水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

ひねもすPCブログ人生

何とも手の打ちようがない暑さですが、ご覧頂だいています皆さん、お変わり無くお元気でお過ごしのことと存じます。

 実は、ブログに記事を書こうにも、アクセスできない状況に陥ってしまい、今日まで小一カ月、ブログ音信不通状態でした。ブログのタスクバーが開かず、カギとなるパスワードもうろ覚えでなんとも仕方がないイライラ状態でした。

今は、汚い例え話ですが、1カ月の便秘が治ってスッキリの状態に似ています。物書きのできる嬉しさと楽しさを久しぶりに味わっています。この間、色々なことを見聞きし、考え、書きたいと思ってきました。整理して少しづつブログを続けようと思います。

 階下の和室風の部屋をリフォームしています。家を建ててから40年あまり、建て増し

していますが、部屋は全くいじっていませんでした。使わなく見開きもしない本、レコード、写真帖などが部屋の書棚を占拠していました。

 リフォームする場合、その場の荷物を取り除いて、一端、部屋を空にしなければなりません。つまり引っ越しするのと同じで、物凄い労働になりました。家具、書籍、小間物等々、ダンボール箱40個以上に。床と天井を張り替えるため、部屋から物をすべて出さねばならず、これまでに溜まった歴史の誇り(埃)と匂いを綺麗にしました。

娘が愛用していた(ヤマハエレクトーンEL30)も例外なく止む無く除去処分、娘は荷物搬出前夜に、まるで憑かれた人のように何時間も最後のお別れ演奏をしていました。涙)

 荷物の搬出は、さすがプロ、手際よく要領よくピッタシ車に積んで半日で終了。

*荷造りの大変さは、引っ越し経験者ならお分かりいただけるでしょう。家具や書棚はまだしも、中身の本や雑物、記念・思い出の品等々、どうすべきか、処分か保存か。箱詰めか廃棄か。断捨離の難しさを痛感しました

その後、部屋を清掃。次の日から2日間で、2人の大工が見事に床と天井板を張り替え(畳の床から板張りの床へ)、続いて天井の模様替えの為、クロス屋が、何と数時間で8畳間の天井を1人でクロス張り。その連携作業は見事でした。

 

  あとは荷物の搬入(8/9日金)を待つだけですが、その後の荷物整理(本棚や家具にしまいこむこと)が、憂鬱になります。

 

この猛暑ですが、お陰で広く明るく快適な洋間となり、つかの間の冷房の効いた部屋での数日を過ごすことができています。 

 しばらくは、この洋間が中心の生活になることでしょう。

 

 

 

 

我が家の黄色いポスト

 我が家のポストは2代目か3代目か。とにかく自分で今の地に我が家を立てたのは1976年頃だと思います。100㎥足らずの狭い土地に目いっぱいの家を建てました。建蔽率は60%、庭と言えば家の周りに少し取り巻く空地程度です。この家の初期の姿はこのブログの「我が家の庭の歴史 1;2017.8」に書いたので覗いてみてください。研究室の卒業生が参加して手作りの庭づくりをしています。あれから43年、長い時間が過ぎました。

 家は半分注文住宅、半分は既成の建売住宅でした。土台ができていた段階で買いましたので間取りや部屋の造りの変更で少し注文を出しました。

 出来上がった家には、今は亡き父が(最初で最後)母と二人連れでやってきて間取りや設えを見ていきました。同時に新築祝いと称して、最初の手作りポストにペンキで住所と住人(私の家族)の名前を書き入れてくれました(添付写真1;1976.5.30)。その白色のポストは子供が成長するのを見ながら長く門前に立ち続けてくれました(我が家の庭造り 1;2017.8.のブログ写真参照)。

 2代目は垣根の色と同じように「緑色」として、ほぼ初代と同じくらいの場所に建てました。垣根が年々大きく成長するのに合わせて、ポストの足も長くなり、1m程度で立っていました。小さな庭に実生苗(コナラ)が育ち、大きくなりすぎて伐採を余儀なくされ、その材を使ってポストの支柱に活かしたこともあります(添付写真2

ポストは20年以上強い日差しや風雨にさらされ、近年では後ろ側から取り出すことも難しくなり、前からのみ出しています。また、材があちこち朽ちて来て形作っている釘が効かなくなってきていました。

 それやこれやに関連し、この2代目ポストにも暇をあげることとしました。長い間、音信連絡、新聞情報などの受け渡しに精を出してくれました。少し家を空けるときは連絡票を張り出して、別のボックスに入れてもらったこともありますが、それ以外は毎朝、毎晩、昼も夜も同じ方向を向いて受け取ってくれました。春夏秋冬、暑い夏の日の下や雪降る寒い冬の夜、何十年と立ち通して我が家を見守ってくれました(添付写真3)。

 

 昨年の悲しい一件から半年過ぎ、思い立ってポストを新しく作り替えることにしました。大きさは前とほぼ同じです。集成材を設計図に合わせて切ってもらい、細かい部分は自分で日曜大工よろしく切り出し、組み立てました。組み立ては釘とボンドを使い中に雨水が入らないように工夫し、屋根部の板をつける前に外側と内側の塗装をし、最後に屋根部を付けて完成させました。色は今までから一変して黄色です。ポストを支える支柱と台座は2代目を記念して前の物を利用することにしました(添付写真4)。

 

 新旧ポストの取り換えは娘の月命日と決め、これからの老後の私と家族と共に世の中の移り変わり、日々の家の周りの変化を見ながら、いろいろなものを受け取り、繋いでくれるでしょう(2019.07.04設置)。この家が無くならない限り。

 

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書いておきたい一文 1

 

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日本大学生物資源科学部、以前は日本大学獣医学部。今でこそキャンパスが湘南藤沢の六会にあるが、昔から学部の実習は現在の六会の地で行っていた。学部が都心から郊外に全学科移転したのは平成8年(1996)、それ以前は学科によって時代を分けて移転し、授業校舎は世田谷区三軒茶屋の近く、下馬の地にあった。農場・牧場等での実習を行う学科は学年によって東京の下馬と藤沢・六会の両校地を行き来し、実習を必要としない学科は2-4年生が都内下馬での学生生活であった。教員も同様、東京校舎と湘南六会校舎の掛け持ちで東奔西走、講義や実習で両地の間、行き来を余儀なくされていた。

 

 そんな折、小田急線の経堂~成城学園沿線の風景を見るたびに思うこと、気になることがあった。それは、30年も前からで今も思い・感じ・考える僅かな緑の事である。見るともなく目に飛び込んでくる車窓から見える昔の成城地域の景観に有っただろう「アカマツ」である。平屋の甍を越えて伸び、以前の地区の代表的な緑、今まで偶然残ったか、かろうじて残されてきた数少ない「アカマツ」である(添付写真;2019.7撮影)。

 

 都心の住宅地域から昔の樹林が消えて久しい。樹林がやせ細り、次第に独立した大木が1-2本残るだけになってしまった。人が街中で道路からその樹木を見ると、殆ど何も感じない。しかし、高架を走る電車の車窓に飛び込んでくる「アカマツ」は生気の無い都市の風景に抵抗して「緑の笠」・「緑の生きた植物」をほんの一瞬だけ感じさせてくれる。

 

 造園緑地科学を長く大学で教え、都市の緑を調査・研究していた我が身としては、かなり以前から、この「成城学園付近のアカマツ」は気になっていた。町の代表的景観構成要素にならないだろうか、と考え実態調査をしようとも考えた。

 樹高8-10mにも及ぶアカマツ、戦時中の時代を越えて今に残り、屋敷の内・外から景を作っている。実際の根圏は別として、地際の占有面積は0.5㎥にも満たない。それだけ狭小な空間に生育しながら町や通りの緑を作り出してきた(添付写真;2019.7撮影)。

それ以来、街の緑を増やす考えとして「1㎥、緑のために場所を!」と叫んだ。街中の駐車場*や自治会のゴミ集積場**に高木(ここではアカマツ)の苗木を植え育てたら、街の緑は増える、と信じて各種調査・研究を実施した。25年も昔の話である。

 事実、樹木は大きく生育しても根元部分(根圏は別だが)の用地は1㎥で十分である。都市緑化推進に際し「接道部緑化」という用語が用いられて久しい。公共空間側の街路景観として緑を豊かにする、その一つの方法としてこの1㎥用地、アカマツ単木植栽も考えていた。公共空間への「緑の張り出し効果」である(時に邪魔者扱いされ無残に切り刻まれる場合も少なくない)。

 

 民間の力を誘導し緑を増やす方法として考えるならば、これは一つの方法だと考える。そのため行政的な支援、補助を準備することは自明であるし、同時に長い目で町の緑を考え、造り、育てる、意志の共有が求められる。個人の意思だけでは限界がある。自治会、町内会といった地域コミュニティーで「緑や自然を作り・育てる」考え方や意思統一が必要である(今の委縮する街、破綻する地域コミュニティーは危機的でもある)***。

  そう言う端から、相続税で土地が細切れになり景観的に優れた古木や巨木は残らないし、残りそうになると所有者が伐採したり、名木指定を拒んで残らない現実もある。樹木保存や街の緑保全が絵に描いた餅になる。これでは、緑滴る落ち着いた風情ある街はできない。 残念ながら緑地整備計画に時間をかけて作り上げる風土、意識や考え方が市民、住民に貧しい。まだまだ「緑」が添え物的存在としてだけで考えられ、見られているのは文化の無い国と言われても仕方がない。

 

 古い町並み、伝統的建築物群の景観を残す街並み保存は十分関心が寄せられ考えられてきている。これからの計画的街づくりでは、新たな緑の「点、線、面」による空間整備が求められ、「変わらぬ街並み、変えない街並み」に対応した緑の造り方、育て方(半官半民の協力、公私相乗りの緑整備)が重要である。緑整備は、今からでも決して遅くない。「やる」だけである。これからに期待したい。 

 

 :藤崎健一郎・千村俊介  他(1994)駐車場の緑化推進手法、環境情報科学論文集、No.7、64-68 

**:浅田郁乃(1993)ゴミ集積場の分布と環境改善に関する研究、造園学研究室卒業論文

***:世田谷区ではみどりの基本条例で保存樹木に指定し保全、砧8丁目や成城2丁目に見られる。また、一財)世田谷トラストまちづくりにより樹林が保全管理されている(なかんだの坂・市民緑地など)

 

紫陽花 この花から

 あれから12年、また紫陽花の花の美しい月になりましたね。

 

    今年もこの花の美しい季節が来ました。

 空は曇り空ですが花は生き生きとして

 白や青、紫にピンク色。

 盛り上がった花もあれば

 外側にだけ花をつけたもの。

 

 美しい6月、ジューンブライドでした。

 あなたは素敵な花嫁姿をして

 その花ひとひら、一片。

 みんなに作ってもらって2輪

 額に入れ、何時も眺めていました。

 

 今年もこの額の花を家族が見ています。

 花は変わりませんが 子供達は大きくなって

 貴女に代わってこの花を毎日眺めています。

 紫陽花を買って 机の写真の傍に飾り

 貴女に 呼びかけましょう。

 

 お祝いをしてもらう方々に小さな萼の花、1つ1つに名前と祝辞を書いてもらいました。小さな可愛い萼の    1つ1つが、私達の旅の出発を祝福してくださいました。出席していただいた皆さんの1つ1つが2輪の大きな紫陽花の花を形作って、これから末永く大きくなるように祈っていただきました。

 

令和元年父の日、6月16日、貴女の気持ちを嬉しく思います。

貴女が一番大切に育てた娘・加苗ちゃんから

素晴らしい「紫陽花」貰いました。

白花に緑の縁取りがされたような

貴女の気持ちを表す印象深い紫陽花です。

 

いつまでも大事に育て花を咲かせましょう。

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クリムト その3

 

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    新聞社対決か、と思わせる2019年のクリムト、ウイーン表現派を中心とした展覧会です。主催を見ると、東京都美術館で開催中のクリムト展 ウイーンと日本1900展」(4.23-7.10)は都美術館、朝日新聞社が主催、一方の「ウイーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」(4.24-8.5)は国立新美術館で開催中、国立新美術館読売新聞社が主催しています。さらに作品の出どころで、前者がベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、後者はウイーンミュージアムが主催です。展示期間も展示内容もほぼ同じにしながら、上野(都美術館)と赤坂・六本木国立新美術館で対抗しています(これまた面白い)。

 6月8日に上野の方の展覧会を見てきましたが、その前に国立新美術館の方の展覧会も見ています(クリムト  2で報告)。国立新美術館の方には、クリムトの代名詞「金ピカ」*作品は無く、都美術館の展示に期待を持って出かけました。

 残念ながらクリムトの代表作「接吻」(45-46歳作)は出展されていませんでしたが、他のユディトⅠ、赤子、ヌーダ・ヴェリタス、女三世代、雨後、リア・ムンク、ベートーヴェン・フリーズ(複製)は見ることができ、金ピカの一端も見れました。クリムトが活躍した時代はウイーン万国博(1873)とも関連して「日本ブーム;ジャポニズム」が絵画界にも見られ、彼の作品にも影響を及ぼしたと思われます。いろいろな絵の中に日本的なモチーフや色使い、デザインに浮世絵や日本画の物が見られたり、それと思わせる部分がありました。

 今回、良かった絵、素敵な絵として2枚の肖像画がありました。一枚は実の弟の娘ヘレーネの横顔を描いた「ヘレーネ・クリムトの肖像」、もう一つは「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」です。後者のエミーリエ・フレーゲは生涯クリムトを愛し支えた恋人ともいわれ、弟の奥さんの妹です。彼女の17歳の横顔を描いたパステル画で、若く美しく気品のある女性を描いています。

 参考資料**によると、女性好きのクリムトには、彼の周りに4人の女神がいたと記されています。エミーリエ・フレーゲ、ソニア・クニップス、マルガレーテ・ストロンボロ=ヴィトケンシュタイン、そしてアデーレ・ブロッホ=バウアーです。彼女達それぞれの肖像画は右45度を向いた全身に近い姿で描かれた絵で、今回の2つの展覧会では、「エミーリエ・フレーゲの肖像」だけを見ることができました(クリムト2に添付)。

 彼はウイーン上流階級の女性肖像画を多く描き、アトリエでは女性モデルの素描やスケッチ、絵画を制作していた、とあります。生涯独身を貫きましたが14人の子持ちであったとされ、エロスを描き続け「描く歓び」を求め続けて55歳の生涯を閉じています。

 

 クリムトが描く女性は肖像画を除き、妖艶で夢心地、自由な姿・形をしたものが多く、手や腕、顔(口や唇や目)の表情には色っぽい表情、恍惚感が見受けられました。

 

 やや物足りなかった都美術館のクリムト展は、金の輝きも無く拍子抜けでしたが、その後で訪れた小石川後楽園庭園は、青空の下、滴る緑と日本的色彩で派手さ控えめの菖蒲の美しさに感激しました。改めて都心の緑、日本庭園の魅力を感じ取ることができ至極の時間となりました。

 

* クリムトの父はボヘミア出身の金細工師であったことから、身近に金箔を用いることに違和感がなかった40代の最も有名な絵画「接吻」や「ユディトⅠ」、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」では金箔を用いた作品です。

** プレミアム美術館・クリムト、愛蔵版、No.906、朝日新聞出版、2019 

 

ご意見ご感想は次のアドレスへどうぞ。 biber1122@mri.biglobe.ne.jp

 

クリムト その2

 クリムトやシーレが活躍した19世紀末については、その1で触れました。今回の展覧会で、クリムトの作品では、初期の寓話をモチーフにした寓意画、各種の習作と素描、ウイーン分離派創設時のポスター、そして有名な恋人エミーリエ・フレーゲ肖像画写真撮影可)です。

 

 クリムトの活躍した時代は他の芸術分野でも素晴らしい時代のようです。モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、マーラーなど、有名な音楽家が活躍しています。クリムト展でも、絵の中にモーツアルトが描かれたり(ウイーンのフリーメイソンのロッジ1785)、シューベルトが描かれています(W・A・リーダーの作曲家フランツ・シューベルト1875)。また、クリムトの初恋の人アルマ・マーラーは音楽家グスタフ・マーラーの妻になり、夫グスタフ・マーラーは、クリムトのベートーベン・フリーズ(ベートーベンの交響曲No.9を物語にした巨大壁画;1902)の公開日に「交響曲No.9 4楽章」を演奏指揮しています。このベートーベン・フリーズの絵の第4楽章を表す部分(歓喜)では F・シラーの詩「歓喜よ、美しき神々の花火よ 全世界にこの口づけを」を表現した男女が抱擁し接吻する姿を描いています(今回の展覧会には出ていません)。

 クリムトは独身を貫いたようですが、14人の子供がいたとされています。女性の美しさを追い求め、「自画像より他人、特に女性に興味がある」と言っています。彼の絵にはいろいろな女性の姿が描かれています。素描にも女性のいろんなポーズの裸婦があり、取り巻く女性の中にアトリエでのモデル(マリア・ティンマーマン)もいました。

しかし、最愛の女性は、クリムトを最後まで傍にいて支えたエミーリエ・フレーゲでしょう。この展覧会でただ1枚撮影が許された絵;エミーリエ・フレーゲの肖像(添付写真)は素晴らしい絵でした(エミーリエ・フレーゲはクリムトの弟エルンストの奥さんの妹;二人は当時ウイーンで有名なファッションサロンを経営)。

 ウイーン分離派創設時からのポスター(クリムト他)も素晴らしいものです。ポスターの絵とデザイン、字配り(名称や開催日・場所などの位置、余白とのバランス)、文字のレタリング等々。どれ1枚とっても見飽きることがなく、見惚れてしまいました。特に第1回目のポスター(1898)はモチーフの絵の描写(男性の陰部)が風紀を乱すとして検閲で引っかかり、その部分を隠して再検閲を通った2枚が出ています。当時の風紀基準が社会や時代の関係でまだ厳しい時代であったことが伺われます。(ギシシャ彫像の男性像などどのように解釈されていたんでしょうか。画家も大変苦労したことでしょう。クリムトの絵の中の黒い長方形も、それの対抗策でしょうか

 

この展覧会ではウイーン工房の作品も見どころでした。現在の世に出しても全く遜色のない優れたデザイン性、美しい機能美、単純さと描き出す線のシャープさ、素材の美しさなど、どれも秀逸です。同じ頃のユーゲントスティールの波と相まって素晴らしい作品がオーストリア ウイーンにもあったことがわかります。 さらに、絵画の額縁にも素晴らしいものが多く、その素材が果樹材であることには感心しました(材の太さ、長さと彫の素晴らしさ)。

 

大変たくさんの作品を見終わって3時間、あっという間のようにも感じました。途中、休むことなく見続けて会場を出た時には足腰が急に痛くなってしまいました。感動の余韻を胸に家路につきました。

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クリムト その1

 ウイーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の展覧会に行きました。世紀末と言う用語と画家クリムト、シーレの名に誘われて、東京乃木坂にある国立新美術館*を訪れ、19世紀末のウイーン画家集団(ウイーン分離派:1897創設)の作品を見てきました。

行く前に美術情報誌;プレミアム美術館・愛蔵版クリムトを買い求め、クリムトウイーン分離派についての情報を得ることにしました。映画「ヴィクトリア女王」の時も多少、書きましたが19世紀末から20世紀初頭は、世界的にも時代的にも大きく急激な変革期であり、そんな時代の生活、文化、社会、世界に魅かれるものがあります。

 場所はヨーロッパ、時代は19世紀後半(1850)から20世紀初頭(1920)、時代が激しく変化し技術が大きく展開、進歩、発展した時代です。イギリスでは産業革命が進展、工業化、経済力、軍事力が増強し帝国主義が興隆します。フランスではナポレオンが皇帝に付く一方(1804)、欧州諸国では各国が帝国の覇権をめぐり各地で革命や戦争が頻発した時代です(ナポレオン戦争1803-1815、トラファルガー海戦1805、フランス7月革命1830、阿片戦争1841-1842、1848年革命1848-1849、クリミア戦争1853-1856、アロー戦争1856-1860、など)。

 アメリカではゴールドラッシュ時代(1848のカルフォルニア最大)、インディアン戦争時代、南北戦争1861-1865)が続いた時代、多くの移民(1840-1920間に3700万人)がアメリカ全土に広がった時代です。 

 日本も江戸末期から明治開国に掛かる時代(国の周りに世界の列強国が現れた時代で、国内外が大変騒がしい時代:ペリー浦賀開国;1853、日英和親条約;1854、 日露和親条約;1855、大政奉還1867)に当たります。また、日本の国の姿(地図・領土)が記録され対外的視点が重要になった時代でもあります(伊能忠敬日本地図作成調査;伊豆、陸奥1801、出羽・越後1802、東海道北陸道佐渡1803、伊勢・紀伊・山陽・山陰1805巡険図化、近藤重蔵エトロフ島1802、間宮林蔵カラフト探検1808、シーボルト事件1828など)。

 

 クリムトは、こんな時代(1862)にウイーン郊外のバウムガルテンで金細工師の長男(7人兄弟)として生まれています。14歳(1876)でウイーンの工芸美術学校入学、弟と芸術家カンパニーを設立(1833)、35歳でウイーン分離派を結成し翌年展覧会を開き、この頃から有名な金箔を使った絵画を描いています(36-46歳)。52歳の頃(1914)第一次世界大戦が勃発、55歳の時、脳卒中で倒れ、スペイン風邪に罹り肺炎を併発し亡くなりました。

 

 この展覧会はこの時代の流れに沿って、①啓蒙主義時代のウイーン、②ビーダーマイアー時代のウイーン、③リンク通りとウイーン、④1900年・・・世紀末のウイーン、に区分されて展示され、その内容は多岐にわたり、各項目が細分化されています。

 ①では、啓蒙主義時代のウイーン、フリーメイソンの影響、皇帝ヨーゼフ2世の改革

 ②では、ビーターマイヤー時代のウイーン、シューベルトの時代の都市生活、この時代の絵画、ヴァルトミュラーの自然を描いた絵画

 ③では、リンク通りとウイーン、画家ハンス・マカルト、ウイーン万博(1873)、ワルツ王ヨハンシュトラウス

 ④では、世紀末のウイーン、近代建築の先駆者O.ヴァグナー、クリムトの初期作品、ウイーン分離派の創設、素描家クリムト、ウイーン分離派の画家達、ウイーン分離派のグラフィック、エミーリエ・フレーゲクリムト、ウイーン工房の応用芸術、同グラフィック、エゴンシーレ表現主義に分かれ400点にも及ぶ絵画、家具、調度品、設計図、模型、カード等が展示されています。

 

クリムト;人と作品については、別に書くこととし、この時期を造園、緑地的視点から見てみます。

  ③にあるウイーンの市内のリンク通り(かっての城壁の跡)は、この時、取り壊された城壁の跡でウイーンの環状交通幹線として整備(1858-1872)され、街路樹の若木が多く植栽され、以後21世紀の今日まで世界の代表都市ウイーン市内の重要な環状緑地を構成しています。また、1873年に開催された万国博覧会の会場は、ドナウ川運河河畔の広大な敷地で開催され日本も初参加(岩倉具視視察団が視察)、万博後プラター公園として市民の重要な都市公園として今日に至っており、その流れは1世紀後の1974年に開催された国際庭園博(IGA)会場(市の南部;私はドイツ留学中に参加)へと拡がり公園・緑地を広げ、繋げてきています。

 

*今回の展覧会では近代建築の先駆者O.ヴァーグナーによるリンク通り沿い建築群設計や市中心部整備に関わる

建物設計図、透視図、模型も展示されています。現在、有名なウイーンの環状緑地はリンク通りとなっています。

 

国立新美術館:東京・六本木にある美術館(国内最大)、別名「森の中の美術館」、黒川紀章最後の作品。

美術館の写真は「その2」に添付しました。

 

湘桜みどり会・令和元年

 元号が平成から令和に変わった年、例年開催される日本大学生物資源科学部造園緑地科学研究室関連の「湘桜みどり会」(日本大学;農獣医学部農学科・造園学研究室、生物資源科学部植物資源科学科・造園学研究室、緑地環境計画学研究室、生物資源科学部生命農学科・造園緑地科学研究室)が来月開催されます。

 すでに研究室のNU研究室メールや研究室HP(藤崎先生担当)でお知らせが入っているかと思いますが、私からもお知らせします。令和元年の「湘桜みどり会・令和元年交流会」が来る6月29日(土)に湘南校舎で開催されます。日本造園学会のCPDの案内(黒田さんも学会の幹事で担当)でお知らせがありますが、同日、会の年度総会の後に交流会として研究室卒業生2名の方の講演があります。講演してくださる方は、河村光則氏(横浜市役所)と鈴木 光さん(一社:減災ラボ)です。卒業生の皆さんよろしく!

 月末の土曜日で、卒業生の皆さんには何かとお忙しいかと思いますが、私も参加しますので万障繰り合わせてご参加ください。懇親会もあると思いますので皆さんと旧交を温め、懇談できればと思います。

 皆さん! 湘南六会のキャンパスで久しぶりに会いましょう!

国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅 展

 「芸術新潮」、久しぶりにこの月刊誌を買い求めました。その昔、私が東京大学大学院を受験する頃、当時、東大大学院博士課程の院生であった丸田先輩(後に日本大学造園学研究室助教授から千葉大教授になられた丸田頼一千葉大名誉教授)に、「造園を志す者は芸術分野への幅広い知識、教養、意識、理解を持たなければならない」と教えられ、この雑誌を目にし、手にしたことを思い出しました。

 今年(平成から令和に移った年)、京都東寺の秘宝展が催され(3/26-6/2)、芸術新潮も5月号でその記事(東寺:オールアバウト)を特集しています。

 雑誌の特集に先立って3月31日と4月19日の2回、上野国立博物館(平成館)における展覧会に足を運び ”立体曼荼羅”を見ました。大感激しました。

 現地、京都駅近くの東寺は、学生を連れて庭園見学実習で何度も京都をを訪れたことがありましたが、寺院を訪れる機会と時間がなく、塔を遠めに眺めていただけでした。

 前に映画「空海」をみてこのブログに書いたこともありますが、その折には東寺までに考えが及んでいません。今回の展覧会を見て、数多くの国宝仏像があること、それが空海により生み出された「曼荼羅の世界」を現世に立体的に表出されたものであること、は恥ずかしながら全く知りませんでした。

 2枚の曼荼羅図(胎蔵界金剛界)もさることながら、東寺講堂の立体曼荼羅を上野に再現した空間(第4章 曼荼羅の世界)は圧巻。東寺では像を全角度360度、しかも近くから像を細かく身近に見ることができないのに比して、この会場では堂の雰囲気も個々の仏像の表情も見ることができました。菩薩坐像(4体)、明王立像(4体)、持国天増長天立像、それに帝釈天騎象像。どれもその表情に感動、圧倒されました。

 

 怨霊を撃退し平安を祈る場としての雰囲気、祈りをささげる佛の世界を描いた図を作り出した時代(空海が表そうとした世界)、時が下ってその信仰を広く世に広げた時代、そして今の時代とこれからの世。人のの中にある何か、常に変わらぬの何かを1200-1300年変わらず示してきています。それに感動し感激し奪われる人、時代は変わっても人の求めるものは変わらないのでは、と思われる今回の展覧会でした。

 

そうだ、 東寺へ行こう!

 

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FNEC 今と今後

 

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日本大学生物資源科学部の付属施設の一つに、富士自然教育センター(FNEC)があります。これまで、植物資源科学科、生命農学科両学科の在校生、卒業生の皆さんのうち、造園学、緑地環境科学両研究室、造園緑地科学研究室で実習を行った学生諸君にとってFNECは、記憶と印象に残る施設です。夏の暑い日や雪の降る寒い2月の実習で辛い思い出とともに楽しい記憶に残っている施設ではないでしょうか。

 先日、久しぶりに施設を訪ねてみました。丁度、造園緑地環境科学実習の平成30年度(平成31年2月)の実習が終わった後でしたし、他の学科の新入生オリエンテーションが済んだ時でした。現在のFNECの建物周りの様子は添付しました写真の通りです。

 宿舎から眺める「富士山」は何一つ変わっていません。FNEC内の様子もそれほど大きな変化はありません。しかし、昔のトンガリ帽子の実習棟屋根や遠く離れた宿泊棟で実習体験をした卒業生の皆さんにとっては、現在の施設の素晴らしさと美しさ、住み心地良さは実感できないかもしれません。

 新しい実習棟(昔のトンガリ帽子の実習棟の改築)は2階建て(1階は実験室、実習室、図書室、管理室;2階は宿泊部屋、シャワー室)になりましたし、宿泊施設もより充実した形になっています(添付写真参照)。

 FNECの玄関周り(車回しの植栽アイランド)にありましたシャクナゲやミツバツツジは一部なくなりましたが、新たな植栽がされています(この部分の植栽は実習でやりましたね)。

宿泊棟(全室富士山の見える3階建て)の東側(富士山側)の植栽も木々こそ大きくなっていますが、殆ど変わっていません。

 プレハブ棟は今、宿泊利用としては使われていませんが現在もあります。園内の緑の維持管理施設・機材も充実していますし、場所、広さは変わらずとも整然と変わっていませんし、環境系の実習教育のための自然素材は、一段と良くなっているように思います。いままで学科の枠を超えて実施されて来ている、フィールドサイエンス実習(2泊3日)では人工林での間伐実習、樹木の移植・剪定実習、土壌調査実習、木材加工実習、バードウオッチング、植生調査実習など自然を対象とした具体的な体験型実習が行われてきました。原体験のない学生諸君にとっては、丸ごと自然の中での意義ある実習です。それ以外にも関連学科での特別な実習(例えば食品生命科学科、暮らしの生物学科など)でも利用されてきています。 

 こういった実もある益もある体験型実習ができるのは、環境時代と言われて久しい21世紀、平成の時代、本当に先見性あるカリキュラムであると誰もが認めてきていますし、この意義は21世紀、令和の時代でも何ら変わらず、否、これまで以上に必要不可欠な科目、カリキュラムであるといえます。園内の自然は実習を通して着実に成長してきていますが、それを計画管理、活用する機関、人の考え方が変わってしまう危険性も無きにしも非ずと思います。

 

 今、これを支える施設の存続・浮沈がかかっている元号の変り目です。今一度、施設、FNECの学生への教育効果、学部の教育・指導理念を考えておくべきであると思いますし、さらにFNEC施設がより積極的に、他学部の学生や卒業生の利用も含め十分に熟慮・検討され、積極的な情報公開が行われ、充実した利用・活用がされることを期待したいと思います。

 

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