水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

東海道五十三次 今・昔  その八

 第二日目は、沼津から吉原(16.4km)です。ビジネスホテル近くの喫茶店でモーニング朝食し、7:30に吉原目指して出発。昨日歩きを終えた沼津廓通りから宿場本陣跡を雁行し、西に進路を取りました。ここから先は左手駿河湾に面した千本松原をすぐ近くに見据え、かっての砂丘上に連なった集落や街を繋いで進みます。海抜5-8mの丘。大井川や富士川の河口に流れ着く土砂を駿河湾の海流が北、北東に押し寄せ海浜や砂浜、砂丘台地を形成、焼津、静岡、清水、由比、蒲原、吉原、原、沼津の沿岸都市(海辺の宿場)を形成したことがわかります。沼津からは県道163号線が旧街道で、道の両側の家並から松林が見え隠れしています。しかし、松林の向こうには高さ10mにも及ぶほどの防波堤(防潮堤)が築かれ海や浜は見えません。心地よい海風だけが、とぼとぼ歩く私を撫でてくれます。

 昔からの神社仏閣、碑、道祖神などを頼りに旧街道を歩き、宿場では東木戸、宿場跡(本陣、脇本陣など)、西木戸(見附)跡を見て往時を振り返り先を急ぎました。この日の区間は海側から松林、旧街道、今の東海道線、国道1号線が並行しており、その間は住宅や田畑、水田になっています。国道1号線より内陸部は水田中心の農地、その先山麓からは果樹園やお茶畑が繋がっています。富士山手前の愛鷹山低地斜面はお茶の栽培に適しており、山裾から延びています。街道と山塊麓の間は昔は低湿地で、江戸時代から新田開発(開墾、干拓)がすすめられ米の栽培が続けられてきました。それを物語る碑や記念碑(浅間愛鷹神社、桜地蔵尊、増田平四郎碑、地名の桃里など)が道すがらに建てられています。

 千本松原の海浜は日大造園研とは浅からぬ因縁があります。昔、葉山先生と研究対象地に考えたことがあったり、葉山先生が調査に入られたりしました。最近では大学院生の新井さんが修論の研究テーマで海浜に育ち生育地が狭まり希少種になっているカワラナデシコの生態的研究を進め論文にまとめました。旧街道から少し外れ浜に出て、思い出深い、小高い砂溜りでお昼、海を眺めながら途中で買ったおにぎりとお茶でゆったりとハイキング、と思いきや突然、老年の浮浪者(野宿生活者)が近づいてきて小銭を所望されてしまいました。上空からは鳶が狙っているなど思ったより落ち着かない昼時になってしまいました。

 有名な万葉歌人の和歌に歌われた田子の浦を眺めながら助兵衛新田、植田、柏原、田原、沼田、植田、田中、桧、大野新田などを通り吉原の宿に辿りつき、駅前のビジネス旅館に入りました。 

 第三日目は、吉原から蒲原を通って由比まで20kmでした。吉原宿は、物の本によれば地震津波の被害によって3度宿場が変わったとあります(元吉原から1616年地震津波で中吉原へ、1680年の大津波で現在の地へ)。街道を歩いてみると道が内陸部へ大きく迂回しています。6年前の東北大震災が偶然でなく歴史的には必然のごとく、日本では歴史的に各地で幾多の地震津波の被害を受け、また立ち上がってきていることを改めて認識しました。元吉原から今の吉原宿の間に旧東海道上洛で街道から左手に富士を見る唯一の場所があり、広重の浮世絵にも左富士として描かれています。名残の松(広場)や馬頭観世音碑で確認しながら朝早くの通勤者をしり目に歩を進めていきました。宿場の店舗は早朝のため、どこも開いておらず有名な鯛屋旅館も閉まっており、シャッターの降りた街を通り過ぎました。県道396号に出て再び西に向きを変え、JR富士駅を尻目に富士川目指しました。川側に水神社があり、道標、常夜燈(1818建立)、渡船場跡碑が建っていました。富士川橋は中景に東名高速道の富士サービスエリアが見られ、その背後は山が迫っています。富士川を渡った岩淵地区はすぐ後ろに山が迫り、今はすぐ上の段を東名高速道が走っていますが、岩淵村は昔、駿河甲州路(また富士川の船運)の中継地で宿場も栄えたとあります。街道筋の街並みも黒塀の旧家があり、古い巨木の庭木や秋葉神社の常夜燈が雰囲気を残していました。東名の下を通り抜け、新幹線の下を潜って再び東名道を架橋で渡り、坂を下って蒲原の宿に辿りつきました。蒲原の宿の江戸側東木戸の前に一里塚があり、日本橋より38里(152km)を示しています。蒲原は昔は神原と言われ富士川の渡りを控える宿場で賑わったとありますが、この宿も1699年の地震・大津波に襲われ海辺から今の地に移っています。山地が海に迫り狭い平地にバイパス道、JR線、県道、旧道、東名道が並んで位置します。でも街道に連なる落ち着いた宿場街の様子がよく残っていました。背後の山地は上部が樹林地で常緑のシイ、カシ林、その若葉の小緑色の美しさと裏腹に、丁度開花時期で独特の匂いが風に運ばれて漂っていました。すぐ隣は由比の町、駿河湾の自然の恵み、丁度旬で、採れたての「桜エビとシラス」を宣伝する旗が風に靡いていました。お昼は、もちろん桜エビ、洒落た新しいレストランで「桜海老パスタ」を食しました。この日の宿は由比川の袂にある老舗の割烹民宿「玉鉾」。ここでも期待に沿って女将の心のこもった料理「桜エビづくし」を堪能できました。

 由比の宿(写真参照)には①正雪紺屋、②広重美術館、③お七里役所跡があり、じっくり時間を掛けて見学しました。紺屋は創業400年で由比正雪の生家といわれ、今も藍染甕が店先に残されています。手拭いを一本買い求めました。広重美術館は正式名称は静岡市東海道広重美術館で、広重の浮世絵はもとより丁度「浮世絵と広告」の企画展開催中、五十三次の浮世絵と同時に江戸時代の浮世絵広告を見ることが出来ました。ここで五十三次の浮世絵に出会えるとは予想していなかったので大変うれしく感動しました。お七里役所とは紀州家が幕府の動向を知るために七里ごとの宿場に連絡所を設けて健脚で腕と弁舌に長けた「お七里衆」を置いた場所と言われています。

 この日の20kmでの歩数は33.600歩となっていました。7:30~15:30、8時間労働でした。早めに風呂に入り、一眠りして大相撲を見て夕食に舌鼓を打ち堪能し、心地よい眠りにつきました。