂は歩くのも一苦労の七曲りの急坂でした。普通なら階段になるほどの勾配です。西行きは下り坂(牧ノ原台地へ上る道)で、滑りそうになるくらい急、足を踏ん張りながら歩幅狭くし下りたのですが、畑に行く農家の車(軽車両)が喘ぎながら今にも停まりそうに登って行きました。これまで一番の急坂でした。下りきった所が日坂宿でした。

 日坂宿は500mに満たない小さな弧を描いた宿場ですが建物が上手く残され(例えば川坂屋、萬屋など)ひっそりと立ち並んでいました。宿場の西(京口)には事任(ことのまま)八幡宮が巨大な杉と楠に守られ鎮座していました。ここから先は水田地帯、県道415線となり7km程をひたすら西へ西へと炎暑の中、歩き続けました。

 掛川宿はこの日の終点、宿場の東口(江戸口)は逆川に架かる馬喰橋と袂にある一里塚(地名は葛川;日本橋から58里目)そして振袖餅で有名な創業200年におよぶ和菓子屋「もちや」(添付写真C)です。宿場町に多い枡形小路を抜けるとこれまた江戸時代から有名な葛菓子や「丁葛」(添付写真D)。いろいろな種類の葛菓子が有名で全国銘菓博で優秀賞を受賞しています。個別買いし土産として持ち帰りました。

 朝7:30から歩き始め14~15kmを走破、12:30に掛川宿(連雀西交差点=掛川城の南)に辿りつきました。5時間の一人旅歩きでした。焼けました、疲れました(笑)。

 13:08分発の新幹線こだま号に乗り小田原14:06着。今浦島、延べ8日間かけて歩き通した小田原~掛川間、涼しい新幹線で夢うつつ1時間。 家康もビックリ!

小田原から小田急線急行で柿生駅に15:20着、梅雨の間の3日間の旅は終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次  今・昔 その十一

 第二日目は18.4kmと短くなりました。というのも歩き旅では宿間距離、旅館の有無、日程と最寄駅(JRなど)の関係から歩く行程と宿を事前に決めます。この日は藤枝宿から金谷宿までの13.4kmにしました。金谷の先は日坂(6.4km)その先は掛川(7.9km)となり、日坂に宿はなく掛川まで伸ばすと24.7kmで長すぎます。それに金谷と掛川の間には牧ノ原台地があり急傾斜で上り下りの山歩きが予想されるため、第二日は重要ポイントを大井川「徒歩渡り」において短めとしました。

 快晴の二日目、藤枝パークサイドホテルを早出して前日の終点(青木五叉路)に行き、いつも通り8:00出発、西の青空には下弦の月が薄ぼんやりと残っていました。藤枝から島田までの旧街道沿いには比較的松並木がよく残っています。植栽間隔は2mと狭く、太くなったクロマツにとっては根元も狭く、息苦しそうに見えます。しかしそんな根元の状況でも10-15mほどの並木が街道を彩っており、今、クロマツの幼木(1m程度)を植栽することによって10~20年先に松並木を復元することが出来るのではと思いました。町内会や街の会などが音頭を取って県の道路局と交渉し家の前の小空間にクロマツを植えることを提唱したら、と思いました。

 この地域は北に丘陵を背負い大井川水系の堤や用水、谷川が流れて、南に開けた水田地帯です。島田宿(宿場街)は街道に沿っては短く500~600mですが、大井川の堤防下(島田市側)には大井川川越遺跡(1966;昭和41年;国の史跡)に指定された地区があり、12-3軒の番宿が遺され当時の様子をよく理解することが出来ました。特に川会所や川越人足の番宿を具に見れるのは素晴らしい展示法だと思いましたし、通りの景も昔そのまま、といった感じでした(感激)。

 昔は川に橋を架けることが難しく(①自然に抗し難い、②意図的に架けない)人足を使って渡るほか策がありませんでした。江戸時代1696年(元禄9年)、川越について取り決めた川越制度が作られ川端筋では番宿が生まれています。この島田と対岸の金谷には幕末650人ほどの人足がいたとされています。大井川は流れが急で水嵩の変化が大きく渡船が禁止、旅人は人足が蓮台か肩車で運んでいます。賃料は水量により人足の体型と合わせ、股・帯下・帯上・乳・脇の5段階があり、蓮台利用も形や大きさで5段階に分かれていたとあります。渡し場の水量・水深で4.5尺 =136cmを越えると川止めになったと言います。大変な時代で、人々は自然のなせるがままの生活を余儀なくされていますし、旅の持つ意味・形態・実態が現在とは全く別のかけ離れた物だったと感じました。松尾芭蕉も、増水のため島田宿で4日間川止めに遭遇し泊まったようです。そこで、芭蕉の句を少し、

 「馬方は しらじ時雨の 大井川」、 「駿河路や 花橘も 茶の匂い」、 

 駿河国遠江国を分けていたのは大井川。明治初めまで橋は架けられておらず、1882年(明治15年)橋が架かり、1928年(昭和3年)に5年かけてやっと橋が作られました。大井川に架かる大井川橋は全長1026.4m、鋼製、橋脚は16脚、トラス橋で2003年には日本土木学会から「学会選奨土木遺産」に選ばれています。歩き渡るのに20分程かかりました。川筋が幾重にも分かれていて急な流れもあれば浅く緩やかな流れもあり、流れないで溜まって淀んだ部分もあり、さらに河原が広く広がり河畔林になっている部分もありました。

 鮎釣りで賑わう川面を見ながら橋を渡り、金谷の宿に入りました。金谷宿は1000mほど緩やかな坂になった短い宿場街、すぐ背後には牧ノ原台地が迫って来ています。川と山に挟まれた小さな宿場街ですが、今ではSLが走る大井川鉄道の駅「金谷」でも有名。この宿場町に今は、適当な宿泊施設が無く、止む無くJRを一駅戻り島田駅前のホテルで2泊目を過ごしました。