水と緑と自然、それは「にわ」

都市や農村における緑地の在り方、自然環境の資源とその保全、「にわ」の設計と維持・管理

文字を書くこと、書写 そして

 AI時代に入り、世の中も新型肺炎コロナの流行・拡大により、「3つの密」を避けることが求められています。今の世、コンピューター(P.C.)無しには生きていけない世の中なのでしょう。生活の中にも、いろいろな形でAIが入り込んでいます。今、流行の情報媒体、ブログもユーチューブもメイルも、文字を考えて書くから文字を探して打つ、時代になっています。それを可能にしている携帯電話やスマホの利用は、もう個人それぞれの生活の一部になってしまっています。社会的に、この状況は当然で、誰もが認める所でしょう。組織内での情報共有や伝達にはPCに頼らざるを得ません。それによってテレワークも可能となり社会の仕組みも変わりつつあります。

 

 もう「紙と鉛筆」の時代は大分後ろに置かれてしまっています。45年前(1975年以前)までは、まだまだ筆記用具を使って「文字を書く」ことが主流だったのです。小・中・高校での資料作りや新聞づくりに「謄写印刷」がまだ主流の頃、筆耕(ガリ版印刷の原稿づくり)に際し、きちんとした読める文字を書かねばなりませんでした。誰もが読みやすい文字を書いて印刷するためには、ほぼ形の決まった文字が活字として求められました。生徒も先生もそれに大変苦労したものです(今となっては懐かしい話ですが)。

 コンピュータ、ワープロの普及に合わせて個人の書いた文字は、次第に日常生活や社会から遠ざかるようになりました。個人の記録(日記や書状)には依然として文字を自ら書くことがありますが、それとてもP.C.や携帯電話・スマホでのワープロ機能を使うことが少なくありません。

 このテーマでブログを書くに至った動機は、「内閣人事局」という看板の文字でした。テレビに映った看板の文字は大変個性的で、一般的な楷書の名筆ではありませんでした。また以前「防衛省」の看板を見た時も感じましたし、ある相撲部屋の看板に対しても同様でした(一般的には誰もが読める文字ということで楷書体が多く用いられますが)。

 看板に書くような文字は、習字を習ってないとなかなか書けないでしょう。私たちの生活の中で大きな看板になるような文字を書くことはほとんどありませんし、筆と墨で文字を書く機会自体あまりありません。書家に頼んだり素養・力量のある人が書いたりすることになります。 

 「書道展」について、以前、新聞で記事を見たことがあります。「書道」の一般的な広がりについてです。小中学校での習字はカリキュラムにありますが、普段の生活の中では特別にそのための時間を作らない限り習字は行われないでしょう。展覧会でも楷書、草書、行書、隷書、篆書の5文字体さらに「かな」を含め書く文字の範囲は広く、さらに「題」の出典を求めれば、より困難が付きまといます。

 昔、私の田舎に伯父さんが中国で求めたという顔真卿の書の拓本がありました。その価値を全く知らずにアイロン台の代わりに使っていたことを思い出します。父亡き後、今はどこへ行ったのか分かりません。父に言われて数多く習字の練習をさせられたことを思い出しますが、今となっては貴重で大切な経験でした。「三つ子の魂百まで」とは諺に言いますが、子供時代の習字の手習いは大切かもしれません。また、「四十の手習い」とも言いますので、字が綺麗に書けることは無駄ではないようです。

 

公共の場にある機関の看板名称を読みやすく、それでいて美しく書き表すことは大切なことではないでしょうか。9月18日の読売新聞朝刊の「詩書画一体」理想の境地の記事では、”書は今日、文学や美術と異なる芸術と見なされがちだが、「詩書画一体」が文人の理想とする境地だったことをおもいださせてくれる” とあります。

その意味では、個性ある看板も今の世にはあるのかもしれない、と思ったりします。誰の手によって書かれたものか、知っておく必要があるのかもしれません。 

 

気になってインターネットで「内閣人事局、看板」を検索しましたら、同じ思いの人がかなりいて話題になっているようです(詳しくはINで検索して;和様うどよし 看板が酷い を参照)。