水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り   15  春の院展を見る

 

 

f:id:nu-katsuno:20180412002236j:plain

    平成30年4月、関東ではソメイヨシノの一重桜が終わり、里桜も折からの強風に花を揺すられ花吹雪になっています。木々の若葉が柔らかな萌黄色で彩り始めました。遠く近く透けて見えていた森や林の景色も緑のカーテンに包まれて身近な風景がはっきりしてきました。「目に青葉 山郭公 初鰹  :  (山口素堂)」の句の季節近しですね。

 日本画の代表的な展覧会、春の院展日本橋三越で開催されました*。縁あって画家・倉島さん(同人)からご招待を受け、今年も展覧会(公募展)に足を運びました。今年で73回を迎える公募展、今年も応募数811点、うち入選作327点で3会場に分かれて展示される状況でした(同人の作品数35点は別)

 今回のような公募展で絵を見る時、それが洋画でも日本画、彫刻でも自分の気に入った絵・作品を見て回り鑑賞してきました。作品のモチーフ、色合い、画面構成などいろいろな視点から気に入った絵を探し、その情景、雰囲気、作者の感情に思いをはせて見て歩く面白さ楽しさが良いのです。そんな気分の2時間でした。

 どうしても自分の気持ちや性分から、色々な風景や動植物の作品に目が止まり感情移入したり制作状況を類推して楽しんでいます。作品の表題は、作者の絵に対する気持ちを表すので大変だろう、と思いますが的確な表題名を付ける難しさも感じられました。

 院展の同人(35名)の作品は当然ながら、入選作の中で自分の気に入った作品は色々ありました。作者の名前をメモして(10数人)後で検索したら、どの作者も年配の方々で、これまでにも度々日本美術院展に応募され奨励賞等を受賞しておられる人達(院友や招待)でした**。さすが歴史ある団体であり公募展、作品展覧会だと再確認し、少し自分の眼力にも自信が持てました。楽しい午後の一時でした。

 

 *日本美術院:1898年、岡倉天心東京美術学校を排斥され辞職を機に、下村観山、横山大観、橋本雅邦、菱田春草、六角紫水らが会を創設、以後、1905年には天心が茨城県五浦に別荘を造り、新しい日本画を模索し、天心はじめ上記の日本画家たちが活躍しました。東京に移った日本画家たちは大正2年(1913)の岡倉天心没後、それまでの日本美術院を再興し、翌年(1914)10月には日本橋三越本店で「日本美術院再興記念展覧会」が開催され、2014年には再興100年記念展も開催されています。

  岡倉天心の五浦堂は以前、国指定の登録文化財であり、日大造園学研究室に教授として在職されておられた吉川 需先生が、この邸の修複にも関係されておられました。(先生は日大に来られる以前に文化庁記念物課で全国の名勝旧跡・庭園はじめ文化財周辺の環境整備にも深く関わっておられました)。

**私が気に入った絵の作者は、石村雅幸、大島婦美枝、加藤厚、河本真里、佐々木啓子、沢村志乃武、白井進、谷善徳、中神敬子、安井彩子、吉澤光子でした。

 

 

記念切手  

 記念切手はいつの頃からか、いろいろな写真や絵が多種多様に盛り込まれたものに変わってきています。シリーズ物の記念切手でも、以前は1-2種類ほどの切手がシートを構成していましたが、今は郷土シリーズでも花や果物・野菜シリーズでも1枚1枚違ったモチーフの切手になっています。しかも62円の葉書用切手より82円の封書用の方が種類が多く発行されているような気がします。 

 もう一つ変わってきたのは、以前は殆どミシン穴で区切られた1枚1枚が、いまではシール型切手万能の時代に入ってきているようで、記念切手の多くがシール型になって来ています(添付写真参照;上段がシール型切手、下段がミシン穴切手)。 

 外国の友人と文通したり郵便物を送ったりする折、常に日本の記念切手を使っています。昔から日本の記念切手の多種多様さ、1枚1枚の切手の美しさ、色や形が豊かなモチーフで作られ今日でもそれは変わっていません。私のドイツの友人は、その素晴らしさに惚れて、もう永く日本の記念切手を集めてきています。そのため、私は手紙や荷物を送るたびに記念切手を沢山使って色とりどり貼って送っています。以前の記念切手は額面金額が少額であったため、郵送代金を記念切手で済ませるためには数多くの枚数を貼らなければならない場合も少なくありません。小包でSAL便を出すときなど、1面は住所、宛名などの書類を張るため切手を貼るスペースが少なくなり、止むを得ず他の面に切手を貼らざるをえません(消印を打つ方は大変でしょうね)。

 そんな時、昔のミシン型切手では色々な種類の記念切手を取り揃え貼れるので良いのですが、シール方式の記念切手シートでは1枚1枚別々にしか貼れないので結局1シート全てそのまま使わざるを得ません。

 

 手紙を書く機会が少なくなってきていると言われます。携帯電話の利用による情報の伝達(face book やline)が多くなり、自ら筆を取って時候の挨拶や近況報告などをすることは減って来ています。絵手紙や懸賞募集などで私製葉書を利用し切手を使う場合もあるにはありますが昔ほどではありませんし、それに記念切手を用いる人は極めて少ないでしょう。

    有名な画家や作家をはじめ文化人の展覧会などで残された葉書、手紙、書簡などが、展示物として重要な位置を占めている場合も少なくありません。これからの有名人の足跡としては形が変わっていくのでしょうか。ひょっとしたら使っていた携帯電話が展示されるかもしれませんね(笑)。

f:id:nu-katsuno:20180411235607j:plain

 

 

 

 

4月1日 エイプリルフール・嘘? 忘れること? 

 新年度が始まりました。平成最後の年、平成30年、2018.4.1、いろいろな物が新しくなる年度初め、学校に通う人は入学や進級、社会人の新人は新しい世界が始まります。

  前年度の最後に来て、それ以前に受診した定期健康診断(人間ドック)で問題点が指摘されてしまいました。再検査、精密検査の必要性を指摘され、年度末に大腸検査を受けることになりました。初めてです。胃の内視鏡検査で数年前までは鎮静剤を打って後に内視鏡検査をする方式で、何の苦しみもなく済ませていました。しかし、昨年から鎮静剤使用が断られ、鼻か口から差し込む方式での検査となり、咽喉部の感受性が人一倍強い私はカテーテルを差し込んで検査、撮影診断することが、それはそれは苦しく地獄の検査となりました。

 胃での体験を想像して大腸の内視鏡検査にも一抹の不安を持って臨みましたが、経験者・弟の「胃検査ほどでもないから大丈夫」に期待して受けました。実際、検査は胃のように嘔吐はありませんし、特段の違和感は無かったので安心しました。大腸検査は最初に大腸の最深部まで入り込み、カテーテルを手前に戻しながら腸内部の壁を撮影し問題のある箇所を見つけて計測したり処置をするなりして検査は終了します。腸内を空気で膨らませながら診察、撮影、治療しますのでお腹は当然膨らみます(膨満感)し、随時外へ空気が出ます(膨らんだり凹んだり;昔、子供の頃、田んぼでトノサマガエルを捕まえて麦からでお腹を膨らます悪ふざけを思い出しました)。

 私の検査では、問題点が部位毎にいくつも出てしまいました。最深部の盲腸、上行結腸部は問題なし、横行結腸と下行結腸では部分的に小さなポリープや憩室*が散見されました。私のS状結腸は普通の人よりやや長く曲がりが大きいとかで、カテーテルの出し入れに手古摺ったと言われました(私の性ではありませんが)。このS状結腸に正常より多く幾つもの憩室が点在し問題であるとのこと。最後に直腸部位には1cm程のポリープがあり、入院して摘出、再検査(病片検査)する必要があるとの診断になりました。

 憩室とは大腸の壁の一部が袋状に外側に飛び出した状態のことで、その中に老廃物が溜まり、強く息むと最悪の場合、壁膜が破け腹膜炎になる危険性があるとの事。

 全く予期せぬ出来事、状況でこれからの対応(再診)に新たな悩みとなりました。「嘘」であってほしいと思いましたが、写真で示されれば疑う余地無しでした(冷汗・涙)。

 

 忘れること。人間に備わった脳の働き。人は常に新しい物事に直面し、瞬時に判断して対応を決めて進まねばなりません。新しい情報を取り入れるために情報の重要性(軽重)を考慮して不必要なもの、古いものは消去して行かねばなりません。印象の深いこと、強いものはいつまでも頭に残っていて思い出します。重大な事件や悲惨な事故、体験等のように、忘れようとしても忘れられないことが沢山あります。先の大戦の最中や大きな地震・火災災害の現場など身の回りには数限りなく存在します。人によって状況は異なりますが、忘れていかなければ先に進めないのも事実でしょう。忘れられず悩み悲しみ苦しみ押しつぶされそうになるでしょう。心では決して忘れてはいけない、忘れられないと決めていますが、そのことだけに執着しているわけにもいきません。日々の暮らしを過ごして前に進んで行かなければならないのです。時の流れの中で記憶が薄れ忘れていくように。

 「忘」は字のごとく、心が亡びる、心を亡ぼすことでしょうか。心を鬼にして亡ぼしていかなければ先に進めないことなのかもしれません。「忘却とは忘れ去るものなり」は有名な語りですが、人生の中で苦しみや悲しみ、辛さから逃げ出すための一つの方法かもしれません。「忘れた」と、嘘をつくのは嘘なのだと思います。

 

 歳を取れば取るほど物忘れは多くなり、周りに迷惑をかけることになります。できることなら迷惑を掛けない、忘れて良いことだけの生活でありたいと思いますが・・。

展覧会巡り  14  オリバー・オースティン写真展

 懐かしい写真と何か引き付ける見出しに飛びついて展覧会を見に出かけた。見出しは「戦後まもない日本の風景」とあり(3月21日読売新聞)、添付の写真は丸坊主、草履ばきの笑顔の子供たちが車を追って走る姿であった。1944年生まれの自分にとって、ほぼ同じ時代の子供時代、風景の懐かしさもあったし、外国人が見た戦争直後の日本の姿、風景、人々の暮らしの写真展であり彼が、何を、どのように捉え写したか見てみたい気持ちが強かった。

 

 写真を撮ったのは、オリバー・オースティン(Oliver L. Austin jr.)1903年生まれの鳥類学者、大戦後日本に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)の一員でNRS(天然資源局)野生動物課長として1946年9月来日(43歳;2児の父)、以後1950年2月までの6年間、日本各地を回り野生動物資源調査をしている。今回の写真展はその間に彼が撮影した戦後の風景、戦後間もない日本人の暮らしぶり(東京中心)の様子であり、選ばれた70枚余の写真であった(実際は1.000枚以上の写真から)。

 新聞紙上の写真以上に興味を引いたのは写真展の解説書(表題:希望を追いかけて)の表紙である。それは表参道通りの風景で、右側に今は無くなった3階建ての同潤会アパートがあり道の下った先に明治神宮の杜を遠く望む写真である。神宮寄りの街路樹にはケヤキの大木が見られるが、明治道りから手前は殆ど街路樹も無く、僅か数本が新たに植えられた状態。自転車の後ろにリヤカーを付け坂を引いて登る人の姿が、現在のケヤキ街路樹で緑が豊かな通りの景観と違う、焼野原の後の姿である。緑を育てるには場所と時間が大切だ

と改めて痛感した。

 他に彼が撮影した東京都内あちこちの風景写真(道路含めた写真から)を見ると、当時(東京大空襲以後3-4年)、都心部や山の手では街路樹の緑や屋敷の緑が目立った状態か分かった。

 彼は鳥類学者であり滞在中6年間に北は北海道天売島から南は宮崎県青島まで、全国各地を日本の鳥類学者や関係者(山階芳麿、黒田長禮、蜂須賀 正、黒田長久ら)と調査していたことが写真から分かるし、日本の専門家と共にバードデー(今のバードウイーク)の制定や国鳥「キジ」の指定にも関わっている。さらに、剥製づくりの為、カモの狩猟を行ったり、野鳥を食する文化を記録するため築地の鶏屋(鶏藤)の店先にあるスズメ、ウズラ、ツグミ、カモ類の生肉の写真も撮っている。

 戦後間もない日本はこの後、希望や夢の実現に向けて復興の道を一挙に駆け上がって20世紀の発展に繋がっていった。この写真展を通して戦後間もない東京や日本の地方の姿と鳥学会を知ることができる機会となった。

 

オリバー・L・オースティン写真展は「希望を追いかけて~フロリダ州立大学所蔵写真展」として東京九段下、昭和館において3月10日~5月6日まで開催されている。入場無料:

f:id:nu-katsuno:20180330162955j:plain

 

 

 

 

 

 

展覧会巡り  13  熊谷守一

f:id:nu-katsuno:20180330104537j:plain

 これまで「展覧会巡り」の題でいろいろなものを見て書いてきた。展覧会の内容の案内や鑑賞のポイントは新聞に掲載されるものを参考にすることが多い。3月3日付読売新聞「時の余白に;純粋の人とひろき人々と;編集員芥川喜好の解説記事」があった。画家、熊谷守一の回顧展に関連した記事で、芸術家とそれを支える無私の支援の人々の話である。その記事に興味を持ち熊谷守一に出かけようと考えていた。

 そのまま時間が流れ、2週間ほど経った3月15日、今度は新聞の文化欄に「熊谷守一回顧展;東京国立近代美術館」の評があり、彼の画業の経歴と私生活の歩みの中で「激情 鎮魂 愛らしさ;熊谷守一展、多面性に光」と見出しされ「没後40年回顧展」の記事が掲載されていた。会期の締め切りが近いことを感じながら、この回顧展を見逃し行けないうちに日々過ごしてしまい残念な想いであった。

 記事の中に守一の次女、熊谷 榧さん(豊島区立熊谷守一美術館館長)の話があり、池袋近く豊島区千早の同館を訪れ作品を見たいと思い足を運んだ。同館は熊谷守一が45年間住んだ居宅に建てられ(1985年)、守一の作品153点が豊島区に寄贈され(2007年)区立美術館となっている。

 

 熊谷守一1880年岐阜県恵那郡付知村の生まれ、父は初代の岐阜市長:熊谷孫六郎。彼は画家を志し上京、1900年父の反対を押し切り現在の東京芸大(当時東京美術学校西洋画科に入学、1902年には父の死、稼業倒産に会い悲しみと苦しみの中で勉学・研鑽を積み重ね、1904年卒業している。同級生には青木繁、有島生馬らがいる。

 館の1階には守一の油絵、彫刻などが展示されていた。小品ながら数点の彫刻「裸婦」は絵と同様、姿・形の特徴が良く表され魅かれた。墨絵を土台に彩色された生き物を題材にした掛け軸も素晴らしい。油絵の特徴は、モチーフが殆ど凹凸が無く平面的に彩色表現され、縁の線(赤や黒など)も単調だが力強く、それでいてすっきりしたライン、形は守一独自のもの。画面構成など簡素・単調であるにも拘わらず力感、質量感が感じられ見飽きない。色遣いでは色が混じることなく単色で構成されているが絵に奥行きの深みが見いだせる。2階、3階にも墨絵や書など展示されており、部屋に合った大きさの作品が殆どで見やすくゆったりと静かに鑑賞できた。

 晩年は殆ど家から出ることが無く、庭でもっぱら写生をしたり来客と談笑したりする日々であった、とある。家庭的には多くの悲しみ(子供の死)や辛さ(売れない画家生活)に会いながらも心静かに身近な生き物たちを描いている。彼の作品を愛して若き時代から守一の作品を集め制作を支援した人(例えば木村定三コレクション)に励まされ画業を続けてきた経緯がある。心広き人が守一の周りを取り巻いたのは守一の生き方、人となり(絵に表れる)に魅せられたことによるのだろう。それが新聞の見出しに表されたことであろう。新聞紙上でも話題になり私自身も一番見たかった絵「陽の死んだ日」は回顧展に出されて強烈な印象があるが、実物は愛知美術館にあり見ることは出来なかった。

 

 

映画「空海」を見る

   東宝×角川の共同製作による映画「KU-KAI- 空海」、原作は夢枕獏沙門空海唐の国にて鬼と宴す;角川文庫)、監督は:陳 凱歌(チェン・カイコー;カンヌ映画祭パルム・ドール、ゴールデングローブ賞受賞などで有名な中国の監督)日中を代表する実力派有名俳優による活劇大作である。

 題名「空海」に引き付けられて、ロードショウ開始早々に期待をもって見ることにした。映画を見終わっての第一の感想は、「う~ン・・・・」。

 娯楽時代劇映画、豪華エンターテイメント活劇として見れば面白く楽しめる映画であった。空海と白楽天が妖猫出現とその妖術を使う謎を解き明かす内容で、豪華なセットや時代描写、特殊撮影、時代背景を取り入れたストーリはそれなりに面白く作られていた。映画と歴史的事実は別のようでもある。

 空海と白楽天が黒猫妖怪の起こす奇妙な事件に、これまでの王室の歴史を重ね合わせ探り辿って楊貴妃の死霊がついて回っていることを突き詰め、怨念を明らかにする物語。玄宗皇帝、傾国の美女楊貴妃と彼女に密かに心を寄せる日本からの遣唐留学生安倍仲痲呂、稀代の詩人李白等が登場する時代絵巻。史実とフィクションが入り混じり、特殊撮影やCGを使った娯楽大作ではあった。 

 

 これまで「空海」で知っていたことは、遣唐使として唐へ渡り、真言密教を中国で学び日本に広めたこと、弘法大師として全国を歩き回り仏教(真言宗)を広めたこと、書に秀でていて奈良時代の三筆に挙げられていること位であった。

 空海最澄と並び、唐の時代に中国で真言密教を学び日本に仏教を伝え広めた人として知られている。最澄天台宗空海真言宗の開祖として知られ、それぞれ比叡山高野山修験道寺院・伽藍を開いている。讃岐・善通寺にうまれ京に出て諸寺で多くの学問を学び30歳で遣唐使の留学僧となり、普通留学期間20年の所を僅か2年で学び納めたとされている(同行者には最澄、三筆の一人橘逸勢もいる)。

 当時、東シナ海の航海は容易でなく、暴風雨・嵐に遭遇し度々航路を外し目的港に達せず他の地に漂着したり、途中遭難して海の藻屑になることも少なくなかったようである。空海渡航は瀬戸内を通り九州博多、備前国五島列島など島伝いに航行、大陸の東岸、南岸の港に至る2-3ヶ月かかる大航海だったようである(30歳)。そんな時代、留学僧空海は幸運にも恵まれ幾多の苦難にも耐え、時の都、長安に着き密教の第七祖・恵果和尚から密教の教えを受け階位をうけている。2年間の修行を終え、恩師恵果が入寂後帰途に着き、いろいろ苦難に遭遇しながら帰国(32歳)、大宰府に留まり教えを広めたとされている。 

 空海の言葉「虚しく往きて実ちて帰る」若くして唐の都長安に上り、辛難困苦を経て真言密教の教え、思想、修法を会得し多くの経典を携え日本に戻り、以後、時間を掛けて教えを全国各地で広め満60歳の今日(921年3月21日;彼岸中日;春分の日高野山で入定している。

 空海真言密教道教仁和寺御室派、高野山、魔術(幻術・妖術・呪術・祈祷師)、陰陽師、安倍清明東大寺建立、鑑真和上、吉備真備菅原道真

 

「みほとけの彫像」を見てから知らないこと、知らなかったことが多いことに気付いた。他の史実や歴史、由緒ある土地を見て歩くことに大きな興味がわいてきた。友人は別の視点から長崎五島列島の旅に出て現存する旧い教会の素晴らしさを教えてくれた。空海が唐への旅の途中、行き返り五島列島に足跡を残し、史跡があることも興味を持たせる点である。船しか交易の手段が無い時代、島伝いの拠点・五島列島は、近く世界文化遺産に指定されるようでもあり、それを機に訪れたいと思っている。 

 

仁和寺と御室派のみほとけ  

f:id:nu-katsuno:20180317223330j:plain

  3月7日、以前から楽しみにしており、マスコミでも大きく取り上げられ評判の仁和寺展に出かけた。展覧会の目玉は千手観音菩薩坐像(国宝;大阪葛井寺蔵)、「聖十一面観音菩薩立像(国宝;道明寺蔵)、阿弥陀如来坐像と両脇侍立像」、「薬師如来坐像さらに空海ゆかりの国宝「三十帖冊子」(国宝;仁和寺蔵)等である。

 上野の東京国立博物館・平成館における今回の展覧会は、前に運慶展が行われた会場(

添付写真は平成館入り口の看板)。前回同様、展覧会の人気は素晴らしく真言宗御室派総本山、仁和寺を中心(134点)とした全国各地の御室派寺院に収蔵されている仏像(40点)等が一堂に会するものであった。入場に際して運慶展同様、長蛇の列で館に入る待ち時間が1時間を越える盛況になっていた。

 展示は①御室仁和寺の歴史、②修法の世界、③御室の宝蔵、④仁和寺の江戸再興と観音像、⑤御室派のみほとけ、のテーマごと展示物が分けられ、全部で174点(うち国宝24、重文75)の仏像、宸翰、肖像画、書、工芸品などであった。全体を見終わるには優に3時間を要する内容であり、すべてを細かく丁寧に鑑賞するには数回(実際に展示期間が8期に分けられていた)足を運ぶ必要があると感じられた。私は、正午前から3時間ほど休憩無しで鑑賞し、見終わって疲れと溜息「フウ~」(足腰が・・・)。 

 千手観音菩薩坐像(国宝;西国33ヶ所5番札所大阪葛井寺の本尊;奈良時代:8世紀)は圧巻であった。観音菩薩の柔和な顔は例えようの無い柔らかさ、優しいまなざしであり、1041本と言われる手を光背として無限の拡がりを示す姿は見る者を引き付けてしまい、大袈裟に言えば実像よりきわめて大きな世界(宇宙)を感じてしまう。坐像は正面、横、後のどこからでも見ることが出来るように展示されていたが、対峙する人の「心」からすれば(仏と我が身だけの心情)正面だけが良い。像の個々の造りや構造・形態を視て知るためには、この見せ方もあるだろうが「ほとけ」本来の観方は別であると思う(仏像と場と雰囲気)。四国屋島寺の同じ千手観音菩薩坐像(平安時代:10世紀)も大きさこそ違え、素敵な像であった。

 さらに観音堂の再現にも驚きを隠せなかった。現在の超越技術を駆使し壁画を高精密画像で再現。この観音堂は普段、修験道場のため非公開であるがここでは観音堂内の様子、雰囲気を作り出していた。28部衆立像を含む33体の仏像が置かれたこの空間で、ここだけカメラ撮影が許されており、殆どの人がカメラや携帯を駆使して撮影していた(フラッシュを焚かないでくださいの連呼)。 

 

 仁和寺真言宗御室派総本山であり光孝天皇(830-887)が発願、その第七皇子、宇多天皇(867-931)により創建されている。御願寺(皇室ゆかりの私寺)として歴代天皇から崇敬され、応仁の乱(1467-1477)で伽藍が全焼したが、その後、江戸時代寛永年間(1624-1644)に、徳川家光の支援で伽藍再興整備がなされている。この時期の皇居建て替えに際して紫宸殿、清涼殿、常御殿などが同寺に下賜され、移築され仁和寺金堂(国宝:近世の寝殿造り建築の遺構;宮殿建築)として残されている。宇多天皇は東寺で伝法灌頂を受け真言宗阿闍梨となっており(901年)、息子の醍醐天皇真言宗開祖空海に「弘法大師」の号を与えている(921)。

 

 仁和寺弘法大師空海(774-835)を宗祖(真言宗)としており、今回の展覧会にも寺が所蔵する三十帖冊子(国宝;平安時代:9世紀)が出されていた。空海ほかの直筆が展示されており、平安時代三筆(釈空海嵯峨天皇橘逸勢の一人、空海遣唐使で中国に渡り仏典を書写し持ち帰ったこの冊子は、真言密教を広める秘書として知られており、また書道史上で貴重かつ重要なものとして知られている。その為、この展覧会でも「書」に造詣の深い人、興味や関心のある人達が多く訪れている。

 

 仁和寺宸殿の南北に庭があり北庭には池泉がある。日大の造園学研究室では毎年、京都の庭園見学実習を実施してきている。京都市や周辺都市にある奈良平城・京都平安時代から江戸、明治期の庭園を見学鑑賞する実習である。これまでに仁和寺庭園を見学対象として来なかったため、私も見ていないが時代考証や歴史文化的な位置づけから見逃してきたのは不勉強極まりなく不徳の致すところである。これまでの研究室卒業の学生諸君に謝らなければならない。貴族社会の寝殿造り、寝殿造り庭園を見てこなかったのである。

 今回の展覧会では天平真言密教の名宝(仏像、肖像画曼荼羅絵、書、宸翰、工芸品など)を鑑賞することが出来た。その多くを所蔵する京都仁和寺を訪れても拝観することのできないものがあったり、他の御室派有名寺院所蔵の仏像を見るためには別途足を運ばなければ見ることもできない。それぞれの名宝にはそれぞれの由緒、歴史、歩み、物語があるが、それを現地で一つ一つ見て考え、味わうことは到底無理である。

その意味で貴重な一日、一期一会となった。

 

 

 

 

 

 

梅、桜、春の花

f:id:nu-katsuno:20180310165223j:plain

 「梅は咲いたか、桜はまだかな」の唱の文句で取りざたされる如く、微妙な天候、陽気です。ひと頃暖かい日が続いたと思っていたら、急に冷え込み遅咲きの梅が満開、早咲きの河津桜や寒緋桜が満開を過ぎようとしています。菜の花も満開を過ぎても花が残り、やや色褪せた部分もありますがまだまだ黄色の絨毯を見せていました。

 3月2日、暖かな日差しが一杯の朝、陽気に釣られ思い出したように梅林散策をすることにしました。近在で最も有名なのは小田原、曽我丘陵別所の曽我梅林。凡その位置は知っていましたし、歩くことは全く厭わないので取り敢えず小田急線新松田まで急ぎました。「曽我の梅林」へのアクセスはJR御殿場線下曽我駅が近くにありますが、御殿場線の本数が少なく最寄駅へのアクセスが余り良くないので車やバスが殆どの様です。そこで新松田駅前からバス小田原駅行)に乗り下曽我駅口で下車し歩き始めました。この地区は曽我梅林別所地区、北の端には字は異なりますが「宗我神社」があり早速お参り。鳥居の脇に「尾崎一雄の文学碑」が建っており碑文には富士山についての一文が刻まれていました(著作;虫のいろいろ*)。

 尾崎一雄(1899-1983)は宗我神社の神主の家に生まれ、芥川賞(1937)文化勲章(1978)を受章した作家でこの曽我の地を愛し、病に伏せった折にはこの地で療養し、その後の作品では身近な自然を対象にして多く書き残しています。

 宗我神社は曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守で、1028年に曽我播磨守保慶の建立とありました。           「曽我」と言えば日本三大仇討話**で有名な曽我兄弟の仇討***があります。

 

 曽我別所の梅林は丹沢山系、箱根山系から大磯丘陵に延びる丘陵に沿って、西に広く緩やかに傾斜した斜面地から酒匂川左岸沖積低地に広がる土地にあります。酒匂川は富士山東麓に水源があり、そこから発して静岡、神奈川の県境より下流域で丹沢山塊からの河川と合流し足柄平野へ流れ下っています。酒匂川の流域は広く山地も多いため、昔から中・下流では洪水が頻繁に発生したとあり、特に富士山の宝永大噴火(1707)では大量の火山灰が流域に降り積もり、中・下流では大雨のたびに洪水が起こっています。

 二宮尊徳(1787-1856)は、この足柄平野の栢山の農家の長男として生まれ、生い立ちの中で彼は幼少から青年期(30歳頃)まで一家を支えて勤勉に働き家計を助けたり借財を建て直したり、地域の農業の発展に大変な努力を重ねたとあります。度重なり来襲した風水害で酒匂川の氾濫・洪水が起こり田畑が荒廃して大きな被害に見舞われる中で辛苦の生活を厭わず立て直しています。曽我の郷はそんな暴れる酒匂川の左岸地区で砂礫が多く土も水利も悪い地区で農業でも大変な所であったようです。

二宮尊徳(金次郎)と言えば、薪を背中に背負い手に本をもって読み、常に勉学に励んだという逸話の持ち主。事実、その思想(報徳仕法)、行動(経世済民)で多くの藩の財政や家督を立て直し55歳で江戸幕府に召し抱えられるまでになり、天領や日光奉行でも功績を遺したとされています。

 

 緩斜面の梅林は国道255号線を挟んで上下域に広がり、西に雪を抱いた富士山を望む桃源郷ならぬ梅源郷が緩やかに延び、素晴らしい景色を作り出していました。実を取る梅と花を愛でるピンクの枝垂れ梅、白梅がその殆どを占めていましたが枝垂れの桃色梅も見事でした。

 梅の花園で花と景色を十分に堪能した後、バスでJR下曽我へ出て松田(新松田)に行き、大井松田みかんの里・内藤園へ回りました。折から早咲きで知られている河津桜が満開、樹下に植えられた菜花(菜の花)も満開で多くの人が山の斜面を登り訪れていました。昼下がりで、まだ時間も十分あったこともあり徒歩で15分のガーデンを訪ねました。園は南に面し開けた急傾斜地、基本はミカン園、隣接してハーブ園や桜の園、菜の花や草花の園と展望、休憩施設があります。標高もあり西に富士山、眼下に酒匂川、足柄平野からその先遠く相模湾、果ては大島までが望める見晴らしの良いところでした。

春の陽射しを受け、梅と桜と菜の花が満開の里を訪ね歴史と文化を知る充実した花見の一日となり、歩いた歩数は15600歩となりました。 

 

*富士は天候と時刻によって  身じまひをいろいろにする  晴れた日中のその姿は平凡だ  真夜中 冴え渡る月光の下  純く音なく白く光る富士  未だ星の光が残る空に  頂近くはバラ色  胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士 (尾崎一雄;虫のいろいろ)

**赤穂浪士忠臣蔵伊賀上野の仇討 そして曽我兄弟の仇討

***曽我兄弟(兄;十郎祐成と弟;五郎時致)と仇(工藤祐経)の物語。

f:id:nu-katsuno:20180310181254j:plain

 

 

 

 

 

 

映画、戦争 そして私

f:id:nu-katsuno:20180301160352j:plain

 2月は一年で最も寒く、しかも最も日が少ない月。あれよあれよという間に節分、立春、ヴァレンタインデー、雨水、春一番(東風)と暦や自然に追いまくられて過ぎてしまう。外に出る時間が少なくなり運動不足になりがちな月でもある。社会もそれに沿って、人を外へ連れ出す企画や催しを出してくる。私が住む川崎市麻生区には映画大学もあり、映画公開に関する独自の企画を持つセンター(川崎市文化センター;アルテリオシネマ)もある。今月も戦前の外国映画を最新のデジタル修復版で公開している(昔ならできなかった事)。2月の作品の中に、フランスが生んだ不朽の反戦名画大いなる幻影が公開され、それと関連して(反戦映画)「永遠のジャンゴ」がプログラムにあり、早速鑑賞することにした。

 

 大いなる幻影は1937年フランス映画(白黒)。稀代の名優・ジャン・ギャバンが主演する第一次世界大戦を舞台にした反戦映画・不朽の名作と言われている。

 私がこの世に生まれる前に造られた、しかも20世紀、世界で予想だにしなかった2度にわたる世界大戦を舞台にしたものである。

 日本の教育課程(小中学校や高校の歴史)では授業時間数と歴史内容の点で近代や現代の歴史(明治以降)を詳しく学ぶことは少ない。まして世界史で近・現代における内容の詳細まで授業時間内に詳しく触れられない。

 この映画の監督はジャン・ルノアール(父は世界的に有名な画家オーギュスト・ルノアールで、彼はその次男)。ストーリーは第一次世界大戦*のドイツ捕虜収容所を舞台としている。ジャン・ギャバンはフランス飛行隊のマレシャル中尉、俳優ピエール・フレネーはボアルデュー大尉、そして無声映画の名優エリッヒ v.シュトロハイムは収容所のラウフェンシュタイン大尉(所長)を演じ、中尉は別として二人の大尉には敵対するもお互い貴族出身で友情が結ばれ、時代風潮に抗することなく潔く生きる「貴族」を誇り、信条として演じている。収容所には連合国側(イギリス、フランス、ロシア等)の将校を中心としていろいろな人間が捕虜となっており比較的恵まれた捕虜生活が描かれている。それでも「自由」を求め脱走を企て実施し失敗、収容所がスイス国境近くの古い城に変わるも脱走を計画・企て自由を獲得するストーリーである。

 この映画は、1937年に製作され1939(昭和14年)に日本公開が上がったが当時の社会情勢から日本での上映は保留になった。監督のルノアール自身、20歳で第一次世界大戦に騎兵少尉、偵察隊パイロットとして参戦している。

 *映画の舞台になる第一次世界大戦は、1914年6月、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボをオーストリア皇帝フランツ・フェルディナンド大公夫妻が訪れた際、反オーストリア運動のセルビア人により射殺された事件が発端である。事後27ヶ国の連合国側と4ヶ国の同盟国側が4年間にわたり戦って、900万人以上の戦死者を出し1918年11月に終わった戦いである。この大戦は戦術(塹壕戦)、兵器(毒ガス、戦車、機関銃など)でそれ以前の戦いと大きく異なったことが特筆され、より大量の戦死者が生まれた。

 

 二つ目は、同じ週に時代や背景、ストーリーは違うものの戦争を舞台にした人間の生き様と人間の価値、自由の大切さを表現した「永遠のジャンゴ」を見た。

 ジプシー生活の中で生まれ、継がれたロマ音楽とスウィングジャズを融合したジプシースイングを作り上げた天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの実話を元にした映画である。全編に響きわたる素晴らしいジャズ演奏(主演はレダ・カテブ、劇中のジャズ音楽はローゼンバーグ・トリオ)。第二次世界大戦のフランスにおける音楽家(著名なギタリスト;ジャンゴ)が占領するドイツ軍下で強制され制限される中で音楽演奏を続け、仲間や家族の自由との引き換えで行い、その間、占領下での国外脱出を考えスイス国境沿いの地へ移動しながら友人の助けを受け、家族を残し自ら決死の覚悟でアルプスを越えた物語である。この映画は2017年、第67回ベルリン国際映画祭のオープニングに上映されている。

 偶然にも時代の相違はあるものの、戦時下で自由を求めドイツ軍の圧政から脱出する映画2本を見た。

 

ジャンゴ・ラインハルトは1910年ベルギー生まれ、18歳の時、火事でやけどを負い右足不自由、左手薬指と小指に障害が残った。それでも練習により独自の奏法を生み出しフランスやイギリスで活躍、29歳イギリス滞在中の1939年に第二次世界大戦が勃発した。彼はドイツ軍に占領されたフランスで音楽活動を続け、クラッシック(ラヴェルやドビッシィ)にも関心があった。大戦後、デューク・エリントンの招待でアメリカを訪れ演奏ツアーを行っている。40代にはヨーロッパを中心に活躍し、1953年(43歳)にはビング・クロスビーが彼をスカウトにフランスを訪れたが会えず帰国している。彼はその年の5月、若くして友人宅で死去した。 

 

 大いなる幻影では、白黒映画独自の美しさ、陰影(光と影)が作り出す画面の深さや面白さ、屋外情景の画面構成、面白さは秀逸であったし、白黒画面の単純さ(色の無いことの深み)の良さを再確認した(黒沢明監督の白黒作品を思い出した)。「永遠のジャンゴ」ではジャズ音楽の素晴らしさ、ストーリー(脚本)の良さを味わった。両作品とも画面では、戦いの酷さ、醜さを扱っていないが全体に流れる戦争の悲惨さ、空しさ、自由の大切さを表していた。

 

 三つ目は見たかったのに残念ながら劇場鑑賞は見逃した戦争映画(2015年デンマーク、ドイツ合作)、ヒットラーの忘れもの;Land of mine」である。

 第二次世界大戦でドイツが破れ、ヨーロッパからソ連(現在のロシア)まで出征していた兵士が捕虜となって母国へ帰還するまでの中での実際にあった話(実話)から脚本化され映画化されたものである。

 デンマークの西側長く続く海岸線(浅瀬や砂浜、砂山)に200万個以上敷設されたヒトラー時代の地雷を、捕虜となったドイツの少年兵(15-18歳)が取り除くことを課せられ死と背中合わせで苦難に立ち向かうことが主題。地雷除去を徹底させ指揮するデンマーク軍軍曹と悲惨な捕虜生活の中で常に死と隣り合わせで探索、除去する少年兵達の心の葛藤を描いている。戦争捕虜の処遇については筆舌に尽くし難い話が幾多ある。戦後の物資が全くない時代、かっての敵兵に食わせるものなど無い、あっても食わせない、という風潮であった。来る日も来る日も砂浜に這いつくばり、数10cm間隔で敷設された膨大な数の地雷の信管を抜く、身の危険・死の恐怖が震える指先に描かれている。過労と睡魔、空腹が体力を弱め、18歳以下の少年達に課せられた死と背中合わせの生活、統率・指揮するデンマーク軍の軍曹も一人の人間として時間の経過と共に過酷な任務を和らげようとする。任務を遂行するうちに国境近くまで進み事態が急変する中、遂に軍曹は残った数人の少年兵の国境越え脱出を助け、物語は終わる。

 

 四つ目は漫画家:ちばてつや氏の18年ぶりの漫画(ひねもすのたり日記;小学館)での告白である。日本がアジアへ拡大(侵略でもある)を始めた第一次世界大戦でのドイツ領割譲後、そして第二次世界大戦満州から中国大陸内陸部、更には東南アジア、南方諸島へと際限なく侵略拡大し、そして敗戦、自国への帰還を余儀なくされ例えようの無い悲惨で過酷な、筆舌に尽くし難い苦渋に満ちた引き揚げ生活を描き出した作品。当事者、関係者が頑なに語ることを拒んできた事のほんの少しが、これまでのちば作品のどこにも描かれ語られなかった氏の生い立ち(漫画家になるまでの)の中で知ることが出来、人間性を変えてしまう戦争の悲惨さ、惨たらしさ残虐さ、哀れさ、そして無力感を感じた。

 いま、最も近いアジアの国、韓国、北朝鮮、中国の動向と今後の様相を想像する時、これまで人間が行ってきた、国が取ってきた施策が繰り返されることのないことを祈るばかりである。昭和19年生まれの私でも、戦争の惨たらしさ、非情さを家族、親戚で直接伝え聞いていない中で、どう考え行動して行けばよいか分かっていない。

 これまでの戦争で、是否はともかく幾多の新しい技術、製品を生み出し新しい社会を推し進めてきた。今後のそれではもはや万死、地球破滅こそあれ、それ以外何もないのではないだろうかと思う。

 

 私の叔父さん(父の兄弟)すべてが今回の映画の主人公でもあったような気がする。第二次世界大戦に従軍した3人の叔父たちは、それぞれ部隊、所属が陸海空違っても4人中2人は戦地で亡くなっている。一人は家族を残し、海軍の戦艦に乗りフィリピン、レイテ湾で、もう一人は独身のまま陸軍に所属し(戦死の場所は知らない)亡くなった。戦場に行けなかった父は、兄弟の戦死をどのように受け留め、戦後家族と生きてきたのだろうか。

 一連の反戦映画や戦争に関わる事象を見、聞きするたび、今は亡き人たちの気持ちを考えると現在の我が身に照らし合わせ考え込んでしまう。

 

Stadt + Grün No.7  

 大変ご無沙汰しました。私のブログへのアクセスで調子が悪く、なかなか開けなく、書くことが出来ませんでした。ブログの兄貴(助けてくれている人)の支援を受けて上手く接続できない原因追及に手間取りましたが、今朝方、半月ぶり、本当に久しぶりに再開できました。何が、どうして、どうなってこのように再開できたのか、分からないところが心配でもあります(PC音痴、IN.IA無知なので)。でも、物書きができる喜びを久しぶりに味わっています(嬉)。

 ドイツの造園行政の専門家集団誌(Stadt u. Grün)の最新(2017.12月号)の内容をダイジェストします。それ以前のもの(10-11月号)については、また別にお伝えします。

Stadt + Grün    2018.2.28 
12月号
トピックス
1)ドイツ環境財団(Deutschen Bundesstiftung Umwelt;DBU)が自然保護プロジェクト“緑の帯;Grünes Band” でドイツの環境賞(Deutschen Umweltpreis)を受賞。旧東ドイツとの国境を構成していた1400kmにおよぶ地帯を自然保護地区にするプロジェクト。
   問い合わせ:DBU(Deutschen Bundesstiftung Umwelt)
2)国土保全報告(Raumordungsbericht 2017)。2005-2015の期間に140万人が大都市へ移動、流入したと報告(BBSR;日本の国交省にあたる省内の機関)。都市のインフラ整備と関連し、住民1000人あたり居住地の狭い大都市では450台、広い郊外地区では600台の車使用状況を考えなければと指摘。 

    問い合わせ:michael.zarth@bbr.bund.de
3)調査研究の報告より;都市内緑地の整備が正しく進めば、高齢者にとって極めて住み良く、かつ重要である、と報告。生態的空間計画Leibnitz研究所のDr,Martina Artmannがヨーロッパ研究チームの成果として結果を報告した。10万人以上と以下の都市で126の高齢者施設(6ヶ国)で2016年5-10月に調査した。ドイツ、ノルウエー、オーストリア、ポーランド、ルーマニア、スロベニア(17都市)。
問い合わせ:Leibnitzinstitut für ökologische Raumentwicklung (IOR)
4)気候変動国際会議ボン(2017年11月6-17日)開催された。炭酸ガス減少対策のため都市内緑地、緑の充実の重要性が指摘されている。
5)2017Sckell記念賞、造園家・都市計画家Friedrich Ludwig von Sckell(1750-1823)を記念した賞がJohn Dixon Hund名誉教授(ハーバード、ペンシルベニア、フィラデルフィア大学;庭園史)に贈られた。

  【報告】 
1) Hochwasserschutz und Gewässerökologie Hand in Hand   著者:  Michael Rosport
   Zusammenlegung von Kraichbach und Mühlkanal in Hockenheim
 Hockenheim市における都市内河川の洪水対策として、河辺緑地造成と河道変更、緑の多様性の充実の報告。州と市が15年掛けて調査分析、計画、検討をすすめ作成されたプラン。100年目途の洪水対策。市内を流れる2河川(Kraichbach Mühlkanal)の河川データの集積、洪水予測(100年計画)などで州と市は都市内の緑地創出と洪水対策を目標として生態的洪水対策計画を策定した。改修河川ケ所は800m区間。5つの計画コンセプト。
 ① Kraichbach, Mühlkanal790mの河川改修 ②Hockenheim市内中心部で100年洪水対策を図る。③Kraichbach流路を生態的な水辺に改修 ④河川の維持管理の実施⑤市民に対し生きた水辺の創出によりアクセスを良くし周辺の学校との連携を図る。

2)Die Energiewende und ihre Auswirkungen auf die Landschaft   著者:Sandra Sieber
   Die unbekannten Chancen der Verteilernetzebene
 電力需要にともなう発送電の計画と送電形態の計画。ドイツにおける国内電力状況と電力網の再考。220kv、320kvの高圧線(96%地上)、60-100kvの高圧線(93%地上)、6-60kVの電線(73%地中)、230-600v電線(87%地中)のネットワーク計画、同システムの計画。 全国、州別の計画と地域内での区分(分配計画)、住区内や戸別での配分に付いて述べている。

3)Lwiw – zwischen Landschaft, Geschichte und Gegenwart   著者: Dirk Manzke
   Zum Verständnis der UNESCO-Weltkulturstadt in der Uklaine, Teil 1
 ウクライナ(Lemberg)におけるユネスコ文化遺産都市の現状と歴史(その1) 現在75万人居住する中世からの古い都市。地形的にも特徴ある歴史的都市の現状と歴史について。

4)Urbane Natur in Kopenhagen in den Jahren 2015 bis 2025  著者: Rikke Hedegaard等      Kommunale Dekaden—Strategie für eine Klimaresistente Stadt
 2015-2025におけるデンマークの首都コペンハーゲン市の緑地計画について。2014年EUの緑の首都を宣誓。市は89k㎡、60万人居住(千人/月増加予測)。地球温暖化に伴う都市環境変化(大気汚染、気候変動、生物多様性貧化)に強い首都の創出をねらう。

5)Barrierärmer öffentlicher Raum im Berliner Märkischen Viertel 著者: Brigitte Gehrke
   Was beinhaltete das Massnahmenkonzept 2017            
ベルリン市Märkischen地区公共空間におけるユニバーサルデザイン(歩行者安全確保)について。市街地再開発業者と共同で実施された事業について。

6)La Palma, die grüne Kanareninsel                  著者:Horst Schmidt
    Eine Landschaft im Atlantik
 カナリア諸島ラ・パルマしの景観、緑地について

7)Goldener Ginkgo an Helmut Kern verliehen               著者: Mechthild  Klett
    Auszeichnung des DGG geht zum zweiten Mal nach Karlsruhe
  カールスルーエ市公園局局長Helmut Kern 氏は2017年“銀杏賞Ginkgo Biloba Preis”
受賞、2017,10.23にカールスルーエの屋外動物園においてDGG(ドイツ造園協会Deutsche Geselschaft Gartenbau=会長Klaus Neumann)から受賞した。都市の緑に関して2006、2010それに2014年に金、銀賞受賞、カールスルーエ市は220ヶ所の緑地、400ヶ所の子供広場、70ヶ所の市民農園(Kleingarten)、140.000本の街路樹がある。当市の緑地状況について多くの日本人関係者が訪れ、見聞きし日本では有名な都市である。

8)Der Weihnachtsbaum---ein kulturhistorischer Exkurs        著者: Simon Rietz
   Von antiken, christlichen und  germanischen Vorbildern
 クリスマスを飾る木(Weihnachtsbaum)の文化史的考察について。キリスト教的、ドイツゲルマン的象徴として。クリスマスツリーに関する史的考察。マルティン・ルター家(1536)の絵、第一次世界大戦中の絵、1871年頃の絵など。

9)Modernes urbanes Freiraummanagement               著者: Ralf Semmler
   Schritt für Schritt zur Kosteneinsparung mit neuem Datenbestand Teil 2
 近年の都市公園緑地の維持管理に関する新しい考え方と実践事例について。施設のデータの集積、IA化に伴う維持費節約への新しい試み、について。費用分担、作業分担、市民・住民参加、維持管理データの集積、適応計画、その評価など。

 

詳細は 「Stadt und Grün」誌(2017,12)を見てください。専門誌は東大、千葉大

農大、日大、京大、大阪府大など、造園緑地に関する大学図書館またはそれぞれの大学の研究室で購読されていると思います。