水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔  その五

 旧東海道、神奈川県には東に川崎宿、西には箱根宿、その間に7宿(計9宿)あります。これまでに既に7宿(川崎~大磯)間を歩き、歴史上の遺跡、史跡、神社仏閣などを訪れ、いろいろな風景を眺め、事象や言い伝えを学んで歩き続けてきました。4月に入って例年になく季節巡りがゆっくりな今年の春、快晴で暖かな16日の日曜日、早朝の一番電車に乗りました。この日の出発点、大磯へ大急ぎ。

 一大決心して「旧東海道53次歩き」を考えたついた当初から、箱根越えまでは日にちと区間を区切って自宅から通い、歩き繋ぐ方法を取ろうと考えていました。5回目のこの日は、日の出も既に5時前と早くなってきていました。朝の帳が開く頃、天空にはまだ上弦の月が薄白く残り、東の空は日の出が近づいて薄赤く染まってきていました。5時12分の始発電車で相模大野を経由し藤沢へ、藤沢からJR線で大磯駅まで急ぎました。

 前回、大磯宿で終わった所(明治創業の和菓子屋新杵前)に再び立ち、歩き始めました。宿場の西に日本三大俳諧道場の一つとして有名な「鴫立庵」があり、茅葺の建物、周りの樹相(ケヤキの老巨木)、小さな川の流れなどその雰囲気にはなるほどといったものがありました。庵の名前の由来は、西行法師の歌「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」にあるとされています。

大磯は昔から避寒地・東京の別荘地として多くの有名人が住んでいたといわれています。かの島崎藤村は戦前に大磯へ疎開、この地で亡くなっており、夫妻の墓地は街道沿い地福寺にありますし、吉田茂はじめ多くの政治家(山県有朋大隈重信西園寺公望原敬など)が別荘を構えて住んでいました。旧吉田茂邸は現在、県立城山公園に含まれ当時の姿をとどめています(邸宅は残念ながら2010年焼失、復元されている)。それに引き替え、日本で最初の総理大臣であった伊藤博文の邸宅(滄浪閣)は街道沿いにあったものの、何の跡形もなく場所を示す碑だけがひっそりと立っていました。

 大磯はその名が示す通り、南に相模湾の海がすぐ近く、北の背後には大磯丘陵が迫った狭い海岸段丘に位置しています。ここから西へ、二宮、国府津、小田原まで伸びる旧街道筋周辺は海抜15-20m程度の段丘上部になっています。酒匂川から流れ込む土砂が相模湾を北上する海流や波により打ち寄せられ長い砂浜と海岸クロマツ林の景観を作り出していましたが、今ではその面影は大変少なくなっています(逆に河川による土砂の流下、供給が断たれ、海浜が痩せてきているため養浜がおこなわれています)。街道を歩いていると左手側、海に向かって緩やかに下がる地形がよく分かります。右手側は丘陵が遠く近く位置し、旧吉田邸を過ぎる辺りから霊峰富士が丹沢山塊の奥に大きく見えるようになり、街道の正面には箱根の二子山が特徴ある山容を見せてきました。満開の桜を前景とした富士山の景観は昔から変わらず目をつぶって往時の姿を連想しました。街道は少し内陸に入り込みJR東海道線と平行しています。海岸線は長い砂礫の浜(例えば大磯海岸、小陶綾ヶ浜、袖ケ浦など)が小田原まで続き、現在は西湘バイパス道路がこの海岸線の上を走っていて景観的には興ざめの感が否めません。

 JR二宮駅の西側に吾妻山が近く、街道からも目立って春の若葉色した落葉樹の中に針を刺したようなモミの常緑樹が目立ちます。山頂には吾妻神社があり街道に沿ってしっかりした碑と石鳥居が立っており、参道の軸線奥のモミは印象的でした。

 ほんの少しの区間、国道1号線と離れる旧街道には藤巻寺があり、境内には樹齢400年と言われるフジが生育し、また可愛らしい梵鐘(寛永8年;1631の銘がある)が隣に寄り添って立っていました。説明版には徳川三代将軍家光が東海道往来の際訪れたとあり、私も棚の下で写真を撮り往時を想像してみました(写真C)。フジの開花時はさぞ美しいだろうと思います。押切坂(国道1号線は大きな切通し)を上り下って中村川を渡りやっと小田原領に入りました(9:00)。

 しばらく行くと、何気ない車坂碑が立っていて、有名な3人の和歌が書かれていました。「鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌

「浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れになるかも」源実朝、「浦路ゆくこころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月」阿仏尼(北林禅尼)

我が身もこの地で歌を、と考えましたが教養・素養なく先の路を急ぎました。でもこの日は図らずも卯月16日(こじつけで十六夜)阿仏尼(十六夜日記の作者)と無縁でもないか、と自問自答しました。

 海岸線、街道、丘陵が最も狭い国府津の街並みを過ぎ、東海道で数少ない松並木の残る小八幡(写真D)を行き酒匂川東地区を過ぎて酒匂橋を渡りました。遂に小田原宿です。酒匂川の東西両地区には多くの神社仏閣があり、また本陣、脇本陣跡もあって宿場の大きさを思い起こさせますし、江戸時代酒匂川には江戸防御上、架橋が無かったとあって、天候によっては足止めになるなど難苦が多かったのではと想像しました。

 大磯を朝早く出て歩いて来て小田原に入ると街がいかに大きく賑やかかよく分かりました。背後に箱根のどっしりとした山塊を控え、整然とした街並みが続く景観は心躍る風景でもあります。現在もその様に感じるのですから江戸時代はましておや、だったと思います。

 新宿を過ぎ万町、ここは「蒲鉾通り」とも言われ私が以前に勤めていた学部の卒業生で田代氏が経営する有名な「まるう」本店のある通りです。休憩を兼ねて美味なる蒲鉾を賞味し早めのお昼ご飯、時計は11:30を示していました。

 休憩後、青物町、松原神社や多くの本陣のあった本町を通って小田原城を右手に見て箱根口に辿りつき、南町、山角町で新幹線、在来JR線を越えて板橋見附。いよいよ箱根路に入りました。ここからは殆ど旧道沿いの街並み、JRと別れて早川と箱根登山鉄道に沿って道が伸びています。箱根板橋、風祭、昔の風情が残る道すがら、入生田の紹太寺には樹齢300年の枝垂桜があり、今年の遅い春は開花期が長く、折からの春祭り(写真A)と重なって多くの来訪者が旧道を歩いていました。この先に民家は湯本まで殆ど無く箱根の山塊が眼前に迫ってきます。特徴ある二子山も山塊に隠れ上の部分だけ二つポッコリ見せているだけでした。(写真B)早川に懸かる湯本三枚橋でこの日の歩きは終了(13:00)、歩いた歩数は35.200歩を超えていました。

f:id:nu-katsuno:20170428215725j:plain