水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

葉山先生の慰労会

葉山嘉一准教授の退職記念慰労会・お祝い会が来る18日(土)午後、学部湘南キャンパス(藤沢市亀井野)において開催されます。すでにNUメールなどで卒業生はじめ在学生諸君にも連絡は行っていると思います。会のご案内は既に昨年から伝えられているものと思いますが、長年に亘って造園学研究室で学生を教育・指導されてこられた葉山先生はこの3月いっぱいをもって定年を迎えられ退職されます。先生のこれまでの暖かく情熱のこもったご指導に対し、皆さんともどもお祝いしお礼を申し上げたいと思います。年度末でお忙しいと思いますが是非お時間作っていただきご参加願えればと思います。

この会は湘桜みどり会との共催の形をとっておられると聞いております。みどり会の方からもお誘い、ご案内が行っていると思いますが、私からも卒業生の皆さんや関係者の方々にご案内しご出席をお願いしたいと思います。

日本造園学会全国大会の案内 No.2

先日発行されたランドスケープ研究(日本造園学会誌)Vol.80,No.4に、平成29年度造園学会全国大会の案内がでました。日本大学生物資源科学部湘南キャンパスを会場とし5月19(金)~21日(日)に開催される内容の詳細が載せられています。学生アイディアコンペから学会総会、シンポジウム、アイディアコンペ作品展示、交流会、研究発表会、ミニフォーラム、企画展示などが3日間に渡って行われます。(詳細は同誌P395-397参照)

大会に対して既に実行委員会が組織され、生物資源科学部・生命農学科造園緑地科学研究室、くらしの生物学科住まいと環境研究室さらに理工学部の研究室から教職員・学生が参加して大会の開催準備に備えています。

新しくなった湘南キャンパスでの久しぶりの学会全国大会となります。新装なった講義棟などをごらん方々ご参加ください。

なお、この号に私、勝野が昨年受賞しました学会の上原敬二賞、受賞者人物インタビュー記事が載っております。機会がありましたらお読みください。

 

 

カンボジア見聞記 No.3

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滞在4日目2月15日、アンコール遺跡の中で面積的に最も広大なアンコール・トム遺跡、バイヨンを見学しました。アンコール遺跡群はカンボジアで9世紀初頭から600年以上続いたアンコール王朝(クメール王朝)時代に建造された数多くの遺跡群のことです。アンk-ル・トムは12世紀の後半から13世紀、ジャヤバルマン7世によって作られた仏教寺院を中心とした建築物群(大王都)で王宮を中心とした都市(3km四方)とのこと。それまでの戦禍の時代を考え堅固な要塞を巡らせ、中心に複雑な建築様式からなる仏教遺跡バイヨンを作り上げています。バイヨン寺院は54もの塔とその四面に多くの観世音菩薩と言われる巨大な顔(2m四方の大きさ)が微笑んでいました。遺跡をどこから見てもその大きな菩薩面がいくつも形を変えて大きく見下ろしているようで威圧され圧倒されました。この菩薩面(?)はバンティアイ・クデイや南大門にもあって威容を誇っています。別名「バイヨンの微笑み」「クメールの微笑み」とも呼ばれていますが、日本の有名な観世音菩薩の微笑みとは全く別です。伽藍の様式は、他の遺跡寺院等と変わらず四面を回廊で囲み回廊の幅は狭く部分的に崩壊していました。そんな状態ですが、第一回廊の壁面レリーフ彫刻は素晴らしく、往時の戦いの姿や人々の暮らしの様子が描かれており大変興味深く時間をかけてじっくり鑑賞したいと思いました。特に綱引きの様子が描かれており引手の姿が相撲取り如く回しをした格好をしており、思わず「ここでも」と声を発してしまいました。

シエム・リアップ市内から北方6-8km圏にアンコール遺跡群があり、いろいろな国が世界遺産の修復に支援をしています。カンボジアはクメール王朝後16-17世紀後半まで欧州からの東方進出に会っていろいろな国が関係し、1863年フランスの保護国になっています。世界大戦後、1949年独立しましたが既に1907年からフランス極東学院により遺跡の価値が十分に理解され詳細な調査が進めてこられました。苦難の時代(内戦時代)を経て1992年遂にアンコール遺跡が世界遺産に登録されています。日本をはじめドイツ(Boeng Maelea寺院)や他の国々の支援により現在も遺跡の修復が進められています。

 カンボジアの国の文化遺産であるアンコール遺跡の観光利用権はベトナム資本に牛耳られているとも聞きました。世界文化遺産で世界的に注目を集め、多くの観光客・訪問客が訪れているシェム・リアップは目下建築ラッシュ、改築ラッシュですが、望むらくは計画的な文化財都市として、人々の住みやすい、伝統文化が正しく残り息づく町として発展してほしいと考えながら旅をしていました。

カンボジアは現在世界的には後発発展途上国となっており、まだまだ国づくりも人づくりも大変な状況にあります。その下支え、人づくりや地域づくりに懸命に支援し生きている人がいます。今回の旅ではその人達にも会うことが出来ました。ここではその人達のことにも触れなければなりません。

カンボジア見聞記・No.2

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最初のアンコール遺跡見学は大変盛りだくさんになりました。No.1で書きました通り日曜日に当たった見学初日、内外の観光客や市民のレクリエーションもあって朝からアンコール・ワットは大混雑でした。観光客は事前に入場許可証を入手しなければなりません。案内役の人からアンコール遺跡を短期間に入念に見て回ることは難しいと言われ、少なくともシェムリアップ市周辺に数ある遺跡を見て回るには3日券は必要となりました(62$/人)。最初の見学遺跡はNo.1に示した通り、市内から40km北にあるバンティアイ・スレイ、続いてバンティアイ・クデェイでした。昼食後バンティアイ・クデェイ近くにある別の遺跡で巨大なガジュマル(の仲間)の巨木が遺跡に覆いかぶさるように生育しているタ・プロム(Ta Prohm)遺跡を見学しました。1186年ジャヤバルマン7世により母の菩提寺として建てられた仏教寺院で、敷地規模は東西1km、南北650m、伽藍はほかの遺跡と類似していて四方を回廊で囲まれ、中に祠堂や経蔵などが建て込んでいます。巡回路に沿って巡ると随所に巨木の根(巨大で回廊や柱壁を包み呑みこむような形)が目立ち、そのスケールと自然の驚異に息を呑むばかりでした。SF映画に出てくる想像を絶する光景で現実の物と理解するのに時間が懸りました。

 1192年、日本では源頼朝が鎌倉に幕府を開いた年に当たります。この同じ頃にこの遺跡寺院ができ、以後長い時間が経過して現在の姿があると思うと何か考えさせられます。使われていない寺院と使われている寺院が国や宗教が異なるものの同じ地球上で異なる運命にあるのは大変興味ある視点です。

 通常の観光コースでは、最初にアンコール・ワットを見た後に他の遺跡を見学するコース取りになっています。しかしこの日は日曜日、余りの混み方に考えを変え、普通と逆のコースを取り午後遅くから見学しました。アンコール・ワットはアンコール遺跡群の中心で12世紀前半、スーリャバルマン2世により30年かけて建てられた西を正門としたヒンズー教寺院で、伽藍がきちっと残り3重の回廊に囲まれ、5つの祠堂が聳えています。境内は外周が東西1500m、南北1300m、幅190mの堀に囲まれ、入口は西に在り12m幅の参道の陸橋両側は聖池、その奥に三重の回廊と5つの堂宇からなっていました。砂岩と赤色のラテライトからなる壮大な寺院で世界文化遺産に相応しいスケールと美しさでした。

午後遅くでしたが来訪者は依然として多く、最も中心にある第3回廊(1辺が60m)の中の中央祠堂(高さ65m)へは入場制限(出入口が一つだけで13mの急階段)があり、また公開時間が17時と迫っているにも拘わらず大変多くの人が長蛇の列で並んでいましたので、この塔への入場をあきらめ第3回廊の広場で周りの建物に見入っていました。

 入場制限の午後5時近くになり、日は西に傾きましたが、「夕日に映える寺院」の景観が一つの売りでもあって夕日の景を撮ろうとする人で立ち去る人は少ない状況でした。名残惜しかったのですが日没後の渋滞を避けるために少し早めに市内へ戻りました。その道すがら地平線に落ちていく真っ赤な夕日の美しさ、くっきりとした赤い太陽と茜雲の空の美しさに見とれて、この日は終演となりました。

カンボジア・見聞記 No.1

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日本では節分や立春が過ぎても寒くなる2月、かねてより計画中であった東南アジアの発展途上国世界文化遺産に指定された「アンコールワット」で知られたカンボジアシェムリアップ市を訪れました。カンボジアへは、最近全日空が直行便(成田~プノンペン)を就航させ訪れる人が多くなっている様子。今回の訪問に際し、選んだ空路は往路が羽田・・・・ハノイ~1~シェムリアップ、復路がシェムリアップ~2~プノンペン・・・・成田で、・・・・区間全日空、~1はベトナム航空、~2はカンボジア航空でした。往路のハノイ行は羽田発で朝9:00発、ハノイ乗換で2時間待空港内待機、日本とは2時間の時差があり、夕方;現地時間17:00にシェムリアップ空港に着きました。滞在1日目の夜は簡単に済ませ就寝(と言っても日本時間では夜半)でした。

滞在2日目:カンボジアの気候は乾季(11-4月)と雨季(5-10月)に分かれています。2月は最も雨が少ない月で、風景的には乾いて草木にやや精気が乏しい月でもありました。しかし、人々の生活には活気があり、朝の街中の風景は通勤でごった返すオートバイやタクシーのような客台を引っ張るバイク群(テュクテュク)の流れが途切れることなく数珠繋ぎの状態です。そこに加えて車、トラックがありものすごい行列状態です。この光景は常時、何処でも見られますが、特に都市内では主要な移動交通手段となっています。50cc程度の小さなバイクに一人で乗っている人は殆ど無く、2人は普通、場合によっては子供を含め2~3人乗せて走っています。この日は日曜日で休日。アンコール遺跡を訪れる外国人観光客が多く(近年急激に旅行者が増えてきている模様)さらに市民も加わって遺跡へ通ずる幹線道路は大渋滞でした。その渋滞(来訪者の流れ)を避け、午前中に訪れる人の少ないバンティアイ・スレイ(Angkol-Watの北40kmにある)に向かいました。この遺跡は「女の砦」と謂れ、10世紀後半に建てられたとあります。建物全体が精緻で素晴らしく細かな彫刻で飾られ、とりわけ壁面、柱頭、出入口上部の装飾壁(レリーフ;浮彫彫刻)のそれは見事の一言、とても1000年以上も前に造られたとは思えないものでした。当時の人々の信仰心の篤さと寺院の引き付ける力の偉大さを感じました。寺院建築の部分である軒先(?)にある彫刻に、日本にある鬼瓦を思い浮かべました。

 バンティアイ・スレイから市内に向け引き返し、バンティアイ・クディの外にある巨大な池の畔で焼鳥(一度蒸した後、調味料をつけて焼いたもの)料理の昼食、デザートはココナツのアイスクリームだった。家族総出で客の応対。大人が調理し子供達が接客、配膳、清算をする有様でした。日曜日のお昼で人出が多く岸部の席は満席、仕方なく内に引っ込んだ高床式の建物での食事となりました。食後はタ・プロム寺院を見ました。この寺は12-3世紀にジャヤバルマン7世が母を弔うために建てた寺院と言われ、19世紀後半に発見されるまで自然のなすがままの状態で、想像を絶する巨大なガジュマルの根が遺跡の回廊や塔に食い込んでいる様相は奇怪、異様、脅威、驚愕の何物でもありません。表現に困る景で自然の恐ろしさ、時間の長さでしか理解できない状態です。このままでは遺跡自体が自然に、巨木の根で絞め潰されるためか、遺跡建物に直接覆いかぶさっている巨樹の枝・葉を切り落とし(樹木の15m上)樹木を枯らす方向で管理されていました。今後どのように変わっていくのか、良いのか悪いのか、よく分からないのではと思いました。

この日の最後にアンコール遺跡の中心であるアンコール・ワット(Angkor Wat)を見ました。これについては見聞記 No.2へ引き継ぐことにします。

 

 

伝統行事・だるま市

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 達磨大師については以前、禅の展覧会の記事で触れましたが、一般に手も足もない「ダルマ」の置物でよく知られ、庶民の信仰対象として現在まで長く根付いているお祭り、市が「だるま市」です。3月3-4日の深大寺だるま市も日本三大だるま市の一つとして有名とのこと。

 私の住む川崎市麻生区には明王不動院般若坊:麻生不動(別名木賊不動とも呼ばれる)があり、毎年1月28日にだるま市が開催されてきています。その日は天候にも恵まれ多くの来訪者が参拝と「縁起だるま」を求めて訪れていました。普段は何の変哲もない狭い集落内道路ですが、この日ばかりは、さらにこの参道(道幅2-3m?)の両側に各種の露天が立ち並び、通路が人、人、人でごった返し、行き来するのも買い物するのにも大変難儀をする状態でした。

 麻生不動のだるま市は神奈川県下では「関東収めのだるま市」として、古く(18世紀半ば頃)から近在の人たちに知られ、多くの人を集めて来ています。ご本尊は不動明王不動尊信仰は弘法大師空海(774-835)により中国からもたらされ広まりました。像の光背に火炎がありすべての穢れを焼き払うとされ、右手の剣で迷いと悪魔を断ち切り、左手の縄で人を引き付けるという姿をしています。麻生不動尊は火伏の神として信心を集めています。

 市の開始、朝8時には花火の合図が上がって始まりました。出店の2/3は食べ物屋、お昼時には食べ物を求める人と参拝に並ぶ人で殆ど立錐の余地が無く、道は立ち往生の状態。本堂の境内や参道近くには大小いろいろな縁起だるまを売る店(殆ど相州だるま、平塚産)が立ち並び、大声を出して景気付けし客を引き付けます。交渉が成立すると買い手はダルマを抱き、売り手は火打石で買い手の無病息災や家内安全を祈願して「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ ヨ!」を謳いこめます。ダルマは赤色が一般的。なぜ赤いのかは達磨大師の法衣の色が赤だとか、赤色は魔除けであるとか、位の高い人が身に着ける色だとか、諸説あります。ダルマの目は中国の陰陽五行説に関連し、左が「陽」右が「陰」、最初に左目を入れ(開眼)、成就したり納める時(満願)右目を入れると言われています。

 寺には門徒、神社には氏子という集団があり、それぞれ関係する寺社と深い関係をもち、寺院とは先祖代々の永代の霊を祀るとともに家族・親族・親戚から門徒衆までの人のつながりを神とのつながりで結び、神社とは神を祀り崇める氏子として地域社会での慣例、伝統的な習俗を通して人々のつながり、地域社会の団結、纏まり、相互扶助を維持してきました。

今、この永く続いてきた血縁・地縁の繋がりが地域によっては弱くなったり無くなりそうになって来ています。少子高齢化により限界集落では、人のつながりが消えそうになって来てそれまで維持されていた絆が消えそうになってきています。

 都市近郊で新しい転入者の多い地域でも、昔からの小さな寺社の行事開催や運営は難しい状況に置かれています。有名で由緒ある寺社は別として、居住地域にあるそれは限られた門徒衆、氏子の人たちによって細々と続けられているようです。

 伝統にのっとった心のこもった風景、習慣・催しが毎年変わらずこれからも続けられて行くことを祈るばかりです。

桜が満開

桜の品種は大変多く、正しく種を同定することが難しい場合も少なくありません。先々週(20日)から湘南六会の大学のキャンパスにある桜が満開です。
真っ青な寒空を背景に薄桃色の桜が満開なのは、少し奇異な風景です。幹周りが70ー80cm、樹高10m位ある大木です。数十年前からいろいろな桜の品種の桜が植えられていましたが、キャンパスの講義棟改築に伴い、その工事の邪魔になるとかで、その対応が問題になりました。建築工事により一部は伐採除去、一部は根株移植、そして一部はそのまま残す方針で進められました。根株移植された桜(ソメイヨシノ)については前の随想で書きましたが、現場にそのまま残った桜の一種は、いつも通りに寒中にも関わらず綺麗で見事な花を咲かせています。新棟(新2号館)の北側で駐輪広場にあり、多くの学生の動線から外れていますのであまり人目に付かないのが残念です。もっと積極的に開花(満開状態)を知らせたら良いのに、と思うことしきりです(1/27の学部HPのトピックスに掲載されました)。
 所で、肝心のこの桜はどういう品種でしょうか?先にも書きましたが桜は野生種と園芸種の交雑も多いため判定し難いようです。一応調べた結果、カンザクラのようです。冬でも一番早く咲く桜として有名で、花弁は薄桃色、花縁は内側にやや湾曲、萼は赤、萼筒は釣鐘状が特徴のようです。カンヒザクラ(寒緋桜)とヤマザクラ(山桜)、またはオオシマザクラ(大島桜)の雑種と考えられる栽培品種のようです。

季節はずれの桜吹雪をマフラーを巻き手袋をした手で受け取りました。
木の下で花見の宴をするのは、まだまだ先のようです。

今大切なこと

今日は暦の上で大寒、物皆寒さに耐えて春の到来を静かに待っています。
でも微かにどこかで春の息吹が感じられます。
この写真は何だか分かりますか?何か切り取られた大木のようです。高さが1.5~1.8mの所でバッサリ切られています。樹名板が見えます。「ソメイヨシノ」 と書かれています。
そうです何処かで長年美しい花を咲かせ,春を彩っていた桜の大木です。人間の都合で邪魔になって切られ捨てられる定めだったようです。心ある造園家が時間と文化の視点から再生を考えたようです。この桜は幹の直径が50ー60cmもあり長年成長し,広く枝葉を広げ沢山花を咲かせて来ていました。
故あって動かされることになり,こんな姿にされてしまいました。でも残れただけでも良しとしなければ。大学のキャンパス内であれば、もっと有効に再利用されて良いと思いますが。
 移植して2年、しっかり根を張り沢山若枝を出したら、枝葉を選んで剪定して良い枝が伸びて来ました。真冬なのに枝の中には少し花芽が付いていて、ここ数日間の暖かさで花が咲きました。このしっかりした若枝は将来太い枝になってこの広場で見事な花を咲かせてくれるでしょう。多くの学生たちの成長と合わせて桜も逞しく大きくなることを楽しみにしています。移植による再生は大変ですがもっと積極的に進める必要があります!
 少なくとも大径木は、それを切る人の年齢よりはるかに多くの年月を生きて来たはずですから。 

Stadt + Grün No.2

S +Gの2016年1-2月号から;

1月号の巻頭記事に,No.1で示した州の庭園博開催決定についての市民投票の結果がある。Bad Iburger(ニーダーザクセン州)で2018年に庭園博を開催することに対する市民投票の結果、賛成61%反対39%で開催に決定。2015年3月には一度、開催が否決されていたが再度検討し、地方議会の中で経済的、地域観光的、環境整備的に意義があるとされ開催が認められたとある。同様の事例は以前にもBad Essen市であった、とある。

 公園と市民の関係については、他の記事も注目に値する。「ブレーメンの音楽隊」の童話で知られるブレーメン市の市民公園(Bürgerpark;200ha)が開園150年を迎えたこと、この公園は1865年11月16日に市民の手によりニューヨーク、セントラルパークに習って運動が開始され建設された(1866)ものであることが載っている。この公園開設では、市民の手により完成し当時3000人の会員がいたとされている。

 また、München市の中長期緑地構想が公表された、とある。Borries教授、Berlinの造園事務所BGME、ミュンヘンの造園コンサルの3者が緑地構想2030を作成し公表、公開した。

 

 1月号には7編報告・論文が載せられている。①緑地の維持管理手法に関するものでは管理を3段階(時間と管理内容等、素材3区分、時間30年、空間3区分等9段階)によって分け、分析から維持管理手法まで提示している。

 ②リューベック市(公園緑地630ha、街路樹 85.000本)およびミュンスター地域住民の緑に対する意識と緑の役割について述べ、緑地の創出、緑への市民参加、緑の市民サービスを提案している。ミュンスター市では既に10年以上以前から緑地整備拡大を狙って活動、緑地局は緑地整備と都市交通の改善をテーマにタッグを組んで実施。③フランクフルト市の造園緑地局(新社屋:2013-2015年、1.7ha)が旧フランクフルト操車場跡地に建設された報告。④ベルリン市北東部;Neu-Hohenschonhausen;22.500人居住の住宅団地再開発の提案(2015)にたいし、地域社会再生と住宅環境整備の課題を緑地的空間整備において造園分野からの提言をしている。⑤都市林に関する報告では、ドイツにおける都市林のこれまでの役割、現在までの変化、最近30年(1979-2012)の役割の変化について明らかにしている。⑥自然の再生・復元の視点から見た「花の草地;Blumenwiese)について、その歩みとKassel市の事例、都市内から農村域の文化景観、山地景観と野生草から分析している。⑦生態的視点から緑地の価値を高める手法として生物多様性が重要であるとし、蜜蜂業界が野生草重視を掲げてプロジェクトを展開、Eh-da-Flächen活動の有用性を述べている。ドイツで最初の事例町村を(Bornheim;Rheinland-pfalz州)に決めその結果を報告している。

2月号の記事欄には、P.J.Lenneに関するものがある。2016年はLenne没後150年に当たり、P.J.Lenne賞の競技設計が紹介され、3カテゴリーに区分され設計計画の事例都市をベルリン、マイセン、アムステルダムの3都市に指定し、競技設計内容をそれぞれの市ごとに提示している(LAの資格は35歳以上、賞金5000ユーロ)。P.J.Lenneの庭園作成とデザイン、樹種選択等に関する論文は3月号の冒頭にも登場する。

2月号も7編の報告・論文が載せられている。

 ①公園計画に求められる要素として、光と影の柔軟性、湿地の植物を注視する。②新しい時代の公園とは、と題しミラノ、ドイツの2都市公園、モスクワの公園を国際比較し解説している。③アルメニアにおける屋上緑化と壁面緑化についてディリジャン国際大学を事例として述べたもの。④カッセル市にあるグリム公園の建築と造園について。⑤ベルリン市内の大規格道路のブールバル化(1865年平面図、1910,1948,1972各年の状況・写真参考)を都市計画サイドから提案。⑥アムステルダムの市内(3重に分布する運河沿い)に古くからある民家の庭の意味。⑦洪水に対する都市計画的視点からの提案(建物地下の考え方について)。⑧Mammingerワイン広場の池の在り方について。

 

 

 

 

 

閑話休題

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厳冬期、まさに日本全土を大寒波が覆っていて九州から北海道まで雪模様を報じています。日本海側の地方では、それ以前から続く大雪で所によっては一晩で1.5mも積もったとあります。中国地方の瀬戸内側、広島市でも10-20cmの積雪と伝えています。それに比べて首都東京や関東平野地域では雪のない寒い一日になりました。天気は晴れで青空がのぞき、明るい陽射しも射して陽だまりでは暖かくなりました。

我が家の庭にはブナの木に粟の入った脂身がぶら下がっています(写真)。これはドイツで買ったもので、網の上についているのは雨を避ける傘の役をしていますがあまり効果はありません。網は市販のネットで、脂身はスーパーのお肉コーナーで貰うラードです。小鳥の餌(粟など)を練り混ぜて網に入れ、傘となる覆いをかぶせてぶら下げ完成です。

 秋から冬にかけて周りに餌となる木の実や虫が消えたころ、このぶら下がった脂身は小鳥たちにとって絶好の食事の場所になります。最も頻繁に訪れる鳥はシジュウカラメジロです。メジロシジュウカラが来ると逃げ、シジュウカラキジバトが来ると逃げます。でも脂身の入った網の目が小さいのでキジバトはあまり来ませんが、でも気になるようです。粟は脂身に練り込まれ包まれていますので小鳥たちは啄んだ後、大変です。嘴が脂でベタベタ。周りの小枝で嘴の周りに付いた油を撫で落としています。

 あと1か月もしたら次第に春めいて梅の花なども咲き始めるので、次第にこの餌場も静かになるでしょうか。酉年の2017年、良い年であることを期待するばかりです。