水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔 その七

 旅の俳人松尾芭蕉奥の細道の旅へ出発した日は5月16日だったようで、この日は「旅の日」になっています。期しくも私の旧東海道歩き旅、第7回目の出発もこの日になりました。第6回目同様、早朝一番電車で柿生駅を出発、小田急線湯本で6:57発のバスに乗り元箱根を目指しました。前回の最終地点、芦ノ湖畔の元箱根まで40分、7:45分に箱根関所の京口から歩き始めました。毎年恒例箱根駅伝の初日終点前の交差点を横切り、芦川入口から旧道に入り山道になりました。杉並木の石畳が残り、箱根で最も古い(1658)庚申塔と石仏群が迎えてくれ、いよいよここから箱根峠まで向坂、赤石坂、挟石坂と急坂の上りが続き、最後は階段でした。少し国道を歩き峠を越えれば、遂に相模の国から伊豆の国。峠から三島までを「箱根西坂」と言い、長い長い下りの坂道になります。

 この西坂入口には箱根旧街道と表示された冠門(写真参照)があり、その近くには8人の文人がデザインした石地蔵が並んでいました(峠の地蔵)。どこまでも続く長い下りの坂道、道端は2mにも及ぶハコネザサが茂り、その中に八里記念碑(井上靖)がありました(8:30)。旧街道西坂は蛇行する国道1号線と対照的にほぼ直線的に西に伸びています。下り坂の先には常に三島や駿河湾が見え隠れ、箱根外輪山南西斜面は函南町、長く南西に伸び広がっています。石原坂、大枯木坂の石畳、突然農家の軒先に出ましたが続けて坂道を下ります。小枯木坂は常緑のアカガシが石畳道の頭上を覆っており、新しく若葉が出るこの時期、それに合わせて古い葉を路一面沢山降り落としていました(9:30)。山中城跡を過ぎ、司馬遼太郎の八里記念碑を横目に石畳を下りました。

 函南町、箱根外輪山南西山地はいつごろから新田開発(畑地)されてきているのでしょうか。旧街道沿いの斜面鞍部には広い面積の畑が連なっています。野菜中心に多品目が栽培され旧道もその作業道になったりしていました。南向きの斜面で日当たりも良く土壌も畑作に適しているのでしょう。辺りの二次林・雑木林とモザイク状に景観をなしています。芭蕉の句碑のある山中新田地区は旧街道の整備のため一部通行止になっており、やむなく国道1号線の脇をビクビクしながら笹原新田まで歩くことになりました(ここまで3時間経過:10:30)。

 坂道はさらに続いて、上長坂、こわめし坂(三ツ谷新田)、小時雨坂、大時雨坂を下り市山新田地区へ、臼転坂から塚原新田で東名高速道の上を通過しやっと、本当にやっと市街地近くの住宅地・初音台(昔は谷田村)に入りました。初音台地区には初音ケ原旧東海道の松並木(写真参照)が歩道として上手く残っており、国道と平行し土手の上やや高見で上手く整備されていました。国府津八幡村地区と同様、美しい松並木の旧街道として残されています。三島市に入り暴れ川の大場川を越え、市内に入り伊豆の国一の宮三嶋大社に参拝、旅の無事を祈り絵馬を買いました(12:30)。

 境内のキンモクセイは国の天然記念物(樹齢1200年と言われている)に指定されていますが近年樹勢が一段と弱くなっているようで養生が大変、若木も植えられています。三島は富士山の伏流水が豊富で市内各所で自噴していますが、地下水低下の危機もあり自噴水池が美しい楽壽園やいかに、と心配し農業用水としても使われている清らかな源兵衛川の流れを横目で見ながら通過しました。三島から沼津までは平坦で県道145号、380号線、伊豆の国駿河の国の境には秋葉神社があり、境内にはムクノキの巨木(樹齢300年)が見下ろしていました。この先、旧伏見村玉井寺と宝池寺には「伏見の一里塚」が道の両サイドに残されており、日本橋より29里(116km、実際歩いた感じでは、もっと200km以上)です。

八幡村八幡神社境内の奥には石が2個並んでいました。これは対面石といわれ1180(治承4年)源頼朝が挙兵した折、義経が東北から駆け付け、この地で兄弟が座って対面したことに由来するとされています。狩野川の流れる水音が聞こえて沼津市内に到着、一日目の歩きが終了しました。この日歩いた歩数は、39.587歩、18.4kmでした。

 

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(左上)箱根峠の冠門にて (左下)薩垂峠  (右上)三嶋初音ヶ原の松並木 (右下)由比の宿場街並