水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

新緑の裏磐梯五色沼 その2

 旅で最も嬉しいことは、朝から晴れ間が広がり快適なそよ風が頬を撫でることではないだろうか。風景が一段と美しくなるばかりか心浮き浮き足取りも軽くなる。それとは真逆の、雨天では気持ちどころか体も乗らず浮かない。裏磐梯第2日目は、朝からそんな日になった。休暇村の窓ガラスを濡らす雨は風と相まって時に強く、窓外の風景を掻き消してしまう。 

 事前に立てた計画を再度練り直し、この日は近くの磐梯山噴火記念館(1998創設)を訪れ、磐梯山の噴火について勉強することにした。実の所、旅に出る前まで磐梯山とその周辺についてよく理解せず、ただ風景の美しい「裏磐梯五色沼」の名前につられて来てしまった。隣に3Dワールドなるものもあったけれどオーソドックスに記念館に決めた。折からの天候のためか来館者もあり、贅沢を言わなければ自然のジオラマもあってそれなりの展示である。磐梯山については詳しく丁寧に展示、解説され、特に1888年7月の噴火については数少ない当時の記録写真などを中心に展示されていた。磐梯山(特に裏磐梯)については、たまたまNHKの人気番組「ブラタモリ」を以前に見ており興味を持っていた。この放送の中では、歌に歌われている磐梯山とその周辺の自然・文化を「宝の山」として捉え解き明かしていた。山体崩壊、遠藤現夢は知らない名前や用語だったが、記念館でその内容を理解することが出来た。入場券を買う折に対応してくださったのは館長の佐藤氏(歴史と火山学;地形地質学の専門家)で、たしか「ブラタモリ」の案内役で出ておられたことを後になって思い出した。

 噴火時の様子を身近で正確にとらえ、以後に正しく伝えようとした人がいたことを知ったのもこの時である。その人は岩田善平という写真家である。1888年の噴火発生と共に現場に駆けつけ磐梯山崩壊やそれに伴う集落の被災状況を14枚の写真に撮り残している。岩田は喜多方出身で19世紀中頃日本に入ってきた写真に興味を持ち、下岡蓮杖(横浜)に師事しその門下生として活躍した。写真は現実をありのままに映し出し、見る人に状況を正しく伝えるツールとして最適の方法であると理解していたと思われる。

 何の苦労もなく簡単に被写体を写すことが瞬時にでき、何処へでも直ぐ送れる今のデジカメや携帯電話と違って、重くがさばるカメラと機材を運び、被写体を選び、足場の悪い現場で設営し、アングルを決め時間を要して撮り納めることを想像すると、彼の14枚の写真の価値や意味が大変大きなものであることがわかる。記録の重要性と自分の生き様の表現として写真を考えていた岩田の信条を幾分か理解することが出来た。

 記念館ではこの常設展示と同時に企画展示として東北の写真家五十嵐健一氏の風景写真展が開催されていた。時代は変わっても写真家として東北(奥会津磐梯山)の自然の持つ四季折々の美しさ儚さ、自然の作り出す形、姿の価値を自分の足で探しだし、「時間」との戦いに向き合い作品化する姿にはただただ敬服するだけである。その瞬間、すぐに形、姿を変える自然がある一方で、何十年、何百年姿を変えない自然の生業がある。その場、その時間を探し求めカメラに収める姿はある面、岩田に通じる精神、東北魂、自然に対する心を垣間見る彼の作品であった。

 

 

 

新緑の裏磐梯五色沼 その1

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 国民休暇村は国立・国定公園内に造られた宿泊施設で、四季を通じていろいろな利用に使われ人気がある。1961(昭和36)年、自然公園法に基づき国立・国定公園内に設置され野外レクリエーションの利用に供するため集団施設として整備され、公園計画に基づいて作られ、全国に37ケ所ある。今回利用した、休暇村「裏磐梯」もその一つ、磐梯朝日国立公園の中にあって磐梯山とその麓にできた五色沼湖沼群を中心に四季を通して自然を味わうのに絶好の場所である。最も人気のある季節は秋の紅葉と冬のスキー、次いで若葉の美しい春である。裏磐梯はその名の通り、磐梯山の裏(北側)に当たり、磐梯山噴火(1888)で発生した山体崩壊により生まれた五色沼と樹林地帯が見所となっている。また、道路網の整備により見どころの多い猪苗代湖畔や史跡・名所の多い会津市街、さらには吾妻山・安達太良山を中心とした吾妻連峰の山々を訪れるのは容易である。今回の旅は3泊4日で東北自動車道を利用し車で訪れた。自宅近くの東名自動車道横浜青葉ICから首都高を通り、環状6号から東北自動車道川口JCTに出た。高速道路網の整備には目を見張るものがあり、渋滞が無ければ首都東京を通り抜け常磐、東北方面に大変出やすくなった。東北自動車道で川口から郡山まで216km、郡山から猪苗代湖まで34kmで合計250km、自宅からは約280km位である。朝早く(5:00)自宅を出て東北道川口に朝6時、2度ほどSA(蓮田、那須高原)で休憩して会津市に直行した。

 東北自動車道が建設整備され、市街地では路側に防音壁が作られその壁面に絡んだ蔓植物は自然に出現したり植栽されたりしているが、その生育は良く防音壁の固い単調な景観を蔦の緑が柔らかく自然に見せている。道路沿道緑化が上手く行った好例であろう。市街地で緑がない地区では立体的な緑の壁として、また田園地区では周辺の緑景観と調和する緑の総体として役割を演じている。

 磐梯山を地図で確認すると地形的には南に猪苗代湖、北に吾妻連峰、西に会津盆地、東は中山峠を境に郡山と安達太良山が見られる。

 会津市は周囲を山々に囲まれ代表的な盆地地形の中に位置し、日光街道、若松街道、沼田街道、喜多方、米沢、山形へ通じる道路と四方に道が発達した都市である。会津鶴ヶ城は茶色の瓦の城で有名である。城内は展示と通路(上り下り)がうまく工夫されており落ち着いてじっくり見ることができた。会津藩の歴史の中でやはり江戸幕府終焉時、尊皇派(官軍)と攘夷派(旧幕府軍)の争いの中、戊辰戦争今年は戊辰戦争150年に当たる)での白虎隊の物語には多くのスペースを使って説明されている(会津戦争1868)。歴史上といえども、まだ百数十年前の出来事であり、長く会津の風土の中で培われた気概、考え方、身の処し方、生き方を示すもので、その流れは時代が変わったとはいえ現在も人々の中に脈々と流れていると感じられた。

 城を見た後、飯盛山を訪れ栄螺堂=サザエドウ(右繞三匝;右回りに三回廻る:三匝堂)を見学、建築的に大変ユニークな建物が残されていた。会津鶴ヶ城の見学通路に似て建物の中で上りと下りで人が行違わない構造になった建物である。江戸時代後期に東北から関東地方に見られた建築様式の仏堂である。螺旋構造の回廊になっており、上り下りとなった変わった造りなのである。本来は堂内に33観音や百観音が安置され、1回の参拝で33ケ寺巡りと同じご利益が得られるような利用がされていたといわれている。螺旋構造や外観がサザエに似ていることから付けられた名前で、平面は六角形、三層構造で回廊は二重螺旋構造、右回りで上り左回りで降りる形であった。説明によれば日本大学建築学科の先生が長くこれについて調査・研究されたとあり、何となく嬉しくなった。 (添付写真参照)

 会津若松市内では松平藩の御薬園(薬草園)を見学した。ここには薬草園もさることながら、心字池を中心とした池泉回遊式様式の素晴らしい庭園があり、モミの巨木や時代を経た枝ぶりの素晴らしいゴヨウマツの老木が庭に安定感をもたらしている。東に望む磐梯山系の山を借景にしていると言われ、周りを囲む樹木も大木、古木が多く庭に落ち着きと重厚感を出している。庭は1.7ha、松平藩第三代藩主松平正容が1696年に目黒淨定、普請奉行辰野源左衛門に造らせた江戸期の大名庭園(池泉回遊式)である。目黒淨定は小堀遠州の流れをくむ庭匠であるといわれており、心字池と楽寿亭のある中島、女滝さらには園路の野筋、水際からの岸の立ち上がりの鋭さが立体感あふれる庭となっており、垂直軸(縦方向)に力強さを表している。その形、全体の雰囲気から国指定の名勝(昭和7年;1932指定)としてふさわしく大変感激した。

  会津といえば白虎隊がつとに有名であり、それに関連する場所として飯盛山がある。その折の戦いで若い隊士たちが飯盛山から鶴ヶ城が炎上、落城する光景を見、遂に事ここに至ったと思い若き命を自ら断ったことで知られているが、事実は、そのまま生きて城に戻り捕まって生き恥をかくことを潔しとせず「生き延びることは武士の本分ではない、と自刃に及んだとされている。いずれにしても19名の若き士はじめ、200名余の婦女子や戦を通して多くの人が亡くなり江戸時代が終わりを告げ、大政奉還に向かい新しい時代が開いていったのである。この、国を二分するような戦の捉え方は、それから明治、大正、昭和と続く150年余の間に、世界を相手に戦いに出ていかざるを得なかったこの国の戦いのことを考えると、いろいろ考えさせられる点が多い。現在は、鎖国の江戸時代とは異なった状態で70年も戦がない時代になっている。 

 会津から休暇村への帰途、県道を山越えして猪苗代湖畔にある野口英世記念館に立ち寄った。この記念館には野口英世の生家が移築復元され、記念館の建物に保護されて建っている。世界を股にかけて活躍した野口英世とそれを支えた人達、若き英世を女手一つで育てた母、東京に出て勉強をすることを勧めた人(小林栄)、海外留学生活や研究を長く支援した人(血脇守之助)、それに応えた英世、時代背景と世界情勢、科学・医学の進歩、科学的探究の深まりとそれを捉える技術的限界と真実の間、科学的探究の世界的競争と実験的検証の重要性、人間の生き方と家族など。考えさせられることが大変に多い記念館見学となった。

野口英世の生い立ちから亡くなるまでの歩みを調べて、新たに知ったことに驚きながら学者、研究者の生き方に敬服の念を抱きながら、一方で人間臭い野口英世(清作)に安心したのも事実である。

 一日目の会津・猪苗代訪問で改めて歴史を見直すこととなり、戊辰戦争官軍の将に長州出身の板垣退助がいたこと、白虎隊慰霊碑との関係でローマ・ポンペイの遺跡の石柱やムッソリーニの名前が出ること、白虎隊の士の中にソニーの生みの親、井深大氏の先祖(祖父:井深基)が二人いることなど、今まで殆ど知らなかった事実を知る旅となった。

 

東海道五十三次  今・昔  その九

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 風薫る5月の旧東海道上洛、箱根を越えるまでは自宅から通いの街道上りでしたが、箱根を越えて「通い」は無理、今回の歩きは宿泊型にしました。3泊4日を基本にプラニングし、事前に宿泊先を予約して計画に沿って歩くスタイルです。凡そ1日20-22kmを基本として中都市での宿泊で計画しました。元箱根から沼津、沼津~吉原、吉原~由比、そして4日目は由比から静岡(府中)迄です。「その八」までに由比に入り宿場を見学した記事を書きましたが、いよいよ今回が最終日、折から真夏と間違えるほどの快晴・暑い日になりました。例によって朝は早発ち、7:30には割烹民宿旅館の女将さんの見送りを受け出発。朝未だ早く店の閉まった由比の宿場街を通過しました。JR由比駅近くから街道は山の手に入ります。これが旧東海道かと見紛うような農道(果樹園の維持管理道)の上りが続きました。山が海に迫り出すような地形、急斜面での換金作物は柑橘類を中心とした果樹か、僅かばかりの野菜の他無いと思いました。これまでの農家の人が長年苦労して作り上げた果樹園には、琵琶、甘夏ミカンが中心に植えられています。丁度甘夏ミカンの収穫時期になっており、農家の人が収穫していました。急斜面での作業のため畑近くまでは軽トラで行きますが傾斜畑の中での収穫、収穫物の搬出は重労働で、急斜面を上り下りしなければなりません。簡易ケーブル線を果樹園に敷設して収穫した果樹を籠に詰め、ミニトロッコ列車よろしく樹園内から運び出して収穫していました。それでも木になっている果樹をもぎ取り、ショイコに入れてトロッコ籠まで運ばなければなりません。気温が上昇すれば大変な重労働で、後継者の問題、高齢化による果樹園の維持、管理は大変だろうと想像しました。甘夏と並んで栽培されている果樹はビワでした。江戸時代の参勤交代の副産物でしょうか全国での色々な産物が、それぞれの土地に紹介され全国のニュース(情報)が武士や一般の人々の移動によりもたらされたとしても何の不思議もありません。この由比地区で栽培されている品種、「田中」は1879年東京本郷の男爵、田中芳男氏が育てた品種のようですが、元は唐ビワの実生から生まれた「楠」と同様九州で栽培されていたものをこの地に広めたとありました。ちょうど訪れた時は、昨年花芽を付けた実が色づき始め大きくなる頃です。この時期大変な重労働がビワにもあります。それは果実の「袋掛け」です。枝先にたくさん付ける実の中で売り物になる大きさ、形のものに袋を掛け病害虫から守ることです。2~2.5mの木になる実の一つずつに袋を掛ける作業は想像を絶します。4ー5cm大の大粒のビワが店で1個100円近くなるのは、栽培経過を考えれば首肯できます。

 斜面いっぱいに広がる果樹園の中を旧街道は進み、山腹中ほどに、あの東海道53次の浮世絵で有名な「薩垂峠」の景観が突然出現しました。今ではこの狭い海沿いの平坦地にJR線、国道、東名道が集中し、ひとたび高潮でも来ようものならすべての交通機関がマヒするというような場所です。景観的には素晴らしく駿河湾三保の松原砂嘴)遠く伊豆半島、そして富士山、とあの浮世絵に表された景観をディフォルメした風景が目の前にありました。運悪く快晴にも拘わらず、富士山は裾野と頂上を雲に隠し浮かび上がってはいませんでした。暫く雲の動きを見ながら待ちましたが先を急ぐこともあり、後ろ髪をひかれる思いで泣く泣く後にしました。薩垂峠越えには3本(上、中、下)の道があるようで上道を通りました。上道は最も長くビワの果樹園を迂回するように山を一回り。途中、良心市で買ったビワを食べながらビワ農家の老人と話をしましたが、美味しいビワはその老人の作品でした。作っても実ると直ぐにカラスに食べられて困る、と話していました。初物で大きさは不ぞろいでしたが味は瑞々しく大変美味しかったです。

 峠を降りてきて辿りついたのが興津宿。およそ5-6kmの一本筋の宿場町でした。当時は本陣2、脇本陣2、旅籠34軒あり興津川、薩垂峠、身延山甲州路など難所近くでしかも交通の要所、大いに賑わった宿と言われています。今は静かな街道の佇まいと古い建物が残された街でした。ここで最も注目されるのは西園寺公望の別荘;坐漁荘清見寺ではないでしょうか。その昔、家康が今川氏の人質であった幼少時、この寺で過ごしていますし、秀吉が小田原(北条氏)に向かう途上、ここに宿泊したと言われています。坐漁荘は宿場の最も京都寄りに位置し清見潟に面し、後ろに奈良時代に創建された清見寺を擁しています。西園寺公望の別荘で1919年、公望70歳になった年に建てられたとあります。西園寺公望は、1849年に京都で右大臣徳大寺公純次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代、自由主義の政治家で活躍した元老です。70歳になるまで我が国の政治で極めて重要な役割を果たし、海外留学を通して世界的な視野と活動をし、政治のみならず教育・文化でも多くの功績を残しています。70歳を越えてもその見識は万人の認める所で多くの政治家が「興津詣」で訪れ、静かな晩年とはいかなかったようです。昭和15年11月24日90歳、この別荘で亡くなり国葬が営まれています。当時は風光明媚、潮騒が聞こえる海辺の別荘でしたが、主亡き後、時代の移り変わりに伴い次第に衆目を集めることなく忘れられ、近年になり古くなった建物などオリジナルは明治村に移築されていますが、同じ形で復元され現在に至っています。

 興津から江尻(現在の清水市)までは5km、海辺の国道1号線です。清水市内から分かれて旧東海道は巴川を渡り県道407号線を西に、昔チャンバラ映画で見た清水次郎長一家と都鳥、森の石松の話にでる都鳥(都田吉兵衛)の供養塔を見て時代を想い、次郎長(本名;山本長五郎、三保や富士山ろくの開墾、開拓や巴川の架橋建設に尽力)の功績を感じながら先を急ぎました。

草薙駅前からの旧街道は分岐点が分かり難く東名高速道高架を過ぎるまで県道を歩いていました。さらに街道がJR東海道本線と交差していたところには記念碑が建てられていますが、地下道で反対側に渡った先が、これまた分かり難く道を探すのに一苦労しました。ここから静岡中心街までは静岡鉄道、国道1号線、JR線と平行したり交差したりして終点が見えている中、なかなか到達しない状態で今回の歩きの終焉を迎えました。時に夕方4:30、歩行距離は24.4km、歩数は42.820歩に達していました。4日に亘る歩き旅の区間を、新幹線に揺られて僅か1時間で新横浜に降り立ちました。江戸時代では夢の夢物語です。(添付写真は坐漁荘入口)

東海道五十三次 今・昔 その七

 旅の俳人松尾芭蕉奥の細道の旅へ出発した日は5月16日だったようで、この日は「旅の日」になっています。期しくも私の旧東海道歩き旅、第7回目の出発もこの日になりました。第6回目同様、早朝一番電車で柿生駅を出発、小田急線湯本で6:57発のバスに乗り元箱根を目指しました。前回の最終地点、芦ノ湖畔の元箱根まで40分、7:45分に箱根関所の京口から歩き始めました。毎年恒例箱根駅伝の初日終点前の交差点を横切り、芦川入口から旧道に入り山道になりました。杉並木の石畳が残り、箱根で最も古い(1658)庚申塔と石仏群が迎えてくれ、いよいよここから箱根峠まで向坂、赤石坂、挟石坂と急坂の上りが続き、最後は階段でした。少し国道を歩き峠を越えれば、遂に相模の国から伊豆の国。峠から三島までを「箱根西坂」と言い、長い長い下りの坂道になります。

 この西坂入口には箱根旧街道と表示された冠門(写真参照)があり、その近くには8人の文人がデザインした石地蔵が並んでいました(峠の地蔵)。どこまでも続く長い下りの坂道、道端は2mにも及ぶハコネザサが茂り、その中に八里記念碑(井上靖)がありました(8:30)。旧街道西坂は蛇行する国道1号線と対照的にほぼ直線的に西に伸びています。下り坂の先には常に三島や駿河湾が見え隠れ、箱根外輪山南西斜面は函南町、長く南西に伸び広がっています。石原坂、大枯木坂の石畳、突然農家の軒先に出ましたが続けて坂道を下ります。小枯木坂は常緑のアカガシが石畳道の頭上を覆っており、新しく若葉が出るこの時期、それに合わせて古い葉を路一面沢山降り落としていました(9:30)。山中城跡を過ぎ、司馬遼太郎の八里記念碑を横目に石畳を下りました。

 函南町、箱根外輪山南西山地はいつごろから新田開発(畑地)されてきているのでしょうか。旧街道沿いの斜面鞍部には広い面積の畑が連なっています。野菜中心に多品目が栽培され旧道もその作業道になったりしていました。南向きの斜面で日当たりも良く土壌も畑作に適しているのでしょう。辺りの二次林・雑木林とモザイク状に景観をなしています。芭蕉の句碑のある山中新田地区は旧街道の整備のため一部通行止になっており、やむなく国道1号線の脇をビクビクしながら笹原新田まで歩くことになりました(ここまで3時間経過:10:30)。

 坂道はさらに続いて、上長坂、こわめし坂(三ツ谷新田)、小時雨坂、大時雨坂を下り市山新田地区へ、臼転坂から塚原新田で東名高速道の上を通過しやっと、本当にやっと市街地近くの住宅地・初音台(昔は谷田村)に入りました。初音台地区には初音ケ原旧東海道の松並木(写真参照)が歩道として上手く残っており、国道と平行し土手の上やや高見で上手く整備されていました。国府津八幡村地区と同様、美しい松並木の旧街道として残されています。三島市に入り暴れ川の大場川を越え、市内に入り伊豆の国一の宮三嶋大社に参拝、旅の無事を祈り絵馬を買いました(12:30)。

 境内のキンモクセイは国の天然記念物(樹齢1200年と言われている)に指定されていますが近年樹勢が一段と弱くなっているようで養生が大変、若木も植えられています。三島は富士山の伏流水が豊富で市内各所で自噴していますが、地下水低下の危機もあり自噴水池が美しい楽壽園やいかに、と心配し農業用水としても使われている清らかな源兵衛川の流れを横目で見ながら通過しました。三島から沼津までは平坦で県道145号、380号線、伊豆の国駿河の国の境には秋葉神社があり、境内にはムクノキの巨木(樹齢300年)が見下ろしていました。この先、旧伏見村玉井寺と宝池寺には「伏見の一里塚」が道の両サイドに残されており、日本橋より29里(116km、実際歩いた感じでは、もっと200km以上)です。

八幡村八幡神社境内の奥には石が2個並んでいました。これは対面石といわれ1180(治承4年)源頼朝が挙兵した折、義経が東北から駆け付け、この地で兄弟が座って対面したことに由来するとされています。狩野川の流れる水音が聞こえて沼津市内に到着、一日目の歩きが終了しました。この日歩いた歩数は、39.587歩、18.4kmでした。

 

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(左上)箱根峠の冠門にて (左下)薩垂峠  (右上)三嶋初音ヶ原の松並木 (右下)由比の宿場街並

東海道五十三次 今・昔  その八

 第二日目は、沼津から吉原(16.4km)です。ビジネスホテル近くの喫茶店でモーニング朝食し、7:30に吉原目指して出発。昨日歩きを終えた沼津廓通りから宿場本陣跡を雁行し、西に進路を取りました。ここから先は左手駿河湾に面した千本松原をすぐ近くに見据え、かっての砂丘上に連なった集落や街を繋いで進みます。海抜5-8mの丘。大井川や富士川の河口に流れ着く土砂を駿河湾の海流が北、北東に押し寄せ海浜や砂浜、砂丘台地を形成、焼津、静岡、清水、由比、蒲原、吉原、原、沼津の沿岸都市(海辺の宿場)を形成したことがわかります。沼津からは県道163号線が旧街道で、道の両側の家並から松林が見え隠れしています。しかし、松林の向こうには高さ10mにも及ぶほどの防波堤(防潮堤)が築かれ海や浜は見えません。心地よい海風だけが、とぼとぼ歩く私を撫でてくれます。

 昔からの神社仏閣、碑、道祖神などを頼りに旧街道を歩き、宿場では東木戸、宿場跡(本陣、脇本陣など)、西木戸(見附)跡を見て往時を振り返り先を急ぎました。この日の区間は海側から松林、旧街道、今の東海道線、国道1号線が並行しており、その間は住宅や田畑、水田になっています。国道1号線より内陸部は水田中心の農地、その先山麓からは果樹園やお茶畑が繋がっています。富士山手前の愛鷹山低地斜面はお茶の栽培に適しており、山裾から延びています。街道と山塊麓の間は昔は低湿地で、江戸時代から新田開発(開墾、干拓)がすすめられ米の栽培が続けられてきました。それを物語る碑や記念碑(浅間愛鷹神社、桜地蔵尊、増田平四郎碑、地名の桃里など)が道すがらに建てられています。

 千本松原の海浜は日大造園研とは浅からぬ因縁があります。昔、葉山先生と研究対象地に考えたことがあったり、葉山先生が調査に入られたりしました。最近では大学院生の新井さんが修論の研究テーマで海浜に育ち生育地が狭まり希少種になっているカワラナデシコの生態的研究を進め論文にまとめました。旧街道から少し外れ浜に出て、思い出深い、小高い砂溜りでお昼、海を眺めながら途中で買ったおにぎりとお茶でゆったりとハイキング、と思いきや突然、老年の浮浪者(野宿生活者)が近づいてきて小銭を所望されてしまいました。上空からは鳶が狙っているなど思ったより落ち着かない昼時になってしまいました。

 有名な万葉歌人の和歌に歌われた田子の浦を眺めながら助兵衛新田、植田、柏原、田原、沼田、植田、田中、桧、大野新田などを通り吉原の宿に辿りつき、駅前のビジネス旅館に入りました。 

 第三日目は、吉原から蒲原を通って由比まで20kmでした。吉原宿は、物の本によれば地震津波の被害によって3度宿場が変わったとあります(元吉原から1616年地震津波で中吉原へ、1680年の大津波で現在の地へ)。街道を歩いてみると道が内陸部へ大きく迂回しています。6年前の東北大震災が偶然でなく歴史的には必然のごとく、日本では歴史的に各地で幾多の地震津波の被害を受け、また立ち上がってきていることを改めて認識しました。元吉原から今の吉原宿の間に旧東海道上洛で街道から左手に富士を見る唯一の場所があり、広重の浮世絵にも左富士として描かれています。名残の松(広場)や馬頭観世音碑で確認しながら朝早くの通勤者をしり目に歩を進めていきました。宿場の店舗は早朝のため、どこも開いておらず有名な鯛屋旅館も閉まっており、シャッターの降りた街を通り過ぎました。県道396号に出て再び西に向きを変え、JR富士駅を尻目に富士川目指しました。川側に水神社があり、道標、常夜燈(1818建立)、渡船場跡碑が建っていました。富士川橋は中景に東名高速道の富士サービスエリアが見られ、その背後は山が迫っています。富士川を渡った岩淵地区はすぐ後ろに山が迫り、今はすぐ上の段を東名高速道が走っていますが、岩淵村は昔、駿河甲州路(また富士川の船運)の中継地で宿場も栄えたとあります。街道筋の街並みも黒塀の旧家があり、古い巨木の庭木や秋葉神社の常夜燈が雰囲気を残していました。東名の下を通り抜け、新幹線の下を潜って再び東名道を架橋で渡り、坂を下って蒲原の宿に辿りつきました。蒲原の宿の江戸側東木戸の前に一里塚があり、日本橋より38里(152km)を示しています。蒲原は昔は神原と言われ富士川の渡りを控える宿場で賑わったとありますが、この宿も1699年の地震・大津波に襲われ海辺から今の地に移っています。山地が海に迫り狭い平地にバイパス道、JR線、県道、旧道、東名道が並んで位置します。でも街道に連なる落ち着いた宿場街の様子がよく残っていました。背後の山地は上部が樹林地で常緑のシイ、カシ林、その若葉の小緑色の美しさと裏腹に、丁度開花時期で独特の匂いが風に運ばれて漂っていました。すぐ隣は由比の町、駿河湾の自然の恵み、丁度旬で、採れたての「桜エビとシラス」を宣伝する旗が風に靡いていました。お昼は、もちろん桜エビ、洒落た新しいレストランで「桜海老パスタ」を食しました。この日の宿は由比川の袂にある老舗の割烹民宿「玉鉾」。ここでも期待に沿って女将の心のこもった料理「桜エビづくし」を堪能できました。

 由比の宿(写真参照)には①正雪紺屋、②広重美術館、③お七里役所跡があり、じっくり時間を掛けて見学しました。紺屋は創業400年で由比正雪の生家といわれ、今も藍染甕が店先に残されています。手拭いを一本買い求めました。広重美術館は正式名称は静岡市東海道広重美術館で、広重の浮世絵はもとより丁度「浮世絵と広告」の企画展開催中、五十三次の浮世絵と同時に江戸時代の浮世絵広告を見ることが出来ました。ここで五十三次の浮世絵に出会えるとは予想していなかったので大変うれしく感動しました。お七里役所とは紀州家が幕府の動向を知るために七里ごとの宿場に連絡所を設けて健脚で腕と弁舌に長けた「お七里衆」を置いた場所と言われています。

 この日の20kmでの歩数は33.600歩となっていました。7:30~15:30、8時間労働でした。早めに風呂に入り、一眠りして大相撲を見て夕食に舌鼓を打ち堪能し、心地よい眠りにつきました。

Stadt + Grün No. 4

   しばらく海外の専門研究誌紹介情報が遅れていますが、ドイツの造園専門誌2誌(Stadt u. Grün、Garten u. Landschaft)は月刊誌、それにNRW州の自然保護機関誌は季刊誌なので、その内容の概要紹介は結構大変です。それぞれの内容を詳細に紹介するには時間がかなりかかります。

 今回は今年春までの発行誌の内容を覗いてみます。目次案だけの紹介になりますが詳しくはまた別の機会にすることとします。

以下はその2誌の目次一覧です。★印は興味ある内容です。

Stadt und Grün   2017    目次および内容概説 

1月号

1)Bundesländer fördern “Grün in der Stadt”  

Umfrage von Stadt Grün zeigt eine differenzierte Förderlandschahft

Michael Decker

各州(3都市州・13州)の環境保全、公園緑地他の部局が計画方針(緑に関する部局)を示している。各州色々なプロジェクトで都市内の緑の充実を図る方向にある。単に緑を増やすだけでなくどの様な効果(多目的、多用途的)か示している。ベルリンはBENE-環境のプログラムで都市内の緑の充実を計る。★

2)Toyota-Produktionssystem optimiert öffentlichen Grün

  Ohne Arbeitsverdichtung zu mehr Effizienz in Münster            Heiner Bruns

3)Neue Grünprojekte in Lyon

  Wie Parks und Plätze in der Metropole gebaut werden           Horst Schmidt

フランス、リヨン市の緑地計画について。前カールスルーエ市公園局長のシュミット氏がリヨン市の公園緑地政策や計画をレビュー。大都市の公園・広場はどうあるべきか述べている。

4)Bestand und Entwicklung im digitalen Grünflächenmanagement

  Innovationen für die Grünflächenpflege in Berlin                   Andreas Kurths

ベルリン市内の緑地の維持管理に対してどの様な管理をするかを図化区分してコンピューターで管理、粗放的管理、集約的管理、低木推進区など。

5)Aufbau eines Systems zur Grünflächeninformation

Schritt für Schritt zur Kosteneinsparung im neuem Datenbestand 1

公園緑地情報システムの構築。経費縮減のため新たなデータ収集1   R.Semmler

6) Planungsphasen des Außeren Grüngürtels in Köln

  Ideen und Entwürfe von Schumacher, Encke und Nussbaum     Joachimn Bauer ケルン市の外縁部緑地帯の計画;理念と計画

7)Innovative Geholzverwendung mit Garrigue-Pflanzungen

 Bürgerbeteiligung für ein mediterranes Gemeindegrün            Karl Hillebrand

8)Artenreichtum im Kulturland: Halbtrockenrasen                J. Scheikenberge

  Weidefuhrung und Einsatz geeigneter Maschinen senken Kosten 

斜面牧草地(かっては羊や山羊の放牧により維持管理してきた)乾燥した立地の草地の維持管理の機械化について。★

 

2月号

1)Exklusiv oder Inklusiv                                                                     I.Scegk

 Zur Bedeutung von Treppen als Sozial-und Erlebnisraum in der Stadt 

2)Treppen –zum Steugen,Sitzen und Klettern                                  H.W. Heister

 Von Theater spielen bis Modeschauen – es gibt viele Moglichkeiten  

3)Inhalatorium Badenweiler                                                             K.W.Konig

 Die Choreografie der Romerquelle lasst Wasser über Treppen fliessen 

4)Kings Park im australischen Perth                                        Franziska Kirchner

 Denkmal und Urwald mitten in der Stadt                                    

オーストラリア・パース市のキングスパークにおける緑地のあり方について。天然記念物・ジャングル景観としてのキングスパーク

5)Vom Volkspark zur Stadelandschaft                                    Johannes Kuchler

 Ein Jahrhundert modernes Stadtgrün in China   

都市景観の中の公園:中国に於けるここ1世紀の間の都市に於ける公園緑地について。

Naturnahe Spielräume                                                                 Reinhard Witt

 Von der Kunst, Kunstliches naturlich aussehen zu lassen    

6)Optimierung naturnaher Regenwässerbewirtschaftung       Steffen Diener

 Bedeutung von Verdunstungsflächen in Städtten steigt      

7)Stadtumbau West                                                                Jenes  Rossa

 Tansformation in Duisburg Bruckhausen                

デュイスブルク・ブリュックハウゼンにおける都市再開発、

 

3月号

Gehölzrander und –bereiche im öffentlichen Grün                  C. Schmidt                  

     Getestete Staudenkonzepte für die Bepflanzung                 

Jetzt mischen wir den Schatten auf                                              C. Pacalaj

     Versuche zu Staudenmischpflanzungen an schattigen Standorten  

Die Logik der “Geholzberonten Pflanzensysteme”                      A. Heinrich

     Unterpflanzungen fördern Vitalitat von Strassenbaumen                

Stadtgrüen in Solingen                                                        Norbert Motzfeld

     Neue Konzepte für das Strassengrün                                    

Der Goetheplatz in Kassel                                                      Stefan Korner

     Eine extensive Staudenpflanzung kommt in die Jahre              

IGA Berlin 2017: Naturnaher Erlebnisraum Kienberg            Sibylle Esser

     Von der Baustelle zur Schaustelle                                             

Zwischen “Nerven” und “Aroma”                                        Thomas Herrgen

     10 Jahre Neuer Senchenbergischer Arzneipflanzengarten Frankfurt a.M.

Grüne Stadt in heissen Zeiten                                           Tom Wallenborn

     Strategisches Fachkonzept Klimaanpassung Ludwigsburg

 

 

 

4月号

Pückler.Babelberg –Der grüne Furst und die Kaiserin   Michael Rohde

Highlights der internationalen Gartenausstellung 2017 in Berlin   Sibylle Esser

Klarheit und Magie – die LGS in Bad Lippspringe                Vera Hertlein-Rieder

Der Paulinenpark in Apolda –zur Landesgartenschau saniert       Michael Dane

Landesgartenschau Apolda – Herressener Promenade                Marcel Adam

Gartenschau Bad Herrenalb 2017                                                 Ulrike Bohm

Pfaffenhofen an die Ilm!                                                             Barbare Hutter

Von Industriebrachen zu “Schönheit und Produltivitat”             A. Budinger

Regionale Baumsubstrate in Schweizer Stadten                      Axel Heinrich

Gartendirektor Ludwig Tauzettel                                             Michael Rohde

 

 

 

Garten und Landschaft   2017   目次および内容概説

 

1月号  Wagnis Landaschaft;   Wie viele Risiko vertragt der Freiraum?

≪特集≫ オープンスペースはどのくらいの危険に耐えられるか?  

1)Warum der Freiraum Couragierte Planer braucht

Landschaftsarchitekur erfördert kunfig mehr Mut

なぜ、勇気ある、度胸のあるOS計画家(緑地計画家)が必要なのか。

造園家には将来、もっと勇気・元気が必要だ。

2)Mut sollte keine attitude sein

Ein Kommentar von Gabriele Putz,   fruppe F, Berlin

Gabriele Putzによる論評

3)Eine Frage der Kultur

Uber Mut und mutige Baukultur aus psychologischer Sicht

文化に対する一つの疑問:心理学的視点からの度胸ある建築文化と勇気について

4)Mutige Positionen

Sechs Statements zum Thema Mut

勇気・度胸に関する6つのステートメント:

5)Ein Wagnis bauen

Deutscher Städtebaupreis 2016:          wagnisART, München

大胆な発想、行為で造る。2016ドイツ都市建設賞:ミュンヘン・ワグニス 

6)“Man muss viel aushalten” “人はいろいろなことに耐えなければならない”

Ein Gespräch mit Peter Latz uber Mut und den Landschaftpark Duisburg-Nord

Peter Latzが語る大胆さ、勇気について、デュイスブルク北公園の事例を通して。

7)Beweglich bleiben

Die Münchner Architekten Grub Lejeune  im Portrat

ミュンヘン建築家協会:思考しながら活動する。

 

2月号 Next Lebel Partizipation: Wie Plan und Teilhabe zusammenfinden 

1)     Was beteiligen bedeutet

  Klaus Selle über die Herausförderungen der Partizipation im postfaktischen Zeitalter

2)     Der Planer als activist?

  Ein Zwischenruf von Agnes Forster,  Studio l Stadt l  Region,  München

3)     Wille ohne Weg?

  Grenzen der Partizipation im deutschen Rechtswesen

4)     Op am öffenen Herzen

  Wie Stuttgarts Rosenstein die Bürger der Stadt wieder an einen Tisch bringt

5)     Spielend beteiligend

  Jugendliche entwickeln eine ehemalige Zeche zur Parcoursanlage weiter

6)     Raum aus dem Reagenzglas

  Studenten und Lehrende generieren partizipativ neues Wissen über und für die Karlrsruher  Oststadt

7)     Die unzahmbaren

  Experten für crossmediale Partizipation: Zebralog im Portrait

 

3月号 Grün und gut? Wie urbane Garten unsere Sicht auf Stadt verändern

 “みどり”良いもの? 都市内の庭、造園家からみてどのように変わったか。

1)   Alles kraut und ruben? すべて草と塊根

  Über den Existenzkampf des Stadtgartens und die Idee der Koopertion

都市の公園緑地に対する粗放的管理との戦い、そして共同の発想

2)     Administativ kreativ  行政的、創造的

  Urbane Gemeinschaftsgarten als Potenzial für die kommunale Stadtentwicklung

 コミュニティーレベルの都市開発に対するポテンシャルとしての都市共同体庭園

3)     Grüne Stadtaktivisten: ミュンヘン市の“緑の活動グループ”

Green City e.V. im Portrat“グリーンシティー協会”

4)     Wo sind die Garten? 庭園はどこ? 「にわ」はどこにある。

Ein Kommentar zur Zukunft des Kulturguts Garten

文化的価値のある庭の将来についてのコメント(論評)

5) Garten auf abwegen 

  Die Renaissance des Gartens in 21. Jahrhundert

 21世紀における庭園のルネッサンス

6)Visionare Dach-Bauern 理想的な屋上農家

  Gotham Greens: Ökologische Landwirtschaft auf Amerikas Dächern

アメリカにおける屋上緑化での生態的農業:ゴッタム・グリーン

7)Kompost für die Infrastruktur インフラとしてのコンポスト

  Urbane Landwirtschaft als Forschungsprojekt

研究プロジェクトとしての都市内農業

 

4月号 Platz für alle Inklusion und Inergration planen 

1) Verstehen auslosen

  Die Welt mit anderen Augen sehen:Architektin Alejandra Loreto erzwingt mit einem Fotoprojekt den Perspektivwechsel

2)     Eine Stadt will nach oben

 Der umgestaltete Georgenbachweg ist der erste Schritt Starnbergs zur barrierefreien Modellstadt

3)     Kontrast kontrollieren

  Die Innenstadt von Meppen hat ein neues Leitsystem fur Menschen mit eingeschranktem Sehvermogen

4)     Aufgeschlossen

  Kunftig ohne Zaune: New York will seine Parks offnen

5)     Gerechtigkeit im Grün

  Wie viel Raum für wen? bdla-Prasident Till Rehwaldt über die richitge Balance aus Quantitat und Qualitat

6)     Schule macht Raum

  Portrat: Die drumrum Raumschule bezieht Kinder in die Planung von Stadten ein

7)     Kampf- oder Komfortzone?

  Muss Barrierefreiheit weh tun?  Ein Kommentar

 

 

富士自然教育センター:  貴重なる蔵書・資料

 日本庭園史にその名を残されている吉永義信先生のお名前をご存知の卒業生の方、何人ほどおられるでしょうか。先生に教えを受けた人達の多くがすでに亡くなられています。先生は、東京大学農学部を卒業され日本庭園史に関する調査研究を進めてこられましたし、日本大学専門部の拓殖科では日本庭園史を教えておられました(昭和12年~18年まで)。その先生は昭和60年4月3日に亡くなられましたが、奥様吉永フミ様が先生の遺品をお住まいであった茅ヶ崎のご自宅に長く残されていました。その奥様も亡くなられ、先生の蔵書、庭園史研究資料、先生がご自身で撮影された日本各地の庭園のガラス原版写真(モノクロ、6×7版)を日本大学の造園学研究室で利活用してほしい旨のご相談を受けました。研究室では吉永先生とご縁のあった吉川 需先生が研究室の教授であられた折に、学生の卒論として吉永先生の蔵書一覧を整理し公表(1986)しておりました(昭和60年度4年生;小林利江さん卒論;「日本造園史研究の変遷」として纏められた)。それやこれやで日大の研究室で吉永先生の蔵書その他を戴き、造園、特に先生が関係された日本庭園に関心、興味のある方々のご利用に供することが出来るよう昨年から時間を掛け、整理しリスト化を図りました。

 今回、そのご案内を幅広く造園学会機関紙にお願いしましたところ、雑誌とは別に学会のWeb上で早くお知らせしていただけることが出来ました。ご関心とご興味のある方は日本造園学会のホームページを開いていただき、日本大学の付属施設;日本大学富士自然教育センターにアクセスしていただければ、収蔵しております図書のリストをご覧いただけます。

 追:なお、吉永義信文庫のご案内にあります吉永先生のお顔は故吉川 需先生が昭和48年に撮影されました写真を使わせていただきました。

東海道五十三次 今・昔  その六

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 大磯発ち(大磯から歩き始め)に倣って早朝4時起床、小田急線下り始発電車(5:12)に乗って本厚木へ、本厚木で急行小田原行が待っており乗車し終点で箱根湯本行に乗り継ぎました。湯本に6:45着、手洗いを済ませて6日目の行軍を開始しました。駅から早川に懸かる三枚橋への途上、東の空に神の降臨を思わすような光の筋が雲間から差し込んでいて、思わず神々しい朝の出発風景となりました。前回の続き、旧東海道三枚橋から早川を渡り畑宿を目指す幅の狭い街道です。道の両側に山が迫り、箱根の山は天下の剣、函谷関もものならず、と謳われる様相を今に示しています。山肌は今盛りとヤマザクラが満開、落葉樹の若葉が萌える柔らかな小緑色、それに針葉樹のスギの深緑が加わって美しい春の山を作り出していました。

 箱根国立公園の観光メインルート(温泉ルート)は湯本から早川の流れに沿った塔ノ沢、宮ノ下、大平台、強羅、小涌谷を上る道です。新春恒例の箱根駅伝のルートでもありよく知られていますが、旧東海道の道は須雲川に沿って畑宿までは民家や旅館があるものの、景観は箱根山塊が迫る狭い谷筋の風景で、やや脇道的存在です。山の斜面は足元から急に切り立って尾根へ伸び、道沿いの僅かな平地に民家や寺院が散在しています。この旧街道は湯本と関所のある元箱根を結ぶ最短の道で、湯本から畑宿までは家並みがぱらぱらと続きますが、畑宿より上の山間地に民家はなく、石畳の狭い山道だけが森の中に伸びています。歌の文句に出てくる「昼なお暗い石畳道」。途中の大天狗山神社で休憩、おにぎりで腹ごしらえし、須雲川の鎖雲寺では仇討で有名な話に登場する初花・勝五郎の墓に参りました。この寺院には8:30に着きましたが畑宿まで1700m、元箱根まで6700mの表示があり、先はまだまだの様相でした。この先で須雲川を渡り「女転ばし坂」から国指定の史跡石畳道に入り、割石坂、大澤坂を登って畑宿に入りました。

 石畳道が整備されたのは江戸時代(延宝8年(1680)敷設、文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛に合わせて全面補修とある)とあり、それ以前は竹が敷かれてはいたものの、一雨降れば泥んこ道で、通る人たちは難儀をしたことでしょう。石畳道になって通行人には快適となり喜んだことが想像できますが、そんな石畳道でも現代人にはデコボコの道で、歩き難いことこのうえなし、江戸時代からの史跡として感激して歩くほかありません。それにしても、この石畳道を参勤交代の長い隊列はどのように通ったのでしょうか、全く理解できない道のスケールです。

 畑宿守源寺(1661年創建)で県道と別れ石畳の山道に入りましたが、この上に民家はなく草木が茂る山道です。守源寺の隣に大きな一里塚跡の小山が道の両側にあり目立ちます。山道坂道でいろいろな名前がついています。七曲りの西海子坂、橿木坂、階段と石畳道の混ざった狭い山道です。県道は多くの曲坂を車が何度もぐるぐる回り上りますが、旧東海道は直線的で距離的には短く山間を上っていきます。猿滑坂、追込坂、笈の平、於玉坂、白水坂、天ケ石坂(写真)を登っていよいよ峠となりました。箱根馬子唄碑(箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川)の場所からは下二子山、上二子山が目の前に現れ感激、芦ノ湖を見ながら権現坂を下り芦ノ湖畔の杉並木に入りました。樹齢何百年と言われる元箱根の杉並木、巨大な杉木立には今につながる時間の長さと、それを物語る30mを越す杉の巨樹に圧倒されました。芦ノ湖に突き出した県立箱根恩賜公園を横目に見て箱根関所に入りました。江戸口から京口へ素通りしバス広場でこの日の旧東海道箱根越は終了しました。時刻は丁度11:30になっていました。ここまで4時間半、箱根上りの歩数は24.500歩になっていました。 

12:15発の小田原駅行きのバスに乗り、駅伝ルートに沿って小涌園から大平台、宮ノ下を経由して箱根湯本に出、小田急線に乗り変え、早朝来た途を我が家に向かい15時に柿生に辿りつき終了しました(疲、苦、笑)。次はいよいよ三島への下りだ!

 

川沿いの桜並木 あれこれ

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私の家の近くに麻生川があります。昭和30年ころまでは里山が広がり、田畑が川沿いに多く見られた地区を流れています。近くで流域面積が大きい鶴見川に合流し横浜市から東京湾に注いでいます。以前には谷戸水田も幾らか潤していたのでしょうが昭和40年代以降、現在まで続く都市化、宅地化が進行し今では雨水排水河川になっています。区画整理河川整備(洪水対策)を合わせ、ほぼ直線の1.1kmの桜並木が整備され現在に至っています。近年、川沿いに宅地化が進み,それまで自由に枝を広げ伸ばしていた桜も、住生活に邪魔とかで枝が切られ、根元も草や笹が邪魔だと言ってコンクリートで固められるヶ所が続出、味気なくなっています。花が咲く10日間程だけ人々が愛でて散策、それ以外では全く見捨てられた並木道です。

 一方、お隣の川崎市多摩区には二ヵ領用水(全長32kmうち、宿河原用水)という名の、歴史的にも由緒ある用水路と桜並木宿河原桜並木は1958年地元有志により400本植えられた)があります。多摩川から取水(上河原堰、宿河原堰)して下流の水田地帯や農業地域(さらに工業用水にも)に長く水を供給してきた全長32kmの用水です。関ヶ原の戦いの3年前に測量され14年の歳月をかけて作られたと言われています。この用水路は直線部分は殆ど無く、流路は緩やかに蛇行し、灌漑用水として取水口で水量が調整され流れるため、地形や立地、土地利用(田畑、果樹園)を勘案し時間をかけて作られたことから、周囲の景観や人のスケールにマッチした規模と形が残っています。しかし、近代化、都市化の影響で蓋掛けにより川が見えなくなったり、直線化されたり時代の移り変わりによって激しく変化し今日まで来ているように思います。堰の建設により水路の水位が安定し、利水の時期(灌漑期)以外は水辺の維持用水だけが流れています。そのため、川の中、河床近くの水辺を歩道や休息、自然探勝のために利用することが出来ます。桜の枝は水路に覆いかぶさるほど伸び、開花時期は見事な桜トンネルになって花見ができます。つまり、人間の手によって時間をかけて作り上げ、管理され育てられてきた用水路と桜並木は、それだけ直接、間接に桜並木と関わる人々の日常生活に溶け込み、守られ育てられ維持されて来たと言えます(写真参照)。 同じ河川沿いの桜並木の名所でも麻生川とは大きな違いです。

 草花を植えて街を美しくしたり、身近な生き物の住処を守るために緑を多様で豊かにすることは今日、大変重要ですが簡単ではありません。基本的な方針を決めて、あるべき姿を理解し、時間を掛けて造り、維持する人々の力が大切です。

 愛護の心と地道で小さな継続する力が求められるのだと思います。

 

 

 

 

富士自然教育センター:FNECの春

造園学研究室並びに緑地環境計画学研究室の卒業生の皆さん、お元気でご活躍、お過ごしのことと思います。今年の春はどうもスカッとしません。なんとなく寒暖の差が激しく、草花もどうして良いのか分からず、グズグズして動きが全く安定しません。例年、3月25日の卒業式には武道館の桜が満開の年や学部入学式に湘南キャンパスの桜が満開か桜吹雪の只中だったりしました。今年は、なんと開校式やガイダンスが過ぎて講義開始日以降にそんな風景になっていました。

 春の訪れが湘南キャンパスから遅れること2-3週の富士宮では、今年は今まさに桜が満開、園内のいろいろな水仙も咲き始めています。昔の赤いトンガリ屋根の実習棟は一昨年(2015)全く新しく建て替えられ、宿泊施設も増強されて学生の実習に役立てられています(写真)

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 ここには書籍コーナーもあり、縁あって、学部が農獣医学部の時代、造園学を教えておられた故吉永義信先生の書籍や先生が研究で撮影された日本庭園の写真(原画板)が所蔵されています。

 今年の冬2月、例年実施しています造園学研究室所属の3年生20人余(現在は4年生)が実習で園内に園路を作成しました。

もしお近くに来られる折には一度訪れてみてください。研究室OBの黒田さんが常駐されておりますのでお尋ねください。