水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

2016年さようなら、ありがとう

  2016年大晦日、間もなく紅白歌合戦が始まる時間、残り少なくなってきました。今年もいろいろありました。退職して2年、まだ時間の計画的過ごし方が十分ではないのですが、年の最後に恒例の10大ニュースを月日の流れに沿って始めてみます。

1月:正月は毎年、初詣をしてきました。2016年も早朝に家を出て日枝神社明治神宮を巡り帰宅、家族そろって雑煮で新年を祝いました。

 健康で過ごすことが第一で、そのため新年早々に人間ドックで健康診断を受けました。多少の問題はあったものの経過観察で終了。

 近所の知人の関係者が上野国立博物館平成館での写真展(昔の中国の橋梁建造物)に参加・展示されており、その鑑賞と合わせ、本館での「秦の始皇帝兵馬俑」の展覧会を鑑賞しました。西安まで見に行けないし、行けるとしてもいつ行けるか分からない歳であれば、規模は小さくても雰囲気と実物を身近に見れるので出かけてみました。良かったのですが、本物を現地・本場で見たくなりました。

 1月の28日は近くの麻生不動尊の達磨市、関東の閉め達磨市で有名で毎年恒例、ダルマを買いました。

2月:日大生物資源科学部の新2号館屋上を「環境配慮と学生の休憩・休息」のために緑化し利活用することになりました。ところが、建物は完成しても緑化はなかなか進まず、低木類の植栽適期の冬が終わりそうになって来て慌てる始末。植栽計画を描いたので植栽施工には殊の外、細部まで気にかかり植栽施工の現場立会いをしました。思い描いた植物が入っておらず駄目出しも修正効かずでした。

3月:長く温めていた霊場札所巡り、昔からの知人秋山寛氏(元タム研)が秩父霊場巡りを満願成就しました、という話を聞いていたので、自分もいつかやってみたいと考えていました。3日~5日まで2泊3日で実行(この内容はブログに掲載済)、秩父霊場は札所が34ヵ寺あり1回で全部を巡るのは困難なため、歩いて回れる寺を札所順に沿って参拝しました。小春日和の天候にも恵まれ暖かな秩父路を歩き、28/34寺でご朱印を頂き、残りを2回目(市内から離れた寺)に回しました。

4月:高等学校と大学院の同窓会、身内の結婚式がありましたが、高校は郷里岐阜県大垣市、結婚式も郷里のため、大学院時代の同窓会はやむなく欠席しました。高校も中学も団塊の世代前(昭和19年生)で少ないとはいえ同学年が250人余り、クラスでは旧友もいますが、全体の同窓会ともなると旧友も少なく今一つ盛り上がらない会となりました。

 4月の下旬は5月の連休がいつも話題になります。日本では休暇がドイツのように2-3週間程長く取れず、しかも皆同時に休みとなるため大変混雑してしまいます。退職して年金族となりましたが、社会の休暇週刊はどこも混雑するため、早めと遅めに移動することとして、北海道への旅を27日から始めました(ブログに掲載済)。

5月:上旬は北海道、根室を起点に道東を巡りました。知床では時期外れの雪に見舞われ驚きましたが、早春の花の多い湿原の景観を楽しみました。

日大生物資源科学部には外部研修施設として「富士自然教育センター」があります。ここの書庫に縁あって「吉永義信先生の書籍、写真原版など」を頂くことになり、その分類・記録・整理を急ぎました。他にできる人がいないために学部と私がかって出ました。写真のガラス原版は大変貴重なもので、多くの日本庭園の戦前の姿が写されています。いずれ日本造園学会にも情報提供する予定です。

6月:先月に続き吉永資料の分類、記録、整理をしました。

7月:夏、古希を過ぎた年齢でも同窓会は、懐かしさが先に立って楽しみです。中学校の同窓会、以前の高校のそれと同様で同じ級の旧友を中心に昔話と今の過ごし方に話題が集中し話に花が咲きました。

8月:郷里へ帰省し、旧家の庭の手入れに精を出した月になりました。父が存命の頃はすべて自分で垣根刈や植え込みの整枝・剪定をしていましたが、父亡き後、面倒を見る手が無くなり、私が助っ人として頼まれ参加し手入れをしました。植木の数と垣根の長さや高さが半端でなく、歳を感じる2週間となりました。

9月:2年前に他界した育ての母(義母=実母の姉)の3回忌のため、再び岐阜行。高速道路片道340kmを車で一人、運転して帰るのは大変になりました。以前は1回位の休憩で辿りつきましたが、今は最低2回は休まなければ辿りつきません。大変です。

 岐阜から戻ってすぐに2回目の北海道行を敢行しました。今回は12日間、前半の半分は道央の観光地(摩周湖洞爺湖、網走と知床五湖)を巡り、後半は家内の姉を訪ね、民宿の庭を整備してきました(ブログに掲載済)。これまたお疲れでした。

 

10月:大学在職の最終時期は学部運営にかかわり執行部の一員として他の先生方と共に頑張りました。退職後、その旧知の先生方も私同様に退職され慰労会が企画され参加しました。懐かしく楽しいひと時を過ごすことができました。

 月末からの学部祭にも参加して研究室の卒業生達と旧交を温め、現職の先生や職員の人たちと歓談できたのも嬉しいことでした。また、検討を重ねてきたブログを始めてみました。

11月:2回目の人間ドック、私学共済の延長が切れるため、有効期限の切れる直前に実施しました。夏から忙しさのためにやや体調を崩し気味だったこともあり、タイミング的に良く、結果も大きな問題がなかったので一安心です。

12月:いつものことながらドイツの友人家族にクリスマスカードを出さなければ、という重大案件と年賀状の絵柄造りが重要になります。今年は年賀状の絵柄はすんなりと決まり印刷に回せましたが、カードの方は遂にクリスマスを過ぎてしまい、新年の挨拶だけになってしまい、カードに変わるメール便となりました(反省)。

 

あと、4時間足らずで2016年ともおさらばです。まあまあ良い年であったと思います。学・協会から栄誉ある賞(上原敬二賞、北村徳太郎賞)を戴くことが出来たことは、永年務めてきた職業との関係から言えば最も重大なニュースであると言えます。多くの方々に支えられここまで来れたこと、望外の喜びです。卒業生の皆さんと共に喜びたいと思います。来る年もまた良い年でありますようにと祈るばかりです。

懐かしい集い

懐かしい集いに同窓会があります。中々集まる機会が少ない折、何かを通じて仲間が集まり、お互いの情報を交換したり近況を報告しながら旧交を深めます。
2008年卒業生は大変仲が良く、事あるごとに集っていて、遂に自分達の卒業前後の卒業生にも声をかけて集まるようになっています。
 先日も年末の忘年会を企画して、私も参加することにしました。彼らは私が参加すると「勝飲み」と称しています。その時のスナップ写真です。f:id:nu-katsuno:20161219151239j:plain


 この忘年会はクリスマス会も兼ねているようで、参加者各自で贈り物を買い求め、誰にあたるか分からないのですが包装して参加していました。私は参加卒業生にこの年、次の年の記念に干支のタオルを持参しました。自分でデザインした干支の絵を刺繍したものです。好評でした。

 論語の中に、「朋、遠方より来たる、また悦しからずや」があります。昔から言われているように、友人は大事にしたいものです。

調べていたらこんな記事もありました。
「朋」とは「同じ先生について学んだ者」、「悦」は先生の下から離れ、研鑽を重ねて学問・経験が高い境地に「お互いが」向かって歩んでいることを喜び合っている様、つまり同じ先生の下で学んだ学友が久しぶりに遠くから訪ねてきて集まり、話し合って楽しい時間を過ごし、お互い経験や体験が進み成長していることがわかり嬉しいですね、という故事です。
まさにその通り。皆さん元気でさらに発展し成長してください(師より)。
  

金時山、クマモンはいたか

f:id:nu-katsuno:20161215161538j:plain

金時山は箱根外輪山の最高峰で北の雄、仙石原からの登山コースは短いながらも急峻な坂道が続く2時間コースとして知られています。富士・箱根・伊豆国立公園、最初は富士箱根国立公園として昭和11年2月に指定され、その後伊豆地域を昭和30年に、伊豆諸島地域を昭和34年に取り込んで現在に至っています。この国立公園は3地域(富士山地域、箱根地域、伊豆半島地域)に区分されており、金時山は箱根地域に属し、神山を中心とした活火山とカルデラ湖(芦ノ湖)、その外輪山の中に位置づけられます。火山地形と地質で際立った特徴を有し、平成24年にはジオパークとしても指定されています。

 箱根地区のハイキング、登山コースとして外輪山は有名で、中でも景観や動植物、歴史・文化、アクセス等の幅広い点から金時山コースは人気の的になっています。

 今回の箱根の山行きは、丹沢大山と同じく身近で、日帰りが出来、体力の維持増強、自然探勝、富士山の景観鑑賞を狙ってやってみました。以下、時間の流れに合わせて歩いてみましょう。

 晩秋から初冬にかけての都市近郊登山は日の入りが早く、山道が暗くなる前に下山する必要があるため、早朝の出発、お昼頃の頂上が目標になります。今回も朝まだ夜が明けきらないうち(午前5:30)に自宅を出発、海老名を過ぎたあたりで日が昇り、小田原駅前で買物し乗り継いで箱根の入口、湯本に着きました(午前8:00)。湯本から登山口のある仙石までバスで35分、10分ほどで金時山登山口に着きました(8:45)。

 案内書には登山の距離は短いが勾配が急で厳しい、とあります。麓には別荘や民家もありますが登り始めると建物はなくなり最初は杉・ヒノキの人工林に沿って登ります。道は火山灰土と粘土質土壌からなり、雨水の排水路化が進んでいて激しく深く浸食され沈み込んでいました。雨や雪の後は登るのにさぞ大変だろうと思いました。登るにつれ施業林がなくなり、ササが多くなります。道幅2mくらいは開けていますが両側は高さ2m位の低木やササが茂り、わずかに切り開かれた登山道脇から眼下に神山の北側、大涌谷を中心とした広大な箱根仙石原地区が広がり、素晴らしい景色、展望が得られました。

 矢倉沢峠(明神ヶ岳分岐)あたりはハコネザサが一面に広がり、明るい山容を見せています。ここで一服。ここから上は岩や火山砂が多く傾斜も急で距離は短かかったのですが大変な上り道でした。ササ草原を過ぎるとサラサドウダン、ミツバツツジ、ブナ、ヤマハンノキなど落葉低木が多くなり、さぞ春から夏にかけては花盛り、多様な緑で美しいだろうと想像しました。最後の胸突き八丁は険しい岩場、それを過ぎたら急に開けて頂上に出ました。標高は1212m、掛け声宜しくイチニ、イチニと登ってきました。大きな火山の噴出岩がいくつも転がる頂上には茶屋が二軒、祠が三つと解説版。解説版に、金時山(公時山)の謂れ、文政3年(1820)駿河記の源頼公、坂田公時と熊の話、猪鼻山(金太郎と大猪)など。

 北西に美しい真っ白の雪を抱いた富士山、この日残念ながら午前中に早くも頂上部が雲に隠れ全体の雄姿を見ることが出来ませんでしたが、箱根外輪山を境に南に仙石原から芦ノ湖、三国山、駿河湾、神山と大涌谷、北側には御殿場、広大に広がる富士の裾野、富士山の山影から覗く南アルプスを遥かに見ることが出来ました。

 頂上の茶屋の陰、日当たりのよい軒下で持参した御握りとお茶でお昼にしました。連日の好天続きと駿河湾から上る風を考え午後に曇ることを予想して早めに下山を開始しました。同じ道を道端の可憐な野草花を撮りながら、2時間近くかけて下り登山口に戻りました(12:30)。

 帰途、箱根、宮の下に古くからある有名な富士屋ホテルに立ち寄り、美味しいコーヒーを飲んでこの日の山歩きを振り返りました。

 

 自宅に戻ったころ西の空は茜色の夕焼けに染まり、夜の帳が落ちようとしていました。この日歩いた歩数は17.300歩になりました。絶対距離は長いのですが、電車、バスを長時間乗り継ぎ実質的に歩いたのは登山だけ、多いか少ないか分かりません。でも心地よい疲れが残りました。 次またいつか、一人で。

禅・心をかたちに展 を見て  

晩秋の曇り空、時折吹く風は肌寒く、思わず首を窄め銀杏の落ち葉で真黄色に染まった径を博物館平成館目指して歩きました。白隠慧鶴描く「達磨像」の巨大なポスター*1が目立って会場への道を示していました。

 展覧会は国立博物館平成館2階、臨済宗黄檗宗連合各派合議所が主催し5つのテーマに区分され、全国にある同宗の寺などが所蔵する307件の禅に関する名宝が展示されていました。展示公開最後の日であったため、寒空にもかかわらず多くの人が訪れていました。入口を入った直ぐ正面に、ポスターに使われている白隠禅師が描いた大きな達磨像(国宝)が迎えてくれ、その迫力と構図の大胆さ、色遣いのすごさに圧倒されました。同時に、以前学生を引率した庭園見学で天龍寺竜安寺の玄関入口で見た屏風絵の達磨像を思い出しました。

 この禅名宝展では、国宝書画22件、重要文化財(重文)102件を含め全部で307件の名宝が展示されていました。全部を味わって時代や人、寺院の場所などじっくり考えながら見ていたらとても1日では見終わらない内容と数です。

展示は①禅宗の成立、②臨済禅の導入と展開、③戦国武将と近世の高僧、④禅の仏たち、⑤禅文化の広がり、の5つに区分され、臨済宗黄檗宗の各本山が所蔵する高僧の肖像画、書、仏像、絵画、工芸が出展されていました。

 展示物は京都の寺院が中心をなし、北は栃木、南は大分の諸寺院から集められ、その上普段、各寺院の奥深く本堂などに安置されていて見ることが出来ないものが多く、このような企画でしか実際に目にし学ぶことが出来ない絶好の企画でした。

 禅宗は中国から伝わった仏教の一派であり、鎌倉から南北朝時代にかけて臨済宗を中心に広まったとあります。江戸時代には黄檗宗が明の時代の文化と共に日本に入り広まりました。前にも書きましたが、日本庭園は仏教の教えと深い関係があり、その意味で禅宗の庭園も同様、いろいろな展示物を見ながら聞き慣れた人物の名が出てきたり、像が出てくると、より真剣に仔細に見入ってしまいました。

 白隠禅師、蘭渓道隆一休宗純禅師、隠元禅師、亀山法皇、古岳宗旦、以心崇伝、夢窓疎石足利義満などなど。書の賛の読みや意味は理解できないものの書体や筆遣い、墨の濃淡など見所はいっぱいでした。

戦国武将と禅宗の関係では、江戸時代に多くの肖像画が描かれ、禅宗に帰依し関係した寺院に収められていることがわかります。禅文化の広がりでは、主に「茶」に関連して説明されており、茶の始まり(明庵栄西)から禅と茶の関係、茶道具、書画が展示されていました。文化の広がりの中で「庭園、枯山水」などが無かった点はやや残念な気がしました。

 国宝の絵画では、「達磨像」「慧可断臂図」「瓢鮎図」「蘭渓道隆像」、重文では

牧谿の「龍虎図」「芙蓉図」など見たことが無かったものを見ることが出来ました。

特別に伊藤若冲の絵が2幅展示されていました。若冲は30代に禅に帰依し、京都相国寺の高僧と親交を結び絵を描いたとされています。鷲図と旭日雄鶏図の2幅は、素晴らしい若冲の作品で、構図の大胆さ、色遣いの素晴らしさ、超精密微細の表現には言葉がありません。若冲の「写生帖」を見たくなりました。雄鶏図は、来年の干支・酉に因んで絵葉書を買い求め、感激・感動の余韻を頭と胸に帰途につきました。

写生と自然(動植物)、芸術と空間 3

甲賀町(コウカチョウ)にある櫟野寺(ラクヤジ)は792年、比叡山延暦寺を建立した最澄が創建した寺と伝えられており、この秋、「平安の秘仏・櫟野寺の大観音とみほとけたち」として公開されている。この展覧会を東京国立博物館、櫟野寺と共に主催している読売新聞の10月28日夕刊に載った解説を読んで見たい衝動に駆られた。郷里の岐阜に近い滋賀県、以前毎年正月、多賀町の多賀神社に初詣の折、焼物の町信楽を訪れた懐かしさがあったからかもしれない。

 仕事上、、これまでにも京都・奈良地域の史跡名勝、社寺庭園を訪ねることが多く、折々に寺院の仏像を拝観してきた。仏像の前で彫像と対峙し沈思黙考する時間的余裕が持てるようになり、同時に日本の歴史や文化、芸術について勉強しなおそうと思うようになった。今回の秘仏の展覧会はまたとない良い機会であり内容である。秘仏は全部で20体、その中心は11面観音菩薩坐像である。

 中心に置かれた11面観音菩薩坐像は光背、台座を含め5mを越え黄金に輝き見る人を圧倒する。しかも像は1本の櫟の大木を刻んで造られており、寺院では本殿の奥に安置され、離れて前面からしか拝むことはできない(次の御開帳は平成30年秋)が、今回の展覧会では周り四方から観音菩薩をつぶさに見ることが出来る。坐像全体の美しさ、均整の取れた菩薩の姿を鑑賞することができる。仏像では一般的に立像(一丈六尺;丈六仏=4.8m)、坐像は半分の2.4mとされるが、この観音菩薩坐像は例外なく大きく、眼前に身を置くと我が身が小さく感じられ、その前に膝まづき無心で拝みたい気持ちになる。言葉無く呆然とし感激に浸るだけであった。

 毘沙門天立像は真横から見ると顔面がやや前に突き出ているが真正面からはそれが無く、全体で調和のとれた優しい顔立ちをした姿である。3体の地蔵菩薩薬師如来坐像の柔和な顔立ち、姿に癒され引き込まれる。8体の観音菩薩立像には、鑿の削り痕が見られるものもあり、像の生き生きしさを表していたり、面立ちが違う菩薩であったり、像によっては菩薩の縦の軸線(中心線)が微妙に真ん中でないものがあったり興味が尽きない。
菩薩像は一本の木を削って前面半分が作られているが、木目を重視し生かした顔、衣服姿で彫り込まれている。優美で柔らかな線やふくよかな形には落ち着いた安心できる心持になれる。1000年経って今なお優美な姿を示し人々に浄土への往生を導く姿は何物にも代えがたい。どれほど幾多の人々の苦しみを癒し心に平安を与えてきたことであろうか、と思うと時空を超えて縋りたくなる気持ちに感慨が深くなる。

 櫟野寺本堂での秘仏(11面観音菩薩坐像)の御開帳は平成30年秋、33年に一度の大開帳を迎えるとされている。それまでこの菩薩坐像は見られないのである。それを目標に慎ましく生活したい。

写生と自然(動植物)、芸術と空間 2

 円山応挙展が行われた美術館は、東京・表参道にある根津美術館である。この美術館を設計したのは、今年話題になった2020年東京オリンピック新国立競技場の設計をも担当する隈研吾東京大学教授である。初めて隈の作品を見たのは、栃木県那珂川町馬頭にある馬頭広重美術館である。日大の大澤先生とともに那珂川町馬頭を研究対象地とした折に訪れ、竹を生かした和風の美術館で場所の雰囲気、景観に合った建物であった。

建築家・隈研吾は2000年(平成12年)にこの美術館の作品で「村野藤吾賞」を受賞している。

 根津美術館も、みゆき通りの正面に位置し、美術館通りに並行してキンメイチクの植え込みに見え隠れして建物が見える。美術館正面玄関へのアプローチは、京都銀閣寺のL字の園路に似て美しい。背後に日本庭園を控え館内からその庭園の眺めを生かした明るいロビー空間が広がる。起伏のある庭園側からは館の建物が邪魔にならず景に溶け込んで庭と一体化して落ち着いた佇まいを作っている。この美術館の設計で2009年(平成21)毎日芸術賞を受賞した。

 そんな美術館での「円山応挙展・写生を超えて」であった。

建築家・隈研吾は読売新聞;ふるさとにエール(上):11月18日付で次のように述べている。少し長いが引用する。

「人間は罪人だからこそ死んでいくんだということを教わった。実は仏教の考えも同じところから始まっていると僕は思う。自分は生かされている、罪人だという意識が、他人への愛情や感謝につながっていく」 「だから、基本的に自分は罪人だという意識で生きているんだけど、中でも建築というのは重い罪だと僕は思っているわけです。だってある場所を占拠し、いろんな自然素材を消費すれば、環境にも悪い影響を与えてしまう。でもそういう罪を受け入れ、償うつもりで建築を手掛ける人が世の中に必要だとも思っていて、誰かがその責任を負わなくてはいけないなら、自分が負ってみようかなと思っています」

 この文章を読んで、「自然や緑・生き物を対象とする芸術=庭園、造園」はおよそそれに対峙する位置にあるのではないかと感じた。つまり、造園は、自然素材を消費の対象とは考えていない(真逆に生かし生かされて作品化する)し、環境に悪い影響を与えるどころか、環境を的確にとらえ理解しそれを生かして美しさと同時に機能性を理解して作品化してきた」のが庭であり園・苑であり空間である、と考えている。

 円山応挙の作品に「七難七福図巻」があり、人間を取り巻くどこの世界にも、常に七難七福が存在し、人間はそれに恐れおののき一喜一憂し生きながらえてきており、悲喜交々、何かに縋って頼って祈って生を全うして来ている。人の人生に今も昔も変わりが無い。

 

 

 追)三井寺円満院祐常門主、豪商三井家、東武創業者、根津喜一郎、

 

 

 

写生と自然(動植物)、芸術と空間 1

先月、根津美術館で行われていた「写生を超えて」円山応挙展に足を延ばした。円山応挙の名もあったが「応挙の写生」のキャッチコピーに引き付けられた。絵画、中でも日本画は昔から大変興味を持って見てきた。東大時代に知り合った家族は邦楽や日本画東京芸大で学び、社会で活躍されている芸術一家である。「庭園や造園」に興味を持ち学んで来た中で、それが美術や建築とも深い関連性があり、美しさや空間表現の考え方や捉え方に学ぶ点が多くあり、一流の作品を見ることの重要性を理解していた。有名日本画家の作品を鑑賞すると同時に、その作品で捉えられた風景=景観や自然の現象、動植物等の素描に留まらず、作品の持つ情景、雰囲気を味わうことは造園とも強い関わりがある。

 東京に出てきて岐阜県出身の日本画家、河合玉堂の美術館が青梅にあり日本画の作品もさることながら庭園、建物、その立地が素晴らしく佇まいに魅了されたことも関係している。これまでに多くの日本画家の作品を見、同時に学生を連れた日本庭園見学の実習で京都の寺社を訪れ襖絵なども多く鑑賞してきた。絵のある部屋、建物それに続く庭、空間の使われ方など連続的で一体的な関連性を味わってきた。

 そんな背景を考えながら円山応挙の展覧会を見ることにした。ほとんどの絵画は個人蔵で、普段、目にすることはできない。特に「写生帖」に描かれた動植物は応挙の観察力、描写力の素晴らしさに大変感激した。個々の素材を細かく観察し微細な部分まで詳細に描かれ、その表情、雰囲気も加え描かれている。素材一つ一つもさることながら空間的なレイアウト、配置と何も無い空間の妙(空の意味、味わい)にも魅せられる。国宝の「雪松図屏風」、重文の「藤花図屏風」に感嘆、無言。

 日常身近な対象(題材、モチーフ)のあらゆる姿を克明に写生しているが、非常に細い線、淡い微妙な色、などなど驚く点は枚挙にいとまない。彩色されたものも素晴らしいが、墨の濃淡だけで自然の細かな表情・状況を描いたものもすごい。雨竹風竹図屏風がそれである。

 読売新聞の日曜版(11月20日)、アート散歩欄にアニメーション作家の山村浩二氏が鑑賞談を次のように書いている。「物の構造を捉えるために、自分の両目で、立体で見る。本物を裏側まで見て一個ずつ形の本質を確かめることが重要」であると。

 写生の素晴らしさは、長崎にあるシーボルト記念館で見た川原慶賀の写生、牧野植物園で見た関根雲停の絵、五百城文哉展の絵、現代日本画家素描シリーズ本などから味わってきている。今回の応挙の写生画もそれに負けず劣らず素晴らしいものである。

とにかく感激しっぱなしの応挙展だった。場所は東京表参道にある根津美術館であった。

ドイツの造園専門誌から;2016

ドイツ造園家協会(BDLA;Bund Deutscher Landschaftarchitektur)の機関誌*1は、(Garten und Landschaft)でドイツの造園界における各種の情報を月刊誌として公表しているものである。2016年のこれまで(9月)に発行された同誌の概要を簡単に示し、現状を報告・紹介する。詳しくは同誌に直接当たってほしい。

ドイツにおける専門職としての造園分野が抱える問題は日本とも類似しており、その専門分野の将来的展望について本年冒頭の1月号で特集している。題して「将来の専門職分野」。第13回ヨーロッパコンペを話題に協同、協働について記事、「熱い情熱とクールな思考」と題した若手造園家の記事、現在勉学中の学生達のインタビューとコメントとの記事がある。このテーマを受けて4月号でも、「オープンスペース計画を担うのは誰」の特集を組んでいる。都市計画家、建築家との3者円卓座談会記事(オープンスペース計画での学際的協同の重要性とあり方)、ベルリン市の黄金橋(Goldene Brücken)などを事例とした記事が取り上げられている。

2月号では、難民問題とも関連するオープンスペースの在り様に関する記事(都心と郊外、芸術性のバランス、文化・習慣の原点と境界、故郷の思考、ドルトムント北地区の事例など)を特集、3月、5月号は、それぞれオープンスペース特集、3月号では光と影と題し、再開発したベルリン・テーゲルン空港、ハンブルク港プロムナード、オランダ・アンハイム駅舎、ミュンヘン市の2030年オープンスペース構想などを取り上げている。5月号は用地の空間特性(多目的、多機能)について、ウイーンの1.4ha屋上緑化と地下駐車場の例、コペンハーゲンの事例を基に解説している。

 今年はオリンピックの年、都市像が巨大プロジェクトで大きく変化した年でそれにオープンスペースも深く関わってきている。6月号では、リオデジャネイロ、ロンドン、ミラノなど、さらにはドイツ国内でのこれまでの庭園博都市を事例に、巨大イベントが何をもたらしたか、事後の検証を踏まえ考察している。

 7月号は一転して都市内における将来像として緑の在り方について取り上げている。道路空間を重要な緑のオープンスペースとして位置づけており、ミュンヘン市では4000haにも及ぶ用地を道路沿いや敷地内で緑にする構想を示し、ロンドン(2001-2013年に73%の道路で自転車通行優先)では2030年、市民14万人の自転車利用との共存を推進し道路静粛化を目論む記事がある。ほかにもミュンスター市では道路の50%を自転車優先に、ベルリン市では自転車快速路線(自転車ハイウエー計画;2025年を目途に100km)新設についての記事を載せている。8月号は5月号と呼応しさらに地球温暖化会議(パリ)と連携させて屋上緑化の新たな役割についてハンブルグ、ミュンヘン市を例に特集している。ドイツでは73ha/日のペースでオープンスペースが宅地・交通用地転換になっていることに関連し人工地盤の重要性を指摘し、フランクルト市内に7000㎡屋上緑化しスカイライン緑地として目論んでいる。アンヌ・イダルゴパリ市長は引退までに100haの人工地盤緑地を構想しているとした記事を載せている。

9月号は、ドイツにおける地域計画、都市計画の分野、都市形態としての連担都市における地域改造・整備と関連させた緑地帯、公園緑地整備の好事例であるエムシャーパーク*2を取り上げ、その歩み、目的と方法、成果・評価を明らかにしている。

*1 他の造園に関する専門誌としては、都市と緑(Stadt u. Grün)や自然と景観(Natur u. Landschaft)が知られている。

*2 Emscherlandschaftspark;1990年代から2010年まで各種のプロジェクトを重ねて地域内の緑地帯の整備・充実を図ってきている。現在2027年の国際庭園博開催にエントリーし基本計画を審議している。

 

 

 

 

生きてきた26,662日

昭和19年11月生まれは戦中派なのか、戦後派なのか。同年の10月25日は叔父(父の兄)が激戦のレイテ湾で戦艦扶桑に乗っており、魚雷、砲弾を浴びて扶桑は撃沈、全員戦死と報告されている。その1か月後、私が生まれた。この年、1944年は閏年。今年平成28年も閏年、これまで17回の閏年があり、それ以外の35年は標準、365日となっている。昭和19年と平成28年は誕生後の日数、誕生日までの日数の関係を考慮し計算したところ、26,662日となった。

 四万六千日は浅草浅草寺の観音様に関係した功徳日、毎月18日がその日で、この日に参拝するとご利益が得られるという信仰。特に7月10日の功徳は千日分で江戸享保年間から「四万六千日=約126年」の功徳ご利益となったそうである。その半分余りを生きてきたことになる。

 72年生きて6巡目の申年。年金生活になって70歳も越え、先を考えて徐に祈りや悟りや功徳を意識し神社仏閣、仏像や文化財に注目し始めた自分がいた。

 72回目の誕生日、いろいろな人からお祝いの言葉やメッセージをもらった。ドイツの友人は直接電話をかけて来て、生憎不在であったために留守電にその声が入っていた。家族揃ってHappy Birthdayの歌を歌った後に友人夫妻の言葉が入っていた。別の友人は少し気が早くBirthday Cardにアドベントのカードを使ってお祝いの言葉を贈ってくれた。クリスマスまで12月1日から毎日カードの小窓を開けて楽しむようになっていた。ともに同じくらいの年齢であり同じような時代を生きてきて今がある。「元気で過ごそう」が合言葉である。

 実母は21歳で結婚し私を産んで30歳の若さで亡くなった。父は85歳まで生き養母は101歳まで生きて昨年他界した。人それぞれの生きた時代・生き方と自分の生きてきた時代を重ね合わせ、これから何回誕生日なるものを迎えられるか分からないが、当面30,000日(あと9年位)目指して有意義な人生を歩んでいきたいと考えている。