水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔 その一 

 私が東海道を歩いてみようと思ったのは、昨年の秩父34ケ寺観音巡り(巡礼)で満願達成したことにあります。時代は変わっても、先人の残した道、路があれば懐かしさも手伝って、その面影やいかに風景・景観はどうなっているか、と辿ってみたくなったのです。松尾芭蕉は45歳で奥の細道の旅に出ていますが、私は72歳で、それも昔の人に倣って東海道を徒歩で巡ってみようという大それた、大胆な企てを思いついたのです。芭蕉は1644年の生まれ、私は1944年の生まれで、何かの縁を感じ372年違いでの思い立ちです。

 平成29年弥生3月11日(土)早朝に、出発地点の日本橋に向かいました。川崎の西郊外、柿生の里の住人であるため、日本橋までは電車を利用し辿りつきました。一日にどのくらい歩けるか、全く未知数のため兎に角、先人同様早朝に出発と決め、自宅を朝未だ気の6時に出ました。日本橋の袂には陽が昇り始めた7時半頃到着。橋の袂には天気の良い土曜とあって、何やら歳のいった同好の士が三々五々集まっていました。出発地点の証拠には、昔なら日本橋をモチーフに絵を描いたであろう(広重の東海道53次日本橋の絵)と思いながら、スマートフォンを取り出し近くにいた人に頼んで一枚。早速朝日を浴びて歩き始め、銀座通りを西に向かいました。銀座は日本の商店街で第一(No.1)としての自負があるかのように、街路沿いは草花と低木の植え込みで美しく装飾されています。植え込みには訪れる人、道行く人達に豆知識とクイズを示すような小さな札が立てられていました。2mほどで円錐形のキャラボクは周囲の建物に比べてあまりに小さく、かっての「銀座の柳」は歌にも歌われ近代化の進む日本の都市を代表する街路樹でした。今はその面影はなく、ござっぱりと成型の常緑低木が続いています。昔あった電柱は地下に埋設され見通しの良い広い街路空間を生み出していますが、緑の重要性が認識されているにもかかわらず、ほんの少しの緑だけで止まってしまっているのは、何とも歯がゆく残念な思いです。

 そんなことを考え感じながら銀座通りを過ぎ、新橋駅を越えて小さな日比谷神社を覗き、海側にある浜離宮を想像して歩を進めました。芝大門を右に眺め、芝五丁目の「勝海舟西郷隆盛の会見跡地の碑」を見て時代を想い、歩道を陸側へ移し高輪、泉岳寺を過ぎて第一日目の終点、品川駅に到着しました。歩き始めて2時間、案内書には7.4km,二里とありました。ほぼ時速4kmの歩く速度となりました。

 東海道を歩く方法として、その歩き方にはいろいろやり方があるようですが、私は箱根を過ぎるまでは「通い」の方法で回を重ねようと考えました。毎回到達点(宿場)を決め、次回はその到達点を出発点として繋いでまた歩き始めるという方法です。二回目は品川が出発点となりました。

Stadt + Grün 3

海外専門雑誌(Stadt und Grün) の内容概説です。昨年2016年の「都市と緑」の3回目です。3月ー4月号の内容について解説します。

以下はその雑誌の記事、報告の概要を書き示しました。

3月号

記事;2017IGA ベルリンにむけて(2017.4.13-)、100ha 6000㎡の水辺の遊び場、230万人予想(1/3ベルリン、ブランデンブルグ 1/3;150km圏内、 1/3;それ以外外国も含め(整備状況)2016-2017;建物関係、遊び場関連2015年に完成、2015年秋以後は植物(バラ6000株、低木。花木35.000株、2017年春までに草地緑化完成、IGA中央入口(Kienbergpark)に1000.本以上の白樺、ミズナラの林(Baumhain)完成、10人の建築家が造園業者とタイアップして120㎡の庭展示“Haus- und Privatgarten”,サツキやツツジの植栽と300.000株球根類定植(2016秋)とあります。今年2017年の半年間、ドイツの首都ベルリン郊外で国際庭園博覧会(IGA)が開催されます。ドイツへ旅行をされる方は是非、この庭園博をご覧いただきたいと思います。周りには高層住宅、中低層住宅、戸建て住宅区があり、会期後はその人たちに重要な都市公園になります。

【報告】 

1.Gehölzverwendung bei Peter Joseph Lenne Clemens Alexander Wimmer

Eine Annäherung mit Schwierigkeiten

 P.J. Lenne の庭園作成と樹種選択・デザイン

C.A.WimmweはPozdam在住の庭園史家、Lenneが植物について図面など史料・資料を用い説明、Lenneの著作が少ないことを6つの要因から説明。

1)レンネ自身に書いた物が無く、マグデブルクの植栽計画に関する公表は無く少しの記述に限られている。2)植栽表示記述は構想に限られ、植栽計画は例外的にあり、彼の時代それは必要とされなかった(G.Meyer)、3)個々の点についてはLaut Hermann(1815-1890)に任せ、当時は同業者が計画、実施していたと考えられる。4)植物リストは僅かに存在し、印刷したカタログは州の植木業協会にあるくらい、レンネの計画の実際がその時代に使われていない。5)施設の現状の植栽には僅かにレンネの物が見られるが時代的に同じか不明。6)レンネ自身が色々な計画で植栽について色々な考え方があり、詳細は明らかでない、とされている。Georg Kuphaldt(1853-1938), Hermann Jaegerはレンネは造園家Gartenkunstler)で特段重要な個々の専門的技術、知識を持っていないし、考え方をよく変えていた。

ここに登場した専門家達により、1820-30年代の関係資料(図面など)から分析している。

Magdeburger の庭園植栽について歴史的に考察。関係した造園家の説明と合わせLenneの所業を述べている。

2.Ökologisches Pflegemanagement von Staudenpflanzungen Karl Hillebrand

Erfahrungen im pannonischen Gemeindegrün Petrnell-Carnuntum

Pannonisches Gemeindegrün”、Wien大学造園学科が「町村の緑;Gemeindegrün」を2010年から研究。”ウイーン・ブラティスラバ間にある1200人の町で実験。道路沿道、公共空間に於ける開花性高草丈植物による緑化の適応種を探し出した報告

3.Vom Sinn und Unsinn der Splitt-und Schottergäten     Karia Krieger著

Ein unansehnlicher Trend macht sich in Deutschlands Vorgärten breit

自然石(砂利)を含め人工素材による垣根や植栽ベットの比較。どちらがより自然や景観によいか、について検討。

4.Einsatz von Staudenfluren im öffentlichen Grün     Jana Schultze著

Transparenz über kosten schafft Plannungssicherheit

1月号1番目の論文と同じ人の報告で、公共の緑のあり方、維持管理と経費について考察している。

5.Wildbienen und Wespen auf Gründächern   Rolf Witt著

Ergebnisse einer Studie aus dem Jahr 2015

. 野生密蜂、アブなど(ドイツ全土で561種)360種(NS州)について、いろいろな屋上緑化に伴う植物とそれに集まる蜂類の報告。

  1. Potenziale von Stauden in der Vertikalbegrünung    Henning Guenther著

Ergebnisse eines Forschungsprojektes zu Grüner Infrastruktur

Grüner Infrastrukturプロジェクトの結果報告、傾斜角80°の傾斜面(1,5㎡の箱;6区画、40種の植物導入し)の緑化法結果について報告。

  1. Wie kann Biodiversität im urbanen Raum gefördert warden?

Ein Beitrag zur Diskussion um Forschungsbedarf

大都市圏における生物多様性とは、どの様に対応できるか、すべきか。

研究の必要性についての討論。

  1. Wiedergewinnung der Englichen Partie im Rheinsberger Lustgarten

   Mathias Gebauer著    Eine Biotopumwandlung im Gartendenkmal

  文化財的庭園における生物多様性対策(ビオトープ再生)

  プロイセン・ベルリン庭園支援機構(Stiftung)がラインスベルガー庭園・イギリス庭園区の植生を生態的に調査し自然再生型の湿地植生に変更し成功した事例報告(1773-1816-2015)。

 

4月号

記事  2016はレンネ年であったためP.J.Lenne の記事が多い。レンネ没後150年。ポツダム市におけるレンネ関連事業(プロイセン・ベルリン庭園支援機構(Stiftung)は彼が26歳で造園家(Gartenkunstler)としてポツダム市に来てから200年。彼の業績を忍んで行事を開催。

レンネに関する12項: ①彼はその時代、有名なGartenkunstlerであった。②彼はイギリス風景式庭園(englicher Garten)を造り上げた、③彼は偉大な都市計画家Stadtplanner)であった。④彼は常に市民生活の中で公園、緑地、庭園を意味づけた。⑤彼は庭園学をパリのガブリエルテョインで学んだ。⑥ラクセンブルグ時代、彼は帝国造園家(kaiserliche Garteningenuier)であった。⑦彼は1816年ポツダム市に招聘された。⑧彼はドイツで最初に造園学学校を造った。⑨彼はドイツ最初の造園家協会(現在のDGG)会長である。⑩彼は1823年最初の造園局長になった。⑪彼は1854年帝国造園局長になった。⑫全ヨーロッパにおいて300の公園・庭園を造った。

 本号は庭園博に関する記事が多い。これまでの庭園博会場およびこれからのIGA(国際),BUGA(連邦),LGA(州)の庭園博の在り方、現状について掲載されている。

 Bad-Lippspringe(保養地)は2017年のNRW州の庭園博開催市、会期は4/12-10/15。

33haの2会場、

【報告】

1.Landesgartenschau in Bayreuth am Rosten Main   Inge Hahn著

Ein spannungsvoller Landschaftpark zwischen Stadt und Eremitage

バイロイト市(ニュルンベルク北)、ロステンマイン川沿岸の市におけるバイエルン州庭園博について。会場は40ha、バイロイト市内から近いエレミタージェ、ロスターマイン河畔の公園地区。洪水調整池機能を併せ持つレクリエーション公園として創出。

  1. Sanierter Hofgarten und neugestalteter Landschaftspark

  Johannes Czerniejewski著

Farbige Stellen kündigen Landesgartenschau Öhringen an

オーリンゲンのバーデンヴュルテンベルグ州庭園博会場について。修復された宮廷庭園と新設なった公園を解説している。

23000人程の町を流れる小河川オールを中心軸として、都市公園や教会中庭庭園を核とした緑の軸整備(庭園博会場造りコンセプト)の庭園博会場。5年間掛けて都市再開発し(河川改修、堤防改修、公園緑地整備など)会場整備についての報告している。

  1. Entiner Landesgartenschau mit Neuentdeckungen am See   Vera Hertlein著

Städische Uferanlagen verbinden Stadt und Landschaft

オイティナーの州庭園博会場における新しい試み;市街地と郊外を結ぶ水辺プロムナードの報告。

第3回シュレスビッヒ・ホルスタイン州の庭園博開催(オルティン市)。27haのエイティン河、河畔、湖を含む会場。市内と会場を結ぶ新たな公園緑地の整備について、

  1. Internationale Gartenausstellung Berlin 2017    Sibylle Esser著

Wohnen an der Pheripherie Berlins wird mit der IGA attraktiv

国際庭園博(IGA)2017はドイツの首都Berlinで 会期を2017.4.13—10.15として開催される。会場の敷地は100haにおよび、会場の Marzahn-Hellersdorfはベルリン市東部に位置する郊外住宅地区。中国庭園は既に2000年に建設されている。 

  1. Bunesgartenschau Heilbronn 2019 am Neckarbogen;  インタビュー記事

Gätenschaupark und Stadtausstellung initiieren ein neues Quaritier

 会場の敷地100ha、10年間Experimentierfeld 新規の緑地、

会場担当はHanspeter Faas氏、2019年の連邦庭園博会場はハイルブロン市(ネッカー河河畔)で、その設計、建設、計画などについて解説している。

  1. Wiener Internationale Gartenschau 1974 過去と現在   Christian Hlavac著

Herausforderungen für die Pflege im heutigen Kurpark Oberlaa

ウイーン国際庭園博(1974)の20年後の状況、これまでの維持管理と現状・課題について。

  1. Futuristische Formensprache noch fragmentarisch vorhanden

   Harketa Haist著

  Die Bundesgartenschau 1967 in Karlsruhe

 1967年のカールスルーエ市における連邦庭園博会場の現状と将来のあるべき像について考察

  1. “New German Style” Diskussion eines Trendbegriffs

Perennial Perspectives und neue Ideen zur Staudenverwendeung, Teil 1

  新しいドイツスタイルとは何か。伝統についての討論。この10年くらいドイツも造園会は停滞の10年といわれてきた。環境配慮、省資源、生物多様性といった時代の今後、造園緑地の分野はどうしていったらいいのか、高草丈草花をどう展開していくかについて検討。

 

 以上のようにドイツでは連邦庭園博、各州の庭園博が毎年どこかで開催されています。財政的な問題があり、州、市町いずれも公共投資の難しさが問題になっており、これは日本も同じですが、ドイツは市民にその意義を問いかけ、地域経済効果やインフラ整備も合わせ継続させてきています。それぞれの市町村がゆとりある安全・安心の生活環境時代、生物多様性の時代に公園や緑地の整備に努力している点は見習うべき点が多々あると思います。

 

河鍋暁斎・絵に託したもの

 

浮世絵師・河鍋暁斎の名は全く知らなかった。日本放送で落語家春風亭昇太伊藤若冲の評価に負けず劣らず絵師暁斎を取り上げ、その絵の魅力と彼の力量を宣伝し見なけりゃ損と声を張り上げていた。新聞による紹介でも、彼の写生力、表現内容が素晴らしく、激動の幕末から明治初頭を生きた浮世絵から日本画仏画・風刺漫画など幅広く描いた画家として報じられていた。

 いろいろな生き物の写生力や妖怪の奇抜さに魅かれて見に行ってみた。展示された絵の印象は「凄い」の一言。生い立ちから生きた時代(江戸末期・幕末から明治初期)の社会を思い浮かべながら照らし合わせ、それぞれの作品を見ると、絵にしろ字にしろ「細かく正確に観察、記録、描写する」ことの大切さ、面白さ、偉大さを改めて感じ取った。

 もともと浮世絵、中でも特に日本の風景を表した絵画や絵図などの作品には興味を持っている。都林泉名所図会、東海道53宿場図、江戸名所図会など、名所旧跡や日本風景の往時の姿を表したものは職業柄、比較対象物として見てきたし、感じたり考えたりすることが少なくない。暁斎は以前、号を「狂斉」と名乗っていたこともあり、ギョウサイではなくキョウサイと呼ぶ。葛飾北斎が画狂人・北斎と名乗っていたのと共通するし、北斎の描写、観察力、写生力に負けず劣らず凄く、北斎漫画に似て暁斎漫画もある。物の本によれば驚異的な観察力、描写力は、「巨鯉の写生」で鱗の枚数はじめ全体を精密画で示した画力で表されるとされる。その集中力や成し遂げる気力・体力・精神力には感服する。

水墨画に示される筆致の素晴らしさ、力強さにも言葉が無い。濃淡の見事さは言うに及ばず一筆の流れの完璧さは、同じモチーフで何枚描いたのだろうかと思ってしまう。暁斎は描くことが早く習作はじめ一日に百枚以上描くこともあったと言われている。長年に亘る正確で緻密な観察力・描写術はいろいろな師に付き、流派の技法を手に入れ独自の絵画に作り上げ、作品を残し多くの門人を育てている。生い立ちも修業時代も複雑で苦しく変化の激しい状況の中で培われた反骨精神が画題にも表現され、また時代的に社会の激しい変化にも立ち向かっていった姿が作品に示されてきているといえる。享年58歳、今では若くして病没。墓地は上野谷中の瑞輪寺にあり、墓石は蛙の形をした自然石とのこと。

 これまでにいろいろ絵画を見てきたが、暁斎の生きざまと作品からは大変大きな感動と深い印象を得ることが出来た。なんとなく魅かれて見に行った絵画展だが忘れられないものとなった。墓参りに出かけ墓石を見に行ってみよう。

海外支援・ボランティア・生きること

私は現在72歳です。これまでいろいろありましたが、無難な人生を歩んできたように思っています。幼くして実母をなくし戦後の苦しく貧しい(今に比較して)生活を体験して成人し、縁あって最高学府の大学で「教育」という仕事に長年携わってきました。その間に環境先進国の「ドイツ」でいろいろ体験、経験し国際的な視野を広めることもできました。決して我が身一人で成し得たことでもなく、家族をはじめ幾多の師、先輩や知人友人、関係者との繋がりがあって進められたことです。進んできた道のいつの時点でも、我が身の「恵まれた状況」の認識はありました。 

 「人間上見ても限が無いし、下見ても限が無い」と言い、自分の置かれた状況(いろいろな段階、範囲で)に対する感じ方、考え方が大切で、その都度、決断し進んでいかなければなりません。「吾唯足知」、京都竜安寺の蹲に示された故事でも有名ですが、この言葉の「足るを知る」の概念・意味・考え方は極めて難しい点です。近代化、科学化、工業化した先進国では格差が拡大し、またそれを推し進め発展を進めている途上国でも同様に格差が進行する現実があります。国レベル、地方レベル、町レベルとは別に個人レベルで「飽食の時代」、「経済優先・飽くなき生産と消費」の生活の在り方を考えることは無駄ではないでしょう。

 このような世界的にも行く道の不確実な時代に、自分の生き方に信念をもって進み、活動している人や団体は少なくありません。直接それに関わる人たちには頭が上がりませんが、それを支援しようとする考え方は大切です。

 今回のカンボジア訪問は、旅の中でそれを直接目にし、耳にすることがあり、その意味で目を開かされるものでした。関係する人たちから、これまでの歩みを聞き、現状を見られたことは、人としての生き方を考えさせられる事となりました。その内容に触れ少しまとめてみます。

 H女史:日本の大学を卒業後、社会に出て働き、たまたま興味のあったカンボジアに旅行。普通の女性が旅の中でカンボジアの子供たちの置かれた生活の有様に驚き、日常生活の支援をすることに目覚めたとの事。以来15年以上にわたりシェム・リアップ市の孤児院で、事情があり学校に行けない子供たちを見守り育て、施設で支援の手を差しのべ社会に送り出して来られています。日本との細い僅かな繋がりの糸を頼りに、少しずつ支援の輪を日本に求め活動され、カンボジアの子供たちの状況、生活支援の必要性を広めておられます。子供たちに普通の生活と学び考える力を持たせる努力をされています。 

  S女史:日本の大学時代に東南アジアに興味を持ち、縁あってカンボジアのアンコールワットで観光ガイドになり、同時に日本語教師として現地の子供たちを教えておられた。その時学校にも行けない子供達がいること、学校を卒業しても働く場所が無いことの指摘を生徒からされ、自分の役割を考えさせられたとのこと。そこで起業の必要性を感じ、世界文化遺産アンコールワットを有する街で、働き場として製菓業を立ち上げ軌道に乗せ進めてこられています。設立10年を経て、今は店を現地の人達に任せ、農村の個人事業者を育てたく市郊外に自ら40haほどの農地を買って熱帯地方の農業を軌道に乗せるべく日夜努力されています。さらにその先にはH女史同様、学校を作り人づくりをしたいと活動に燃えておられます。彼女を突き動かすものは「社会のために自分に何が出来るか」の信条にあると仰っていました。整備途上の農場を見学し、有機栽培の野菜、果樹生産を着実に始めておられる様子に感動しました。

Y女史:関係者とアンコール遺跡修復に関わる傍ら、現地で建築家として活躍されています。同時に日本の団体と連携を持ちながら、将来を担う子供たちの教育を支援する活動に力を注いでおられます。先に書きました2人の女性と同じく、カンボジアの若い力を長い目で育てることに努力されています。小学校の低学年の入学生徒数は少しずつ伸びているようですが、家族労働力として子どもの力がまだまだ必要な社会状況にあり、中学年での就学児童減少が起こり、高学年では中学校への進学の可能性が低くなる問題もあります。中学校自体が少なく、学校が遠くなると通学できない問題もあるのです。それらの問題解決に向け中学校建設を推し進めたり、さらに将来社会で活躍できる有能な人材を育成するための支援を続けておられます。

 限られた日数の中でシェム・リアップ市近郊を見て、社会的インフラの整備不足やそれに伴う生活水準のレベル、未成熟な産業構造を見るにつけ、日本に照らし合わせ大いに考えさせられました。物余りで、物を大切にせず、物不足に耐えられないだろう日本、「もったいない」が死語になりそうな日本。一方、カンボジアはこれまでの負の時代を背負って進んでいます。識字率の低さもこの歴史的な歩みの中にあり、一長一短、可及的速やかに社会の状況が変わるものではありません。そのため次世代を担う子供たちの教育は将来にわたって着実な発展を遂げる意味でも重要となります。発展途上国で「不足」を分かったうえで弛まぬ支援の努力を続ける信念を持った日本の人達に敬意を表し、今後もできる範囲での支援をしていこうと考える旅になりました。

 

カンボジア見聞記 No.4

f:id:nu-katsuno:20170310193208j:plain

 シェム・リアップ滞在5日目、カンボジアの人々の暮らしを見るためにトンレ・サップ湖(Tonle Sap)沿岸の集落(水辺集落・雨季には水上生活集落)に出かけました。具体的な集落名はわかりません。シエム・リアップ市内から南に車を走らせ湖近くにあるカンポン・プロック(Kampong plouk)という村に向かいました。ここには100軒近い(?)家屋が立て込んで並んでおり、全て高床様式でした。訪れたのは2月、乾季の最も雨が少ない季節で、水位が最も低い時期でしたので、高床家屋は見た目にも異常に高く、家を支える数多くの柱がそのまま土台に繋がって林立し、家と家の軒や庇が繋がり、重なるように建っている蜜居(集居)です。集落はトンレ・サップ湖畔に連なる水路を1-2km入った小高い部分に位置し、集落の広場や寺院と水路(乾季の時の)の高低差は10-15mありました。雨季でも集落中心部の寺院広場や中心広場は冠水せず地区のコミュニティー機能を果たしているようでした。各家は船外機を付けた大小の船を有しており、観光船であったり漁業に使ったりといった様子でした。来訪者が多ければ観光船として、客が少なければ猟に出るといった感じです。湖に出るまでの入り江(河口部)は魚類を捕獲するために網や竹筒・網筒を水際部に設置したり、投網で漁をする人がかなりいました。淡水魚の料理が多くなり、生魚の他、干物や魚醤が作られていました。料理に多く利用される川エビの仲間が多く獲られ、天日乾燥し殻の部分を取り除いて身だけにし、鮮やかな赤色に染め商品を作っていました。別の集落ではキャッサバの天日干しを道路脇でやっているのも多く目にしました。乾季には乾季の自然条件を生かした生活作業、仕事があるようです。

 高床式家屋を見たときに余りの高さに驚きましたが、雨季にはそれだけ水位が上がるということを物語ります。トンレ・サップ湖は国際河川のメコン川と繋がっているため、そのメコン川の流域面積が地球規模で広大なため雨季に10数mの水位上昇は理解できます。5-10月が雨季のようですので半年間は水面面積が乾季の10倍になるとのこと、その景観を想像することはちょっとできません。でも高床の高さを見ると頷けることでもありました。観光船は客の人数によって大型から小型までいろいろ。客が多いと船が入り乱れ、川の中で渋滞が起こってしまいます。船頭は巧みな手足捌きでぶつかることなく進めていきます。湖に近い所は一面のマングローブ林、日本の亜熱帯島嶼にあるそれとは樹高の違いが一目瞭然。水面上の高さ7-8mの樹林。雨季には樹冠だけ出しているのかと想像しましたが、実情はイメージできませんでした。湖の上には観光船、遊覧船の仮停泊場(船の係留ポイント)があり、店や簡単な食堂などもあり、さらに小母さんたちによるマングローブ林内の案内小舟貸しがあり、大声で呼び込みをしていました。驚いたことにワニの生簀があって、何のためかと一瞬考えてしまいましたが、まさか食するのではないでしょうね。

 高床式を構成している材木は、材が真直ぐで太さもあり腐り難いと思われ、それ以外の用に使うと思われる木々も真直ぐです。南洋材の素直な育ち方がその形からわかり、日常生活での多様な使われ方を理解することが出来ました。

発展途上国での地域開発、地区整備はなかなか難しい問題が沢山あります。現在の人・物・時間のスケールでは、あまり問題が無いように見えますが、アンコール遺跡の施設開放、利用と同じように、今後観光客の増加が予測される中、利用者数と施設規模、そのマネージメントでいろいろ問題が生まれ対応が難しくなりそうです。

生活水準の向上と生活文化財、景観保全の調和ある発展が望めるかどうか、住民の意識、考え方に握られています。この問題・課題は洋の東西を問わず、また先進国、後進国の違いこそあれ共通するもののようです。先進した者として同じ間違い、誤りの轍を踏まないことを祈るばかりでした。

葉山先生の慰労会

葉山嘉一准教授の退職記念慰労会・お祝い会が来る18日(土)午後、学部湘南キャンパス(藤沢市亀井野)において開催されます。すでにNUメールなどで卒業生はじめ在学生諸君にも連絡は行っていると思います。会のご案内は既に昨年から伝えられているものと思いますが、長年に亘って造園学研究室で学生を教育・指導されてこられた葉山先生はこの3月いっぱいをもって定年を迎えられ退職されます。先生のこれまでの暖かく情熱のこもったご指導に対し、皆さんともどもお祝いしお礼を申し上げたいと思います。年度末でお忙しいと思いますが是非お時間作っていただきご参加願えればと思います。

この会は湘桜みどり会との共催の形をとっておられると聞いております。みどり会の方からもお誘い、ご案内が行っていると思いますが、私からも卒業生の皆さんや関係者の方々にご案内しご出席をお願いしたいと思います。

日本造園学会全国大会の案内 No.2

先日発行されたランドスケープ研究(日本造園学会誌)Vol.80,No.4に、平成29年度造園学会全国大会の案内がでました。日本大学生物資源科学部湘南キャンパスを会場とし5月19(金)~21日(日)に開催される内容の詳細が載せられています。学生アイディアコンペから学会総会、シンポジウム、アイディアコンペ作品展示、交流会、研究発表会、ミニフォーラム、企画展示などが3日間に渡って行われます。(詳細は同誌P395-397参照)

大会に対して既に実行委員会が組織され、生物資源科学部・生命農学科造園緑地科学研究室、くらしの生物学科住まいと環境研究室さらに理工学部の研究室から教職員・学生が参加して大会の開催準備に備えています。

新しくなった湘南キャンパスでの久しぶりの学会全国大会となります。新装なった講義棟などをごらん方々ご参加ください。

なお、この号に私、勝野が昨年受賞しました学会の上原敬二賞、受賞者人物インタビュー記事が載っております。機会がありましたらお読みください。

 

 

カンボジア見聞記 No.3

f:id:nu-katsuno:20170301192529j:plain

滞在4日目2月15日、アンコール遺跡の中で面積的に最も広大なアンコール・トム遺跡、バイヨンを見学しました。アンコール遺跡群はカンボジアで9世紀初頭から600年以上続いたアンコール王朝(クメール王朝)時代に建造された数多くの遺跡群のことです。アンk-ル・トムは12世紀の後半から13世紀、ジャヤバルマン7世によって作られた仏教寺院を中心とした建築物群(大王都)で王宮を中心とした都市(3km四方)とのこと。それまでの戦禍の時代を考え堅固な要塞を巡らせ、中心に複雑な建築様式からなる仏教遺跡バイヨンを作り上げています。バイヨン寺院は54もの塔とその四面に多くの観世音菩薩と言われる巨大な顔(2m四方の大きさ)が微笑んでいました。遺跡をどこから見てもその大きな菩薩面がいくつも形を変えて大きく見下ろしているようで威圧され圧倒されました。この菩薩面(?)はバンティアイ・クデイや南大門にもあって威容を誇っています。別名「バイヨンの微笑み」「クメールの微笑み」とも呼ばれていますが、日本の有名な観世音菩薩の微笑みとは全く別です。伽藍の様式は、他の遺跡寺院等と変わらず四面を回廊で囲み回廊の幅は狭く部分的に崩壊していました。そんな状態ですが、第一回廊の壁面レリーフ彫刻は素晴らしく、往時の戦いの姿や人々の暮らしの様子が描かれており大変興味深く時間をかけてじっくり鑑賞したいと思いました。特に綱引きの様子が描かれており引手の姿が相撲取り如く回しをした格好をしており、思わず「ここでも」と声を発してしまいました。

シエム・リアップ市内から北方6-8km圏にアンコール遺跡群があり、いろいろな国が世界遺産の修復に支援をしています。カンボジアはクメール王朝後16-17世紀後半まで欧州からの東方進出に会っていろいろな国が関係し、1863年フランスの保護国になっています。世界大戦後、1949年独立しましたが既に1907年からフランス極東学院により遺跡の価値が十分に理解され詳細な調査が進めてこられました。苦難の時代(内戦時代)を経て1992年遂にアンコール遺跡が世界遺産に登録されています。日本をはじめドイツ(Boeng Maelea寺院)や他の国々の支援により現在も遺跡の修復が進められています。

 カンボジアの国の文化遺産であるアンコール遺跡の観光利用権はベトナム資本に牛耳られているとも聞きました。世界文化遺産で世界的に注目を集め、多くの観光客・訪問客が訪れているシェム・リアップは目下建築ラッシュ、改築ラッシュですが、望むらくは計画的な文化財都市として、人々の住みやすい、伝統文化が正しく残り息づく町として発展してほしいと考えながら旅をしていました。

カンボジアは現在世界的には後発発展途上国となっており、まだまだ国づくりも人づくりも大変な状況にあります。その下支え、人づくりや地域づくりに懸命に支援し生きている人がいます。今回の旅ではその人達にも会うことが出来ました。ここではその人達のことにも触れなければなりません。

カンボジア見聞記・No.2

f:id:nu-katsuno:20170301192942j:plain

最初のアンコール遺跡見学は大変盛りだくさんになりました。No.1で書きました通り日曜日に当たった見学初日、内外の観光客や市民のレクリエーションもあって朝からアンコール・ワットは大混雑でした。観光客は事前に入場許可証を入手しなければなりません。案内役の人からアンコール遺跡を短期間に入念に見て回ることは難しいと言われ、少なくともシェムリアップ市周辺に数ある遺跡を見て回るには3日券は必要となりました(62$/人)。最初の見学遺跡はNo.1に示した通り、市内から40km北にあるバンティアイ・スレイ、続いてバンティアイ・クデェイでした。昼食後バンティアイ・クデェイ近くにある別の遺跡で巨大なガジュマル(の仲間)の巨木が遺跡に覆いかぶさるように生育しているタ・プロム(Ta Prohm)遺跡を見学しました。1186年ジャヤバルマン7世により母の菩提寺として建てられた仏教寺院で、敷地規模は東西1km、南北650m、伽藍はほかの遺跡と類似していて四方を回廊で囲まれ、中に祠堂や経蔵などが建て込んでいます。巡回路に沿って巡ると随所に巨木の根(巨大で回廊や柱壁を包み呑みこむような形)が目立ち、そのスケールと自然の驚異に息を呑むばかりでした。SF映画に出てくる想像を絶する光景で現実の物と理解するのに時間が懸りました。

 1192年、日本では源頼朝が鎌倉に幕府を開いた年に当たります。この同じ頃にこの遺跡寺院ができ、以後長い時間が経過して現在の姿があると思うと何か考えさせられます。使われていない寺院と使われている寺院が国や宗教が異なるものの同じ地球上で異なる運命にあるのは大変興味ある視点です。

 通常の観光コースでは、最初にアンコール・ワットを見た後に他の遺跡を見学するコース取りになっています。しかしこの日は日曜日、余りの混み方に考えを変え、普通と逆のコースを取り午後遅くから見学しました。アンコール・ワットはアンコール遺跡群の中心で12世紀前半、スーリャバルマン2世により30年かけて建てられた西を正門としたヒンズー教寺院で、伽藍がきちっと残り3重の回廊に囲まれ、5つの祠堂が聳えています。境内は外周が東西1500m、南北1300m、幅190mの堀に囲まれ、入口は西に在り12m幅の参道の陸橋両側は聖池、その奥に三重の回廊と5つの堂宇からなっていました。砂岩と赤色のラテライトからなる壮大な寺院で世界文化遺産に相応しいスケールと美しさでした。

午後遅くでしたが来訪者は依然として多く、最も中心にある第3回廊(1辺が60m)の中の中央祠堂(高さ65m)へは入場制限(出入口が一つだけで13mの急階段)があり、また公開時間が17時と迫っているにも拘わらず大変多くの人が長蛇の列で並んでいましたので、この塔への入場をあきらめ第3回廊の広場で周りの建物に見入っていました。

 入場制限の午後5時近くになり、日は西に傾きましたが、「夕日に映える寺院」の景観が一つの売りでもあって夕日の景を撮ろうとする人で立ち去る人は少ない状況でした。名残惜しかったのですが日没後の渋滞を避けるために少し早めに市内へ戻りました。その道すがら地平線に落ちていく真っ赤な夕日の美しさ、くっきりとした赤い太陽と茜雲の空の美しさに見とれて、この日は終演となりました。

カンボジア・見聞記 No.1

f:id:nu-katsuno:20170220180142j:plain

日本では節分や立春が過ぎても寒くなる2月、かねてより計画中であった東南アジアの発展途上国世界文化遺産に指定された「アンコールワット」で知られたカンボジアシェムリアップ市を訪れました。カンボジアへは、最近全日空が直行便(成田~プノンペン)を就航させ訪れる人が多くなっている様子。今回の訪問に際し、選んだ空路は往路が羽田・・・・ハノイ~1~シェムリアップ、復路がシェムリアップ~2~プノンペン・・・・成田で、・・・・区間全日空、~1はベトナム航空、~2はカンボジア航空でした。往路のハノイ行は羽田発で朝9:00発、ハノイ乗換で2時間待空港内待機、日本とは2時間の時差があり、夕方;現地時間17:00にシェムリアップ空港に着きました。滞在1日目の夜は簡単に済ませ就寝(と言っても日本時間では夜半)でした。

滞在2日目:カンボジアの気候は乾季(11-4月)と雨季(5-10月)に分かれています。2月は最も雨が少ない月で、風景的には乾いて草木にやや精気が乏しい月でもありました。しかし、人々の生活には活気があり、朝の街中の風景は通勤でごった返すオートバイやタクシーのような客台を引っ張るバイク群(テュクテュク)の流れが途切れることなく数珠繋ぎの状態です。そこに加えて車、トラックがありものすごい行列状態です。この光景は常時、何処でも見られますが、特に都市内では主要な移動交通手段となっています。50cc程度の小さなバイクに一人で乗っている人は殆ど無く、2人は普通、場合によっては子供を含め2~3人乗せて走っています。この日は日曜日で休日。アンコール遺跡を訪れる外国人観光客が多く(近年急激に旅行者が増えてきている模様)さらに市民も加わって遺跡へ通ずる幹線道路は大渋滞でした。その渋滞(来訪者の流れ)を避け、午前中に訪れる人の少ないバンティアイ・スレイ(Angkol-Watの北40kmにある)に向かいました。この遺跡は「女の砦」と謂れ、10世紀後半に建てられたとあります。建物全体が精緻で素晴らしく細かな彫刻で飾られ、とりわけ壁面、柱頭、出入口上部の装飾壁(レリーフ;浮彫彫刻)のそれは見事の一言、とても1000年以上も前に造られたとは思えないものでした。当時の人々の信仰心の篤さと寺院の引き付ける力の偉大さを感じました。寺院建築の部分である軒先(?)にある彫刻に、日本にある鬼瓦を思い浮かべました。

 バンティアイ・スレイから市内に向け引き返し、バンティアイ・クディの外にある巨大な池の畔で焼鳥(一度蒸した後、調味料をつけて焼いたもの)料理の昼食、デザートはココナツのアイスクリームだった。家族総出で客の応対。大人が調理し子供達が接客、配膳、清算をする有様でした。日曜日のお昼で人出が多く岸部の席は満席、仕方なく内に引っ込んだ高床式の建物での食事となりました。食後はタ・プロム寺院を見ました。この寺は12-3世紀にジャヤバルマン7世が母を弔うために建てた寺院と言われ、19世紀後半に発見されるまで自然のなすがままの状態で、想像を絶する巨大なガジュマルの根が遺跡の回廊や塔に食い込んでいる様相は奇怪、異様、脅威、驚愕の何物でもありません。表現に困る景で自然の恐ろしさ、時間の長さでしか理解できない状態です。このままでは遺跡自体が自然に、巨木の根で絞め潰されるためか、遺跡建物に直接覆いかぶさっている巨樹の枝・葉を切り落とし(樹木の15m上)樹木を枯らす方向で管理されていました。今後どのように変わっていくのか、良いのか悪いのか、よく分からないのではと思いました。

この日の最後にアンコール遺跡の中心であるアンコール・ワット(Angkor Wat)を見ました。これについては見聞記 No.2へ引き継ぐことにします。