水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔 その二

 その一では日本橋を発ってから半日の行程でストップしました。他の用があって一日中歩くことが出来ませんでした。品川宿で時間を見たら10時半になっていました。日本橋~品川駅間は7.4km(二里)となっており、2時間、ほぼ時間通りに着きました。

 第二日目は3月16日(木)、朝は一回目同様、6時半に自宅を出て7時半には品川駅に着きました。快晴の下、前回の終点地点に立ち二回目のスタート。多くの通勤者が品川駅に吸い込まれて行くのを尻目に国道15号を西へ。すぐに箱根駅伝でも良く知られた八ツ山橋、橋の袂に旧東海道の一里塚碑があり交通の要所でJR、京浜急行、国道が立体交差。その脇に小さく下る旧東海道があります。道に入ってすぐの所が広場で問答河岸跡になっています。参考書によると、この所で、江戸幕府3代将軍家光が東海寺を訪れ、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に「海近く東(遠)海寺とはいかに」と問うと「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」という問答に準えていると言われています。そこからは昔の東海道を髣髴とさせる道幅、建物の佇まいになります。大変心地よい街並みのスケールです。本陣、目黒川を渡り、脇本陣跡を歩いていると、左手(海側)は先の方まで少しずつ僅かに地面が下がっていることに気づきました。その頃はすぐ傍まで海がきていたことが想像され、この地形的特徴は大森辺りまで続きます。東海道はこの先、国道15号、第一京浜と重なり京浜急行電車と平行して伸び、今では大変な交通量の幹線道路に変わっています。六郷神社で一休み、この神社には源頼朝が寄進した謂れのある手水鉢があり、その時代六郷一円の総鎮守となっていました。今も風格のある社の佇まいと境内でした。

 昔の人は多摩川をどのように渡ったのだろう、と思いながら橋を渡り終えたら、明治天皇六郷渡御碑があり、明治元年(1868)東下の折に23隻の船で橋を作り渡ったとありました。家康は200mもの長さの橋を作った(1600)ものの元禄元年(1688)洪水で流され、以後は橋が無かったとあります。

 橋の先は川崎宿。この道も昔の風情がよく残って本陣跡や宿場があった街中の佇まいを感じながら歩いて行きました。品川から12.6km(二里半)、11時でここまで3時間かかり、時速4kmの計算になります。

 京浜急行八丁畷駅手前に芭蕉の句碑がありました。碑には元禄7年(1694)芭蕉が伊賀に帰る折に見送りの門人とこの地で別れたとあり「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の句を作ったとありました。碑の前の花壇には青々とした麦が生育しており、句を彩っていました。芭蕉は5ヶ月後、大坂で亡くなって(1694)いて、死出の旅路の様だと感じました。お昼過ぎに鶴見川を渡り、京浜鶴見駅を跨いでベルロード鶴見商店街(様変わり)を通り、生麦へ。この地は文久2年(1862)に生麦事件が起こった所で碑も立っています。国際事件である生麦事件の折、薩摩藩の士はイギリス駐留軍の反撃を恐れて3日目で沼津まで進んだとあり、ものすごい速さで東海道を駆け下ったとありました。我が身ののんびり徒歩とは全く別、思いを巡らすとさもありなん、と感じました。

この後は国道に沿って、味気ない道を歩きJRの東神奈川駅に辿りつきました。

品川宿から川崎宿が12.6km(二里半)、川崎宿から神奈川宿まで8.9km(二里)計21.5kmを歩いたことになります。時計は14:30を指していました。JR東神奈川駅から横浜線で町田に出て、町田から自宅に戻りました。

安藤広重神奈川宿は(台の景)で海岸の景が素晴らしい所になっています。ここから先は東海道は海蝕台地下を通っており、崖下の道といった様子です。