水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔  その九

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 風薫る5月の旧東海道上洛、箱根を越えるまでは自宅から通いの街道上りでしたが、箱根を越えて「通い」は無理、今回の歩きは宿泊型にしました。3泊4日を基本にプラニングし、事前に宿泊先を予約して計画に沿って歩くスタイルです。凡そ1日20-22kmを基本として中都市での宿泊で計画しました。元箱根から沼津、沼津~吉原、吉原~由比、そして4日目は由比から静岡(府中)迄です。「その八」までに由比に入り宿場を見学した記事を書きましたが、いよいよ今回が最終日、折から真夏と間違えるほどの快晴・暑い日になりました。例によって朝は早発ち、7:30には割烹民宿旅館の女将さんの見送りを受け出発。朝未だ早く店の閉まった由比の宿場街を通過しました。JR由比駅近くから街道は山の手に入ります。これが旧東海道かと見紛うような農道(果樹園の維持管理道)の上りが続きました。山が海に迫り出すような地形、急斜面での換金作物は柑橘類を中心とした果樹か、僅かばかりの野菜の他無いと思いました。これまでの農家の人が長年苦労して作り上げた果樹園には、琵琶、甘夏ミカンが中心に植えられています。丁度甘夏ミカンの収穫時期になっており、農家の人が収穫していました。急斜面での作業のため畑近くまでは軽トラで行きますが傾斜畑の中での収穫、収穫物の搬出は重労働で、急斜面を上り下りしなければなりません。簡易ケーブル線を果樹園に敷設して収穫した果樹を籠に詰め、ミニトロッコ列車よろしく樹園内から運び出して収穫していました。それでも木になっている果樹をもぎ取り、ショイコに入れてトロッコ籠まで運ばなければなりません。気温が上昇すれば大変な重労働で、後継者の問題、高齢化による果樹園の維持、管理は大変だろうと想像しました。甘夏と並んで栽培されている果樹はビワでした。江戸時代の参勤交代の副産物でしょうか全国での色々な産物が、それぞれの土地に紹介され全国のニュース(情報)が武士や一般の人々の移動によりもたらされたとしても何の不思議もありません。この由比地区で栽培されている品種、「田中」は1879年東京本郷の男爵、田中芳男氏が育てた品種のようですが、元は唐ビワの実生から生まれた「楠」と同様九州で栽培されていたものをこの地に広めたとありました。ちょうど訪れた時は、昨年花芽を付けた実が色づき始め大きくなる頃です。この時期大変な重労働がビワにもあります。それは果実の「袋掛け」です。枝先にたくさん付ける実の中で売り物になる大きさ、形のものに袋を掛け病害虫から守ることです。2~2.5mの木になる実の一つずつに袋を掛ける作業は想像を絶します。4ー5cm大の大粒のビワが店で1個100円近くなるのは、栽培経過を考えれば首肯できます。

 斜面いっぱいに広がる果樹園の中を旧街道は進み、山腹中ほどに、あの東海道53次の浮世絵で有名な「薩垂峠」の景観が突然出現しました。今ではこの狭い海沿いの平坦地にJR線、国道、東名道が集中し、ひとたび高潮でも来ようものならすべての交通機関がマヒするというような場所です。景観的には素晴らしく駿河湾三保の松原砂嘴)遠く伊豆半島、そして富士山、とあの浮世絵に表された景観をディフォルメした風景が目の前にありました。運悪く快晴にも拘わらず、富士山は裾野と頂上を雲に隠し浮かび上がってはいませんでした。暫く雲の動きを見ながら待ちましたが先を急ぐこともあり、後ろ髪をひかれる思いで泣く泣く後にしました。薩垂峠越えには3本(上、中、下)の道があるようで上道を通りました。上道は最も長くビワの果樹園を迂回するように山を一回り。途中、良心市で買ったビワを食べながらビワ農家の老人と話をしましたが、美味しいビワはその老人の作品でした。作っても実ると直ぐにカラスに食べられて困る、と話していました。初物で大きさは不ぞろいでしたが味は瑞々しく大変美味しかったです。

 峠を降りてきて辿りついたのが興津宿。およそ5-6kmの一本筋の宿場町でした。当時は本陣2、脇本陣2、旅籠34軒あり興津川、薩垂峠、身延山甲州路など難所近くでしかも交通の要所、大いに賑わった宿と言われています。今は静かな街道の佇まいと古い建物が残された街でした。ここで最も注目されるのは西園寺公望の別荘;坐漁荘清見寺ではないでしょうか。その昔、家康が今川氏の人質であった幼少時、この寺で過ごしていますし、秀吉が小田原(北条氏)に向かう途上、ここに宿泊したと言われています。坐漁荘は宿場の最も京都寄りに位置し清見潟に面し、後ろに奈良時代に創建された清見寺を擁しています。西園寺公望の別荘で1919年、公望70歳になった年に建てられたとあります。西園寺公望は、1849年に京都で右大臣徳大寺公純次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代、自由主義の政治家で活躍した元老です。70歳になるまで我が国の政治で極めて重要な役割を果たし、海外留学を通して世界的な視野と活動をし、政治のみならず教育・文化でも多くの功績を残しています。70歳を越えてもその見識は万人の認める所で多くの政治家が「興津詣」で訪れ、静かな晩年とはいかなかったようです。昭和15年11月24日90歳、この別荘で亡くなり国葬が営まれています。当時は風光明媚、潮騒が聞こえる海辺の別荘でしたが、主亡き後、時代の移り変わりに伴い次第に衆目を集めることなく忘れられ、近年になり古くなった建物などオリジナルは明治村に移築されていますが、同じ形で復元され現在に至っています。

 興津から江尻(現在の清水市)までは5km、海辺の国道1号線です。清水市内から分かれて旧東海道は巴川を渡り県道407号線を西に、昔チャンバラ映画で見た清水次郎長一家と都鳥、森の石松の話にでる都鳥(都田吉兵衛)の供養塔を見て時代を想い、次郎長(本名;山本長五郎、三保や富士山ろくの開墾、開拓や巴川の架橋建設に尽力)の功績を感じながら先を急ぎました。

草薙駅前からの旧街道は分岐点が分かり難く東名高速道高架を過ぎるまで県道を歩いていました。さらに街道がJR東海道本線と交差していたところには記念碑が建てられていますが、地下道で反対側に渡った先が、これまた分かり難く道を探すのに一苦労しました。ここから静岡中心街までは静岡鉄道、国道1号線、JR線と平行したり交差したりして終点が見えている中、なかなか到達しない状態で今回の歩きの終焉を迎えました。時に夕方4:30、歩行距離は24.4km、歩数は42.820歩に達していました。4日に亘る歩き旅の区間を、新幹線に揺られて僅か1時間で新横浜に降り立ちました。江戸時代では夢の夢物語です。(添付写真は坐漁荘入口)