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都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

展覧会巡り  9

葛飾北斎展  「パフォーマー北斎江戸と名古屋を駆ける を見る

10月20日、すみだ北斎美術館に足を運んだ。葛飾北斎は、江戸の下町墨田で生まれ、90歳まで画業を全うし、それでなお「未熟」を口にして亡くなった。今から200年前の57歳の時には名古屋で大ダルマ絵を描くパフォーマンスをしたと言われている。この大ダルマ絵パフォーマンスから200年を記念してすみだ北斎美術館では表題の企画展が開催された。

 今年に限らず葛飾北斎の作品およびその人となりは、洋の東西を問わず大変な人気と評判を得ている。東京はじめ全国でいろいろな特別展が開催されている(他に北斎とジャポニスム;国立西洋美術館北斎---富士を超えて---;ハルカス美術館など)。そんな折、富獄三十六景や北斎漫画で名をなした北斎の生涯と弟子の作品を見ることが出来る絶好の機会と思い、すみだ北斎美術館のある両国に向かった。

 葛飾北斎(1760-1850)は30回も名前を変えた粋な江戸人と言われている。19歳で浮世絵の勝川派に入り春朗の号を得ている。当時の絵画界の狩野派、土佐派などとも関係を持ち絵の研鑽を深めている。この頃から浮世絵の版元に支持され「狂歌絵本」を作り風景や人物描写で人気を得た。39歳では斎=政を名乗っている(北辰は北極星を意味している)。40歳代には質素倹約をモットーとし派手から地味へ方向転換したとされ、白黒のみの「読本」の挿絵(滝沢馬琴南総里見八犬伝、鎮西弓張月等)を描いている。

 絵の中では西洋画の影響も受け、遠近法・色彩・物の影を描き、体の構造なども詳細に捉え描いている。一方で彼の作品は19世紀後半のヨーロッパ絵画界にジャポニズムとして大きな影響を及ぼしてもいる。特に浮世絵・冨獄三十六景・神奈川沖浪裏は有名である。

 

 この展覧会では、江戸浅草の様子、墨田両国の花火の図で江戸の賑わいの様子を見ることが出来た。また、北斎の孫弟子、名古屋で活躍した森玉僊による名古屋名所図から尾張名古屋の名所と人々の様子も見ることもできた。55歳で「北斎漫画」を出し、動植物や人物のいろいろな表情、奇抜な様態などを、基本は詳細緻密で、時に奇抜で単純簡素な筆致で見事に表している(この北斎漫画は文庫本大で3冊出版されている)。北斎57歳(1817)では、名古屋の西本願寺の境内で120畳の紙に大ダルマを描くパフォーマンスを行っており、その様子を高力猿猴が「北斎大画即書」の絵に描いていた(2017年11月24日付読売新聞に同じ大達磨絵の再現の記事あり)。

 北斎は酒・煙草をやらず金銭的に執着せず清貧に甘んじ93回も引越しをしたとのこと。館内にはジオラマで彼の部屋が再現されており(北斎借家の図もある)、娘応為との生活が見て取れ、画業にのみ興味がある様子が理解できた。

 72歳で「冨獄三十六景」を出し、全国の風景を大胆な構図や想像を駆使し、特異な色彩(赤富士や神奈川沖裏の絵で赤や青の見事さ)を作り出しているといわれる。70歳を越えても全国各地を旅し、いろいろな風景(冨獄百景や諸国の名橋の景)を絵に表している。

 私も今、東海道を京を目指して歩いているので、彼の「旅と絵の生活」が容易でないことは十分理解できる。74歳では絵のモチーフを常に変化する「水」に求め「諸国滝巡り」など更なる新しい試みと意欲で絵を描いている。晩年89歳、長野県小布施町にある寺院(岩松院)の天井絵に「八方睨みの鳳凰」を力強く描いている。この寺は小林一茶とも所縁があり、「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」の句は有名だ。私は以前、農村の環境と村づくりで小布施町を訪れた折、この寺を訪れ、その天井絵を見て驚嘆したことを思い出した。

 北斎は90歳で絵描きの人生を全うしたが、晩年の言葉として「まだこの程度しか描けないとは情けない」との心境はいかなるものであったのであろうか、と驚くばかりである。

 

 人間死ぬまで修行である。人間生涯をかけて戦う業があることはすごい。彼に倣って元気で前向きに90歳を目指そうと決めた。

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