水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次  今・昔   その21

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 人生、持つべきものは友と親兄弟、困った時に頼れるのは兄弟であることを実感しています。草津の宿泊が5月の連休で不可能となった「東海道歩き」、助け舟を出してくれた弟に感謝です。ゆったりとした朝、いつものように6:30には起き出して最後の東海道の歩みに出発しました(7:30)。今や大手電鉄会社のお荷物路線と化した近鉄揖斐線池野駅、第三セクターに委ねられて細々と走らせていると聞きました。JR大垣まで運んでくれ乗り換えて8:11の米原行快速に乗りました。米原駅で新快速明石行に乗り草津へ。草津には9:20に着きました。交通費は何と宿泊費の半分、時間を取るか費用を取るかで決断が分かれる所ですが、今回の選択は後者で正解でした。

 駅から足早に昨日のエンドポイントへ移動し、草津追分の写真を撮りました。追分道標は1816年に建てられており、「右 東海道いせ道  左 中山道美のぢ」と書かれています。例によって朝早すぎて国指定史跡田中本陣跡は見られず通過、連休中日の晴れの日で宿場街道筋商店街は忙しそうでした。街道交流館も家康の宿所の常善寺も同様に素通り、樹齢400年のウラジロガシや鹿の狛犬(?)があると記された立木神社に立ち寄り今回の東海道歩きの無事達成を祈願しました。しかし、どこを探してもウラジロガシなるものが無く、神官に尋ねたら昨年枯れたので新植(神職;オヤジギャグ)したとの事。残念?無念?当然?

 最終日は草津~大津(15.1km)、大津~三条大橋(10.7km)の25.8kmです。結構ありますし、スタートが遅いため達成が夕方になると予想されました。出来るだけ脇目も振らず急ぐことに。立木神社の少し西、京都よりが草津宿京口で黒門があったようです。伯母川を渡り出発から4km地点で弁天池が現れました。琵琶湖竹生島から勧請した弁財天を祀っているとの事。小さな中島は木立で覆われていましたがカワウが巣を作っていて糞が木々を汚して綺麗な光景ではありませんでした。池にもカワウが泳いでいて場違いな街中の風景でした(竹生島のカワウの糞害はどこでも似たような問題が発生していますが、憤慨です)。

曲がりくねる一里山地域を歩き大江町から直角に2度曲がって瀬田川の左岸地区へ。

 瀬田の唐橋写真A)は琵琶湖から流れ出る瀬田川に掛けられた天下三大名橋の一つで立派な橋、瀬田川でボート、カヌーの練習をする若者の姿が印象的でした。渡り終えると8km地点、予定通りで道は京阪電車石山線を縫うように続きます。膳所市街地は琵琶湖、瀬田川の縁に発達した城下町です。膳所城は家康が西国守備と瀬田の唐橋を守るために築城した城との事、枡形、折れ筋道、交差する街中の道で方向も東海道自体も分からなくなる程でした。街中を歩く途中、手作りパン屋がありコッペパンを数種買い求め、途中石坐神社境内でお昼にしました(13時;12km地点)。膳所城下(城下の西口)近くに義仲寺がありました写真B)。ここは木曽義仲の墓と芭蕉の墓があり、こじんまりした日本庭園と草庵があり句碑が多く建っていました。芭蕉は義仲を敬愛していた関係で大阪で亡くなりましたが(1694)遺言で義仲寺に葬られています(木曽殿と 背中合わせの 寒さかな)。

 大津市街地(かって大津百町と言われるほど大きく賑わった街)を抜け、京町で道は2本に分かれ北の道を小関越(4.2km)、南、国道筋を大関越として京へ繋がっていました。道は両側から山が迫っており、5kmの峠越え道(逢坂山道)を登り、下り京に向かいました(この道沿いに、かの有名な盲目の歌人蝉丸を祀った蝉丸神社の上・下・分社がありますが、アクセスと環境があまり良くないためか、今は訪れる人も少ないようです)東海道国道1号線名神高速京阪電鉄線と平行しており、峠は近江国山城国の境となっています:写真C逢坂山関所は伊勢の鈴鹿、美濃の不破と並ぶ天下の三関と言われたようです)。出発から17km、時計は午後2時を回っていました。

 関所を越えて下ると追分の道標があり、奈良街道との分かれ道(右 京都、左 伏見)を過ぎて遂に京都市に入りました。JR山科駅前を通り、五条分かれを右にとって京三条通りを進みました。東海道は九条山の麓、谷筋を北に向かい、今は府道143号線の道となって南禅寺南の蹴上まで伸びていました。このあたりから旅行客、観光客が目立ち始め蹴上では一杯。残すところ三条大橋まで1.5km、西日に向かって緩やかに下る道を観光客尻目に東海道の歩き旅人は急ぎました。

 着きました!、凄い人混みです(写真D)。観光客、市民、旅行客などなど、老若男女・日本人・外国人、国際観光都市京都、5月の連休、何もかもが重なって京都の夕暮は大混雑でした。

 物見遊山の一人旅人、歩き疲れて カメラを持って ウロウロ。あんた何してんの?

写真を撮ってと頼む人を探してキョロキョロ、男・女? どの人が日本人でカメラや携帯で写せるの? 橋の上を歩き回ること10-15分、遂に頂きました最後の一枚(第2枚目)。

 この写真を写すために歩いてきたんです(涙・感激)。実質、踏破26日、今日は43.500歩ですが、平均1日35.000歩で計算して910.000歩になります。多い少ないを入れて百万歩ですかね~。

 良くやりました。良く歩きました。73歳最後のチャレンジでした。ご苦労様!!!

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東海道五十三次  今・昔  その20

 朝、目が覚めて最初に気になるのはその日の天候です。カーテンを開けると幸い雨は降っておらず曇り空、遠くの空の一部は青空で一安心でした。ホテルのレストランでバイキング形式の朝食(7時)。しっかり十分に味わって食べ、荷物を整理してリュックサックに詰め出発しました(8時)。この日の行程は水口宿~石部宿(14,4km)、石部宿~草津宿(9.7km)の24.1km。朝ゆったりと出発しましたので休憩を入れて7時間後の15時過ぎには草津に到着の予定で進みました。事前に草津でのホテル予約を試みましたが、生憎連休の3日、どこも満室の様で宿泊地の当て無しで歩き始めました。最悪の場合、JRで草津から弟のいる岐阜池田(JR大垣経由)へ廻ることとしました。

 水口宿から西見附を過ぎると道沿いに街並は無くなり、水田地帯を真っ直ぐ西に延びています。北脇縄手と言われ2kmもの直線が伸び遥か彼方まで続いていました。4km先の泉の一里塚(9時)を過ぎ、かっての横田の渡し場跡の広場には巨大な常夜燈(写真A)が建っており、昔の渡し場が説明されていました。現在は国道1号線に掛かる横田橋を渡って対岸の旧道に続くことになります。ここからは野洲川とJR草津線に沿って草津まで道が伸び左手には猿飛佐助の故郷で知られる三雲城址や八丈岩のほか、扇状地的地形の証の天井川があり(大沙川や由良谷川)東海道と交差する形の隧道(川が上で道が下)が現存していました(写真B)。そのうちの一つ大沙川隧道(1884建設)の上、堤上には弘法大師の謂れと関係する樹齢750年の大杉(弘法杉)が聳えていました。ここで草津市内のホテルに電話し宿泊客のキャンセルが無いか尋ねましたが全く無く諦めて弟の家に行く事にしました。

 

 石部宿中央で道はクランク形に曲がりますが、その角には田楽茶屋があり、少し早いお昼(月見うどん)をこの茶屋で取りました(写真C)。店の店主夫妻と道中話に花が咲き、小半時(30分)を過ごしました。石部宿から草津へは野洲川に沿って寺社を横目に歩き、途中福正寺(国の重要文化財指定の地蔵菩薩立像)や和中散本舗(道中薬「和中散」のぜさい本舗=大角家庭園;小堀遠州作で国重文;写真D)肩たがえの松、上鈎池(第9代将軍足利義尚の鈎陣跡)などで休憩したり覗いてみたりし、出発から7時間かけて24kmを踏破しました。草津の市街近くでは草津川も天井川だったようで、河川の付け替えに因り、かっての河川敷が公園や駐車場となり土手は遊歩道となっていました。かっての橋はそのまま、昔風にいうとトマソンで水の無い川に奇妙に橋だけ架かっていました。午後3時過ぎに東海道中山道の分かれ道、追分辻に辿り着き、この日の歩きを止め、岐阜へ行くことにしました。JR草津から米原経由して大垣まで、大垣から近鉄揖斐線に乗り池田駅まで移動し出迎えの弟と再会し彼の自宅で泊まることになりました。

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東海道五十三次  今・昔  その19

 

 前日の天気予報で5月2日(水)は午後から雨が降るでしょう、とありました。朝早く旅立つために前日に隣のコンビニで傘を買って、降らないうちは杖として利用することとしました。ホテルの朝食は6時半から、地元産品を使ったバイキング方式・美味しそうと思いながらも今日の天気のことが頭から離れず、先を急がねばとの思いが強く泣く泣く断念。JRの上り電車は6時台2本、駅へ急いで6:07亀山から関まで6kmを乗りました。

 関駅は誰もいなく曇り空の下、前日の東海道最終ポイントへ駆け上がりました。当然ながら朝早すぎて「関まちなみ資料館、旅籠玉屋歴史資料館」は閉まっていました。西追分(6:30)は奈良への分岐点、道標の題目碑に「ひたりは いかやまとみち;左は伊賀・大和道」とある辻を坂下宿まで6.4km、鈴鹿峠を越えて土山宿まで9.9km、そしてこの日の宿泊は水口宿11.5kmで、全長凡そ30kmの長丁場です。西追分を過ぎると道は山へ入ります。山の谷を沓掛までは国道1号線に並んで続き、関宿から4km地点で国道と別れ山道。狭く険しくなった鈴鹿川上流部の山の斜面は植林地、川辺では野藤が樹木に絡んで高く伸び、美しい薄紫の花盛りになっていました。

 伊勢国鈴鹿峠下には片山神社(写真左上)があり一休み。峠までの山道は短いながらも険しく石畳にもなっており、曇り空で林内は薄暗く一人ぽっちで寂しく少し怖い感じのする峠越えとなりました。途中には芭蕉の句碑(ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山;1691)がひっそりと置かれていました。峠道は意外と短く、下に国道1号線鈴鹿トンネルの出入り口が見えました(8時)。近江国に入って道の脇には茶畑が現れ、北方向の眺望が開けてきました。旅の朝のルーティンで自宅へ電話、土山宿までのダラダラ長い下り道は国道と重なったり平行して伸びています。山中川に沿って下り鈴鹿峠馬子唄(坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る)の碑で休息(9:00-9:15;写真右上)し猪鼻村を越えて土山に入りました。土山集落には、征夷大将軍蝦夷を平定した坂上田村麻呂を祀った田村神社があり旧い杉の大木の参道が面影を残していました。入口の神社碑文は東郷平八郎元帥の書とあり、それに対峙する「道の駅土山」で休憩、持参したオニギリを地元の「土山茶」と共に食べました(10:05-10:30)。なんと土山茶の美味しかったこと。4-5杯おかわりして堪能しました。道すがらに茶畑が多く茶葉の生産が盛んであることを示しています。新茶の味を野道でワイルドに味わおうと新芽の先端1葉を摘み口に入れ噛みながら歩いて来ました。

 道の駅で休んでいる間に雨雲が里に下りてきて、遂に雨が降り始めました。持参した傘が杖から本来の傘に変わりました。リュックサックを雨から守るためにレインコートを着、先を急ぎました。傍から見たら何とも寂しいみすぼらしい格好だろうと自問しながらの道行きです。森鴎外の祖父・森自仙が参勤交代に随行してこの地で没した家(1861)や鴎外が祖父の墓参の折に宿泊した旅籠などを見たりして土山宿を通りました写真下左)。残念ながら墓のある常明寺(鴎外が建てた墓や、芭蕉の句碑;さみだれに 鳩の浮巣を 見にゆかむ がある)には時間の関係で寄ることが出来ませんでした。

 東海道野洲川国道1号線と重なり、時に沿って北の草津方向へ下がっていきます。低地に広がった水田地帯は、後ろに里山を配し江戸時代となんら変わらない風景を今に繋げています。往時の旅人も同じ景色を見て上り下りしていたのか、と感傷に浸る雨の午後でした。関宿から28kmを歩いて来てやっと水口宿の入り口に辿り着きました。

 水口宿東海道が宿場内の道として3筋あり写真右下)、水口城下町内は例に寄り舛形、鍵の道、商家などで入り組み、旅人には道筋の分かり難い街でした。予約ホテルには15:30到着、チェックインが16時以降の為、雨と疲れで外へ出る気力もなくロビーで休みました。夕食はホテル内のレストランで取りましたが、内容も味も大変豊かで美味しくしかも適切価格でした。外は雨、食後は、ゆったりと湯船に浸かり疲れを取って次の日に備えました。

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東海道五十三次  今・昔  その18

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 今日は5月1日(火)メーデー。労働者の祭典の日。有給が取れる人は前週の28日(土)からの連休中日です。私はこの日が東海道2日目、四日市宿から石薬師宿(~11km:内6.5kmは前日踏破済)、庄野宿(~4.1km)、亀山宿(~9.3km)を目指す計画でした。ホテルは素泊まりの為、朝食無し。前日コンビニで買い求めたオニギリとお茶を持って6時発のワンマン電車に乗り内部駅まで行き、昨日の続きで駅前を6:30にスタート、歩き始めました。内部川は国道1号線の橋で渡り旧道を歩き始めました。直ぐに有名な杖衝坂に掛かり、芭蕉碑(1756建碑):「かちならば 杖つき坂を 落馬かな」1687年芭蕉はここで落馬したとのこと)の前で写真を撮りました。その先には日本武尊血塚社がありました(写真上の左右)。

 杖衝坂伊吹山で賊と戦い傷ついた日本武尊が剣を杖代わりに越えた坂で、血塚社は、その傷を封じた所、日本武尊は「吾が足は 三重の勾の如くして 甚疲れたり」と詠んだと説明書にありました

 いよいよ石薬師宿に向けて丘陵部に入り東海道は国道と付かず離れずして西に延び、鈴鹿市に入りました。石薬師宿東海道伊勢道では四日市宿や関宿が大きく、門前町の石薬師は小さな宿場だったようです。国文学者で歌人・佐々木信綱(夏は来ぬの詩で有名)の生家(8:00)がある宿で浄福寺は佐々木家の菩提寺、門前には信綱の父・弘綱の記念碑もありました(写真下左)。鈴鹿川沿いの水田を巡り土手をなす国道1号線を1km程歩くと庄野宿に入りました。庄野宿は東・江戸口と西の京口の間、2km程で中ほどには川俣神社があり樹齢300年と言われるスダジイの老巨木がありました。その見事さに思わずパチリ、そして一休みをしました(9:00-9:15)写真2A

 川俣神社は、このあたり鈴鹿川、椋川、安楽川の合流域で鈴鹿山系からの川が三筋四筋で合流していることに因るようです。それらの河川台地上を縫うように通じる東海道は、関西線や国道1号線と並ぶように位置し水田低地を縫って伸び亀山宿は再び丘陵台地の上に位置していました。亀山宿の江戸口門跡までは内部から18km、11:30を過ぎて辿り着きました。亀山宿は長さが2km程(西の京口迄)と大きくないのですが、古い宿場の街並みが遺され落ち着いた城下町です。城下町といっても丘陵台地の斜面に位置しており南に傾斜し開けた高台の上にお城(今は城跡)があって、街道・宿場は城の中程、東西に蛇行、雁行して延びています。江戸時代、城下町ということで参勤交代の大名も宿泊を遠慮したと伝えられ、宿場としては、ややこじんまりした規模の小さな町で、午後訪れた関宿とは比べ物にならない街でした。

 亀山宿の宿泊予定ホテルやJR亀山駅はさらに一段下の低地にあり、何処から下に下ったらよいか分からず宿場街道をウロウロしました(11:30-12時)。前日と同じように予定より早く亀山宿に着いた(13時)ので一旦、荷物をホテルに預け、午後を先の宿場への歩きに変えました。亀山へ戻ることも考えねばならず、交通の便を考えてJR関西本線に沿った先の宿場を決めました。地図を見るとJR関西本線は亀山から関まではほぼ東海道に沿って走っていますが、その先は東海道と離れてしまいます。そこで関宿までの6km(徒歩で1.5時間)を追加して往復することにしました。

 亀山のホテルに隣接してコンビニのセブンイレブンがあり好都合、飲み物を買って午後の歩きを始めました(13:30)。道は鈴鹿川に沿った田園風景で田植えの最盛期、水の張られた田んぼに風景が映り印象的な景観です。昔の旅人も、この時期に旅をしてこの同じ風景を見ていたのだろうな、と一瞬、感傷に浸りました。空模様は幾らか雲行が悪くなる様子、幸い陽射しも強くなく歩くのに適した天気でした。道に沿っては国の有形文化財の住宅や重文の仏像を本尊とする寺院(慈恩寺)などがありましたが、ゆっくり鑑賞して歩くことが出来ず先を急ぐ旅の為、外観を眺めるだけ。宿場の2km西に野村一里塚日本橋から105里で樹齢400年の椋(ムクノキ);国指定史跡)がありムクノキの巨木が聳え、とぼとぼあるくちっぽけな私の姿を見下ろし、元気付けてくれるようでした(写真2B)。

 1kmのまっすぐ伸びた大岡寺畷、桜川・小野川・鈴鹿川三川が合流する大岡寺畷橋の壁面には広重の宿場絵が描かれていました。道は小野川を渡ると国道1号線から分かれ丘の上に登って行きます。宿場の東口には「小万のもたれ松」があり一休み(14時)。 

 関宿の東追分に着いて驚き、桃の木山椒の木。電柱の無い素晴らしい関の宿場の光景が広がっていました。時代を一挙にワープし、江戸時代に遡り西に落ち行く太陽の陽射しを受け映える街並、夢か幻か否否、現実です。道に沿って並んだ家並みを、左右目をキョロキョロさせながら写真を撮りながら歩きました。

 関の宿場は旧い街並みが大変良い状態で残されており「伝統的建築物群」としての指定を受け美しい街並み景観を見ることが出来ました(写真2C,D)。街並みが東西に延びており、午後の陽射しから西向きでは逆光になり、江戸方向は順光で午後の静かで落ち着いた街並み景観を撮ることが出来ました。連休中ですがそれほど観光客はいませんでした。太陽に向かって宿場の半分、振り返って東半分の街並みを写真に収め旧本陣辺りで打ち止め、以西は明日の朝早く歩き始めることとし亀山宿へ(15時)。JR関駅に着いて驚き物語、JR関駅は最近関西本線の本数も少なくなり無人駅となってしまい、乗車の際車内で整理券を取って下車駅で清算する方式になりました。亀山駅で清算し次の日の早朝の上り列車時刻を確認し(6:07と6:40)ホテルに戻りチェックインしました(15:30)。低気圧の通過で5月2日は午後から雨が降るとの予報、隣のコンビニで簡易傘(500円傘;杖も兼ねる)を予め購入して明日の準備をしました。いよいよ明日は鈴鹿峠越えだ~~!

<写真2>

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東海道五十三次  今・昔  その17

東海道五十三次かち歩き」を思い立ったのは1年前の冬でした。実際に歩き始めたのは暖かくなり始めた2017年3月11日(土)。日本橋から歩きはじめ、京都三条大橋を夢見て、その日は日帰りで品川まで歩き始めました。

それから1年以上経過した2018年初夏、5月の連休前に、いよいよ「東海道五十三次かち歩き」最終ステージを実行することにしました。

 4月30日、早朝、まだ夜が明けきらず、前夜の満月も西の空に回って周りは薄暗い朝、柿生から始発電車で町田を経由し新横浜へ。連休中で混雑も予想されましたが幸い新幹線「ひかり99号」の自由席に無事に着席でき、ゆっくり1.5時間車中の人、スポーツ新聞を読み切った頃に名古屋駅に到着しました(7:30)。名古屋駅から近鉄特急賢島行に乗り桑名に到着したのは朝8時。駅前からタクシーに乗り七里の渡し(桑名)へ。タクシーの運転手と東海道歩きの話をしているうち伊勢国七里の渡し跡に着きました。名古屋熱田神宮近くの「宮宿」七里の渡しの風景と似ていましたが、「水面の近さ」が違っていました。桑名は揖斐川長良川木曽川の三川が合流する場所(岸辺)で水嵩の変化が常に気になる場所、堰堤や土手が高く(2m位高い)、水際にある「宮宿の七里の渡し」の水辺公園とは違っていました。それを物語るように渡し場跡には蟠龍場櫓や河口の治水や洪水の歴史を示す解説版、伊勢国一の鳥居が広場にありました。

 いよいよ伊勢国東海道を歩き始めました。桑名の城下町の街中では道が複雑に曲がりくねる(外敵に道を分かり難くするため;枡形など)ため、東海道を歩く者にとっては道筋を確認することは常に重要で社寺や旧家等を目印に歩きました。

 泉鏡花の小説「歌行燈」に登場するうどん屋(朝早すぎて店は閉まっていました)を右に見て京町見附へ(9:00)。桑名市博物館前には2m程の御影石の道標があり(写真C)「右;京いせ道」「左;江戸道」とありました。町中の道は鍵型に折れ曲がり多くの寺院が道沿いに位置しています。城下町を外れ、川辺に立つ大きな伊勢神宮常夜燈(1818建立)を見て(写真A)  町屋橋(1635年架橋)を渡り員弁川を越えれば四日市市

 四日市市では旧東海道に面した家々に小さな木片板が付けられており、それには「東海道四日市市」が2段に分けて書かれています。これは東海道を歩く人にとっては大変ありがたい道標。歩きながら確認でき、迷うことなく先を急ぐことが出来ます。

 近鉄名古屋線を越えて先を急ぎ、朝明川袂には多賀神社常夜燈が建っていました多賀大社は祭神がイザナギノミコト、イザナミノミコト、伊勢神宮の祭神は天照大神で親子関係)。橋の袂の広場で小休止。広場の案内板にはこの道を通った有名人の記録がありました(シーボルトが1526年2月15日長崎を発って江戸に向かった折、3月27日に四日市に入り3月28日、朝9時に松寺;この場所を通ったと:492年後に私が通過)。

 JR関西本線近鉄名古屋線を跨ぎ旧富田村。往時は焼き蛤が大変有名な村明治天皇は4度この地の富田茶屋で休憩、焼き蛤を賞味したとか。桑名は「しぐれ蛤」が有名)。街中を通り過ぎ町外れの角に「力石2個:一つは120kgの大石、もう一つは20kgの人頭石」がありました。桑名から四日市までの東海道は海抜2-3mでほぼ平坦な道でした。海蔵川畔(海蔵橋)に三ツ谷の一里塚跡(写真E)があり小公園となっていました。三滝川を渡ると遂に四日市市街。道標を確認し諏訪神社を横目に第一日目のホテルに荷物を預けました(13:00)。

 一日目の計画では、このホテルまででしたがまだ陽が高いため、先に二日目の分を歩くことにしました(13:30)。東海道に沿って、なんと鉄道が走っていました近鉄内部線;あすなろ線)。東海道はこの線に沿って南西に延びており、電車の終点が内部駅、丁度東海道の傍にあり、四日市駅から6.5kmの位置にあります。

  市内ではスワマエ通りというアーケード街が東海道です。近鉄内部線に沿って、赤堀、日永、天白橋(14:15)を歩き抜け、伊勢参宮道と東海道追分(日永の追分:1849建立の道標;右 京大坂道、左 いせ参宮道や神宮遥拝鳥居<1774>、常夜燈、水屋のある広場;写真Dで小休止しました。さらに歩を進め小古曽から内部駅前に辿り着き(15:20)、歩いて来た道をワンマンカーの近鉄内部線に乗り四日市のホテルに戻りました。この日歩いた歩数は39.076でした。

初日は無事に終了、夕食・風呂もそこそこに眠りにつきました。

 

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報道の自由と国家機密  

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 国家機密は、科学技術の進歩や社会・経済の国際化により複雑になり、地球環境がより狭く国際情勢がより複雑化するにつれ重要となって来ている。支援や援助が民間で行われていても、それに参加する人が属する国にとって関連情報の取り扱いは難しくなる。

 今、国会では以前に日本政府が国連の要請を受けてアフリカに送った自衛隊部隊の現地での在り様を記録した内容が物議を醸しだしている。支援の状況を記録した内容に派遣の条件不適合があるのではないかという疑問である。

 情報の機密性は、その情報が国の針路や施策の是非を左右したりする場合、取り扱いはより重要となる。

 米映画「ペンタゴン・ペーパーズ:最高機密文書」は、かってアメリカ政府がベトナム戦争を巡って情報をどう収集しどう伝えどう流していたか、最高機密に当たる文書を民間新聞社が秘密裏に入手し公表するかどうか、を描いたものである。

 トム・ハンクス、メリル・ストリープが出演し、スティーブン・スピルバーグが監督を務めた映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見た。大変見ごたえのある内容で、あっという間の2時間であった。最高国家機密と報道の自由、真実を伝えることの重要性、新聞報道機関(マスメディア)と読者(市民)、会社か真実報道か、いろいろな側面の判断材料を交えながら状況が進展し、新聞社社長、記者、ライバル社、政府関係者など「公表」決断への過程が描かれ、新聞発行の最終決断までの緊迫感も盛り込まれた見応えのある作品であった。

 

 映画のパンフレットによれば、4代にわたる歴代大統領が30年間も隠さなければならなかった事実(最高機密文書)ベトナム戦争。1971年泥沼化したベトナム戦争の状況を記した大量の文書が流出して大手新聞社に持ち込まれ、その一部を報道した(ニューヨークタイムズ社;NT社)ことで問題が発生する。NT社は追加の報道をするかどうか悩み、裁判所の判断をもって継続報道をやめるが、同様に情報を入手したライバル社(ワシントンポスト社;WP社)は悩みに悩んだ末、女社長の決断(英断)で公表・報道を決める。当時のニクソン大統領、マクナマラ国務長官の政府を相手に、国家機密か、報道の自由かで悩む関係者の姿を描いている。この映画は、実話に基づく作品である。

 

 国際情勢が日ごとに変わり、国の針路が1国だけで決められない国際化時代の今、関係国との外交の重要性、それに伴う情報収集、情報機密と決断の重要性、公表の在り方と対応など難しさが浮き彫りになって来ている。国際的関係(外向けの対応)と国内的情報公開(内向きの対応)の狭間で、どう展開するか、していくのか現実的には難しい問題である。

 時が変わって内容に違いがあるが、現在の米大統領がマスコミの追及に嫌気を差して締め出したり、身勝手な情報流布で操ってみたり、その動き、反応を見て方針を考えたりしている様を見ていると、より一層、堅実で洞察力の豊かな不断の国際的外交努力が必要であると同時に、「報道の自由は報道によって守られる」、「新聞は権力者の為にあるのではなく、国民の為にある」の姿勢は極めて重要である。

 

 スチィーブン・スピルバーグ監督は、この映画を作るために全く異なった内容の作品(レディープレイヤー1=2018・4・20公開)を後回しにしてまでも作品化したかった、とのことである。首肯同感である。

展覧会巡り   16   光琳と乾山

 4月にしては暑い日となった20日、以前に訪れた根津美術館尾形光琳・乾山展を見に行きました。尾形光琳と乾山は性格の違う兄弟だったようで、どちらかというと放蕩的な兄光琳、質素で物静かで思索的な弟乾山と言われています。兄は稀代の日本画家、弟乾山は陶工・絵師として知られています。今回、この兄弟の作品を中心に特別展が開かれており、早速見に行ってみました。

 光琳の作品は国宝・燕子花図屏風を代表に14点、乾山は皿・向付・碗など24点、書画18点、それに兄弟で作成した(乾山が皿を作り光琳が絵を描いた)皿などが6点でした。

 光琳の6曲1双の燕子花屏風は、国宝で以前も見ましたが、やはり金地に花の青色(藍色)、斜めの構図など見事でした。ちょうどこの美術館の庭*でカキツバタ(杜若)が池の中で咲き始めており、入口でこの日の開花状況を写真で見せていましたが、国宝の屏風絵では実物より数段大きくダイナミックに描かれており、見る者を圧倒する迫力でした。他に金地では中国を題材としたもの(墨絵や墨絵に淡彩したもの)など小品の軸絵でした。

 乾山の焼物では、兄弟で制作した銹絵角皿(5) と火入(1) が一堂に集められて展示され(通常は6つの美術館それぞれ1つづつ所蔵)この機会でしか揃いで見られず見事でした。こちらも花鳥の他、中国から題材・モチーフをとったもの(寿老人図、寒山拾得図、竹、梅、牡丹、楼閣山水図)でした。

 乾山の焼物では銹絵の角皿、色絵の向付が中心でしたが、日常的な器の大きさや形でしたので、余計に親しみや興味が湧き、江戸時代の作品と思えないところが不思議な点でした。

 乾山というと色絵の鉢物が念頭にあります。昔、わが家で父が大切に所有していた菓子鉢にやや大柄の紅葉の葉柄(三色;赤・緑・黄)のがあり、乾山作ではないかと話題になったことを思い出しました(本物であるはずが無いんですが)。角皿の縁に描かれた文様など手書きの良さ(太さや色合いやデザイン)にも見惚れてしまいました。

 他に、乾山の小品が数多くあり、着色墨書、墨画墨書が殆どでしたが、大変味のある作品が多くありました。作品には大胆なデフォルメ、抽象化、省略と誇示が現れており自由な作風、作品に見とれて、時代を感じさせない今日性があると感じた展覧会でした。

 終了後、美術館の庭を一巡り。地形を活かした大きさを感じさせる回遊式の庭で、茶席も多くあり、また中国、朝鮮などから蒐集された石造物(灯籠や塔、置物など)が庭の随所におかれていました。四季折々の木や花がそれらを引き立たせる形となり今に生かされていました。池の周りには多くの紅葉や楓が新緑の美しさを見せていました。紅葉の季節には、また違った美しい庭園の姿を見せ、それに合わせて特別展が開かれることでしょう。

 

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外国友人訪日談

  1989年(平成1年)、今から30年程前になります。当時の埼玉県野鳥の会主催による「西ドイツ自然環境調査」の計画立案および実施視察のコーディネートに携わりました。日本大学の関係者が同野鳥の会におられたことから、私が加わることになりました。私は、その前から西ドイツの造園緑地に関する専門誌を紐解き、都市内及び都市周辺部での公園緑地整備と自然再生の動きに注目していました。この時代まで西ドイツ、バーデンヴュルテンベルク州カールスルーエ市は殆ど公園緑地の分野では注目されていませんでした。しかし、それまでには市内に日本庭園が造られており、著名な上原敬二先生(東大卒、東農大教授;日本造園学会生みの親)も1967年、連邦庭園博に際し造改修整備に深く関与されており、日本と深い繋がりがありました(補1)。

 1989年訪独の折、それ以前から都市の公園緑地で自然再生や復元に積極的施策を取り、多くの優れた事例を進めていたカールスルーエ市公園局と事前にコンタクトを取り、訪問しました。その視察報告結果は事例写真の多い本としてまとめられ公表されました**

 それ以来、わが国でも注目されるようになった「都市内における自然復元再生」の好事例都市としてカールスルーエ市が上がる所となり、多くの日本視察団、訪問者が詣でてきています。当時の公園局長;ホルスト・シュミット氏(Dir,Horst Schmidt)ならびに当時の部長ヘルムート・ケルン氏(Hermut Kern)とはそれ以来もう30年に及ぶ交流を続けて来ています。

 シュミット氏が退職された後、ケルン氏が局長となられ親交も続いていますが、昨年、ドイツ造園部局長協議会(Gartenamtleiterkonferenz)はカールスルーエ市に「銀杏賞;Ginkgo Preis)」を授与し「都市における公園緑地拡大・発展施策」を表彰しています。

 

 このシュミット氏は引退後、それまで興味を持っておられた日本庭園に対し、度々来日しいろいろな庭園・公園緑地(新旧取り混ぜ)を視察され、その専門的理解(歴史文化的、造園技術的)を深めて専門誌に発表されてきています。ここ数年来、早春(3-4月)に日本庭園を主とした視察団の専門解説者として来日され、参加者を案内しておられます。

 今年(2018)も視察団に先立って3日早く東京に来られ、都内の庭園、緑地を視察されました。案内役を任され、大手町の森、旧三菱三号館中庭、東京ミッドタウン日比谷、ホテルニューオオタニ庭園などを視察されました(添付写真)。

 視察団は東京、京都、金沢、広島などの都市を回り日本庭園を中心として歴史的遺産、自然・文化景観を視察され帰国されました。 

 

*埼玉野鳥の会:後に会から分かれ日本生態系協会にも発展している

**詳細は、「ビオトープ・緑の都市革命」埼玉県野鳥の会、ぎょうせい、1990 参照

補1:カールスルーエ市で故上原敬二先生が1967年、連邦庭園博に合わせて市立公園(Stadtpark)の日本庭園改修時に設計・施工指導されて造られ、池、四阿、鳥居、飛び石、灯篭など、桜、楓、竹などが植栽されている

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緑滴る秩父・三峰

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 世の中の動きを知るのに新聞、テレビ、ラジオなどいろいろな媒体がありますが、ゆっくり、じっくり考え、味わう上では新聞が一番でしょうか。季節の便りや今が旬の記事に誘われてその場所を訪れることも度々あります。

 今回は春の美しい花の便りでお馴染みの「芝桜」に注目し、同時に初夏の滴る緑と合わせ鑑賞できる場所を探しました。 ありました! 新聞にもカラー写真付きで紹介されました。それは秩父羊山公園、そして新緑の秩父の山や渓谷でした。

 秩父の札所めぐりは、昨年春、歩き回って走破満願達成しましたが、山の奥に鎮座して霊魂新たかな秩父三峰神社までは辿り着いていませんでした。

 4月23日早朝自宅を発ち、朝ラッシュが始まる前に池袋駅から西武鉄道の特急レッドアロー号

に乗り西武秩父駅を目指しました。所沢、入間市を通り飯能へ、飯能からは列車の走る方向が逆になり車窓の景観も急に山と谷が迫る山間景観、暫くすると西武秩父駅に着きます。

 今回は、最初に秩父の奥、「秩父・多摩国立公園」に鎮座する「三峰神社」を訪れました。神社を訪れるルートには二つあり、一つは、西武秩父駅から急行バスで神社下まで行くルート、もう一つは西武秩父駅秩父鉄道に乗り換え、終点の三峰口まで行き、そこから山を2時間ほど登って神社に至るルートです。今回は①の急行バスルートを選択しました。西武秩父駅前から三峰神社下までは70分ほどかかり、途中、切り立った山峯、深い荒川源流の渓谷沿いを走り、二瀬ダム湖畔からは、まさに霊場三峰神社まで狭い上りの山道。バスは対向する下りの自動車を気にしながら山腹の曲がりくねった道をノロノロ駆け登ぼりました。道沿いの樹林は常緑針葉樹の植林が多く、林床も良く手入れされ綺麗になっていました(その理由は想像ですが、後に分かりました)。

 前日までは4月にめずらしく快晴の暑い日(真夏日)が続いていましたが、23日は曇り。秩父の山は雲が懸かり全貌は見えません。山を登るほどに霞とも霧とも分からない状態。北からの冷たい空気が関東地方に流れ込んで南の暖かい空気とぶつかる内陸山間部は霧が発生したようです。とりわけ標高が高くなる三峰神社(1100m)山塊では気温が低く長袖、セーターやヤッケが必要なくらいでした。駐車場上のビジターセンターに立ち寄り展示内容を見てから神社に向かいました。

 参道の入り口に「三つ鳥居」(両脇の小さめの鳥居と真ん中にしっかりとした鳥居)があり、その前、両側に狛犬ならぬ「狛狼」が阿吽の形相で見下ろしていました。参道の脇には三峰講参加者が寄付した物を記した石碑が幾つも連なって立ち並んでいます。碑文に「桧苗三万本」とか「杉苗五万本」などとあります。実物かその金額か定かではないですが、信者たちの神に対する信心が現れており、碑の建立年代は昭和4-50年台が多くありました。その苗木が三峰神社域の山の斜面に植栽され、現在の鬱蒼とした深い森を構成しているのだと感じました。

 参道は3方に分かれますが本殿の方に向かいます。霧の中に大きく綺麗な隋身門(昔は仁王門)が現れ、更に進むと本殿前に出ます。参拝者を見下ろすように樹齢800年以上と言われるご神木(大杉)が二本、本殿前の石段脇に「でーん」と聳えています。

大人4-5人、手を広げ繋いでも届きそうにない太さ。関東有数のパワースポットとして良く知られ参拝者が必ず「気守」を受けようと翳す掌の跡で、杉皮が明るい茶色に変色。いかに多くの人が救いを求め安らぎを得ようとしているか、よく分かります。御多分に漏れず私も両方の杉の幹に手を合わせ祈ってしまいました。鎌倉時代の武将畠山重忠が奉納し植えたと伝わりますが、さもありなん、と思わせる大木。その偉大な生命力、神秘性、そして時間の重みと風雪に耐えてきた自然の素晴らしさに感激しました。

 拝殿は建物軒下廻りの素晴らしい彫刻が大変美しく(200-2004大修理された)見事です。

全国神社巡りと絵馬集めを続けている私としては三峰神社の参拝記念に干支絵馬を授けていただきました。霧が前より一段と深くなりシャクナゲツツジが満開の参道を一巡り、日本武尊像前で一休み。霧の中に立って秩父の山並みを見上げる武尊はヴェールに包まれているようなお姿の為、余計に何となくリアリティーがあり、神々しくも見えました。

 交通の便が悪い(アクセスの仕方が無い三峰神社へは片道70分の急行バスか自家用車しか方法がありませんが道が狭いので混んだ場合はどのみち大変な渋滞が想像されます。

バスの本数も1-2時間に1本程度、この日は霧と肌寒い日でしたので比較的空いていたように感じました。

 

 市内に戻って第二の目的地;羊山公園の芝桜です。花が開花し始めてから満開の状態は過ぎようとしていて部分的に花が少なかったり他の野草が芝桜を凌駕して成長し見栄えが今一つの状態でした。それに背景となる武甲山が雲に隠れ雄大さを消していました。遠目には絨毯状のピンクや白のブロックも残っており記念写真を撮る人だかりが見えました。やはり快晴の青空がお花畑には最低限必要のようでした。

 三峰神社の歴史は景行天皇日本武尊の東征に関連しイザナギ、イザナミの国産み神にも関連して古くから皇室と深い関係があります。また、奈良時代淳和天皇弘法大師空海とも関係し空海が11面観音像を造ったとあります。東国武士や徳川家とも深く関係していますし修験者の山としても有名な地です。

 明治以降ではこの神社を文人達も多く訪れ、野口雨情は「朝に朝霧、夕に夕霧、秩父三峰霧の中」と詩作。宮沢賢治若山牧水も来ていますし、斉藤茂吉は「ここに居りて 啼くこえきけば相呼ばふ 鳥が音かなし 山の月夜に」としています。戦時中に疎開してこの地で生活した前田夕暮は、「木の花のにほふあしたと なりにけり 老いづき女をいたわらんとす 生くることかなしと思ふ 山峡はなだれ雪降り 月てりにけり」としたためていました(ヴィジターセンター解説文より)

 

 神秘的な三峰神社とその周辺へは、もう一度訪れてみたいと感じました。神社の歴史、自然の佇まい、そして霊気漂う神域に頭と体を晒し(身を置き)考えてみたいと思います。その時は下から歩いて登り、奥宮まで足を延ばしたいと思っています。

 

 

 

展覧会巡り   15  春の院展を見る

 

 

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    平成30年4月、関東ではソメイヨシノの一重桜が終わり、里桜も折からの強風に花を揺すられ花吹雪になっています。木々の若葉が柔らかな萌黄色で彩り始めました。遠く近く透けて見えていた森や林の景色も緑のカーテンに包まれて身近な風景がはっきりしてきました。「目に青葉 山郭公 初鰹  :  (山口素堂)」の句の季節近しですね。

 日本画の代表的な展覧会、春の院展日本橋三越で開催されました*。縁あって画家・倉島さん(同人)からご招待を受け、今年も展覧会(公募展)に足を運びました。今年で73回を迎える公募展、今年も応募数811点、うち入選作327点で3会場に分かれて展示される状況でした(同人の作品数35点は別)

 今回のような公募展で絵を見る時、それが洋画でも日本画、彫刻でも自分の気に入った絵・作品を見て回り鑑賞してきました。作品のモチーフ、色合い、画面構成などいろいろな視点から気に入った絵を探し、その情景、雰囲気、作者の感情に思いをはせて見て歩く面白さ楽しさが良いのです。そんな気分の2時間でした。

 どうしても自分の気持ちや性分から、色々な風景や動植物の作品に目が止まり感情移入したり制作状況を類推して楽しんでいます。作品の表題は、作者の絵に対する気持ちを表すので大変だろう、と思いますが的確な表題名を付ける難しさも感じられました。

 院展の同人(35名)の作品は当然ながら、入選作の中で自分の気に入った作品は色々ありました。作者の名前をメモして(10数人)後で検索したら、どの作者も年配の方々で、これまでにも度々日本美術院展に応募され奨励賞等を受賞しておられる人達(院友や招待)でした**。さすが歴史ある団体であり公募展、作品展覧会だと再確認し、少し自分の眼力にも自信が持てました。楽しい午後の一時でした。

 

 *日本美術院:1898年、岡倉天心東京美術学校を排斥され辞職を機に、下村観山、横山大観、橋本雅邦、菱田春草、六角紫水らが会を創設、以後、1905年には天心が茨城県五浦に別荘を造り、新しい日本画を模索し、天心はじめ上記の日本画家たちが活躍しました。東京に移った日本画家たちは大正2年(1913)の岡倉天心没後、それまでの日本美術院を再興し、翌年(1914)10月には日本橋三越本店で「日本美術院再興記念展覧会」が開催され、2014年には再興100年記念展も開催されています。

  岡倉天心の五浦堂は以前、国指定の登録文化財であり、日大造園学研究室に教授として在職されておられた吉川 需先生が、この邸の修複にも関係されておられました。(先生は日大に来られる以前に文化庁記念物課で全国の名勝旧跡・庭園はじめ文化財周辺の環境整備にも深く関わっておられました)。

**私が気に入った絵の作者は、石村雅幸、大島婦美枝、加藤厚、河本真里、佐々木啓子、沢村志乃武、白井進、谷善徳、中神敬子、安井彩子、吉澤光子でした。