水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

報道の自由と国家機密  

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 国家機密は、科学技術の進歩や社会・経済の国際化により複雑になり、地球環境がより狭く国際情勢がより複雑化するにつれ重要となって来ている。支援や援助が民間で行われていても、それに参加する人が属する国にとって関連情報の取り扱いは難しくなる。

 今、国会では以前に日本政府が国連の要請を受けてアフリカに送った自衛隊部隊の現地での在り様を記録した内容が物議を醸しだしている。支援の状況を記録した内容に派遣の条件不適合があるのではないかという疑問である。

 情報の機密性は、その情報が国の針路や施策の是非を左右したりする場合、取り扱いはより重要となる。

 米映画「ペンタゴン・ペーパーズ:最高機密文書」は、かってアメリカ政府がベトナム戦争を巡って情報をどう収集しどう伝えどう流していたか、最高機密に当たる文書を民間新聞社が秘密裏に入手し公表するかどうか、を描いたものである。

 トム・ハンクス、メリル・ストリープが出演し、スティーブン・スピルバーグが監督を務めた映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見た。大変見ごたえのある内容で、あっという間の2時間であった。最高国家機密と報道の自由、真実を伝えることの重要性、新聞報道機関(マスメディア)と読者(市民)、会社か真実報道か、いろいろな側面の判断材料を交えながら状況が進展し、新聞社社長、記者、ライバル社、政府関係者など「公表」決断への過程が描かれ、新聞発行の最終決断までの緊迫感も盛り込まれた見応えのある作品であった。

 

 映画のパンフレットによれば、4代にわたる歴代大統領が30年間も隠さなければならなかった事実(最高機密文書)ベトナム戦争。1971年泥沼化したベトナム戦争の状況を記した大量の文書が流出して大手新聞社に持ち込まれ、その一部を報道した(ニューヨークタイムズ社;NT社)ことで問題が発生する。NT社は追加の報道をするかどうか悩み、裁判所の判断をもって継続報道をやめるが、同様に情報を入手したライバル社(ワシントンポスト社;WP社)は悩みに悩んだ末、女社長の決断(英断)で公表・報道を決める。当時のニクソン大統領、マクナマラ国務長官の政府を相手に、国家機密か、報道の自由かで悩む関係者の姿を描いている。この映画は、実話に基づく作品である。

 

 国際情勢が日ごとに変わり、国の針路が1国だけで決められない国際化時代の今、関係国との外交の重要性、それに伴う情報収集、情報機密と決断の重要性、公表の在り方と対応など難しさが浮き彫りになって来ている。国際的関係(外向けの対応)と国内的情報公開(内向きの対応)の狭間で、どう展開するか、していくのか現実的には難しい問題である。

 時が変わって内容に違いがあるが、現在の米大統領がマスコミの追及に嫌気を差して締め出したり、身勝手な情報流布で操ってみたり、その動き、反応を見て方針を考えたりしている様を見ていると、より一層、堅実で洞察力の豊かな不断の国際的外交努力が必要であると同時に、「報道の自由は報道によって守られる」、「新聞は権力者の為にあるのではなく、国民の為にある」の姿勢は極めて重要である。

 

 スチィーブン・スピルバーグ監督は、この映画を作るために全く異なった内容の作品(レディープレイヤー1=2018・4・20公開)を後回しにしてまでも作品化したかった、とのことである。首肯同感である。

展覧会巡り   16   光琳と乾山

 4月にしては暑い日となった20日、以前に訪れた根津美術館尾形光琳・乾山展を見に行きました。尾形光琳と乾山は性格の違う兄弟だったようで、どちらかというと放蕩的な兄光琳、質素で物静かで思索的な弟乾山と言われています。兄は稀代の日本画家、弟乾山は陶工・絵師として知られています。今回、この兄弟の作品を中心に特別展が開かれており、早速見に行ってみました。

 光琳の作品は国宝・燕子花図屏風を代表に14点、乾山は皿・向付・碗など24点、書画18点、それに兄弟で作成した(乾山が皿を作り光琳が絵を描いた)皿などが6点でした。

 光琳の6曲1双の燕子花屏風は、国宝で以前も見ましたが、やはり金地に花の青色(藍色)、斜めの構図など見事でした。ちょうどこの美術館の庭*でカキツバタ(杜若)が池の中で咲き始めており、入口でこの日の開花状況を写真で見せていましたが、国宝の屏風絵では実物より数段大きくダイナミックに描かれており、見る者を圧倒する迫力でした。他に金地では中国を題材としたもの(墨絵や墨絵に淡彩したもの)など小品の軸絵でした。

 乾山の焼物では、兄弟で制作した銹絵角皿(5) と火入(1) が一堂に集められて展示され(通常は6つの美術館それぞれ1つづつ所蔵)この機会でしか揃いで見られず見事でした。こちらも花鳥の他、中国から題材・モチーフをとったもの(寿老人図、寒山拾得図、竹、梅、牡丹、楼閣山水図)でした。

 乾山の焼物では銹絵の角皿、色絵の向付が中心でしたが、日常的な器の大きさや形でしたので、余計に親しみや興味が湧き、江戸時代の作品と思えないところが不思議な点でした。

 乾山というと色絵の鉢物が念頭にあります。昔、わが家で父が大切に所有していた菓子鉢にやや大柄の紅葉の葉柄(三色;赤・緑・黄)のがあり、乾山作ではないかと話題になったことを思い出しました(本物であるはずが無いんですが)。角皿の縁に描かれた文様など手書きの良さ(太さや色合いやデザイン)にも見惚れてしまいました。

 他に、乾山の小品が数多くあり、着色墨書、墨画墨書が殆どでしたが、大変味のある作品が多くありました。作品には大胆なデフォルメ、抽象化、省略と誇示が現れており自由な作風、作品に見とれて、時代を感じさせない今日性があると感じた展覧会でした。

 終了後、美術館の庭を一巡り。地形を活かした大きさを感じさせる回遊式の庭で、茶席も多くあり、また中国、朝鮮などから蒐集された石造物(灯籠や塔、置物など)が庭の随所におかれていました。四季折々の木や花がそれらを引き立たせる形となり今に生かされていました。池の周りには多くの紅葉や楓が新緑の美しさを見せていました。紅葉の季節には、また違った美しい庭園の姿を見せ、それに合わせて特別展が開かれることでしょう。

 

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外国友人訪日談

  1989年(平成1年)、今から30年程前になります。当時の埼玉県野鳥の会主催による「西ドイツ自然環境調査」の計画立案および実施視察のコーディネートに携わりました。日本大学の関係者が同野鳥の会におられたことから、私が加わることになりました。私は、その前から西ドイツの造園緑地に関する専門誌を紐解き、都市内及び都市周辺部での公園緑地整備と自然再生の動きに注目していました。この時代まで西ドイツ、バーデンヴュルテンベルク州カールスルーエ市は殆ど公園緑地の分野では注目されていませんでした。しかし、それまでには市内に日本庭園が造られており、著名な上原敬二先生(東大卒、東農大教授;日本造園学会生みの親)も1967年、連邦庭園博に際し造改修整備に深く関与されており、日本と深い繋がりがありました(補1)。

 1989年訪独の折、それ以前から都市の公園緑地で自然再生や復元に積極的施策を取り、多くの優れた事例を進めていたカールスルーエ市公園局と事前にコンタクトを取り、訪問しました。その視察報告結果は事例写真の多い本としてまとめられ公表されました**

 それ以来、わが国でも注目されるようになった「都市内における自然復元再生」の好事例都市としてカールスルーエ市が上がる所となり、多くの日本視察団、訪問者が詣でてきています。当時の公園局長;ホルスト・シュミット氏(Dir,Horst Schmidt)ならびに当時の部長ヘルムート・ケルン氏(Hermut Kern)とはそれ以来もう30年に及ぶ交流を続けて来ています。

 シュミット氏が退職された後、ケルン氏が局長となられ親交も続いていますが、昨年、ドイツ造園部局長協議会(Gartenamtleiterkonferenz)はカールスルーエ市に「銀杏賞;Ginkgo Preis)」を授与し「都市における公園緑地拡大・発展施策」を表彰しています。

 

 このシュミット氏は引退後、それまで興味を持っておられた日本庭園に対し、度々来日しいろいろな庭園・公園緑地(新旧取り混ぜ)を視察され、その専門的理解(歴史文化的、造園技術的)を深めて専門誌に発表されてきています。ここ数年来、早春(3-4月)に日本庭園を主とした視察団の専門解説者として来日され、参加者を案内しておられます。

 今年(2018)も視察団に先立って3日早く東京に来られ、都内の庭園、緑地を視察されました。案内役を任され、大手町の森、旧三菱三号館中庭、東京ミッドタウン日比谷、ホテルニューオオタニ庭園などを視察されました(添付写真)。

 視察団は東京、京都、金沢、広島などの都市を回り日本庭園を中心として歴史的遺産、自然・文化景観を視察され帰国されました。 

 

*埼玉野鳥の会:後に会から分かれ日本生態系協会にも発展している

**詳細は、「ビオトープ・緑の都市革命」埼玉県野鳥の会、ぎょうせい、1990 参照

補1:カールスルーエ市で故上原敬二先生が1967年、連邦庭園博に合わせて市立公園(Stadtpark)の日本庭園改修時に設計・施工指導されて造られ、池、四阿、鳥居、飛び石、灯篭など、桜、楓、竹などが植栽されている

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緑滴る秩父・三峰

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 世の中の動きを知るのに新聞、テレビ、ラジオなどいろいろな媒体がありますが、ゆっくり、じっくり考え、味わう上では新聞が一番でしょうか。季節の便りや今が旬の記事に誘われてその場所を訪れることも度々あります。

 今回は春の美しい花の便りでお馴染みの「芝桜」に注目し、同時に初夏の滴る緑と合わせ鑑賞できる場所を探しました。 ありました! 新聞にもカラー写真付きで紹介されました。それは秩父羊山公園、そして新緑の秩父の山や渓谷でした。

 秩父の札所めぐりは、昨年春、歩き回って走破満願達成しましたが、山の奥に鎮座して霊魂新たかな秩父三峰神社までは辿り着いていませんでした。

 4月23日早朝自宅を発ち、朝ラッシュが始まる前に池袋駅から西武鉄道の特急レッドアロー号

に乗り西武秩父駅を目指しました。所沢、入間市を通り飯能へ、飯能からは列車の走る方向が逆になり車窓の景観も急に山と谷が迫る山間景観、暫くすると西武秩父駅に着きます。

 今回は、最初に秩父の奥、「秩父・多摩国立公園」に鎮座する「三峰神社」を訪れました。神社を訪れるルートには二つあり、一つは、西武秩父駅から急行バスで神社下まで行くルート、もう一つは西武秩父駅秩父鉄道に乗り換え、終点の三峰口まで行き、そこから山を2時間ほど登って神社に至るルートです。今回は①の急行バスルートを選択しました。西武秩父駅前から三峰神社下までは70分ほどかかり、途中、切り立った山峯、深い荒川源流の渓谷沿いを走り、二瀬ダム湖畔からは、まさに霊場三峰神社まで狭い上りの山道。バスは対向する下りの自動車を気にしながら山腹の曲がりくねった道をノロノロ駆け登ぼりました。道沿いの樹林は常緑針葉樹の植林が多く、林床も良く手入れされ綺麗になっていました(その理由は想像ですが、後に分かりました)。

 前日までは4月にめずらしく快晴の暑い日(真夏日)が続いていましたが、23日は曇り。秩父の山は雲が懸かり全貌は見えません。山を登るほどに霞とも霧とも分からない状態。北からの冷たい空気が関東地方に流れ込んで南の暖かい空気とぶつかる内陸山間部は霧が発生したようです。とりわけ標高が高くなる三峰神社(1100m)山塊では気温が低く長袖、セーターやヤッケが必要なくらいでした。駐車場上のビジターセンターに立ち寄り展示内容を見てから神社に向かいました。

 参道の入り口に「三つ鳥居」(両脇の小さめの鳥居と真ん中にしっかりとした鳥居)があり、その前、両側に狛犬ならぬ「狛狼」が阿吽の形相で見下ろしていました。参道の脇には三峰講参加者が寄付した物を記した石碑が幾つも連なって立ち並んでいます。碑文に「桧苗三万本」とか「杉苗五万本」などとあります。実物かその金額か定かではないですが、信者たちの神に対する信心が現れており、碑の建立年代は昭和4-50年台が多くありました。その苗木が三峰神社域の山の斜面に植栽され、現在の鬱蒼とした深い森を構成しているのだと感じました。

 参道は3方に分かれますが本殿の方に向かいます。霧の中に大きく綺麗な隋身門(昔は仁王門)が現れ、更に進むと本殿前に出ます。参拝者を見下ろすように樹齢800年以上と言われるご神木(大杉)が二本、本殿前の石段脇に「でーん」と聳えています。

大人4-5人、手を広げ繋いでも届きそうにない太さ。関東有数のパワースポットとして良く知られ参拝者が必ず「気守」を受けようと翳す掌の跡で、杉皮が明るい茶色に変色。いかに多くの人が救いを求め安らぎを得ようとしているか、よく分かります。御多分に漏れず私も両方の杉の幹に手を合わせ祈ってしまいました。鎌倉時代の武将畠山重忠が奉納し植えたと伝わりますが、さもありなん、と思わせる大木。その偉大な生命力、神秘性、そして時間の重みと風雪に耐えてきた自然の素晴らしさに感激しました。

 拝殿は建物軒下廻りの素晴らしい彫刻が大変美しく(200-2004大修理された)見事です。

全国神社巡りと絵馬集めを続けている私としては三峰神社の参拝記念に干支絵馬を授けていただきました。霧が前より一段と深くなりシャクナゲツツジが満開の参道を一巡り、日本武尊像前で一休み。霧の中に立って秩父の山並みを見上げる武尊はヴェールに包まれているようなお姿の為、余計に何となくリアリティーがあり、神々しくも見えました。

 交通の便が悪い(アクセスの仕方が無い三峰神社へは片道70分の急行バスか自家用車しか方法がありませんが道が狭いので混んだ場合はどのみち大変な渋滞が想像されます。

バスの本数も1-2時間に1本程度、この日は霧と肌寒い日でしたので比較的空いていたように感じました。

 

 市内に戻って第二の目的地;羊山公園の芝桜です。花が開花し始めてから満開の状態は過ぎようとしていて部分的に花が少なかったり他の野草が芝桜を凌駕して成長し見栄えが今一つの状態でした。それに背景となる武甲山が雲に隠れ雄大さを消していました。遠目には絨毯状のピンクや白のブロックも残っており記念写真を撮る人だかりが見えました。やはり快晴の青空がお花畑には最低限必要のようでした。

 三峰神社の歴史は景行天皇日本武尊の東征に関連しイザナギ、イザナミの国産み神にも関連して古くから皇室と深い関係があります。また、奈良時代淳和天皇弘法大師空海とも関係し空海が11面観音像を造ったとあります。東国武士や徳川家とも深く関係していますし修験者の山としても有名な地です。

 明治以降ではこの神社を文人達も多く訪れ、野口雨情は「朝に朝霧、夕に夕霧、秩父三峰霧の中」と詩作。宮沢賢治若山牧水も来ていますし、斉藤茂吉は「ここに居りて 啼くこえきけば相呼ばふ 鳥が音かなし 山の月夜に」としています。戦時中に疎開してこの地で生活した前田夕暮は、「木の花のにほふあしたと なりにけり 老いづき女をいたわらんとす 生くることかなしと思ふ 山峡はなだれ雪降り 月てりにけり」としたためていました(ヴィジターセンター解説文より)

 

 神秘的な三峰神社とその周辺へは、もう一度訪れてみたいと感じました。神社の歴史、自然の佇まい、そして霊気漂う神域に頭と体を晒し(身を置き)考えてみたいと思います。その時は下から歩いて登り、奥宮まで足を延ばしたいと思っています。

 

 

 

展覧会巡り   15  春の院展を見る

 

 

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    平成30年4月、関東ではソメイヨシノの一重桜が終わり、里桜も折からの強風に花を揺すられ花吹雪になっています。木々の若葉が柔らかな萌黄色で彩り始めました。遠く近く透けて見えていた森や林の景色も緑のカーテンに包まれて身近な風景がはっきりしてきました。「目に青葉 山郭公 初鰹  :  (山口素堂)」の句の季節近しですね。

 日本画の代表的な展覧会、春の院展日本橋三越で開催されました*。縁あって画家・倉島さん(同人)からご招待を受け、今年も展覧会(公募展)に足を運びました。今年で73回を迎える公募展、今年も応募数811点、うち入選作327点で3会場に分かれて展示される状況でした(同人の作品数35点は別)

 今回のような公募展で絵を見る時、それが洋画でも日本画、彫刻でも自分の気に入った絵・作品を見て回り鑑賞してきました。作品のモチーフ、色合い、画面構成などいろいろな視点から気に入った絵を探し、その情景、雰囲気、作者の感情に思いをはせて見て歩く面白さ楽しさが良いのです。そんな気分の2時間でした。

 どうしても自分の気持ちや性分から、色々な風景や動植物の作品に目が止まり感情移入したり制作状況を類推して楽しんでいます。作品の表題は、作者の絵に対する気持ちを表すので大変だろう、と思いますが的確な表題名を付ける難しさも感じられました。

 院展の同人(35名)の作品は当然ながら、入選作の中で自分の気に入った作品は色々ありました。作者の名前をメモして(10数人)後で検索したら、どの作者も年配の方々で、これまでにも度々日本美術院展に応募され奨励賞等を受賞しておられる人達(院友や招待)でした**。さすが歴史ある団体であり公募展、作品展覧会だと再確認し、少し自分の眼力にも自信が持てました。楽しい午後の一時でした。

 

 *日本美術院:1898年、岡倉天心東京美術学校を排斥され辞職を機に、下村観山、横山大観、橋本雅邦、菱田春草、六角紫水らが会を創設、以後、1905年には天心が茨城県五浦に別荘を造り、新しい日本画を模索し、天心はじめ上記の日本画家たちが活躍しました。東京に移った日本画家たちは大正2年(1913)の岡倉天心没後、それまでの日本美術院を再興し、翌年(1914)10月には日本橋三越本店で「日本美術院再興記念展覧会」が開催され、2014年には再興100年記念展も開催されています。

  岡倉天心の五浦堂は以前、国指定の登録文化財であり、日大造園学研究室に教授として在職されておられた吉川 需先生が、この邸の修複にも関係されておられました。(先生は日大に来られる以前に文化庁記念物課で全国の名勝旧跡・庭園はじめ文化財周辺の環境整備にも深く関わっておられました)。

**私が気に入った絵の作者は、石村雅幸、大島婦美枝、加藤厚、河本真里、佐々木啓子、沢村志乃武、白井進、谷善徳、中神敬子、安井彩子、吉澤光子でした。

 

 

記念切手  

 記念切手はいつの頃からか、いろいろな写真や絵が多種多様に盛り込まれたものに変わってきています。シリーズ物の記念切手でも、以前は1-2種類ほどの切手がシートを構成していましたが、今は郷土シリーズでも花や果物・野菜シリーズでも1枚1枚違ったモチーフの切手になっています。しかも62円の葉書用切手より82円の封書用の方が種類が多く発行されているような気がします。 

 もう一つ変わってきたのは、以前は殆どミシン穴で区切られた1枚1枚が、いまではシール型切手万能の時代に入ってきているようで、記念切手の多くがシール型になって来ています(添付写真参照;上段がシール型切手、下段がミシン穴切手)。 

 外国の友人と文通したり郵便物を送ったりする折、常に日本の記念切手を使っています。昔から日本の記念切手の多種多様さ、1枚1枚の切手の美しさ、色や形が豊かなモチーフで作られ今日でもそれは変わっていません。私のドイツの友人は、その素晴らしさに惚れて、もう永く日本の記念切手を集めてきています。そのため、私は手紙や荷物を送るたびに記念切手を沢山使って色とりどり貼って送っています。以前の記念切手は額面金額が少額であったため、郵送代金を記念切手で済ませるためには数多くの枚数を貼らなければならない場合も少なくありません。小包でSAL便を出すときなど、1面は住所、宛名などの書類を張るため切手を貼るスペースが少なくなり、止むを得ず他の面に切手を貼らざるをえません(消印を打つ方は大変でしょうね)。

 そんな時、昔のミシン型切手では色々な種類の記念切手を取り揃え貼れるので良いのですが、シール方式の記念切手シートでは1枚1枚別々にしか貼れないので結局1シート全てそのまま使わざるを得ません。

 

 手紙を書く機会が少なくなってきていると言われます。携帯電話の利用による情報の伝達(face book やline)が多くなり、自ら筆を取って時候の挨拶や近況報告などをすることは減って来ています。絵手紙や懸賞募集などで私製葉書を利用し切手を使う場合もあるにはありますが昔ほどではありませんし、それに記念切手を用いる人は極めて少ないでしょう。

    有名な画家や作家をはじめ文化人の展覧会などで残された葉書、手紙、書簡などが、展示物として重要な位置を占めている場合も少なくありません。これからの有名人の足跡としては形が変わっていくのでしょうか。ひょっとしたら使っていた携帯電話が展示されるかもしれませんね(笑)。

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4月1日 エイプリルフール・嘘? 忘れること? 

 新年度が始まりました。平成最後の年、平成30年、2018.4.1、いろいろな物が新しくなる年度初め、学校に通う人は入学や進級、社会人の新人は新しい世界が始まります。

  前年度の最後に来て、それ以前に受診した定期健康診断(人間ドック)で問題点が指摘されてしまいました。再検査、精密検査の必要性を指摘され、年度末に大腸検査を受けることになりました。初めてです。胃の内視鏡検査で数年前までは鎮静剤を打って後に内視鏡検査をする方式で、何の苦しみもなく済ませていました。しかし、昨年から鎮静剤使用が断られ、鼻か口から差し込む方式での検査となり、咽喉部の感受性が人一倍強い私はカテーテルを差し込んで検査、撮影診断することが、それはそれは苦しく地獄の検査となりました。

 胃での体験を想像して大腸の内視鏡検査にも一抹の不安を持って臨みましたが、経験者・弟の「胃検査ほどでもないから大丈夫」に期待して受けました。実際、検査は胃のように嘔吐はありませんし、特段の違和感は無かったので安心しました。大腸検査は最初に大腸の最深部まで入り込み、カテーテルを手前に戻しながら腸内部の壁を撮影し問題のある箇所を見つけて計測したり処置をするなりして検査は終了します。腸内を空気で膨らませながら診察、撮影、治療しますのでお腹は当然膨らみます(膨満感)し、随時外へ空気が出ます(膨らんだり凹んだり;昔、子供の頃、田んぼでトノサマガエルを捕まえて麦からでお腹を膨らます悪ふざけを思い出しました)。

 私の検査では、問題点が部位毎にいくつも出てしまいました。最深部の盲腸、上行結腸部は問題なし、横行結腸と下行結腸では部分的に小さなポリープや憩室*が散見されました。私のS状結腸は普通の人よりやや長く曲がりが大きいとかで、カテーテルの出し入れに手古摺ったと言われました(私の性ではありませんが)。このS状結腸に正常より多く幾つもの憩室が点在し問題であるとのこと。最後に直腸部位には1cm程のポリープがあり、入院して摘出、再検査(病片検査)する必要があるとの診断になりました。

 憩室とは大腸の壁の一部が袋状に外側に飛び出した状態のことで、その中に老廃物が溜まり、強く息むと最悪の場合、壁膜が破け腹膜炎になる危険性があるとの事。

 全く予期せぬ出来事、状況でこれからの対応(再診)に新たな悩みとなりました。「嘘」であってほしいと思いましたが、写真で示されれば疑う余地無しでした(冷汗・涙)。

 

 忘れること。人間に備わった脳の働き。人は常に新しい物事に直面し、瞬時に判断して対応を決めて進まねばなりません。新しい情報を取り入れるために情報の重要性(軽重)を考慮して不必要なもの、古いものは消去して行かねばなりません。印象の深いこと、強いものはいつまでも頭に残っていて思い出します。重大な事件や悲惨な事故、体験等のように、忘れようとしても忘れられないことが沢山あります。先の大戦の最中や大きな地震・火災災害の現場など身の回りには数限りなく存在します。人によって状況は異なりますが、忘れていかなければ先に進めないのも事実でしょう。忘れられず悩み悲しみ苦しみ押しつぶされそうになるでしょう。心では決して忘れてはいけない、忘れられないと決めていますが、そのことだけに執着しているわけにもいきません。日々の暮らしを過ごして前に進んで行かなければならないのです。時の流れの中で記憶が薄れ忘れていくように。

 「忘」は字のごとく、心が亡びる、心を亡ぼすことでしょうか。心を鬼にして亡ぼしていかなければ先に進めないことなのかもしれません。「忘却とは忘れ去るものなり」は有名な語りですが、人生の中で苦しみや悲しみ、辛さから逃げ出すための一つの方法かもしれません。「忘れた」と、嘘をつくのは嘘なのだと思います。

 

 歳を取れば取るほど物忘れは多くなり、周りに迷惑をかけることになります。できることなら迷惑を掛けない、忘れて良いことだけの生活でありたいと思いますが・・。

展覧会巡り  14  オリバー・オースティン写真展

 懐かしい写真と何か引き付ける見出しに飛びついて展覧会を見に出かけた。見出しは「戦後まもない日本の風景」とあり(3月21日読売新聞)、添付の写真は丸坊主、草履ばきの笑顔の子供たちが車を追って走る姿であった。1944年生まれの自分にとって、ほぼ同じ時代の子供時代、風景の懐かしさもあったし、外国人が見た戦争直後の日本の姿、風景、人々の暮らしの写真展であり彼が、何を、どのように捉え写したか見てみたい気持ちが強かった。

 

 写真を撮ったのは、オリバー・オースティン(Oliver L. Austin jr.)1903年生まれの鳥類学者、大戦後日本に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)の一員でNRS(天然資源局)野生動物課長として1946年9月来日(43歳;2児の父)、以後1950年2月までの6年間、日本各地を回り野生動物資源調査をしている。今回の写真展はその間に彼が撮影した戦後の風景、戦後間もない日本人の暮らしぶり(東京中心)の様子であり、選ばれた70枚余の写真であった(実際は1.000枚以上の写真から)。

 新聞紙上の写真以上に興味を引いたのは写真展の解説書(表題:希望を追いかけて)の表紙である。それは表参道通りの風景で、右側に今は無くなった3階建ての同潤会アパートがあり道の下った先に明治神宮の杜を遠く望む写真である。神宮寄りの街路樹にはケヤキの大木が見られるが、明治道りから手前は殆ど街路樹も無く、僅か数本が新たに植えられた状態。自転車の後ろにリヤカーを付け坂を引いて登る人の姿が、現在のケヤキ街路樹で緑が豊かな通りの景観と違う、焼野原の後の姿である。緑を育てるには場所と時間が大切だ

と改めて痛感した。

 他に彼が撮影した東京都内あちこちの風景写真(道路含めた写真から)を見ると、当時(東京大空襲以後3-4年)、都心部や山の手では街路樹の緑や屋敷の緑が目立った状態か分かった。

 彼は鳥類学者であり滞在中6年間に北は北海道天売島から南は宮崎県青島まで、全国各地を日本の鳥類学者や関係者(山階芳麿、黒田長禮、蜂須賀 正、黒田長久ら)と調査していたことが写真から分かるし、日本の専門家と共にバードデー(今のバードウイーク)の制定や国鳥「キジ」の指定にも関わっている。さらに、剥製づくりの為、カモの狩猟を行ったり、野鳥を食する文化を記録するため築地の鶏屋(鶏藤)の店先にあるスズメ、ウズラ、ツグミ、カモ類の生肉の写真も撮っている。

 戦後間もない日本はこの後、希望や夢の実現に向けて復興の道を一挙に駆け上がって20世紀の発展に繋がっていった。この写真展を通して戦後間もない東京や日本の地方の姿と鳥学会を知ることができる機会となった。

 

オリバー・L・オースティン写真展は「希望を追いかけて~フロリダ州立大学所蔵写真展」として東京九段下、昭和館において3月10日~5月6日まで開催されている。入場無料:

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展覧会巡り  13  熊谷守一

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 これまで「展覧会巡り」の題でいろいろなものを見て書いてきた。展覧会の内容の案内や鑑賞のポイントは新聞に掲載されるものを参考にすることが多い。3月3日付読売新聞「時の余白に;純粋の人とひろき人々と;編集員芥川喜好の解説記事」があった。画家、熊谷守一の回顧展に関連した記事で、芸術家とそれを支える無私の支援の人々の話である。その記事に興味を持ち熊谷守一に出かけようと考えていた。

 そのまま時間が流れ、2週間ほど経った3月15日、今度は新聞の文化欄に「熊谷守一回顧展;東京国立近代美術館」の評があり、彼の画業の経歴と私生活の歩みの中で「激情 鎮魂 愛らしさ;熊谷守一展、多面性に光」と見出しされ「没後40年回顧展」の記事が掲載されていた。会期の締め切りが近いことを感じながら、この回顧展を見逃し行けないうちに日々過ごしてしまい残念な想いであった。

 記事の中に守一の次女、熊谷 榧さん(豊島区立熊谷守一美術館館長)の話があり、池袋近く豊島区千早の同館を訪れ作品を見たいと思い足を運んだ。同館は熊谷守一が45年間住んだ居宅に建てられ(1985年)、守一の作品153点が豊島区に寄贈され(2007年)区立美術館となっている。

 

 熊谷守一1880年岐阜県恵那郡付知村の生まれ、父は初代の岐阜市長:熊谷孫六郎。彼は画家を志し上京、1900年父の反対を押し切り現在の東京芸大(当時東京美術学校西洋画科に入学、1902年には父の死、稼業倒産に会い悲しみと苦しみの中で勉学・研鑽を積み重ね、1904年卒業している。同級生には青木繁、有島生馬らがいる。

 館の1階には守一の油絵、彫刻などが展示されていた。小品ながら数点の彫刻「裸婦」は絵と同様、姿・形の特徴が良く表され魅かれた。墨絵を土台に彩色された生き物を題材にした掛け軸も素晴らしい。油絵の特徴は、モチーフが殆ど凹凸が無く平面的に彩色表現され、縁の線(赤や黒など)も単調だが力強く、それでいてすっきりしたライン、形は守一独自のもの。画面構成など簡素・単調であるにも拘わらず力感、質量感が感じられ見飽きない。色遣いでは色が混じることなく単色で構成されているが絵に奥行きの深みが見いだせる。2階、3階にも墨絵や書など展示されており、部屋に合った大きさの作品が殆どで見やすくゆったりと静かに鑑賞できた。

 晩年は殆ど家から出ることが無く、庭でもっぱら写生をしたり来客と談笑したりする日々であった、とある。家庭的には多くの悲しみ(子供の死)や辛さ(売れない画家生活)に会いながらも心静かに身近な生き物たちを描いている。彼の作品を愛して若き時代から守一の作品を集め制作を支援した人(例えば木村定三コレクション)に励まされ画業を続けてきた経緯がある。心広き人が守一の周りを取り巻いたのは守一の生き方、人となり(絵に表れる)に魅せられたことによるのだろう。それが新聞の見出しに表されたことであろう。新聞紙上でも話題になり私自身も一番見たかった絵「陽の死んだ日」は回顧展に出されて強烈な印象があるが、実物は愛知美術館にあり見ることは出来なかった。

 

 

映画「空海」を見る

   東宝×角川の共同製作による映画「KU-KAI- 空海」、原作は夢枕獏沙門空海唐の国にて鬼と宴す;角川文庫)、監督は:陳 凱歌(チェン・カイコー;カンヌ映画祭パルム・ドール、ゴールデングローブ賞受賞などで有名な中国の監督)日中を代表する実力派有名俳優による活劇大作である。

 題名「空海」に引き付けられて、ロードショウ開始早々に期待をもって見ることにした。映画を見終わっての第一の感想は、「う~ン・・・・」。

 娯楽時代劇映画、豪華エンターテイメント活劇として見れば面白く楽しめる映画であった。空海と白楽天が妖猫出現とその妖術を使う謎を解き明かす内容で、豪華なセットや時代描写、特殊撮影、時代背景を取り入れたストーリはそれなりに面白く作られていた。映画と歴史的事実は別のようでもある。

 空海と白楽天が黒猫妖怪の起こす奇妙な事件に、これまでの王室の歴史を重ね合わせ探り辿って楊貴妃の死霊がついて回っていることを突き詰め、怨念を明らかにする物語。玄宗皇帝、傾国の美女楊貴妃と彼女に密かに心を寄せる日本からの遣唐留学生安倍仲痲呂、稀代の詩人李白等が登場する時代絵巻。史実とフィクションが入り混じり、特殊撮影やCGを使った娯楽大作ではあった。 

 

 これまで「空海」で知っていたことは、遣唐使として唐へ渡り、真言密教を中国で学び日本に広めたこと、弘法大師として全国を歩き回り仏教(真言宗)を広めたこと、書に秀でていて奈良時代の三筆に挙げられていること位であった。

 空海最澄と並び、唐の時代に中国で真言密教を学び日本に仏教を伝え広めた人として知られている。最澄天台宗空海真言宗の開祖として知られ、それぞれ比叡山高野山修験道寺院・伽藍を開いている。讃岐・善通寺にうまれ京に出て諸寺で多くの学問を学び30歳で遣唐使の留学僧となり、普通留学期間20年の所を僅か2年で学び納めたとされている(同行者には最澄、三筆の一人橘逸勢もいる)。

 当時、東シナ海の航海は容易でなく、暴風雨・嵐に遭遇し度々航路を外し目的港に達せず他の地に漂着したり、途中遭難して海の藻屑になることも少なくなかったようである。空海渡航は瀬戸内を通り九州博多、備前国五島列島など島伝いに航行、大陸の東岸、南岸の港に至る2-3ヶ月かかる大航海だったようである(30歳)。そんな時代、留学僧空海は幸運にも恵まれ幾多の苦難にも耐え、時の都、長安に着き密教の第七祖・恵果和尚から密教の教えを受け階位をうけている。2年間の修行を終え、恩師恵果が入寂後帰途に着き、いろいろ苦難に遭遇しながら帰国(32歳)、大宰府に留まり教えを広めたとされている。 

 空海の言葉「虚しく往きて実ちて帰る」若くして唐の都長安に上り、辛難困苦を経て真言密教の教え、思想、修法を会得し多くの経典を携え日本に戻り、以後、時間を掛けて教えを全国各地で広め満60歳の今日(921年3月21日;彼岸中日;春分の日高野山で入定している。

 空海真言密教道教仁和寺御室派、高野山、魔術(幻術・妖術・呪術・祈祷師)、陰陽師、安倍清明東大寺建立、鑑真和上、吉備真備菅原道真

 

「みほとけの彫像」を見てから知らないこと、知らなかったことが多いことに気付いた。他の史実や歴史、由緒ある土地を見て歩くことに大きな興味がわいてきた。友人は別の視点から長崎五島列島の旅に出て現存する旧い教会の素晴らしさを教えてくれた。空海が唐への旅の途中、行き返り五島列島に足跡を残し、史跡があることも興味を持たせる点である。船しか交易の手段が無い時代、島伝いの拠点・五島列島は、近く世界文化遺産に指定されるようでもあり、それを機に訪れたいと思っている。