水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

孟宗竹と淡竹、筍

  数日前、以前勤務していました日本大学の外部研修施設【富士自然教育センター;FNEC)を経由して現地産の淡竹の筍を戴きました。早速簡単に灰汁抜きをして数種の料理で戴きました。とても懐かしく、美味しい夕食でした。懐かしいというのは、子供の頃、生家の屋敷内に竹林がありその構成種が淡竹で、筍の季節になると藪に入って筍を取った記憶があります。味噌和えや煮物は本当に美味しくこの時期の山椒の若芽や若葉を添えて食べるのが通例でした。

 そんな子供時代の記憶を辿りながら、以前FNEC近くの農家に孟宗竹の筍掘りに行ったことも思い出しています。FNECに勤めておられた伊藤さんの知人が所有されている竹林で、土から僅かに頭を出した筍を掘り出した情景です。

 孟宗竹は中国から渡って来て本州に広く分布する代表的な竹林の構成種です。筍は頭を出す前に掘り取られ旬の初物として料亭で出される珍味でもあります。「雨後の筍」の例え宜しく、その成長の早さには目を見張るものがあります。筍のうち、孟宗竹に次いでやや遅れて出てくるのが淡竹(ハチク)で、味は孟宗竹ほどではないですが、こちらも味噌和えや味噌汁の具として珍重されています。淡竹にさらに遅れて真竹(マダケ)がす~っとした細い筍を出します。筍の味は芳しくないようです。「天は二物を与えず」と言うように何かに特化してその特徴を生かしていると言った方が良いでしょう。

 味の良い孟宗竹の筍は煮て良し揚げて良しで、根元から穂先まで料理に使われますが、竹の稈は割れ筋が乱れ使い難いです。でも丸竹は太く適期に切り出せば材もしっかりしており多用途(花筒や竿管から柱・支柱まで)に使われています(中国に初めて行った時、建築現場の足場材として、繋いで繋いで高所まで組んで使っているのを驚きを持って見た記憶があります)。最近では、竹林維持管理放棄による里山景観の変貌がいろいろ問題となっています。

 真竹は稈の筋目が整っており直線で割り、裂き易く竹籤から傘骨、茶筅さらには色々な簀子(和紙を漉く際の簀子)等いろいろな竹細工まで、これまた多用途に使われています。節目が二重線(鞘の付け根)で孟宗竹の一重とは違っています。日本独自の竹製品(工芸品や竹細工)もありますが、もともと竹の原産地が中国であることから、昔、台湾にある故宮博物館で見た竹細工(手の込んだ竹籠や竹で作った昆虫等)の見事さ、素晴らしさに驚嘆したことを思い出しました。

 (インターネットを見ていましたら高知県須崎市にある「竹虎」のHPがあり、詳しく書かれています

 淡竹の筍の先端部分は、ややグロテスクに曲がりくねり、目を凝らして見ると一種異様です。鞘の縁や先端部に赤茶けた微毛が多くあり、また皮鞘に細かく幾筋もの線が模様となって見られます。竹の姿を示すように直線で先端部まで伸びる「筋」は単子葉植物・イネ科を物語っています。

 貰った筍を見て絵心を擽ぐられ、「絵手紙」のモチーフとして描いてみました。

   右は数年前の孟宗竹の絵、左は今年(2018)の淡竹の絵です。

f:id:nu-katsuno:20180608113747j:plain

 

 

 

 

 

平成最後の湘桜みどり会

 「お久しぶりです」、大学を退職してから既に3年半になります。日本大学の造園学研究室に同窓会を創設しようとしてから何年になるのでしょうか。「みどり会」を発足させて業界、官界、学会の中で日本大学の造園を大々的に売り出していこう、という気概でこれまで進んできました。多くの学生諸君が巣立ち、社会の中でいろいろ活躍されている姿は頼もしくあります。 

 一方で大学の研究室も日々発展、変化をしてきています。詳しくは今年の「みどり会」に参加して覗いてみましょう。近くの人、同級の人、身近におられる先輩後輩を誘って行ってみませんか。研究室スタッフが少ないので、若い卒業生の皆さん、積極的にお出かけください(私もぜひ行くつもりです)。年に1回ですから是非に!

 お会いできることを楽しみにしています。

 詳しいご案内は研究室のNUメールで連絡されるとか(藤崎先生談)、私が聞いている範囲では今月6月23日(土)午後、湘南キャンパスの会議室で行われるようです。当日は学部での色々な行事が重なっているようで、会場の確保が大変だったようです。懇親会の内容は聞いておりませんが、サプライズがあるかもしれないと、微かな期待をしていますが・・・・。

 研究室も参加してキャンパスの緑の空間を整備したり考えて行動をしてくれています。屋上緑化や壁面緑化、中庭芝生管理を具体的にしたりして、学生諸君も参加し緑を育ててくれているようです(添付写真はその一部で新2号館の屋上の緑です)。

 キャンパスの中で変わった点、変わってない点など見比べてみてください。土曜日ですのでお勤めの人は参加し難いかもしれませんね。それに女性軍はお母さんをしていたり、お子さんのことで忙しかったりで、参加したくても参加できないのかもしれませんね。でもそこをなんとか・・・・。年に一回ですから・・・。

f:id:nu-katsuno:20180605233426j:plain

 

 

展覧会巡り 17  横山大観展

 

f:id:nu-katsuno:20180531124303j:plain

色々な展覧会がいろいろな美術館、博物館で行われています。開催会期(展示期間)が長いものもあれば短いものもあり、いろいろです。しかも会期が長い場合、多くは前・後期2分して展示内容も一部変えて行われる場合が少なくありません。今回の展覧会は所蔵美術館の関係もあるのか、作品の展示が細かく区分されており、見所となる有名な絵画を中心に分けて展示され、その大要を見るためには少なくとも2回以上会場に足を運び入場料を払うことになります。

 今回の横山大観展は誰もが知っている著名な日本画家・横山大観の生誕150年を記念した大回顧展であり、氏のよく知られた作品や60年余を捧げた多くの作品が各時代に沿って展示されており、私は会期末の5月24日に見てきました。( 4/13-4/19, 4/13-4/25, 4/13-5/6,  4/20-5/13, 4/26-5/06,  5/15-5/27, 5/8-5/27;作品によって見れる期間が違いました)。

 横山大観(1868-1958)は明治元年水戸市生まれ、東京美術学校(現;東京芸術大学)の1期生で先生には、これまた著名な岡倉天心(1863-1913)が、同期生には菱田春草や下村観山がいます。特に菱田とは絵の表現・手法や考え方が同じで気が合ったらしく、よく行動を共にし、海外(インド、アメリカなど)へも一緒に出掛け絵を描いています。卒業後、美術学校に教員として戻っていましたが1898年、校長の岡倉天心排斥運動が起こり天心が辞職するに合わせ美術学校を辞め(春草、観山も同じく日本美術院の創設に参加しています。 

 20-30代の大観の作品で有名なものに「無我」(29歳の作品)がありますが残念ながら4/19までしか展示されず私が訪れた日にはありませんでした。しかし、第1章「明治の大観」コーナーには、美術学校卒業の年25歳の作品「村童観猿翁」があり、伝統的な日本画の描写法で多くの子供たちが猿回しを楽しんでいる様子を描いています。子供たちの表情、猿回しの翁の姿など優しさのある若き頃の大観の絵を見ることが出来ました。34歳で描いた「隠棲」と「迷児」を見て日本画の新しい方向を模索する大観の姿(絵が見る者に創造力や思考力を求めている社会性のあるモチーフ)を感じました。

 この頃、大観は結婚(29歳)し長女を得(31歳)ていますが、6年連れ添った妻を亡くし(35歳)海外(インド、アメリカ、イギリス)へ旅している途中に長女(6歳)も亡くし帰国(37歳)しています。最愛の人を次々と亡くした中で絵を描き続けていたことになります。「海---月明かり;36歳の作品」はその頃の一枚。月明かりを受ける荒波と月の明かりがある空、月を描かずはっきりしない茫洋とした境を光の輝きの違いで描いて朦朧体最初の頃の絵と言われています(「ガンジスの水」も同じ、水面はゴッホの空のようなうねり)。100年ぶりに見つかった「白衣観音」は40歳の時の作品で、観音の左手や足の組み方の描き方(デッサン)が?おかしいですが、ふくよかな女神(顔がインド人的と言われる)の感じは印象的です。

 大観、春草と言えば日本画の新しい波;朦朧体(線描を抑えた没線描法、朦朧として境がはっきりしないぼんやりした画法)を生み出したことで知られていますが、当時は受け入れられず批判に晒されています(西洋画の遠近法などを取り入れ深み、奥行きの深い空間表現)。

 海外で見た風景を題材に描かれた「瀑布(ナイアガラの滝、万里の長城);1911、6曲2隻屏風」の描き方、色使い(群青と緑青)には感激しました。それまでの日本画にはない大胆な構図と色使い、ほんの一部分だけの彩色(黒と緑)で2隻の屏風。その大胆さに言葉が見つかりません。帰国してから旅の中でのスケッチを基に43歳の作品です。どんな心境で描いたのだろうと思わずにいられません。

 「大正」の大観コーナーは、大観(45歳~58歳)の充実した絵画が数多くありました。

横浜三溪園庭園で有名な原三溪に乞われて描いた「山路」は秋の落葉樹林を殴り書きした様な筆致(薄茶色)で描いていますが初めて岩絵具を使った作品との事、また「松並木;45歳の作品」は東海道を歩いた経験から、大観の描いた松並木が何処か気になりました。絵は大変印象深く、松並木の下を歩く2人の人物が小さく描かれ、遠くの松は薄いセピア色で枯れ木のように淡く描かれていました。松の幹に、まるで蝉のように見える大観の「落款」があるのは大観ならではの面白い機知に富んだ発想と感じました。

 「柳陰;47歳」は柳の葉、樹枝が画面全体に描かれる構図で6曲1双の屏風絵。右隻一扇に描かれている驢馬の首が長すぎ、と見えたのは私だけでしょうか。

 この年の3月に、大観は下村観山、今村紫紅、小杉本醒の4人で東海道53次の旅に出かけ、歩きと馬車で小一か月かけ東京から京都までの街道を踏破、途中、絵を描きながら宿場を繋ぐ旅をしています。

 旅に出て全国の自然を観賞し美しい日本の風景を絵にしていますが、秩父から荒川を下って絵に描いてもいます(49歳)。「荒川絵巻」は、長瀞の巻と赤羽の巻の2巻で、赤羽之巻は寄居から赤羽までの川沿いの風景を描いています。

 今回の大観展の一番はやはり「生々流転」でしょう。大観55歳の作品で、今回の展覧会では下絵画帳と合わせて展示されており、長蛇の列が続いていました(最初の写真は巻物の最終一部分)。山間の滴から川を下り大海の海原、海で空へ上る大気を描いています。

  60歳以降は「昭和の大観」のコーナーとして展示されていました。この中での圧巻はやはり1930年ローマで開催された日本美術展に出された「夜桜」;6曲2双2隻の作品でしょうか。篝火に照らしだされる屏風一杯の桜、黒い奥山と山影に覗く満月。素晴らしいの一言です。さぞイタリア人も驚き、日本の美しさに感嘆したことでしょう。「紅葉」は63歳の作品ですが、同じ屏風絵で左隻には前面に紅葉したモミジ、右隻は左隻の続きの紅葉と川面、岩(荒川上流、秩父長瀞の岩の様)と雲です。これもまた圧巻、右隻2扇に描かれた飛翔するカササギもポイントでしょう(添付写真参照)。

 85歳の時の「霊峰飛鶴」は、大観が好んで描いた富士山の上空を多くの鶴が飛ぶもので1500点を越える富士山の絵の内、晩年の一枚でした。静かさと優美さがあり、ドッシリと動かぬ富士と悠然と飛翔する群鶴の動きには、「画は人なり」、「絵は何処までも心で描かねばならぬ」と言った大観の気概がこもった作品でした。「群青富士」や「彗星」は見られませんでしたが、充実した回顧展を満喫できました。

f:id:nu-katsuno:20180531125838j:plain

 

 

 

 

 

 

 

今年は早い刈込作業    身近な緑   その3

f:id:nu-katsuno:20180527145155j:plain

 不順な天候が続く2018年の5月ですが、いかがお過ごしでしょうか。大変暑い夏日になりそうな日があったかと思うと、朝夕一段と肌寒く、日中でも15度前後の曇り空の日があったりして気温の変化について行くのが大変です。季節の変化も異常な陽気に惑わされるように、10日から2週間ほど早く変化してきているようです。それにも地域差があるようで、今年は季節の花もきちんとした時期に満開を迎えている様子がありません。薔薇の花の満開は5月連休明け位と思っていましたら、今年は盛りを連休中に過ぎてしまったとの声も聴きました。草花も大変なようです。

 我が家の垣根も御多分に漏れず例年になく新芽の成長が早く、こんもり茂ってしまいました。例年では旧盆の前に垣根刈をするのですが、今年は蒸し暑くなって「むさくるしくなる前」5月3週目に実施しました(昨年は8月上旬でした。ブログ「身近な緑」2;2017.8参考)。

 垣根刈では目印や物差として糸を引いたりする例があるようですが、私はこれまで目だけを頼りにやってきました。小さい子供時代から生家の周りが生垣で囲われていましたので、旧盆会の前には父親を先頭に家族総出で垣根刈をするのが常でした。その甲斐あって垣根刈の技術を幼くして身に着けることが出来ました。この技は大学で造園の教員になってから、より大きな効果・成果を産むことになり、造園・庭園実習では学生に何の抵抗もなく実技を披露し教えることが出来ました。

 刃渡り25cmほどの刈込鋏(全長70cm位)を使って垣根に向かうのですが、この鋏仕事は初めてやると次の日には腕の筋肉痛に襲われます。動き自体は単純ですが刈込鋏を繰り返し、チョキチョキ何度も反復するため腕、肩、胸の筋肉が痛くなるのです。最初は表の縦の面、次いで上の面(平面)を刈り込みます。

 刃先で新芽や新枝の部分を刈込み大体の面づくり(概略的に線を出す;荒刈り)をし、「刈込・離れて見通し」、「また刈込・見直す」の繰り返しです。不思議なもので刈り込みが進むと次第に直線(面)が浮かび上がってきます。仕上げは、その段階からさらに刈込鋏で少しずつ「面と線」を意識しながら刈り込み、直線と均平面を出します。

 ドウダンツツジは花と紅葉の両方の美しさを味わうことが出来ますが、両方を得るのはなかなか大変です。何故かというと花を見るためには新芽が固まって早く剪定をし、新枝が秋までに充実し次の春に咲く花芽を付け充実させなければなりません。一方、紅葉の美しさを味わうためには、できるだけ遅く刈込み、刈り込んだ後の柔らかい新枝の状態で秋から初冬の冷気に晒すことが美しい赤い紅葉を生み出すうえで重要です。夏前に刈り込むか夏過ぎに刈り込むかの違いがこの点にあります。

 今年の垣根刈は2度を計画し、秋、美しい紅葉を得ようと計画して取りかかっています。第一回目の刈込は終了しましたが、これからどうなりますやら。体に鞭打って頑張ります。

f:id:nu-katsuno:20180527145333j:plain

 

 

 

 

 

東海道を歩き終って

 5月の連休終了と共に、私の東海道徒歩一人旅も終了しました。思えば細切れの歩き旅でしたが、昨年2017年の3月にスタートした時点では、いつ全53宿踏破、満願に達するか分かりませんでした。昨年の日本造園学会日本大学湘南キャンパス開催)の交流会で、可能なら2018年の同学会(京都大学開催)に合わせて、京都三条大橋の袂に立ちたいと言っておりました。それに向けて昨年は度々東海道を細切れながら10回に亘り歩き続けました。回数では通算11回、かかった日数は延べ26日となりました(実施状況;別表)。

 旅の途中、各地でいろいろなものを見、風景や地方の文化・歴史を目の当たりにし感じ、考える所も少なくありませんでした。現在の日本が抱える問題と関連していたり、これまであまり考えなかったことや昔の人が作り出して残してきたものを、現場で見て確認することは大切であることを改めて感じました。歩きの旅を終えて、道すがら感じ考えたことを整理して纏めてみたいと思います。これからの旧東海道の在り方とも関係し、また道を取り込んだ地域づくりや街づくりについての私の思いが伝わればと思っています。

保存か育成か

  まず最初に、旧東海道、街道筋といえば松並木の風景を連想します。広重の絵にも多くの宿場の景観要素として描かれています。今回、東海道を全線歩いてみてその歴史的な現場・景観が、日本の近代化に伴う車社会により、激しく大きく変わってしまったことを痛烈に感じました。それと同時に、どうしてこの松並木の成長した時間と人のつながりに、これまでの人間は心しないのかと痛切に感じました。沿道の随所で切り倒された切株や小さな狭い場所に押しやられ、枝葉を切り刻まれ不釣り合いな老松を見届けました(写真1-2)。かろうじて「まだ生きてるぞ~」と叫んでいるようでした。

 一方で、残された松並木を大事に保護し育て、地域の歴史的な景観・時代の繋がりの証として保存しているところもありました。また沿道に位置する小学校で、卒業記念として松を植樹しているところもあり、まだ時代の継承として松並木を育てる気持ちのあることを知り嬉しく思いました。

 道路でもあり歴史的な遺産でもある、松並木行政的に道路部局だ文部部局だとの縄張り意識)の在り様には関係者の広い理解と総合的な街づくり、景観づくりへの視点と計画的対応が必要だと痛感しています。あるいはまた、旧道に接する個人の人達の考え方、心意気も重要であろうと考えます。日陰になる、根が邪魔する等々の意見があることは想像できますが、しかし人間どんな場面でも幾らかの我慢と協調が無ければ心安らかに過ごしていけないのではないでしょうか。

 旧東海道で松並木の美しい場所は、茅ヶ崎市小桜町~本村地区;隣接してその名も松林小・中学校がある)、三島市(初音ヶ原の松並木=写真3藤枝市島田市袋井市浜松市舞阪町豊川市御油町(写真4)、岡崎市藤川町(藤川小学校の記念植樹や藤川松並木)、知立市今村などで確認できました。これまでの自治体はじめ関連団体(保存会や守る会、民間NPO)の活躍や活動に因るところが大きく、そのノウハウは他の地域の参考とすべき点ではないでしょうか。 保存・保全の諸活動は今後も継続されると同時に、時間を掛けて新たに松並木の復元・育成へ進めてもらいたいと思います。 

 

東海道グランドデザイン

 東海道を全部歩き終って感じることは、全体と部分という点です。全体を統一するという考えは思い浮かびません。それ以上に各宿場が独自で全体を意識しながら個性を打ち出すことの方が重要ではないかと思います。宿場それぞれの  only one が大切であり大切にしたい点でしょう。各宿場が地域の計画づくりの中で、街並から地域景観まで意識しあるべき姿を造り出していくことが重要だと考えます。

 つまり、関係する自治体で沿道の学校・郵便局・JA、JR、道路、商店街などいろいろな人々が旧東海道を意識し、町の背骨(重要ライン)として捉え、考えることでしょう。1-2の例として、道に接する郵便局で個別・特別の消印に東海道名前やイラスト)をいれ発信したり、街沿いの空き家やスペースの活性化をJAと地元農家が直売所・交流市として利用を考えたり、商店街が道路標示の中に店の名前(昔の店の屋号や業種;関宿、金谷宿、石部宿など)と旧東海道の名前をいれる(四日市宿や石部宿などで実施)、など地域(自治体や諸団体など)協働で作り出していくことが大切だと思います。

 つまり地域のトータルデザインのなかに宿場のラインを位置づけ、住民自らで作り上げていくことが必要だと感じました。美しい宿場景観を保っている自治体は、そのような仕組みができている(例えば関宿の伝統的建築物群指定、由比宿、蒲原宿・岡部宿など)と歩きながら痛感しました。 

スピード

 旧道は1970年以降の高度経済成長の中で道路を中心として大きく変わってきました。全て「発展」の名目の中で急速に形を変えてきました。東海道を歩いてみて、①国道1号線がそのまま拡幅整備された部分、②新たにバイパス道路等が旧道に並行して敷設され昔からの道がそれに沿って残っていることを知りました。①で生活の利便性の上から町の機能が新しい道路沿いに移り、②で旧道は昔の佇まいと静けさ(旧東海道と宿場の景観)を残しています。

 ②の宿場では住民の日常生活と観光客・旅行者の求めるもので違いがあることも分かります。車のスピード、街並や建物の景観(ファサード)、前庭の姿、電柱や広告等々、個々の問題としてではなく街並み全体として捉え考え計画整備することが重要であると考えますが(それが簡単・容易でないことは十分知っています)

 今回の歩き旅には八木牧夫氏の著作になる「東海道五十三次山と渓谷社」初版(2014)を常に携帯し道を確認しながら歩きましたが、この本は氏の詳細な踏査、記述からなっており大いに参考となりました。世の中の移り変わりが激しく、沿道の変化のスピード(この5年間で)はこの本の記述内容を通してもよく分かります。

 

<連携・共同・協働・主役造り

 別表として沿道の関係県市町村を列記しましたが、行政の中でも街づくりとして総合的に対応されて来ていると思います。今後もさらに密接な関係を持って東海道を考えて行ってほしいと思います。社会の高齢化、少子化、それに伴う小規模化は避けられない問題ですが、これまで老舗の店を守り維持してこられている事例も少なくありません。地域社会を守る上で見出しの連携、協働、主役造りは大変重要なポイントでもあります。関係する人、団体みんなが<参加・活動・情報交換>して長い目で着実に進めていくことが重要だと、今回の「東海道五十三次一人旅」で改めて痛感しました。

f:id:nu-katsuno:20180513180704j:plain

f:id:nu-katsuno:20180513180743j:plain

  1=鳴海・有松の街並み(伝建)    2=由比の街並み

 3=関宿の街並み(伝建)       4=草津宿の街並み 

 

<別表1>  東海道一人歩き旅日程

1.平成29年3月11日   江戸・日本橋 ~ 品川宿      7,4km

2.    3月16日      品川宿 ~ 神奈川宿              21.5km

3.    3月23日     神奈川宿 ~ 藤沢宿                  22.3km    37.000

4.    4月02日      藤沢宿 ~ 大磯宿                  17.3km   

5.    4月16日      大磯宿 ~ 箱根宿(箱根湯本)33.5km

6.    4月23日      箱根宿 ~ 箱根関所            12.5km     25.400 

7.    5月16日     箱根関所 ~ 沼津宿             20.6km     39.600

         17日       沼津宿 ~ 吉原宿            16.4km

         18日         吉原宿 ~ 由比宿          20.9km  33.600

         19日         由比宿 ~ 府中宿(静岡)   24.4km     42.900

8.    6月14日      府中宿   ~   藤枝宿      22.8km    41.900

      6月15日        藤枝宿 ~ 島田宿       7.7km     25.700

      6月16日        島田宿 ~ 掛川宿        20.0km

9.     10月24日        掛川宿 ~ 磐田宿       19.0km   38.500

       10月25日        磐田宿 ~ 舞阪宿       24.1km      43.200

       10月26日        舞阪宿 ~ 吉田宿(豊橋)   28.8km   45.000

       10月27日        吉田宿(豊橋市内)

10.  12月12日        吉田宿 ~ 赤坂宿     13.4km    39.500

     12月13日        赤坂宿 ~ 岡崎宿       20.9km     27.400

     12月14日        岡崎宿 ~ 鳴海宿     24.5km    41.400

     12月15日        鳴海宿 ~ 宮宿(七里の渡し)  7.7km

 

          ==========  伊勢湾:  揖斐川長良川木曽川 ======

 

11.平成30年

     4月30日  (七里渡) 桑名宿 ~ 四日市宿    15.6km  39.076   

     5月01日      四日市宿 ~ 関宿       30.3km  43.033  

     5月02日        関宿 ~ 水口宿                   27.8km

     5月03日       水口宿 ~ 草津宿                   24.8km

     5月04日       草津宿 ~ 京三条大橋            25.8km   43500

 

<別表2> 東海道沿道関係市町:

東京都(中央区・港区・品川区・大田区)、神奈川県(川崎市横浜市・大船市・藤沢市茅ヶ崎市平塚市・大磯町・二宮町小田原市箱根町)、静岡県三島市沼津市富士市静岡市藤枝市島田市掛川市袋井市磐田市浜松市湖西市 愛知県(豊橋市豊川市岡崎市知立市名古屋市)、三重県桑名市四日市市鈴鹿市亀山市)、滋賀県甲賀市湖南市草津市大津市)、京都府京都市

                

                       

 

東海道五十三次  今・昔   その21

f:id:nu-katsuno:20180510134053j:plain

 人生、持つべきものは友と親兄弟、困った時に頼れるのは兄弟であることを実感しています。草津の宿泊が5月の連休で不可能となった「東海道歩き」、助け舟を出してくれた弟に感謝です。ゆったりとした朝、いつものように6:30には起き出して最後の東海道の歩みに出発しました(7:30)。今や大手電鉄会社のお荷物路線と化した近鉄揖斐線池野駅、第三セクターに委ねられて細々と走らせていると聞きました。JR大垣まで運んでくれ乗り換えて8:11の米原行快速に乗りました。米原駅で新快速明石行に乗り草津へ。草津には9:20に着きました。交通費は何と宿泊費の半分、時間を取るか費用を取るかで決断が分かれる所ですが、今回の選択は後者で正解でした。

 駅から足早に昨日のエンドポイントへ移動し、草津追分の写真を撮りました。追分道標は1816年に建てられており、「右 東海道いせ道  左 中山道美のぢ」と書かれています。例によって朝早すぎて国指定史跡田中本陣跡は見られず通過、連休中日の晴れの日で宿場街道筋商店街は忙しそうでした。街道交流館も家康の宿所の常善寺も同様に素通り、樹齢400年のウラジロガシや鹿の狛犬(?)があると記された立木神社に立ち寄り今回の東海道歩きの無事達成を祈願しました。しかし、どこを探してもウラジロガシなるものが無く、神官に尋ねたら昨年枯れたので新植(神職;オヤジギャグ)したとの事。残念?無念?当然?

 最終日は草津~大津(15.1km)、大津~三条大橋(10.7km)の25.8kmです。結構ありますし、スタートが遅いため達成が夕方になると予想されました。出来るだけ脇目も振らず急ぐことに。立木神社の少し西、京都よりが草津宿京口で黒門があったようです。伯母川を渡り出発から4km地点で弁天池が現れました。琵琶湖竹生島から勧請した弁財天を祀っているとの事。小さな中島は木立で覆われていましたがカワウが巣を作っていて糞が木々を汚して綺麗な光景ではありませんでした。池にもカワウが泳いでいて場違いな街中の風景でした(竹生島のカワウの糞害はどこでも似たような問題が発生していますが、憤慨です)。

曲がりくねる一里山地域を歩き大江町から直角に2度曲がって瀬田川の左岸地区へ。

 瀬田の唐橋写真A)は琵琶湖から流れ出る瀬田川に掛けられた天下三大名橋の一つで立派な橋、瀬田川でボート、カヌーの練習をする若者の姿が印象的でした。渡り終えると8km地点、予定通りで道は京阪電車石山線を縫うように続きます。膳所市街地は琵琶湖、瀬田川の縁に発達した城下町です。膳所城は家康が西国守備と瀬田の唐橋を守るために築城した城との事、枡形、折れ筋道、交差する街中の道で方向も東海道自体も分からなくなる程でした。街中を歩く途中、手作りパン屋がありコッペパンを数種買い求め、途中石坐神社境内でお昼にしました(13時;12km地点)。膳所城下(城下の西口)近くに義仲寺がありました写真B)。ここは木曽義仲の墓と芭蕉の墓があり、こじんまりした日本庭園と草庵があり句碑が多く建っていました。芭蕉は義仲を敬愛していた関係で大阪で亡くなりましたが(1694)遺言で義仲寺に葬られています(木曽殿と 背中合わせの 寒さかな)。

 大津市街地(かって大津百町と言われるほど大きく賑わった街)を抜け、京町で道は2本に分かれ北の道を小関越(4.2km)、南、国道筋を大関越として京へ繋がっていました。道は両側から山が迫っており、5kmの峠越え道(逢坂山道)を登り、下り京に向かいました(この道沿いに、かの有名な盲目の歌人蝉丸を祀った蝉丸神社の上・下・分社がありますが、アクセスと環境があまり良くないためか、今は訪れる人も少ないようです)東海道国道1号線名神高速京阪電鉄線と平行しており、峠は近江国山城国の境となっています:写真C逢坂山関所は伊勢の鈴鹿、美濃の不破と並ぶ天下の三関と言われたようです)。出発から17km、時計は午後2時を回っていました。

 関所を越えて下ると追分の道標があり、奈良街道との分かれ道(右 京都、左 伏見)を過ぎて遂に京都市に入りました。JR山科駅前を通り、五条分かれを右にとって京三条通りを進みました。東海道は九条山の麓、谷筋を北に向かい、今は府道143号線の道となって南禅寺南の蹴上まで伸びていました。このあたりから旅行客、観光客が目立ち始め蹴上では一杯。残すところ三条大橋まで1.5km、西日に向かって緩やかに下る道を観光客尻目に東海道の歩き旅人は急ぎました。

 着きました!、凄い人混みです(写真D)。観光客、市民、旅行客などなど、老若男女・日本人・外国人、国際観光都市京都、5月の連休、何もかもが重なって京都の夕暮は大混雑でした。

 物見遊山の一人旅人、歩き疲れて カメラを持って ウロウロ。あんた何してんの?

写真を撮ってと頼む人を探してキョロキョロ、男・女? どの人が日本人でカメラや携帯で写せるの? 橋の上を歩き回ること10-15分、遂に頂きました最後の一枚(第2枚目)。

 この写真を写すために歩いてきたんです(涙・感激)。実質、踏破26日、今日は43.500歩ですが、平均1日35.000歩で計算して910.000歩になります。多い少ないを入れて百万歩ですかね~。

 良くやりました。良く歩きました。73歳最後のチャレンジでした。ご苦労様!!!

f:id:nu-katsuno:20180510134136j:plain

 

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次  今・昔  その20

 朝、目が覚めて最初に気になるのはその日の天候です。カーテンを開けると幸い雨は降っておらず曇り空、遠くの空の一部は青空で一安心でした。ホテルのレストランでバイキング形式の朝食(7時)。しっかり十分に味わって食べ、荷物を整理してリュックサックに詰め出発しました(8時)。この日の行程は水口宿~石部宿(14,4km)、石部宿~草津宿(9.7km)の24.1km。朝ゆったりと出発しましたので休憩を入れて7時間後の15時過ぎには草津に到着の予定で進みました。事前に草津でのホテル予約を試みましたが、生憎連休の3日、どこも満室の様で宿泊地の当て無しで歩き始めました。最悪の場合、JRで草津から弟のいる岐阜池田(JR大垣経由)へ廻ることとしました。

 水口宿から西見附を過ぎると道沿いに街並は無くなり、水田地帯を真っ直ぐ西に延びています。北脇縄手と言われ2kmもの直線が伸び遥か彼方まで続いていました。4km先の泉の一里塚(9時)を過ぎ、かっての横田の渡し場跡の広場には巨大な常夜燈(写真A)が建っており、昔の渡し場が説明されていました。現在は国道1号線に掛かる横田橋を渡って対岸の旧道に続くことになります。ここからは野洲川とJR草津線に沿って草津まで道が伸び左手には猿飛佐助の故郷で知られる三雲城址や八丈岩のほか、扇状地的地形の証の天井川があり(大沙川や由良谷川)東海道と交差する形の隧道(川が上で道が下)が現存していました(写真B)。そのうちの一つ大沙川隧道(1884建設)の上、堤上には弘法大師の謂れと関係する樹齢750年の大杉(弘法杉)が聳えていました。ここで草津市内のホテルに電話し宿泊客のキャンセルが無いか尋ねましたが全く無く諦めて弟の家に行く事にしました。

 

 石部宿中央で道はクランク形に曲がりますが、その角には田楽茶屋があり、少し早いお昼(月見うどん)をこの茶屋で取りました(写真C)。店の店主夫妻と道中話に花が咲き、小半時(30分)を過ごしました。石部宿から草津へは野洲川に沿って寺社を横目に歩き、途中福正寺(国の重要文化財指定の地蔵菩薩立像)や和中散本舗(道中薬「和中散」のぜさい本舗=大角家庭園;小堀遠州作で国重文;写真D)肩たがえの松、上鈎池(第9代将軍足利義尚の鈎陣跡)などで休憩したり覗いてみたりし、出発から7時間かけて24kmを踏破しました。草津の市街近くでは草津川も天井川だったようで、河川の付け替えに因り、かっての河川敷が公園や駐車場となり土手は遊歩道となっていました。かっての橋はそのまま、昔風にいうとトマソンで水の無い川に奇妙に橋だけ架かっていました。午後3時過ぎに東海道中山道の分かれ道、追分辻に辿り着き、この日の歩きを止め、岐阜へ行くことにしました。JR草津から米原経由して大垣まで、大垣から近鉄揖斐線に乗り池田駅まで移動し出迎えの弟と再会し彼の自宅で泊まることになりました。

f:id:nu-katsuno:20180510104105j:plain

 

 

 

東海道五十三次  今・昔  その19

 

 前日の天気予報で5月2日(水)は午後から雨が降るでしょう、とありました。朝早く旅立つために前日に隣のコンビニで傘を買って、降らないうちは杖として利用することとしました。ホテルの朝食は6時半から、地元産品を使ったバイキング方式・美味しそうと思いながらも今日の天気のことが頭から離れず、先を急がねばとの思いが強く泣く泣く断念。JRの上り電車は6時台2本、駅へ急いで6:07亀山から関まで6kmを乗りました。

 関駅は誰もいなく曇り空の下、前日の東海道最終ポイントへ駆け上がりました。当然ながら朝早すぎて「関まちなみ資料館、旅籠玉屋歴史資料館」は閉まっていました。西追分(6:30)は奈良への分岐点、道標の題目碑に「ひたりは いかやまとみち;左は伊賀・大和道」とある辻を坂下宿まで6.4km、鈴鹿峠を越えて土山宿まで9.9km、そしてこの日の宿泊は水口宿11.5kmで、全長凡そ30kmの長丁場です。西追分を過ぎると道は山へ入ります。山の谷を沓掛までは国道1号線に並んで続き、関宿から4km地点で国道と別れ山道。狭く険しくなった鈴鹿川上流部の山の斜面は植林地、川辺では野藤が樹木に絡んで高く伸び、美しい薄紫の花盛りになっていました。

 伊勢国鈴鹿峠下には片山神社(写真左上)があり一休み。峠までの山道は短いながらも険しく石畳にもなっており、曇り空で林内は薄暗く一人ぽっちで寂しく少し怖い感じのする峠越えとなりました。途中には芭蕉の句碑(ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山;1691)がひっそりと置かれていました。峠道は意外と短く、下に国道1号線鈴鹿トンネルの出入り口が見えました(8時)。近江国に入って道の脇には茶畑が現れ、北方向の眺望が開けてきました。旅の朝のルーティンで自宅へ電話、土山宿までのダラダラ長い下り道は国道と重なったり平行して伸びています。山中川に沿って下り鈴鹿峠馬子唄(坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る)の碑で休息(9:00-9:15;写真右上)し猪鼻村を越えて土山に入りました。土山集落には、征夷大将軍蝦夷を平定した坂上田村麻呂を祀った田村神社があり旧い杉の大木の参道が面影を残していました。入口の神社碑文は東郷平八郎元帥の書とあり、それに対峙する「道の駅土山」で休憩、持参したオニギリを地元の「土山茶」と共に食べました(10:05-10:30)。なんと土山茶の美味しかったこと。4-5杯おかわりして堪能しました。道すがらに茶畑が多く茶葉の生産が盛んであることを示しています。新茶の味を野道でワイルドに味わおうと新芽の先端1葉を摘み口に入れ噛みながら歩いて来ました。

 道の駅で休んでいる間に雨雲が里に下りてきて、遂に雨が降り始めました。持参した傘が杖から本来の傘に変わりました。リュックサックを雨から守るためにレインコートを着、先を急ぎました。傍から見たら何とも寂しいみすぼらしい格好だろうと自問しながらの道行きです。森鴎外の祖父・森自仙が参勤交代に随行してこの地で没した家(1861)や鴎外が祖父の墓参の折に宿泊した旅籠などを見たりして土山宿を通りました写真下左)。残念ながら墓のある常明寺(鴎外が建てた墓や、芭蕉の句碑;さみだれに 鳩の浮巣を 見にゆかむ がある)には時間の関係で寄ることが出来ませんでした。

 東海道野洲川国道1号線と重なり、時に沿って北の草津方向へ下がっていきます。低地に広がった水田地帯は、後ろに里山を配し江戸時代となんら変わらない風景を今に繋げています。往時の旅人も同じ景色を見て上り下りしていたのか、と感傷に浸る雨の午後でした。関宿から28kmを歩いて来てやっと水口宿の入り口に辿り着きました。

 水口宿東海道が宿場内の道として3筋あり写真右下)、水口城下町内は例に寄り舛形、鍵の道、商家などで入り組み、旅人には道筋の分かり難い街でした。予約ホテルには15:30到着、チェックインが16時以降の為、雨と疲れで外へ出る気力もなくロビーで休みました。夕食はホテル内のレストランで取りましたが、内容も味も大変豊かで美味しくしかも適切価格でした。外は雨、食後は、ゆったりと湯船に浸かり疲れを取って次の日に備えました。

f:id:nu-katsuno:20180509173300j:plain

 

東海道五十三次  今・昔  その18

f:id:nu-katsuno:20180509115341j:plain

 今日は5月1日(火)メーデー。労働者の祭典の日。有給が取れる人は前週の28日(土)からの連休中日です。私はこの日が東海道2日目、四日市宿から石薬師宿(~11km:内6.5kmは前日踏破済)、庄野宿(~4.1km)、亀山宿(~9.3km)を目指す計画でした。ホテルは素泊まりの為、朝食無し。前日コンビニで買い求めたオニギリとお茶を持って6時発のワンマン電車に乗り内部駅まで行き、昨日の続きで駅前を6:30にスタート、歩き始めました。内部川は国道1号線の橋で渡り旧道を歩き始めました。直ぐに有名な杖衝坂に掛かり、芭蕉碑(1756建碑):「かちならば 杖つき坂を 落馬かな」1687年芭蕉はここで落馬したとのこと)の前で写真を撮りました。その先には日本武尊血塚社がありました(写真上の左右)。

 杖衝坂伊吹山で賊と戦い傷ついた日本武尊が剣を杖代わりに越えた坂で、血塚社は、その傷を封じた所、日本武尊は「吾が足は 三重の勾の如くして 甚疲れたり」と詠んだと説明書にありました

 いよいよ石薬師宿に向けて丘陵部に入り東海道は国道と付かず離れずして西に延び、鈴鹿市に入りました。石薬師宿東海道伊勢道では四日市宿や関宿が大きく、門前町の石薬師は小さな宿場だったようです。国文学者で歌人・佐々木信綱(夏は来ぬの詩で有名)の生家(8:00)がある宿で浄福寺は佐々木家の菩提寺、門前には信綱の父・弘綱の記念碑もありました(写真下左)。鈴鹿川沿いの水田を巡り土手をなす国道1号線を1km程歩くと庄野宿に入りました。庄野宿は東・江戸口と西の京口の間、2km程で中ほどには川俣神社があり樹齢300年と言われるスダジイの老巨木がありました。その見事さに思わずパチリ、そして一休みをしました(9:00-9:15)写真2A

 川俣神社は、このあたり鈴鹿川、椋川、安楽川の合流域で鈴鹿山系からの川が三筋四筋で合流していることに因るようです。それらの河川台地上を縫うように通じる東海道は、関西線や国道1号線と並ぶように位置し水田低地を縫って伸び亀山宿は再び丘陵台地の上に位置していました。亀山宿の江戸口門跡までは内部から18km、11:30を過ぎて辿り着きました。亀山宿は長さが2km程(西の京口迄)と大きくないのですが、古い宿場の街並みが遺され落ち着いた城下町です。城下町といっても丘陵台地の斜面に位置しており南に傾斜し開けた高台の上にお城(今は城跡)があって、街道・宿場は城の中程、東西に蛇行、雁行して延びています。江戸時代、城下町ということで参勤交代の大名も宿泊を遠慮したと伝えられ、宿場としては、ややこじんまりした規模の小さな町で、午後訪れた関宿とは比べ物にならない街でした。

 亀山宿の宿泊予定ホテルやJR亀山駅はさらに一段下の低地にあり、何処から下に下ったらよいか分からず宿場街道をウロウロしました(11:30-12時)。前日と同じように予定より早く亀山宿に着いた(13時)ので一旦、荷物をホテルに預け、午後を先の宿場への歩きに変えました。亀山へ戻ることも考えねばならず、交通の便を考えてJR関西本線に沿った先の宿場を決めました。地図を見るとJR関西本線は亀山から関まではほぼ東海道に沿って走っていますが、その先は東海道と離れてしまいます。そこで関宿までの6km(徒歩で1.5時間)を追加して往復することにしました。

 亀山のホテルに隣接してコンビニのセブンイレブンがあり好都合、飲み物を買って午後の歩きを始めました(13:30)。道は鈴鹿川に沿った田園風景で田植えの最盛期、水の張られた田んぼに風景が映り印象的な景観です。昔の旅人も、この時期に旅をしてこの同じ風景を見ていたのだろうな、と一瞬、感傷に浸りました。空模様は幾らか雲行が悪くなる様子、幸い陽射しも強くなく歩くのに適した天気でした。道に沿っては国の有形文化財の住宅や重文の仏像を本尊とする寺院(慈恩寺)などがありましたが、ゆっくり鑑賞して歩くことが出来ず先を急ぐ旅の為、外観を眺めるだけ。宿場の2km西に野村一里塚日本橋から105里で樹齢400年の椋(ムクノキ);国指定史跡)がありムクノキの巨木が聳え、とぼとぼあるくちっぽけな私の姿を見下ろし、元気付けてくれるようでした(写真2B)。

 1kmのまっすぐ伸びた大岡寺畷、桜川・小野川・鈴鹿川三川が合流する大岡寺畷橋の壁面には広重の宿場絵が描かれていました。道は小野川を渡ると国道1号線から分かれ丘の上に登って行きます。宿場の東口には「小万のもたれ松」があり一休み(14時)。 

 関宿の東追分に着いて驚き、桃の木山椒の木。電柱の無い素晴らしい関の宿場の光景が広がっていました。時代を一挙にワープし、江戸時代に遡り西に落ち行く太陽の陽射しを受け映える街並、夢か幻か否否、現実です。道に沿って並んだ家並みを、左右目をキョロキョロさせながら写真を撮りながら歩きました。

 関の宿場は旧い街並みが大変良い状態で残されており「伝統的建築物群」としての指定を受け美しい街並み景観を見ることが出来ました(写真2C,D)。街並みが東西に延びており、午後の陽射しから西向きでは逆光になり、江戸方向は順光で午後の静かで落ち着いた街並み景観を撮ることが出来ました。連休中ですがそれほど観光客はいませんでした。太陽に向かって宿場の半分、振り返って東半分の街並みを写真に収め旧本陣辺りで打ち止め、以西は明日の朝早く歩き始めることとし亀山宿へ(15時)。JR関駅に着いて驚き物語、JR関駅は最近関西本線の本数も少なくなり無人駅となってしまい、乗車の際車内で整理券を取って下車駅で清算する方式になりました。亀山駅で清算し次の日の早朝の上り列車時刻を確認し(6:07と6:40)ホテルに戻りチェックインしました(15:30)。低気圧の通過で5月2日は午後から雨が降るとの予報、隣のコンビニで簡易傘(500円傘;杖も兼ねる)を予め購入して明日の準備をしました。いよいよ明日は鈴鹿峠越えだ~~!

<写真2>

f:id:nu-katsuno:20180509115915j:plain

 

 

 

 

 

 

東海道五十三次  今・昔  その17

東海道五十三次かち歩き」を思い立ったのは1年前の冬でした。実際に歩き始めたのは暖かくなり始めた2017年3月11日(土)。日本橋から歩きはじめ、京都三条大橋を夢見て、その日は日帰りで品川まで歩き始めました。

それから1年以上経過した2018年初夏、5月の連休前に、いよいよ「東海道五十三次かち歩き」最終ステージを実行することにしました。

 4月30日、早朝、まだ夜が明けきらず、前夜の満月も西の空に回って周りは薄暗い朝、柿生から始発電車で町田を経由し新横浜へ。連休中で混雑も予想されましたが幸い新幹線「ひかり99号」の自由席に無事に着席でき、ゆっくり1.5時間車中の人、スポーツ新聞を読み切った頃に名古屋駅に到着しました(7:30)。名古屋駅から近鉄特急賢島行に乗り桑名に到着したのは朝8時。駅前からタクシーに乗り七里の渡し(桑名)へ。タクシーの運転手と東海道歩きの話をしているうち伊勢国七里の渡し跡に着きました。名古屋熱田神宮近くの「宮宿」七里の渡しの風景と似ていましたが、「水面の近さ」が違っていました。桑名は揖斐川長良川木曽川の三川が合流する場所(岸辺)で水嵩の変化が常に気になる場所、堰堤や土手が高く(2m位高い)、水際にある「宮宿の七里の渡し」の水辺公園とは違っていました。それを物語るように渡し場跡には蟠龍場櫓や河口の治水や洪水の歴史を示す解説版、伊勢国一の鳥居が広場にありました。

 いよいよ伊勢国東海道を歩き始めました。桑名の城下町の街中では道が複雑に曲がりくねる(外敵に道を分かり難くするため;枡形など)ため、東海道を歩く者にとっては道筋を確認することは常に重要で社寺や旧家等を目印に歩きました。

 泉鏡花の小説「歌行燈」に登場するうどん屋(朝早すぎて店は閉まっていました)を右に見て京町見附へ(9:00)。桑名市博物館前には2m程の御影石の道標があり(写真C)「右;京いせ道」「左;江戸道」とありました。町中の道は鍵型に折れ曲がり多くの寺院が道沿いに位置しています。城下町を外れ、川辺に立つ大きな伊勢神宮常夜燈(1818建立)を見て(写真A)  町屋橋(1635年架橋)を渡り員弁川を越えれば四日市市

 四日市市では旧東海道に面した家々に小さな木片板が付けられており、それには「東海道四日市市」が2段に分けて書かれています。これは東海道を歩く人にとっては大変ありがたい道標。歩きながら確認でき、迷うことなく先を急ぐことが出来ます。

 近鉄名古屋線を越えて先を急ぎ、朝明川袂には多賀神社常夜燈が建っていました多賀大社は祭神がイザナギノミコト、イザナミノミコト、伊勢神宮の祭神は天照大神で親子関係)。橋の袂の広場で小休止。広場の案内板にはこの道を通った有名人の記録がありました(シーボルトが1526年2月15日長崎を発って江戸に向かった折、3月27日に四日市に入り3月28日、朝9時に松寺;この場所を通ったと:492年後に私が通過)。

 JR関西本線近鉄名古屋線を跨ぎ旧富田村。往時は焼き蛤が大変有名な村明治天皇は4度この地の富田茶屋で休憩、焼き蛤を賞味したとか。桑名は「しぐれ蛤」が有名)。街中を通り過ぎ町外れの角に「力石2個:一つは120kgの大石、もう一つは20kgの人頭石」がありました。桑名から四日市までの東海道は海抜2-3mでほぼ平坦な道でした。海蔵川畔(海蔵橋)に三ツ谷の一里塚跡(写真E)があり小公園となっていました。三滝川を渡ると遂に四日市市街。道標を確認し諏訪神社を横目に第一日目のホテルに荷物を預けました(13:00)。

 一日目の計画では、このホテルまででしたがまだ陽が高いため、先に二日目の分を歩くことにしました(13:30)。東海道に沿って、なんと鉄道が走っていました近鉄内部線;あすなろ線)。東海道はこの線に沿って南西に延びており、電車の終点が内部駅、丁度東海道の傍にあり、四日市駅から6.5kmの位置にあります。

  市内ではスワマエ通りというアーケード街が東海道です。近鉄内部線に沿って、赤堀、日永、天白橋(14:15)を歩き抜け、伊勢参宮道と東海道追分(日永の追分:1849建立の道標;右 京大坂道、左 いせ参宮道や神宮遥拝鳥居<1774>、常夜燈、水屋のある広場;写真Dで小休止しました。さらに歩を進め小古曽から内部駅前に辿り着き(15:20)、歩いて来た道をワンマンカーの近鉄内部線に乗り四日市のホテルに戻りました。この日歩いた歩数は39.076でした。

初日は無事に終了、夕食・風呂もそこそこに眠りにつきました。

 

f:id:nu-katsuno:20180508195321j:plain